TOKIO

めめくらげ

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「お兄さんすごいじゃん、そんな評価をもらえるほど頑張ってるんだよ」

「いや…どう考えても割には合わないでしょ」

「ふつーのコンビニのバイトに例えるからだよ。世の中どーでもいい仕事で月に何百万稼ぐ人だっているんだから。寝てても金が入る人だって。…別にそれが正しい正しくないってことではないけど」

金曜夜。いつものように明日が休みの太一が泊まりに来て、恋人との束の間の逢瀬を楽しんだ。優の首筋に鼻を寄せ、肌の匂いをすんすんと嗅ぐ。
優が太一を好きな理由は、セックスの後でスッキリしていてもこうして仔犬のようにくっついてくれるからだ。終わってすぐに違うことに夢中になる男は好きではないし、恋人よりスマホに取り憑かれている男も好きではない。そのあたりがなおざりになったときが倦怠期の訪れで、その先も好きでいられるか否かの岐路に立つときである。

…という旨を付き合いはじめの頃に話したおかげか、太一は1年以上経った今でも触れ合いをおろそかにすることはなかった。だが元より彼は優に依存気味なところもあり、「兄」と少し共通するところもあるように思えるが、恋人ならば多少の依存や独占も抵抗はない。きっと兄は自分と通じるものを感じ、その厄介さをよくわかっているからこそ、いまだに太一を撥ねつけるのだろう。

「…なんか匂うんだよなあ」

「なんの匂い?」

「ああ違う、兄さんと灰枝くん」

「なにが匂うの?」

「…灰枝くんさあ、有り得ないことだけど、兄さんのことけっこう気に入ってるんじゃないかなって。仕事面っていうか、なんかもっと違う意味で」

「それは…お兄さんをそういう意味で気に入ってるっていうこと?」

「…そういうこと」

「灰枝さんは男が好きなの?」

「知らない」

「お兄さんは人類は好きなの?」

「好きじゃない」

「じゃあ灰枝さんが恋をしてたら不毛だな」

「不毛っていうか見る目なさすぎるしやめたほうがいい。…そうと決まってないからまだ何も言えないけど」

「本人たちに聞いてみれば?」

「うーん…。やめとく…なんか怖い」

寒さも一段と厳しくなり、あたたかいベッドでだらだらする時間も増えていく。
自分たちは幸せだが、彼らのことは不穏だ。実は密輸などの非合法なバイトをしているのではないかと訝りもしたが、灰枝はそんなことをさせるような男ではないし、自宅での時生にも変わった様子はない。彼は何かを隠したりごまかせるような性質ではないから、やはり契約どおりに淡々と家事を代行しているだけなのだろう。

しかし自分には見えないところで、ふたりのあいだに「何か」が起きているのかもしれない。目に見えないことにはすべて良からぬ想像をしたり、勝手に漠然とした不安を抱いてしまうことが、昔からの自分の悪いクセである。兄はその点で言えば良くも悪くもポジティブなので、これも兄弟の正反対なところのひとつと言えよう。





ー「時生さん、たまには僕も一緒に散歩行っていいですか」

「…?」

「近くに犬OKのカフェがあるんです」

「…構わんが、未来が散歩できるなら俺が今日来た意味がないな」

翌日土曜の昼下がり。1カ月を過ぎると曜日ごとの時間も行程もきっちりと定まってきて、今日もいつもの土曜と同じ時間に、時生はルイの散歩のために未来の部屋を訪れていた。

「…あ、そ、そうですよね。おやすみにすればよかったかな…」

「その必要はない。家にいてもやることがないからな。仕事はいいのか?」

未来は彼が自分の仕事のことを気にかけてくれたことに喜びを感じつつ、「今日はもう急ぎの仕事は無いので」と微笑んだ。

「……」

「…どうしました?」

「…いや」

時生は一瞬、未来のその優しげな笑顔から目が離せなくなった。日がな一日ほとんどパソコンと向き合っている彼と、このように面と向かうことがめったにないせいだろうか。そういえば、疲れていて眠そうな横顔はよく見るが、こちらを向くときはいつも笑顔を絶やさない。

「ミドリホームは行かなくていいのか?」

「今日はいいですよ、毎日行ってるんだし。もう俺より常連なんじゃないですか?」

「ああ。おかげで不要な知り合いがめちゃくちゃ増えたぞ。犬だけじゃなく飼い主もセットでな。犬の種類もたくさん覚えた。原産地から先祖に至るまですべて」

「へえ…?記憶力がいいんですね」

時生がいるあいだに未来が外出するのはこれが初めてだ。今日は特に寒いので、ふたり揃ってダウンジャケットに身を包んでいる。リードは時生が握るが、ルイも「飼い主の代理人」にはいいかげん慣れたようで、なつきはしないが以前のような嫌悪感は示さなくなった。
カフェはいつもの交差点を左に曲がり、路地を3つ越えた小さな商店街の入り口に建っていた。陶器製のビーグル犬2体が狛犬のように置かれたアーチをくぐると、未来が扉を開けてくれたので、少し緊張しつつ先に中に入った。

