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しおりを挟むー「ええ?時生ついに家を出たのか?」
正午。なじみの客の散髪をしながら、優は嬉々として兄の件を報告した。
「そうなんです。出たというかすごいお人好しの人に拾われたというか」
「拾われた?…女の人?」
「まさか、男ですよ。兄さんとウマが合うから一緒に住みたいんですって」
「へええ…相当の物好きだな」
「でしょう。でも本当に我が家の救世主ですよ。もう二度とあのお宅に足向けて寝られない」
「ルームシェアってやつだろ。友達同士なんて長く続かないよ」
「とは思いますけど、昨日からもう兄さんの部屋は片付け始めてるからなあ。どうにか続いてもらわないと」
「相変わらず容赦ないなあ。部屋空けてどーすんの?」
「…それはまだ未定ですけど」
とは言ったが、本当は太一のための部屋にするつもりだ。彼の借りている部屋からもこの家からも、彼の勤める都心部への通勤時間はほとんど変わらないので、もし兄の自立が順調にいったら優はこのまま太一と暮らしたいと思っていた。
兄に知られたら間違いなく激昂するだろうが、この家はこの家業を継いだ自分のものである。そして共に暮らしたいなら彼にも金を入れてもらうべきだ。兄弟とはいえもうこれ以上甘い顔はしたくなかった。
…しかしどうしても行き詰まったならここにいてもいい。彼には大きな借りもある。自分がそれを返せたかと言ったら、微塵も返せていない。養ったことで返せたつもりではいたが、自分が間違った生き方を早々に終わらせられたのは、返しきれない彼の犠牲のおかげなのだ。
ー「それよりいい加減人手増やせば?もうさすがにじいさんも厳しいだろ」
「その話も前々からしてますよ。今の規模だと雇えてひとりが限界ですけどね」
「でもちょっとは考えてんだろ」
「まあそれなりには」
優は数年前からある計画を秘めていた。いずれこの店を大きく改修し、空間の雰囲気や売り方を変え、客層ももう少し若年層へと拡大させ、できれば従業員もあとふたりは雇い入れることを目標にしている。両親の遺産もあり相応の蓄えはあるが、それには極力手をつけず新たに資金調達をするべきだと考えている。太一には理容師以外の道もあるとは言われたが、自分はこの仕事が好きなので手が動くうちはやっていたいとも思っていた。だが店はそれなりに忙しいため思いのほか準備の時間が取れず、なかなか計画に手をつけられずにいるのが現状である。時生がおとなしく同じ道を進んでくれていればもう少し手が回るが、何年待っても彼には全くやる気が起きないので諦めている。
イメージは、ある日調査がてらおもむいた、繁華街に建つレトロモダンをテーマとしたあの理容室だ。客は身なりに重きを置いた若いビジネスマンが多く、理容師によると評判を聞いてわざわざ遠方から訪れる者も多いそうで、土地柄以上の集客力を感じさせた。細部までこだわった内装もそうだが、オフィス向けでありつつ流行も取り入れたデザインに仕上げてくれるというのが繁盛の秘訣であるようだ。技法は学んだがこの店でそれをオーダーする客はほとんどいない。今はそれでも成り立っているが、あの理容室のように他とは一線を画し、やり方も変えていかねば多くの競合の中で先細りになるのは目に見えている。当然この街の理容室はこの店だけではなく、おまけに老人ばかりの地域で商店街だって過疎化の一途を辿っている。だからあの店のようによそからも客を呼び寄せるほどの、大きな生まれ変わりが必須だと考えていた。
「…とはいえ最悪潰れたら、他の店に雇ってもらうことにはなりますけど」
「優はまだなんでも出来る年だろ。失敗したってやり直しもきくし、今やれることをやったほうがいい」
「そうですか?木下さんがそう言うならがんばります」
「俺も若い頃に会社いっこ潰したけど、今こうしてどうにかやってるから」
「ははは」
たしかにまだ社会人としては若く、なおかつぐーたら男が消え(まだ1日だが)、食い扶持がひとつ減った今が大きな転機でもある気がする。真っ暗だった若い時代を経て、職を通して技術を積み、今度は自分のやりたいことに挑戦する時機が訪れたといえるだろう。親が生きていれば今ごろ自分はどうしていただろう?と時々思うことはあるが、幼い頃に見た祖父が仕事をする姿への憧れは今も消えていない。
(がんばろ)と思うと同時に、(あいつが帰ってきませんように)と願った。
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