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めめくらげ

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「どお?変なヤツとかいなかった?」

電話越しの能天気な社長の声が、今夜はなぜだか妙に落ち着く。
細面のわりに、精力のみなぎった暑苦しい男だ。好きなタイプの人間じゃないけど、嫌いにはなれない。

「昨日けっこうバイクの音がうるさくて、ちょっと危ないかなって感じでしたけど……でも結局、とくに何も。この辺は夜はすげー静かで、人の気配ないっす。」

「あそう。まだ夏前だしな。オバケは?」

冷やかすように聞かれる。社長は俺の霊感どころか、恐らく霊というものの存在を完全に否定しているので、アホな社員のバカげた妄想に付き合ってやってるくらいにしか思っていないだろう。

「……いないっすよ。」

「おお、よかったなぁ。今ごろ憑り殺されてたらどうしようかと、ゆうべはずーっと心配してたんだぞ。」

「はあ、わざわざすみませんね。僕は無事です。」

「強くなったんだな。」

「ええ。」

「この調子で来週まで頼むぞ。あ、その前に明日の会議も頼むな。」

「うっす。」

「じゃ、また明日。」

「はい。失礼します。」

電話なのに頭を下げて通話を切る。……強くなったんだなって、なんだ?妙な引っかかりを持つが、まあ、今は社長などどうでもいい。

俺たちはあのあと風呂から出て、あの古めかしい客室の畳の上で、ようやくひとつになったのだ。俺は童貞のごとく興奮しすぎて鼻血を出したが、ティッシュを鼻に詰めながら強行したせいで、射精した瞬間にめまいを起こした。だがイったあとの感覚は、これまでのセックスとは大いに違った。アラタの腹の上に撒き散らされた俺の精子と、息を荒げながらぐったりするアラタを見下ろして、何故だか、こんなに普通に生きてることがとんでもなく幸運なことに思えた。

俺はずいぶんと、ありとあらゆることに不満を抱きながら生きてきたものだ。贅沢な考えを持ち、生きることを当然の権利として行使している自分の傲慢さを痛感した。今まで受けた理不尽やストレスのタネすらも尊く感じたのだ。思い出すだけで腹の立つ奴もあるが、今はそいつへの怒りなど微塵も沸きおこらない。

こんな気持ちは初めてだ。あの瞬間、アラタへの愛おしさが増したのもあるけれど、それよりもどういうわけか、生きていることへの感謝の念のようなものが溢れ出ていた。変な宗教にハマる奴の心理ってあんな感じなのか?ともかく、絶望的な悪夢から目覚めた瞬間と同じ安堵感だ。それが、陽が沈んでもなお俺の中に残っている。

アラタを抱いて芽生えた感情。生きていることは、こんなにも素晴らしい。

もしも明日死ぬとしたら哀しいけれど、この奇跡を実感できたのだから、それだけでもう生まれてきた意味を得たように思う。

思わぬ体験を経て、頭が少し変になってるのだろうか。いや違う、アラタが教えてくれたんだ。言葉も使わずに、肌と肌を介して。


その晩は、近くの小さいスーパーで買った食材を、窓の外に並べておいた。
傷むといけないから肉類はよしておいたが、畑でとれるものばかりだ。すなわち海ではとれないもの。

そして俺は、明日が早いにも関わらず深夜まで起きていた。

アラタが見張りをしていてくれると申し出てくれたが、俺も例のオバケの姿に興味がわいたのだ。会いたいわけじゃないが、見てみたかった。

そして迎えた深夜2時。昨日と同じ時刻。徘徊するゾンビどもに混じり、沖の方で少しずつ影を成してゆっくりと海から上がってきたもの。
影だったものが徐々に形になっていく。砂浜を上がり、一直線にこちらに向かってくる巨大な身体。昨日と同じように、ビリビリと肌を刺激する静電気のような感覚。とんでもないものが近づいてくると、アンテナが折れそうなくらい反応してる。窓にじっと座ってるが、もう既に身体が動かないだけだ。金縛りなのかどうかもわからない。ああ、俺、どうなっちまうんだろ。

そう思って身構えてたはずなのに、気がついたらまたもや朝陽で目が覚めた。眠くて寝ちまったわけではなさそうだ。多少眠気はあったものの、俺はあの影を見た瞬間にはバッチリ目も覚めて、心臓が破裂しそうなほど緊張してたんだから。

……きっと人間ごときでは直視できないものなのだ。妖怪のようにとらえてるが、この辺の海の神に違いない。

「作戦成功のようです。」

今日も先に起きてたアラタが窓の下を覗き込みながら、少し嬉しそうな声で言った。

「ほら、見てください。」

手を掴まれて起き上がり、俺も恐る恐る覗き込んでみる。

その瞬間、思わず感嘆の声を漏らしてしまった。驚きもあるが、嬉しさもある。不思議だ、という感覚はとっくにない。あのゾンビたちよりもずっと強大なチカラを宿した海のオバケは、これほどの土産を持って、確かにここにやってきたのだ。

「……はは、カメノテからすげーグレードアップしたな。野菜じゃ物々交換の割に合わないんじゃないか?」

窓の下には、まだ微かにうごめいているメバル、石鯛、黒鯛、マダコ……あと何か見たこともないような色の魚たちが、ごっそりと置かれていた。

「意思の疎通がはかれたようですね。」

「そうだなあ。すげえ体験だ。」

「でもこんなに、どうします?」

「……食いきれねえから、会社に持ってくか。」

近くのコンビニで氷を買い込み、魚をクーラーボックスに詰め込み、普通のオフィスカジュアルにクーラーボックスという妙な出で立ちで電車に乗り込み、ジロジロ見られつつ出勤した。きっと生臭かったろう。

会社に到着すると、「こいつ、ちゃっかり海辺の生活を楽しんでやがる。」と同僚に冷やかされた。家で料理をする奴などほとんどいない職場だが、社長が魚にやたらと食いついてきたので、面倒だから全部押し付けたら、ものすごく喜んでくれた。
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