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しおりを挟むルイの散歩を済ませてから再び編集作業に取り掛かったが、ふと窓を見るとあっという間に陽が落ちて真っ暗になっていた。一服しようとカーテンを閉めて台所にコーヒーを淹れに行く。あれから10秒に1度は時生のことを考えてしまい、ずっと作業に集中できていない。
(ああ・・・俺はほんとーーーに何故あんなバカなことを口走ってしまったんだ・・・急に困らせるようなことして・・・これじゃ俺も沢尻さんと同じタイプのバカじゃないか・・・)
このつぶやきをすでに心中で100回は繰り返している。台所の手前で、のしかかる後悔の重みに耐えきれずへなへなとうずくまると、ルイが近寄ってきて不思議そうにスンスンと飼い主の匂いを嗅いだ。
「ルイ…お父さんもう死ぬかもしれない…」
死にたいというより消えたい気持ちでいっぱいになる。時生の頭から今日の出来事か、あるいは自分の存在ごと都合よく消えてはくれないだろうか。うずくまりながらルイを抱きしめ、うっすらと涙をにじませた。
するとそのときだ。共用玄関ではなく自室の玄関チャイムが鳴り、未来はパッと顔を上げ恐るおそる立ち上がった。ルイは唸り声を上げている。ということは…
ー「時生さん…」
「よう」
玄関を開けると、気まずそうに目を逸らす時生が立っており、手には紀伊國屋の袋を下げていた。
「あ…あの…」
「飯は?」
「…まだです」
「じゃあ肉でも焼くか」
「え…あ…はい。お肉買ってきたんですか?」
「ああ。ワインも買った」
「……」
「お前が家に入れてくれるならいっしょに食おう」
「ああ、ごめんなさい、ボーッとして…ど、どうぞ!」
「ところで俺の"契約"はまだ続いてるのか?」
「も、もちろんです!」
「そうか」
のそりとリビングに立ち入ると、案の定ルイはうなりながら牙を剥いたが、少し不在にしただけで彼の自分に対する態度がリセットされるのはいつものことなので、時生はそれを無視してすぐに台所作業に取り掛かった。
「お肉、こんな高いところで…」
「たまにはいいだろ。俺たち金稼いでるのに全然使ってないぞ」
「そうですね」
優に"副業"の存在を明かしていないのは、ふたりで手掛けている翻訳動画の再生回数と、それによって見込まれる収益が予想をはるかに上回り、未来と折半して与えられる報酬が、扶養内で働くパートタイマーの半年分の給料を超えるからだ。むろんその扶養や税金問題もあるのでいずれ明かさなくてはならないが、彼は自分が稼ぎすぎることに対しても心配しそうなので、なんとなく気後れして明かせないでいた。
このまま順当に行けば納める税金もそれなりの額になるが、だらだらと家で変換作業をしているだけで、外で荒波にもまれる企業戦士と同等かそれ以上の金を手にできる。時生は広告について何度か説明され、ようやく少しずつその仕組みは理解してきたが、しかしこんなくだらないことで金を得られる意味はやはり理解できなかった。
優は毎日何時間も店に立ち、一所懸命に客の相手をして技術を売り、それでも彼が自由に使える月の手取りは、今後自分の得る額よりも低いはずだ。あんなふうに立派に働くことはできないから何もしたくなかったが、自分はあんなに立派にできないのに、彼よりも賃金を得てしまうことには大きな罪悪感があった。
だがその胸の内を未来に話したところ、「だから優さんとおじいさんにお世話になったこれまでの分を、稼げるうちに稼いで返せばいいんですよ」と言われ、ようやく仕事をすることに対しての意義を見出せた。人の世話になりながら最低限の暮らしをしていこうと思っていたが、優の不幸に追い討ちをかけているのはそんな自分であるという現状に、生まれて初めて真正面から向き合う気にもなれた。
優や未来のような立派な大人だけにしか社会に出るチャンスはないと思っていたが、その時代に生まれた幸運というのは誰しにも平等にあるのかもしれない。自分の場合は、広告収入というこの謎のシステムが盛んな時代に生を受けたことだ。この能力自体は、たとえば欧米の文化を熱心に取り入れんとしていた明治時代に生まれていても重宝されただろうが、やる気がないことには変わりないのでそこではチャンスを掴めなかっただろう。しかし現代は、翻訳能力はあるがやる気の全くない自分にうってつけの時代と言える。
オフィスで決まった時間に同じことはできないが、何時に起きても怒られないこの部屋でならできる。回線の発達した現代、そして未来のような優しき男の生まれた時代。これらが重なった幸運だけで残り全てが不幸でも文句はない。なんなら親が死んだのもこの幸運の代償だったのかもしれない。…いや、それは言い過ぎかもしれないが、とにかく死んだものはもう仕方がないし、今後どう捉えようとこちらの勝手である。
ー「…優さん、心配しませんでした?」
静かに問いかける声は、心なしか沈んでいる。
「別に」
「ならいいですけど…」
