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しおりを挟む「ハンカチは?」
「持った」
「ティッシュ」
「持った」
「爪は?」
「切った」
「靴下穴空いてない?」
「ない。それより今日もアイツは来るのか?」
「たいちゃん?来ない。僕があっちに泊まる」
「はあ?!」
「明日休みなんだからいいだろ。あ、だから夜ご飯はいいや」
「何だよぉ優く~ん、俺も連れてけよぉ~」
「死んでもやだ。ついてくるなよ」
「ほら時生、さっさと行ってこい」
昼過ぎ。真っ白なユニフォーム姿の優と祖父が店の外まで出てきて「初出勤」を見送られた。ふたりの不安をよそに、時生は食材を入れた大きなバッグを背負い、自転車で10分ほどの道のりをのんびりと漕ぐ。約束の時間は特に定まっておらず、「時間を指定する日以外は、明るいうちに来てもらえれば」と言われている。だが優によると「だからって早朝とか夕方に行くのはアウトだぞ」とのことなので、未来には「程よい時間」の昼頃に家を出ると連絡を入れておいた。
エントランスで部屋番号を入力すると、何も言っていないが未来の声で「どうぞ」と応答がありすぐに自動扉が開かれ、時生はやや戸惑いつつもその奥のエレベーターに乗り込んだ。
ー「こんにちは」
「こんにちは。…どうぞ」
「お邪魔します」
パーカーとジーンズ姿の未来に出迎えられると、「挨拶はちゃんと顔を見てしろ」と優に口うるさく言われたのを思い起こし、子供のようなぎこちない挨拶で部屋に入った。ルイは優にあれだけ尻尾を振っていたのに、玄関先の時生の姿をリビングからちらりと覗くなり、すぐに寝床へ戻っていった。
作業中だったらしくテーブルにパソコンや周辺機器が散らかっているが、リビング自体は掃除が必要なほど散らかってはいない。
「今日はもう掃除も洗濯も終わってるんで、言っておいた作り置きと…あと適当な時間にルイの散歩をお願いします」
「おう。…そういや好き嫌いを聞いてなかったのをさっき思い出したんだが、苦手なものはあるかい」
「特には」
「健康食をご所望のようだが、君は糖尿かなんかなのか?」
「いえ…土日のジムと打ち合わせの移動でしか動かないから、太りそうなものは控えてるんです」
「なるほど。じゃあ灰枝くん」
「は、はい…」
「これからどうぞよろしくお願いします」
「あ…はい、こちらこそ」
「早速台所を借りるぞ」
「どうぞどうぞ。一応調味料とか鍋とかは揃えてるつもりなんだけど…なにか足りなかったら言ってください」
「心配はいらない。俺も色々と持ってきてる」
「そうですか、助かります」
「今後のために置かせてもらっても平気かい」
「もちろん」
そしてふたりは各々の作業に取り掛かり、部屋はシンと静まり返った。未来はヘッドフォンをしているが時生は無音だ。音楽などは好きに流してくれていいと言われたが、音楽を再生できる機器を持ったことがないし、音のない空間が苦痛ではない。むしろ頭を空にできるのでこの静寂が心地よかった。しかし穏やかな彼に反して、未来は頭の中はやはり煩悩にまみれている。
(時生さん、態度は相変わらずだけどこないだとちがってなんか小綺麗になってる…?たぶん髭とか髪とか優さんにやってもらったんだな…あの小汚いだらしなさがいいんだからわざわざ整えてこなくてもいいのに…でもさっぱりしてるとよけい芋臭くてさらに男らしいからこれはこれですごくいい…。ああ、料理してるとこずっと見てたいなあ。いっそのこと料理番組でも開設してくれたら…。俺しか見ないだろうけど全面バックアップするのに)
作業と思考が乖離し、いかんいかんと煩悩を振り払う。しかし幸せなのだから仕方ない。できることなら彼の後ろ姿を眺めながら作業をしたいものだ。
(はーーー、一緒にお風呂に入りたい)
