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十三
しおりを挟むお前は人間を失いかけている。あの日、海の怪物に言われた言葉。
洗って、流して、清めなければならぬ。それは紛れもなく僕に向けられた言葉だった。
死しても尚、人は人の心を持ち続けることはできる。でも長い時間をかけてあの男を縛りつけてきた僕は、行き場のない怒りをただ増幅させるだけの怨霊でしかなかった。人の心を失いかけた僕は、きっといつしか完全に自我を失い、本来の目的も何もかも忘れてしまうのだろう。そうなればきっと貴正様のことすらも忘れ、ミイラ取りのごとく、大迫茂明と同じ暗闇の怪人に成り果ててしまう。
長い暗闇の悪夢と、悪霊として覚醒している時間。死んでからずっとその繰り返しだ。一度暗闇に包まれれば、次に目覚めたときにはすでに何年も経っている。
窓の外の景色だけがどんどん移り変わって、ときどき入居してくる人々の装いや生活の様式も変わって、あるときようやく、僕という存在は止まった時の中に閉じ込められているのだと気がついた。目覚めるたび、僕は貴正様を探してこの屋敷中を歩き回るのに、彼は僕が無意識に抱く憎悪に圧されていたせいで、気配はするのに探しても探しても見つからなかった。その代わり、外から次々に見知らぬ者たちがここに吸い寄せられてきて、それらに紛れてついに彼の気配すらもわからなくなってしまったのだ。
……けど、悲しくて毎日毎日泣き暮らしていたときに、ふと僕にはそういう気持ちが残っていたのだ、と少し嬉しくもなった。僕にはまだ、生きていたころの心がかろうじて残されている。この心さえ見失わなければ、きっと貴正様に会える日もやって来る。
それだけを信じて暮らしていたら、幸せなことに、またあのピアノの音を聴くことができたのだ。そう、モトキさんがここに吸い寄せられてきたことによって、その強い感応力にあてられ様々な霊達が活発化したように。そして大迫茂明によって招かれたはずの彼の身体を、貴正さんがときおり借りて使うようになり、彼のピアノを聴くたび、氷が溶けていくように僕にはまた少しずつかつての心が取り戻されるようになってきた。
……想定外であったのは、久々に触れ合えた人間の彼と、思いのほか心を近づけすぎてしまったことだ。彼は弱虫で小心者で、怖いものを自分で追い払うこともできず、さらには24にもなって独り寝もできないという体たらくだった。ここ2、30年でいやに女々しい男が増えたなと感じてはいたが、現代の男子はこんなにもひ弱で情けない生き物に成り下がったのかと心底から呆れた。
だが、貴正様もよくお父様には「弱腰で意気地のないヤツだ」とたびたび言われていたものだ。そんな彼の持つ、当時の男らしからぬ柔らかな優しさは、モトキさんの腑抜けた優しさと少し似ていた。それに時代が移り変わるごと、きっと男も女も性質というのは変わっていくものなのだろう。
そうして……あのひなびた旅館で彼と結ばれたとき、はるか昔の禁忌を破った日のことを、僕は鮮明に思い起こした。怪物になりかけていたが、もう一度完全に人に戻れたような気がしたのだ。世間に顔向けできぬ恋をして、彼とのひそやかな逢瀬に溺れ、熱い交わりに耽り、そのたび沸き起こる背徳感と増幅する彼への情愛に身を焦がしていた、あの日々。人生でもっとも愉しく、幸せで、いつも心を熱くさせてのぼせていたような気がする。
もしも死ぬことがなければ、どんな運命を辿っていたのだろう。その先にあるのがたとえ不幸な別れであろうと、死に別れるくらいなら、生きて結末を知りたかった。
「あなたは気づいていないでしょうが、この屋敷はあなたのせいで生ぐさくて仕方ない。居着こうにも、これでは到底住めない。……海のオバケはあなたの中から僕を追い出し、代わりにその魚くさい力を閉じ込めたのです。誰も取り憑けないように。さっきのキツネはその力を欲しがってますから、抜き取られない様に気をつけてください。キツネというのは、見返りがなくては決して人助けをしません。」
「……いらないよ、こんな力。いくらでもくれてやる。」
「それがあれば、あなたはもう霊現象に頭を悩ませることなく生きて行かれるんですよ。」
「でも、もう2度とお前に会えなくなるんだろ。」
アラタが横を向き、肩越しに俺をチラリと見る。だがまたすぐに視線を窓の外に戻した。
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