本当は心配していたが、自分でどうにかするから、やはり未来に連絡はしなくていいと弟には伝えた。そして無事にステーキを焼いている今、もう心配はいらないという報告をしたいが、手段は未来の携帯しかない。もどかしいが、しかし金を得ても携帯をほしいという気持ちが起こらないので、今後もこの不便さを感じつつ買わないのだろう。今もときどき会う数少ない友人らも、何かあれば自宅の固定電話にかけるか直接店にやって来るシステムになっている。だから必要ないのだ。弟もきっと自分たちを信じてくれているはずなので、今の安寧をあるかわからぬ以心伝心に託した。
わざわざ電車に乗って赴いた高級スーパーで高い肉とワインを買ってきたのは、優がそうしろと言ったからだ。(沢尻のせいで)寿司もほとんど食べていなかったから、きっと腹を空かしているだろうとの気遣いもあるが、何かあったらこういうことで機嫌をとるのも有りだと弟が教えてくれた。
買い物の金を渡されたがそれは断り、ついでに今後自分の買い物は自分の金でするとも宣言した。と言っても未来のもとで働き始めてからすでに自分の金でやりくりをしていたが、それでも弟は兄の成長にそれなりの感動をおぼえたのか、見たことのない優しげな微笑みを浮かべながら、「頑張れよ」とだけ言ってくれた。
「…急に変なこと言っちゃって、すみませんでした」
(大人だから、大人だから…!!今後もやってもらう仕事いっぱいあるし!!)と何度も暗示のように言い聞かせ、先ほどのことを掘り起こすのはいやだったが、勇気をふりしぼって時生に詫びた。彼とて、あんなことをまた思い出させられるのはいやに決まっているが、とにかく自分のせいなので、自分から謝りまた円滑に円満にやれるよう努めなくてはいけないのだ。なぜなら大人だからだ。
「時生さんにはいつもすごく感謝してて、なんというか…その気持ちの伝え方を間違えました」
本当のことを言わずに、要点は伏せてただ謝る。なんとも大人らしいずるい詫び方だと思った。だが恋心があったことをまたここで再度表明するのも、それはそれで彼には迷惑だろう。だからもう二度とこの気持ちを出すことなく、ただ彼と仕事をしていければいいと割り切ることにした。
時生は肉の塊を焼きながらちらりと未来を見て、また鉄板に視線を落とす。そして静かにこう切り出した。
「…お前が俺をタイプと言ったのは、嫌みのつもりじゃなかったのか?」
「え?…まさか!」
「前に沢尻にも、その特徴は俺のことじゃないのかと指摘されたが…当然ながらそんなもん受け入れきれんというか、ずっと腑に落ちなくてな。だから今日改めてお前に確かめようと思ったんだが…」
「(だからあんな不自然だったのか…ていうか素で気付いてないと思ってたけど気付いてたんだな)…で、嫌みを言ってるように感じました?」
「いや全然。だがどーー考えても、汚い男が好きっていうのは、人間としていろいろ難というか無理がありすぎる。だからやっぱりそれは嘘で、遠回しに俺にそのあたりのことを直せと言ってるのかと…」
「それでなんでわざわざタイプだなんて言うんですか…遠回しにもほどがあるでしょ」
だって優くんが、と言いかけたのを引っ込め、「じゃあやっぱりそのまんまの意味で受け取っていいのか?好きっていうのは俺のことがタイプだから好きということか?」と聞き返すと、未来はしばらく間を置いて、恥ずかしそうに「はい」と返した。そして力なく突っ伏し、テーブルにひたいをつけて黙り込んでしまった。部屋には、肉を焼く音すらも虚しく感じさせる重い静寂がもたらされる。
「み、未来ちゃんよぉ~、…それはマズすぎるってもんだぜェ…」
「…あなたにはマズいでしょうけど」
感謝の伝え方を間違えた、というくだらない嘘もあっさり暴かれ、今はもうこの現状を素直に受け入れる以外、打つ手はなかった。肉の焼ける音と匂いにこんなにも本能を刺激されているのに、静かなる混乱と動揺に掻き乱されるせいで、そのかたまりを胃に入れる気力が起きない。
「…あとちょっとで焼けるぞ。先に酒でも飲むか?」
「お酒…」
「売り場の店員に肉を見せたら、すぐに何本も似たようなワインを持ってきた。あいつら日がな一日酒のことで頭がいっぱいなんだろうな」
そう言って戸棚から普通のグラスを取り出すと、静脈の血のように赤黒い液体を適当に半分ほど注いで、未来に差し出した。
「それで、よくわからんから真ん中の値段のやつにしたんだ。美味いかは知らん」
「…ありがとうございます。時生さんは?」
「俺は飲めないからファンタグレープだ」
「なるほど」
「なあ未来」
「はい」
「お前はたぶん優くんと同じタイプだ」
「…優さんと?」
「お前は俺が好きなんじゃなくて、不幸に吸い寄せられやすいだけだ」
「…どういうことですか」
「飯が不味くなるから今は話せん。…そういえばこの家にナイフってあるのか?」
「あ、奥の引き出しにありますよ」
「おう」
「ああ…やっとお腹減ってきたぁ」
なんとなく緊張感がやわらいだのか、それとも空腹には抗えなかったのか、ずっと頬を硬くさせていた彼は、ようやくいつもの表情を取り戻したように見えた。そして手にしたグラスの香りを確かめてから、小さく傾ける。時生はその横顔を少しだけ見つめ、彼に気づかれぬようほとんど変わらぬ表情でうっすらと微笑んだ。
この気持ちがなんなのか、いつもわからないままだ。
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