15 / 40
六
しおりを挟むすっかり観光気分で、路面電車には乗らず海岸沿いを歩く。このまま江ノ島を見てみるのもいい。日暮れまで時間はたくさんあるんだ。いや、それどころかこんな日がまだ何日も続く。
準備で何度もこの辺りを訪れているが、夏目前の海辺はことさら景色が良かった。
熱い海風とまぶしく照り返す砂浜に、日ごろから蓄積して層となった心のよどみのようなモノが、焼かれてボロボロとはがれ落ちていくようだ。汗をかいては熱風に焼かれて蒸発している。もしかしたら、このまんま歩き続けてたら熱中症になっちまうかな?
だが色の白いアラタは涼しげな顔でテクテクと歩いている。しかしとにかく暑くて、江ノ島は明日でもいいかと思い始める。今年は雨が少なくてしばらくは降らないようだし、1週間の長期滞在だ。焦ることは何ひとつない。
海岸を見渡せる丘の上にやってくると、あの霊障まみれの我が家……古めかしい文化住宅について、木陰のベンチで休みがてらアラタに尋ねた。
いまさらのことだが、あの家にいるうちはそこで起こっている様々の霊現象について、冷静に話し合えるような心の余裕などないのだ。幽霊に聞かれているような気さえする。だがこうして離れてしまえば、恐怖も薄らいでいるので「突っ込む」ことはできた。
それでも、不可解なことは山とあるが、聞けないこともいくつかある。なぜアラタはあの家に住み、古風な暮らしをし、浮世から隔たった生き方をしているのか。
それとなく尋ねたことはあるが、「この暮らししかしたことないので。」と返されるにとどまっている。
しかしそこにはもう触れず、俺は数ある現象の中でも特に気になっていることを尋ねた。
「あのピアノの音は……うちから聞こえてくる音だよな?」
我が家には「開かずの間」がある。
普通に居住スペースとなっている部分……タイル張りの共同トイレとガス台が設置されている台所と勝手口、かつては蓄音機が置かれていたという、庭に面した大きな窓がついた洋間の共有スペースは行き来が自由だ。
それから唯一日当たりのいい俺の部屋(その割りにはいつもどんよりと暗い気がするが……)と、アラタの和室以外の部屋、つまり1号室と5号室は施錠はされているが、以前管理人に見せてもらったときにも、壁一面にお札が……なんてこともなく、同じような真っ白な壁で物は何ひとつ置かれておらず、がらんどうになっているだけであった。特に妙な気配も何の異常も見られない、ただの漆喰の空間だ。
すなわち、「問題の部屋」は1階ではない。1階は確かにいろいろと妙なモノの気配は渦巻いてるが、どこにも別段おかしなことはない、ただ古いばかりの文化住宅でしかない。
開かずの間は2階にあるのだ。
そう、あの幽霊屋敷は2階建てだ。しかし2階には部屋がひとつしかない。外から見ると分かりやすいが、洋館を模した洋風の三角屋根が和風の家に取り付けられたかのように少しせり出して伸び、それがあるためにあの屋敷は、昔の和洋折衷の文化住宅の様相を呈しているのだ。部屋はその三角屋根の真下にある。
あそこに越してくるとき、不動産屋も管理人も、「ここは使わないでください」としか言わなかった。玄関を開けて奥に進むと階段があるが、そこで何かを見たわけでもないのに、彼らに言われるまでもなく、俺もその階段を登ろうと思わなかった。
階段が怖いのではない。階段を登った先にある部屋が、俺を拒んでいるのを感じたからだ。
そしてピアノの音というのが、恐らくその部屋から鳴っているのだ。
近所にピアノ教室があるのだろうとか、どっかのお嬢ちゃんが練習してるのだろうとか無理やり思い込んではいたが……あの旋律は、まぎれもなく「頭上」から流れている。
それに、以前血まみれブラウスの女の子に向かって、アラタがこうも言っていた。
「あのピアノ?明るいうちなら使ってもいいよ。暗くなるとね、ここの坊ちゃんが弾きにくるから。」……と。