ため息が外に漏れると、寝そべったルイがピクリと耳を動かした。
ー「鍋のものを少し寝かせておきたい。そのあいだに散歩に行ってきていいかい」
悶々としていたところに肩をちょんちょんと叩かれ、触れられてもいない背筋がゾクゾクとなりながらも、「お願いします」と涼しげな顔で平静を装った。
「あ、ちなみにこの子、街を歩くよりもドッグランに行くのが好きで…」
「ドッグラン?この辺にあるのか?」
「ええ、ミドリホームってわかります?」
「ミドリホーム…?あの国道沿いのホームセンターだよな?」
「そうそう、あの敷地内に広場が併設されてるんですよ。小型犬用は屋内なんですけど、ルイとかの中型以上のスペースは店舗の外にあるんです。そこでいつも1時間くらい遊ばせるんですけど…」
「なるほど。ボール投げとかするのか?」
「はい。あと一緒に走ったり。仲のいい犬がいればその子と遊びます」
「わかった」
「ルイ、お散歩だよ」
声をかけられるとガバリと起き上がるが、リードを持っているのが時生であると確認したとたん、こころなしかどんよりとした顔つきになった。
「俺は犬の性質に詳しくないが、この犬はあきらかに俺を嫌っているな」
「そ、そんなことは…」
「昔から動物に嫌われる体質だから別にいい。優くんは好かれるんだがな」
エレベーターを降りるとすでにガラス扉の向こうには西陽が射し始めており、明日からの散歩はもう少し早い時間にしようと思いつつ、ルイと共にエントランスを出た。彼はやる気のないパドックの競走馬のようにうなだれ、おもしろくなさそうな顔でポテポテと後をついてくるが、時生には相性などどうでもいいので気にせずミドリホームを目指した。1時間と言わず遊びたいだけ遊ばせてほしいと言われているが、この様子では30分が限界のようにも思える。
店につくと、駐車場の看板の脇に【ドッグラン入り口→】という手書きの貼り紙があった。示された裏手にまわると、思っていた以上の広大な敷地が広がっており、ザッと見た限りでは10頭ほどの犬が駆け回っていたが、あと3倍の数が遊びまわれそうな余裕があるように見えた。暗く沈んでいたルイも多少は元気を取り戻し、ゆるゆると尻尾を振り始めたので、時生は中に入ると未来に言われたとおりしばらくリードをつけたまま他の犬たちに挨拶をさせ、ひととおり済んでからリードを外してやった。未来にはリードを外してもそばを離れるなと言われていたが、ルイは今すぐにでも時生から離れたかったのかあっという間に走り去っていき、ボールを片手に持つ彼のことなど見向きもしなかった。この分では追いかけっこなどもする必要は無さそうだ。時生は柵の端にあるベンチに腰掛け、持参した水筒の熱いほうじ茶をすすった。
そしてしばらくすると、遠くでルイが巨大な白いエイリアンのような2頭の犬とじゃれつくのが見えた。
「なんだあれは…気味の悪い生き物だな」
眉をひそめて見ていると、そのかたわらに黒いコートをまとった男がしゃがみ、ルイを見知っているように撫でていた。時生はそれをじっと眺めていたが、男は辺りをキョロキョロと見回していたので、おそらく「飼い主」を探しているのだろう。だが気味の悪い動物の飼い主などあまり関わりたくないので、声はかけずにいた。
しかしルイはおやつが欲しくなったのか、男の手をすり抜けて戻ってきてしまい、今度は遠くから彼がこちらをじっと見つめてきた。
「ルイ、あれはなんだ?お前の友達か?奇妙な動物だなあ」
袋からおやつを取り出して食べさせつつ、チラチラと遠くの男に警戒する。しかし彼はどうやらこちらに向かってきているらしく、時生は「うわ、来やがった…」とあからさまな嫌悪を浮かべた。
ー「こんにちは」
「…どうも」
「いくらドッグランでも、ワンちゃんから離れない方がいいですよ。喧嘩なんか始めたら大変ですから」
