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めめくらげ

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すっかり観光気分で、路面電車には乗らず海岸沿いを歩く。このまま江ノ島を見てみるのもいい。日暮れまで時間はたくさんあるんだ。いや、それどころかこんな日がまだ何日も続く。

準備で何度もこの辺りを訪れているが、夏目前の海辺はことさら景色が良かった。
熱い海風とまぶしく照り返す砂浜に、日ごろから蓄積して層となった心のよどみのようなモノが、焼かれてボロボロとはがれ落ちていくようだ。汗をかいては熱風に焼かれて蒸発している。もしかしたら、このまんま歩き続けてたら熱中症になっちまうかな?

だが色の白いアラタは涼しげな顔でテクテクと歩いている。しかしとにかく暑くて、江ノ島は明日でもいいかと思い始める。今年は雨が少なくてしばらくは降らないようだし、1週間の長期滞在だ。焦ることは何ひとつない。

海岸を見渡せる丘の上にやってくると、あの霊障まみれの我が家……古めかしい文化住宅について、木陰のベンチで休みがてらアラタに尋ねた。

いまさらのことだが、あの家にいるうちはそこで起こっている様々の霊現象について、冷静に話し合えるような心の余裕などないのだ。幽霊に聞かれているような気さえする。だがこうして離れてしまえば、恐怖も薄らいでいるので「突っ込む」ことはできた。
それでも、不可解なことは山とあるが、聞けないこともいくつかある。なぜアラタはあの家に住み、古風な暮らしをし、浮世から隔たった生き方をしているのか。


それとなく尋ねたことはあるが、「この暮らししかしたことないので。」と返されるにとどまっている。
しかしそこにはもう触れず、俺は数ある現象の中でも特に気になっていることを尋ねた。

「あのピアノの音は……うちから聞こえてくる音だよな?」

我が家には「開かずの間」がある。
普通に居住スペースとなっている部分……タイル張りの共同トイレとガス台が設置されている台所と勝手口、かつては蓄音機が置かれていたという、庭に面した大きな窓がついた洋間の共有スペースは行き来が自由だ。

それから唯一日当たりのいい俺の部屋(その割りにはいつもどんよりと暗い気がするが……)と、アラタの和室以外の部屋、つまり1号室と5号室は施錠はされているが、以前管理人に見せてもらったときにも、壁一面にお札が……なんてこともなく、同じような真っ白な壁で物は何ひとつ置かれておらず、がらんどうになっているだけであった。特に妙な気配も何の異常も見られない、ただの漆喰の空間だ。

すなわち、「問題の部屋」は1階ではない。1階は確かにいろいろと妙なモノの気配は渦巻いてるが、どこにも別段おかしなことはない、ただ古いばかりの文化住宅でしかない。

開かずの間は2階にあるのだ。
そう、あの幽霊屋敷は2階建てだ。しかし2階には部屋がひとつしかない。外から見ると分かりやすいが、洋館を模した洋風の三角屋根が和風の家に取り付けられたかのように少しせり出して伸び、それがあるためにあの屋敷は、昔の和洋折衷の文化住宅の様相を呈しているのだ。部屋はその三角屋根の真下にある。

あそこに越してくるとき、不動産屋も管理人も、「ここは使わないでください」としか言わなかった。玄関を開けて奥に進むと階段があるが、そこで何かを見たわけでもないのに、彼らに言われるまでもなく、俺もその階段を登ろうと思わなかった。
階段が怖いのではない。階段を登った先にある部屋が、俺を拒んでいるのを感じたからだ。

そしてピアノの音というのが、恐らくその部屋から鳴っているのだ。
近所にピアノ教室があるのだろうとか、どっかのお嬢ちゃんが練習してるのだろうとか無理やり思い込んではいたが……あの旋律は、まぎれもなく「頭上」から流れている。

それに、以前血まみれブラウスの女の子に向かって、アラタがこうも言っていた。
「あのピアノ?明るいうちなら使ってもいいよ。暗くなるとね、ここの坊ちゃんが弾きにくるから。」……と。

俺たち以外に住人がいるのかと思ったが、そんな訳はない。その坊ちゃんとやらに出くわしたこともないし、人間の気配など微塵も感じない。

「……知らなかったんですか?」

アラタが眉をひそめ訝しげな面持ちで返した。その顔を見るに、隠したいことではないようだった。

「いや、知ってた。知らないフリをしてた。……2階には本当にピアノがあるんだな。」

「もう何十年と手入れをしてないから、とうに使いものにはなりませんけどね。」

「でも……」

「坊ちゃんには弾けるのです。」

「…………。」

ぶわっと強く生ぬるい風が吹き抜ける。アラタの髪がさらさらと揺れた。
ありもしないピアノの音が、風に混じって空耳のように鳴っている。
だがそれは俺の頭に残っているだけの音で、風が止むとともに掻き消えた。

俺はその曲を、先月偶然朝のラジオで聴いた。曲自体はうっすらと知っていたが、誰の何の曲かなんて知らなかった。なんの偶然なのか、朝っぱらからあの曲がラジオのリクエストでかかるのにやや寒気はしたが、そのときに俺はそれが「別れの曲」というタイトルであることを知った。作曲者はショパンだ。もっとも、別れの曲というタイトルは後に日本で改題されたものらしく、実際には「エチュード10ー3」という実に無機質なタイトルである。

しかし、別れの曲というほうがそのメロディーにはふさわしいように思えた。
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