俺たち以外に住人がいるのかと思ったが、そんな訳はない。その坊ちゃんとやらに出くわしたこともないし、人間の気配など微塵も感じない。
「……知らなかったんですか?」
アラタが眉をひそめ訝しげな面持ちで返した。その顔を見るに、隠したいことではないようだった。
「いや、知ってた。知らないフリをしてた。……2階には本当にピアノがあるんだな。」
「もう何十年と手入れをしてないから、とうに使いものにはなりませんけどね。」
「でも……」
「坊ちゃんには弾けるのです。」
「…………。」
ぶわっと強く生ぬるい風が吹き抜ける。アラタの髪がさらさらと揺れた。
ありもしないピアノの音が、風に混じって空耳のように鳴っている。
だがそれは俺の頭に残っているだけの音で、風が止むとともに掻き消えた。
俺はその曲を、先月偶然朝のラジオで聴いた。曲自体はうっすらと知っていたが、誰の何の曲かなんて知らなかった。なんの偶然なのか、朝っぱらからあの曲がラジオのリクエストでかかるのにやや寒気はしたが、そのときに俺はそれが「別れの曲」というタイトルであることを知った。作曲者はショパンだ。もっとも、別れの曲というタイトルは後に日本で改題されたものらしく、実際には「エチュード10ー3」という実に無機質なタイトルである。
しかし、別れの曲というほうがそのメロディーにはふさわしいように思えた。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

赤い部屋
山根利広
ホラー
YouTubeの動画広告の中に、「決してスキップしてはいけない」広告があるという。
真っ赤な背景に「あなたは好きですか?」と書かれたその広告をスキップすると、死ぬと言われている。
東京都内のある高校でも、「赤い部屋」の噂がひとり歩きしていた。
そんな中、2年生の天根凛花は「赤い部屋」の内容が自分のみた夢の内容そっくりであることに気づく。
が、クラスメイトの黒河内莉子は、噂話を一蹴し、誰かの作り話だと言う。
だが、「呪い」は実在した。
「赤い部屋」の手によって残酷な死に方をする犠牲者が、続々現れる。
凛花と莉子は、死の連鎖に歯止めをかけるため、「解決策」を見出そうとする。
そんな中、凛花のスマートフォンにも「あなたは好きですか?」という広告が表示されてしまう。
「赤い部屋」から逃れる方法はあるのか?
誰がこの「呪い」を生み出したのか?
そして彼らはなぜ、呪われたのか?
徐々に明かされる「赤い部屋」の真相。
その先にふたりが見たものは——。
エリート上司に完全に落とされるまで
琴音
BL
大手食品会社営業の楠木 智也(26)はある日会社の上司一ノ瀬 和樹(34)に告白されて付き合うことになった。
彼は会社ではよくわかんない、掴みどころのない不思議な人だった。スペックは申し分なく有能。いつもニコニコしててチームの空気はいい。俺はそんな彼が分からなくて距離を置いていたんだ。まあ、俺は問題児と会社では思われてるから、変にみんなと仲良くなりたいとも思ってはいなかった。その事情は一ノ瀬は知っている。なのに告白してくるとはいい度胸だと思う。
そんな彼と俺は上手くやれるのか不安の中スタート。俺は彼との付き合いの中で苦悩し、愛されて溺れていったんだ。
社会人同士の年の差カップルのお話です。智也は優柔不断で行き当たりばったり。自分の心すらよくわかってない。そんな智也を和樹は溺愛する。自分の男の本能をくすぐる智也が愛しくて堪らなくて、自分を知って欲しいが先行し過ぎていた。結果智也が不安に思っていることを見落とし、智也去ってしまう結果に。この後和樹は智也を取り戻せるのか。

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる