sepia

めめくらげ

文字の大きさ
上 下
29 / 40

昭和7年10月の手記

しおりを挟む
【やはり不安は的中した。茂明がおととい小川町の病院から脱走したとの噂を耳に入れた。事情通のシケ婆さんのいうことには、消灯前には薬を呑まされ大人しく眠っていたというが、昨日の朝には既に寝床には居らず、忽然と姿を眩ませたそうだ。婆さんも人伝てに耳にしただけで細かなことは判らぬと云ったが、しかし事実は父の大迫茂一が世間に隠しているのであって、これは噂などではなく紛うこと無き真実であろう。何故なら悪い予感というものは、これまでいつだって実態を伴い私の前に忍び足で現れてきたのだから。】

数日後の手記
【警察が動いているようだと松林先生が仰った。茂明捜索の聞き込みが来たのだと云う。他言を禁じられているそうだが、彼奴は狂人なので秘匿のままにしておくのはあまりにも危険であると、以前目を付けられた我家に教えに来て下さったのだ。私は先日よりいっそう強く、アラタに一人で一切の外出をせぬようにと云いつけた。】

翌日の手記
【明朝の汽車で、喘息の父の療養もかねて伊豆の高原にある別邸へ総出で赴き、暫く逗留することとなる。決めたのは先日の茂明失踪を聞いてからだ。別邸は長らく使用していなかったので、近くに住む親戚に連絡を入れ多少手を入れてもらうよう頼んでおいた。夏の間に行けなかったのは、私に諸々のつまらぬ用事が重なっていたせいだ。それで大分遅くなったが、今し方切符を取ってきたところだ。これまでも旅行にはアラタを引連れ時折出向いてはいたが、久方振りの遠出で、アラタも目に見えて勇んでおり、何とも微笑ましき姿である。】

翌日の手記
【早朝から警察が我家を訪れ、玄関に立つなり山蕗アラタを出せと迫ってきた。どうされたのかまず御説明下さいませぬかと問うたらば、茂明の逃げた病室の寝台の下から、ヤマブキアラタと幾つも幾つも書かれた紙片が発見されたのだそうだ。ゆえに事情聴取のため、同伴願いたいとのことであった。私は眩暈に襲われ倒れそうになり、強気で迫ってきた署員逹に慌てて肩を抱かれ、しっかりなさいと背中を叩かれた。伊豆へは先に父だけで向かってもらうことにした。病人にあまり心配をかけたくないと云うアラタの意向もある。】

翌日の手記
【捜査の結果、大迫邸の茂明の自室からも同じような紙切れが幾つか見つかり、それ以外にも執心しているらしき女優の写された冊子の頁の切抜き、いつどこで仕入れたのか家族以外の婦人用と見られる襦袢や腰紐、片方だけの革製の手袋や足袋にいたるまでが、隠されることもなく乱雑に床に置かれていたそうだ。更にそこにもアラタの名前を書き連ねた気味の悪い紙片、アラタを模したと思われる少年の裸体のやうな絵、それから・・・ここには到底記すことの出来ぬような下劣きわまりない妄言が添えられていた。
アラタを性的に愛好し、捩じ曲がった己の欲望を自分勝手に吐き出していたナマの痕跡である。私はずっと胸焼けに苦しむが、アラタの苦しみはそれを優に上回るであろう。
だが昨日の聴取はさほどの時間を要さず、狂人による一方的なアラタへの執着であると云うことが今回のことで警察側にも判然となり、寧ろ結果的にそれで良かったとも思えた。両人の間で会話を交わしたことも無く、只不幸にもどこかで狂人がアラタを見つけ、嗅ぎ回ったあげく我が家に辿り着いたのだ。一連の不幸には、心配して駆けつけてくれた松林先生も同情して下さった。】