「そうか…気をつける。悪かったな」
「いえ。…ところでこの子、灰枝さんとこのルイくんですよね」
「ああ。今日から俺が代理でここに連れてくることになった」
「え…?」
男も眉をひそめ、「失礼ですが、ご家族ですか?」とまるで警察のように尋ねてきた。白い2匹のエイリアンもそのとなりに行儀よく並んで座り、どこか挑発的な眼差しでこちらを見つめているが、近くに来ると子馬くらいはありそうな大きさで、時生は内心で怯んでいた。
「家族ではないが何でもいいだろ。あんたは?」
男は自分と年が変わらないように見えるが、なんとなく自分が今まで見たことのない異質な空気を纏っていた。床屋に来る客とは違って髪型もしゃれており、清潔感があって全体的な身だしなみが洗練されている。おそらく「身なりがいい」というのはこういうことなのだろう。
「失礼しました。…僕は沢尻といいます。この近くに住んでて、時間があるときにはドライブがてら周辺のドッグランをよく巡ってるんですよ。ボルゾイだからたくさん運動させたくて」
「ぼるぞ…?」
「ああ、この子たちの犬種です。こっちがジェイクで、こっちがエルウッド」
「コイツらは犬か」
「ええ。…人気もありますしそれほど珍しくはないと思いますけど、この辺りだとほかに見かけませんもんね」
時生は内心で(こんな気味の悪い犬など好き好んで飼う奴が他にいるのか)と悪態をついたが、犬も男もプライドが高そうなので口には出さないでおいた。
「犬…お嫌いですか」
「き、嫌いというか興味がない。だがこの犬は怖いなあ。首も長いし…」
「はは、まあ小さな子供たちにはよく怖がられます。でもこの子たちは人が好きだし、賢くておだやかで、ちゃんとしつければ完璧なパートナーになれますよ。よかったら触ってみてください」
「……」
嫌だったが恐るおそる指先で鼻先に触れると、無表情でべろりと舐められ思わず手を引っ込めた。おやつの匂いがしたのだろう。
「ルイくんといちばん仲が良くて、ここで会うといつも一緒に遊んでるんです」
「ほう」
「灰枝さん、お仕事がお忙しいんですか」
「まあそんなところだ。家事もロクに出来んそうだからな」
「じゃああなたはお手伝いということですね」
「…まあな」
「ただのお手伝い?」
「…なんだあんた?何か俺を疑ってるのか?まさか俺がこんなかわいげのない犬コロを灰枝からパクったとでも思ってるのか?死んでも要らんぞこんなバカ犬」
「ああすみません、悪いように思ってませんよ。普段からずけずけと何にでも首を突っ込んでしまいがちで」
「無邪気な男だな。友達が少なそうだ。俺にはわかる」
「ははは、たしかに本当の意味での友達はいないかもなあ」
時生はエイリアン犬よりも奇妙なその男にさらに戸惑い、(鬱陶しいからさっさとあっちに行ってくれ…)とまたしても内心で悪態をつくが、彼はおもむろに時生のとなりに腰掛けて持参したフリスビー投げを始め、エイリアンにまじってルイまでそれを追いかけていった。
(くそっ…)
「…あなたのお名前を伺ってもいいですか」
「柊だ」
「柊さんですか。今日はお仕事お休みですか?」
「俺は働いとらん。…ああ、犬の世話は一応バイトだがな」
「なるほど、ペットシッターさんか。何軒か受け持ってるんですか?」
「いや、灰枝の犬だけだ」
「…バイトですよね?」
「灰枝が金を払ってるんだからバイトだろ。ペットシッターというのが何かは知らんが、俺のバイトはあいつのメシを作り、掃除洗濯をし、あの犬コロを散歩させることだ」
エイリアンがフリスビーをくわえて戻ってくると、よしよしと頭を撫で、またも遠くまでそれを投げる。時生もボールを投げてみたが、見向きもされなかったので自分で拾いに行った。
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