TOKIO

めめくらげ

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考えるべきことはたくさんある。床屋を営む自分のみならず、この商店街にひっそりと並ぶ、やっているのかやっていないのかわからないどんな小さな商店にも、あらゆる問題が山積みだ。祖父は自分が生きているうちにと大方のことは片付けておいてくれたが、この先もおそらく老年まで生きていく自分には、片付けても片付けても常に新たな面倒ごとが湧き出してくる。人によってやるべきことが異なるだけで、すべての人間が等しく抱く命運だ。

太一はこれからもずっと一緒に生きていこうと言ってくれた。前にも言われたが、先ほどかかってきた電話口でもまた言っていた。急にどうしたのと笑ったが、彼の声は至って真剣だった。

天涯孤独の身となった子供たちでも、大人になればすべての人々と同じスタートラインを切る。やがて大きな交差点やラウンドアバウトに乗り、そこからどう走るかは人それぞれだ。だが立ち往生したり、逆行したり、道なき道を走ることは許されていない。

未来は誰にもわからないけれど、かつて親に捨てられた赤ん坊が今このように生きていられることは、この上なく幸せなことだと思っている。幸せは誰しも平等に与えられるもので、それを得ることを気負わなくていいと、いろいろな大人たちに言われてきた。ふつうに生きられることは当然の権利で、それを与えられることに罪悪感など抱くなということだろう。

だが未だに、幸せなことが少し怖いと思うし、大きな落とし穴があるのかとも勘ぐっているし、これ以上何かを求めるのは罰当たりだと思うときがある。しかしこれは自身の境遇によって生まれた卑屈さではない。たとえ自分が実親のもとで育とうとも、同じように感じていただろう。

どんな人も例外なく、生きていくことは大変だ。幸福とは運に恵まれた人が得られるもので、不幸せはいつも背中に張り付いていて、ふつうに生きているこの日々は、一生の運を少しずつ消化している状態である。
ときどき出会う悪魔は死の直前にも現れるだろう。だが光を失う瞬間に幸せだったと思っていたい。たとえ街角で刺されたとしても、あるいは車に追突されたとしても、誤って線路に落ちたとしてもだ。

そんなことを考えつつも、今は来年の所得税のことで頭がいっぱいだ。このような形で365日、大なり小なり消えない悩みを抱えながら生きている。それでもトータルでいえば、これまでの人生は幸せなものだと感じている。客観とは大いに隔たりがあるだろうが、なぜと言われても答えようがない。
信頼できる家族や恋人や友人に囲まれ、仕事を持ち、毎日あたたかな部屋で食事ができる。これが幸せでないというのなら、それこそなぜかと問いたい。人は須く今という時を生き、嫌でも未来を向いていなくてはならない。そうでなくては、人はどんどん不幸に心を蝕まれてしまう。振り返りたくない過去はいくらでもあるのだから。


まだ浅いが静かな夜。居間でひとり、テレビの画面だけをぼんやりと眺めていたら、インターホンを鳴らされた。なぜか直感的にわかったのだが、やはりドアの向こうに立っていたのは、数時間前に献血をしに行くと去っていった兄であった。

「…灰枝くんもう帰ったよ」

「知っている。俺の方が先に帰ったんだからな」

「そうなの?…じゃあ何で戻ってきたの?」

「なんとなく」

「鍵は?」

「忘れてきた」

「…また飛び出してきたの?」

「いや、そういうわけじゃないんだ。…本当にただ何となくだ」

両方のポケットに手を突っ込み、なんとなくいたたまれない様子で立ち尽くす兄。未来とのあいだで何かが起きたのはわかりきったことだ。当の未来も、弟の自分に対して兄への真意を打ち明けたばかりなのだから。

「…もう食べるもの全部片付けちゃったけど…うどんでも茹でる?」

「いやいい。…それよりたまにはドライブでもどうだ。あてもなく」

「ドライブって、今から?」

「俺はまだ免許がないから運転は変われないが」

「ええー…兄さんとふたりきりはキツいなあ」

「心底嫌そうな顔をするな」

「今日はもう遅いし今度にしようよ」

「くっ、本気で嫌なときの返答パターンじゃないか…てゆーかまだ7時半だぞ」

「だって…。じゃあ近場でいい?上野のヨドバシまで」

「おう。買い物か?」

「うん。サクッと終わるから車の中で待っててもらえたら…」

「いいぞ」

本当は横浜あたりの夜景でも眺めたかったのだが、それは自分が免許を取ってからにしようと決め、ふたりは先ほど諍いのタネとなった車に乗り込むと、久しぶりのドライブ兼買い物へと繰り出した。