翌日・最後の手記

【私は改めて伊豆行の切符を買い直し、ようやく今夜の夜行列車で父の元へ向かうこととなった。始めは不躾に思えた警察署員も、事情を知るなり途端に親切心を出したのか、今夜この家から乗場までの警護のために署員一名と車を遣わすと云ってくれ、私とアラタは幾度も頭を下げて一時の安堵に胸を撫で下ろした。
伊豆はまだ暖いだろう。星空がここよりもずっと美しく、空気の澄んだ町で、東京に居るよりかは幾分か父の胸にもいいのだ。
奔放な学生の身の上でありながらも、まだ着手せねばならぬ課題もあるので、できることなら冬を迎える前に一旦引き揚げたひと考えている。然しアラタがもしも伊豆での暮らしを気に入ったのなら、私はそのまま帰らずにずっと伊豆に暮らしてもいいだろう。たとえ厳寒の雪の降りしきる町であったとて、この子が好きというのなら、私はどこであろうとも仕合わせに暮らせるのだ。
この屋敷も、オルガンも、取るに足らぬ私の身の上も、アラタのためならば棄て去れる。
故郷は逃げも隠れもしない。私の生きた証はずっとここにあるのだから、それを思えば私はこの身一つでどこにでも行けるのだ。
しかしひとつ贅沢を望むのなら、未来永劫、アラタが私の傍に居てくれたらいい。

だが無理は云えまい。アラタは男であり、私の好きに生きる人形などでは決してないのだ。きっといつしか善良で全うな相手を見つけ、子を儲けて父となり、私とのこの日々も忙しない日々の中でやがて彼方に追いやられてしまうだらう。それでも、この子が仕合わせに暮らせるのなら、それが私の只一つの僥倖なのだ。
いつかこのように記したことがある。もしこの子が死ぬことがあれば、私もきっと生きては行けぬ。もし私が先に死ぬとすれば、私を忘れて別の仕合わせに身を寄せて生きてほしい。私はアラタを愛している。死んだ母にも、世間に生きる誰れしにもこの慕情を明かすことは出来ぬ。

それでも私は、仕合わせである。】
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

灰かぶりの少年

うどん
BL
大きなお屋敷に仕える一人の少年。 とても美しい美貌の持ち主だが忌み嫌われ毎日被虐的な扱いをされるのであった・・・。

赤い部屋

山根利広
ホラー
YouTubeの動画広告の中に、「決してスキップしてはいけない」広告があるという。 真っ赤な背景に「あなたは好きですか?」と書かれたその広告をスキップすると、死ぬと言われている。 東京都内のある高校でも、「赤い部屋」の噂がひとり歩きしていた。 そんな中、2年生の天根凛花は「赤い部屋」の内容が自分のみた夢の内容そっくりであることに気づく。 が、クラスメイトの黒河内莉子は、噂話を一蹴し、誰かの作り話だと言う。 だが、「呪い」は実在した。 「赤い部屋」の手によって残酷な死に方をする犠牲者が、続々現れる。 凛花と莉子は、死の連鎖に歯止めをかけるため、「解決策」を見出そうとする。 そんな中、凛花のスマートフォンにも「あなたは好きですか?」という広告が表示されてしまう。 「赤い部屋」から逃れる方法はあるのか? 誰がこの「呪い」を生み出したのか? そして彼らはなぜ、呪われたのか? 徐々に明かされる「赤い部屋」の真相。 その先にふたりが見たものは——。

超美形魔王が勇者の俺に嫁になれとほざいている件

むらびっと
BL
勇者のミオ・フロースドは魔王に負け死ぬはずだった しかし魔王はミオをなんと嫁に欲しいとほざき始めた 負け犬勇者と美形魔王とのラブコメライフが始まる! ⚠️注意:ほぼギャグ小説です

R指定

ヤミイ
BL
ハードです。

エリート上司に完全に落とされるまで

琴音
BL
大手食品会社営業の楠木 智也(26)はある日会社の上司一ノ瀬 和樹(34)に告白されて付き合うことになった。 彼は会社ではよくわかんない、掴みどころのない不思議な人だった。スペックは申し分なく有能。いつもニコニコしててチームの空気はいい。俺はそんな彼が分からなくて距離を置いていたんだ。まあ、俺は問題児と会社では思われてるから、変にみんなと仲良くなりたいとも思ってはいなかった。その事情は一ノ瀬は知っている。なのに告白してくるとはいい度胸だと思う。 そんな彼と俺は上手くやれるのか不安の中スタート。俺は彼との付き合いの中で苦悩し、愛されて溺れていったんだ。 社会人同士の年の差カップルのお話です。智也は優柔不断で行き当たりばったり。自分の心すらよくわかってない。そんな智也を和樹は溺愛する。自分の男の本能をくすぐる智也が愛しくて堪らなくて、自分を知って欲しいが先行し過ぎていた。結果智也が不安に思っていることを見落とし、智也去ってしまう結果に。この後和樹は智也を取り戻せるのか。

【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。 でも、頼れる者は誰もいない。 自分で頑張らなきゃ。 本気なら何でもできるはず。 でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

処理中です...