ー「いらっしゃい…ああルイくん、お久しぶり」

店主らしき中年男は、人間の客よりも先に犬の方に目がいくようだ。店内は天井から床まですべて木造で、いくつかの小ぶりなシャンデリアがぶら下がっており、全体的な照明はやや薄暗く、こじんまりと落ち着ける空間であった。真ん中には古めかしそうな対流式の石油ストーブが置かれ、いつか家族旅行で赴いた高原のコテージを思い起こさせる。ふたりは壁際のいちばん隅の席に掛けたが、いずれも小型犬の先客が3組おり、興味深そうに新たな客のルイを見ていた。

「あの犬の種類はわかります?」

オーダーを終えると、未来が小声でカウンター席の下に寝そべる白い犬を指した。先ほどの時生の話を聞き、試したくなったのだろう。すると彼はその姿をちらりと見ただけで即座に答えた。

「ウエストハイランドホワイトテリア」

「…そうなんですか?」

「知らんのか」

「待ってください」

スマホを取り出して犬種を調べると、表示された画像と見比べて「ほんとだ…」とつぶやく。

「ドッグランにいる子ですか?」

「いや、こないだ図鑑で見たんだ。パグを連れたガキが世界名犬カタログというのを持っててな。暇だと言ったら貸してくれた」

「図鑑…」

「ああ。…ウエストハイランドホワイトテリアはスコットランド産で、キツネを狩るために巣穴に合わせた小型サイズに改良された犬種で、体高は28センチ前後、体重は7から10キロ、害獣の狩猟を目的としており鋭い歯と頑丈なアゴを持っている。頭部の毛は硬く、獣に噛みつかれた時に頭を守るために発達したといわれ、尻尾は穴からつかんで引っ張り出せるようにとその長さも改良されている。性格はやや剛情なためしつけが難しく…」

「ま、待ってください、それ全部暗記してるんですか?」

「まあな」

「…こっちにもだいたい同じことが書いてある。じゃあ次は…あの子はどうです?同じ犬種かな?」

「全然違う。あれは毛をカットされてるボロニーズだ。イタリア原産でオスの体高が27から30センチ、メスは25から28センチ、体重は2.5から4キロくらい。真っ白のむく毛とぬいぐるみのようなフォルム、足の骨格がまっすぐなのが特徴だ。子供のようにいたずら好きで依存心が強く構われたがり、だが比較的しつけをしやすい穏やかな性格をしている。健康面でそれほど難は抱えていないが、白内障、尿毒症、膝蓋骨脱臼には注意が必要で、被毛のせいで眼球を傷つけ眼疾患を引き起こすことも多い」

検索結果と照らし合わせながら聞いていた未来は、驚愕を通り越しもはや青白くなっていた。

「時生さん…それ何個くらい説明できます?」

「何個?わからん。途中までしか読んでないが、まあ図鑑の半分くらいだろうな。生き物は苦手な分野だから全部はさすがに無理だ」

「図鑑の半分?信じられない、本気出したら学者になれるんじゃないですか。あの、じゃあ得意なものって何です…?数学とか物理とか?」

「勉強は一切無理だ。図鑑はいいが教科書は暗記できん。だが得意なものは…そうだな、お前のその電話で、適当な外国語の長文を出してみろ」

「外国語の…長文?何語ですか?」

「なんでもいいが英語はつまらんからそれ以外だ」

「…?じゃあ…」

しばらく考えあるページを検索すると、「これ」とスマホを手渡した。そこには画面いっぱいのアラビア語が広がっており、当然未来にはなんの記事なのか見当もつかない。しかし時生はそれを不慣れな様子で人差し指でスクロールすると、文章を単語ごとに区切りながら、おもむろにたどたどしく語り始めた。内容を聞くに、どうやらある日の経済新聞に載せられた地域別の失業率のレポートであるようだ。途中まで読んだところで止めると、未来はその下にあった日本人記者による和訳の文章に目を通した。

「…なんで?」

たった今時生が読んでいたのはアラビア語の部分だけで、和訳文には一切触れていない。しかし書いてあったことは彼の口から発したことと同じであった。

「発音は知らんし話すことは無理だが、なぜか文字や文章は理解できる。と言ってもそれと英語を入れて…せいぜい8個くらいだな。ロシア中国韓国…イタリアフランス…スペインポルトガル…ヒンドゥー…ん?全部で10個か。ああ、日本語入れたら11だ」

「は・・・」

丸くした目をパチパチとしばたくと、「お待たせルイくん」と、頼んでいた人間用のケーキセットと紅茶、器に盛られた犬用のカップケーキが運ばれ、ルイがバタバタと尻尾を振りながら、今まで見せたことのない顔できらきらと目を輝かせた。
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