優は駐車場を探す手間を嫌い、大きな買い出し以外は基本的にどこに行くにも電車かバスを使うため、ハンドルを握るのはかなり久しぶりだ。途中の街道で羽虫のように突如視界に現れた自転車を忌々しそうに避けると、「やっぱりもうじいちゃんに運転なんかさせられないね。たぶん今の撥ねてるよ」とため息まじりにつぶやいた。

「じいちゃんでなくとも今の奴は撥ねられてもおかしくない」

「そうだけどさ」

「だが夜間の運転はもう絶対に無理と言っていたな」

「そうだろ。夜目が利かなくなるから。兄さんも今みたいに飛び出したりするなよ」

「ガキじゃあるまいし」

「大人がやるから言ってんだ。でも免許取ったら、自転車も車もあんなのばっかりだから気を付けてね」

「へいへい」

「本気で」

「わかってる。…でも優くんも短気だからあんまり運転向いてないだろ」

「うるさいな。怒らせるのは兄さんだけだよ」

反対車線の混雑を横目に、こちら側は比較的快調に目的地へと進んでいく。
ここ最近は店のことにかかりきりで、まともに自分の買い物などはできていない。そうなると物欲も減るのか、自分の欲しいものが年々失われているような気がした。ミニマリストでもなければ困窮しているわけでもないのに、ここ何年かは図らずも必要最低限の暮らしをしているように思える。そして心を燃やすほど何かを欲しがるとすれば、それは目に見えず、価値をつけることのできないものばかりだ。

ー「この時間こっち空いてるなあ。もう着いちゃうよ。なんかほしいものある?」

「俺が電気屋でほしいものなどあるわけがないだろ」

「…そうだよね、現代の文明とほとんど関わってないんだから。あ、なんかクレープ屋みたいなの出てるよ。食べる?」

「だから子供か俺は。…今日はもうアイスとドーナツを食ったからいらん」

「じゅーぶん子供だろ。何もいらないんだね?じゃ、ちょっとまってて」

いちばん左の車線に入り路肩に停車させると、エンジンをかけたまま兄を車中で待機させ、優はひとり電気店に入っていった。そうしてあっさりと、10分もかからぬうちに千円相当の少ない買い物を終え車に戻ってきた。これで兄弟のドライブは早くも折り返しに差し掛かったということだ。

だが来た路を戻るには先ほどから混雑していた車線に乗ることになる。時間的には行きよりもやや伸びるだろう。
赤いテールランプの群れの中をのろのろと進み、またすぐに赤信号で止まる。行きと変わらず特に会話のない車中だ。

だがしばらく進むと、優はカーラジオの音量を少しだけ下げ、「そういえば新宿でたいちゃんに会ったんでしょ」と今更ながらに問いかけた。時生は少しだけ肩をぴくりとさせたが、「ああ、会ったぞ」と何てことのないように答えた。彼にはつまらない人物との鉢合わせであるから、わざわざ話題に出さないのも不自然なことではない。

「ふたり仲良く大量の血を抜かれてきた」

「あっそ。好きだね君たち」

「好き嫌いでやってるのではない。優くんもたまには貢献するべきだ」

「わかってるけど僕は無理だよ。迷走神経…なんとかってやつだから」

「メイソウ?何だそりゃ」

「嫌いなんじゃなくて生理的に無理ってこと、針を刺されるのが。特に僕は予防接種より採血が無理。入れる方より抜かれる方」

「じゃあ何だ、注射嫌いはホンモノの恐怖症だというのか?病名のついた」

「恐怖症ってのとはまた違うと思うけど、失神しかけたことあるからそれに近いのかもな。ともかく必要に迫られないと針は無理、献血も義務化しない限りは行けない。…父さんと母さんには悪いけどね。たくさん輸血されて、あのときは大人になったら僕も絶対に献血しようと思ったけど、無理なものは無理だった」

「じゃー優くんの分も俺が地道に行くしかないな。O型は他の血液型もカバーできるらしいぞ。AB型までいけるかは知らんが」

「うん、頼むよ。血って保存効かないらしいし。干からびるまで頑張って」

「早く人造人間が量産される時代になるといいな。…ダメになった内臓も血も、なんなら脳みそや細胞だって、生まれたばかりの人造人間から好きなだけもらえる」

「美しいね」

「…血液型など関係のない世界だ」

「いつか来るよ」

青信号。なお続く渋滞のせいで渡れぬまま、車はのろのろと少しだけ進む。そしてまた黄色に変わったときに、時生が静かに発した。

「太一は、気づいてしまったかも知れん」

「……」

「親の血液型までは言ってないが、うっかりそういう話をしちまって、その流れの中でアイツが一瞬だけ不穏なカオをしたからな。特に触れてはこなかったが、あの顔は何かを悟った顔だ。俺たちの血液型を知らずにさえいれば、あんな顔はしなかっただろう。…何か言われなかったか?」

「別に何も」

「…そうか」

「ていうか僕も、ちょっと前に父さんたちの血液型うっかり言っちゃったし、たいちゃんに。それで多分、今日になってフッと気づいたんじゃないの?」

「……」

「いずれわかってたことだと思うよ。たいちゃんとは結婚とかできないから、血縁について別にわざわざ言うつもりはなかったけど。でも隠すものでもない」

「…あ、あのなあ優くん」

「ん?」

「実は未来にはバラしちまった。ついさっき」

「…あそう」

「…よかった?」

「バラしたあとによかったも何もないだろ」

「…ご、ごめん」

「別に謝ることじゃない。大人になっちゃえば、もう誰に知られたって困ることじゃない。それに僕みたいな人が世の中にどれだけいると思ってるんだ。…ていうか、そのこと伝えに戻ってきたの?」

「いや。それとはまったく別件だ」

「じゃあ何?ドライブしたかったんじゃないだろ」

「ドライブはしたかったぞ。本当は横浜に行きたかった」

「絶対やだ」

「だと思って言わなかった」

「灰枝くんと何があったの?」

「いや…まあ」

「本当めんどくさい男だな。これからも灰枝くんと何かあるたびにうちに逃げ帰ってくるつもり?先に言っとくけど、たとえセックスを迫られてもいちいち怯えて帰ってくるなよ。逃げてもいいけどうちにはもう来ないでくれ」

「なっ…!そ、そんなこと…俺と未来が…」

「わかんないよ。だって兄さんはこれからも灰枝くんと住むんだろ?」

「住むからってそーゆーことが起きるわけではない!それより優くん、前はあり得ないと言ったくせに、未来の真意に気づいてたそうだな。奴から聞いたぞ」

「それは…正直あのときは信じたくないって気持ちが大きかったから。だって兄さんを好きと言ってくれる人でしょ?他人なんか絶対にあり得ないし、あとはもう変な宗教の人くらいしかいないと思ってたよ、兄さんのことを受け止めてくれる人なんて。でもどうやら灰枝くんが本当に本気らしいってのは…」

「多少なりとも勘付いてたのか?」

「多少はね」

「なんだよぉ~~!!めちゃくちゃ全否定っぽいこと言ってたクセにぃ!!」

「そ、それは悪かったけど…それより何があったか知らないけど、灰枝くんをまた置き去りか。何度も何度もひとりにして、ひどい人だね」

「お、置き去りというか…なんていうか、奴はいま気絶してるからな」

「はあぁ?!気絶?なんで?ていうかそれをほっぽってきたの?!」

「い、意識はあるから平気だ」

「そーいう問題か!!もう、このままマンションまで送るからさっさと帰れ!ていうか一応使用人として雇われてるんだから、そこはちゃんと看病しろ!!」

「た、確かに…」

「確かにじゃないだろ。それより気絶ってなんで?体調悪いようには見えなかったけど」

「体調はふつうのはずだ。おそらく精神的な問題だろうな」

「精神的?…ストレス?」

「ストレスというよりショックに近いものだろう」

「ショック…?」

「うむ…」

時生はしばらく気まずそうに黙り込むが、優に原因を促されると、音量を絞ったカーラジオにかき消されそうなほどに小さな声で、ぽつりと言った。

「……お、俺も好きだと言ったんだ。そしたらぶっ倒れた」

「……」

今度は優が黙り込む。時生はもう彼の横顔もミラーに映る顔も見られなかった。大好きな弟とふたりきりのドライブとはいえ、今だけは息の詰まるような苦しさで、今すぐに車から飛び降りたい衝動に駆られた。
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