つらじろ仔ぎつね

めめくらげ

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ー「へえ……これはまた……」

佐野が中を見回し、「すごいな」と続けた。
ポピー・ハイツの二〇三号室に、主のいぬ間に『引越し祝い』にやってきたクロと佐野は、自分たちですらもうしばらく目にしていないその部屋の古さに目を見張った。全裸のゲーテが、タバコの煙で輪っかを作りながら布団に手枕で寝そべり、「聞きしにまさる豪邸じゃろ」と自慢げに言った。

「いまどきこんな暮らしかたをする学生がいるのか」

佐野がじかで畳にあぐらをかき、クロもそのとなりに正座でならんだ。

「風変わりな男なんだ」

「それにしたってせめて風呂くらいは……この子の親御さんは仕送りもできないほど苦労してるのか?」

「さあ。奴の詳しいことはほとんど分からん。不在ばかりだし、会話もしないしな」

「お名前はなんとおっしゃるのです?」

クロが聞く。

「西だ。初めて会ったとき、制服の名札に書いてあった」

「西さん……」

「まあ部屋はどうあれ、その西殿というのはずいぶん優しそうな男だな。見ろよ、この水やりの器械を。噴水のように湧き出てきてるぞ。お前の使うモンだけは近代的で豪華だ。いい男と巡り合えてよかったじゃないか」

「そのとおり。"ただいまのスリスリ"だけはうっとうしいが、不満といえばそれくらいだ」

「それなら安心です。良い方のようでよかった」

クロが持っていた紙袋をゴソゴソとやり、中から洋服とスニーカーを出して並べた。

「これ、佐野と僕からです。もう捨てられないように、どっかに隠しといてくださいよ」

「やあすまんな、助かるよ。……と言ってもヒトの格好をする機会など、お前らの"集会"でしかねえけどな」

「ならさっそく今着てください」

「へ?いま?」

「動物の裸は気になりませんがね、人の姿をしたあなたの素っ裸はとても気になります。せめてパンツは履くべきです」

「堅いことを」

「ほれ」

佐野が新品の下着のタグを切ってよこすと、ゲーテはタバコをくわえ寝ころがったまま足を通した。

「よくお似合いです」

「お前らは西と趣味が似とるのう。」

トランクスはピンクのギンガムチェックであった。

「そのまんま服を着ろよ。メシでも食いに行こうぜ」

「面倒くさい、俺は腹など減っとらん。出前でも頼めよ」

「たまには三人で出かけるのもいいじゃねえか。俺もクロもまだなんも食ってねえんだ」

「クロ坊は食欲より性欲の男じゃからなぁ」

「……何です、またワケのわからないことを」

「俺は昔から言ってるだろう。交尾をしたらきちんと風呂に入れよ。お前を"飼ってるオス"の匂いがプンプンするぜ」

「なっ………」

クロの頬が赤くなる。

「イヌ族のくせにてめえの匂いには無頓着だな。大和とか言ったか、奴はサカりの真っ最中かい?お前、会うたんびに人間の精子の匂いがするんだよ。奴と子作りごっこでもしとるのか」

「ゲーテよ、そりゃセクハラというやつだぞ」

「たわけ。交尾の話の何がセクハラだというんじゃ」

「ケモノとは違うのだ。それよりホラ、とっとと着がえろ。早く行こうぜ」

「けっ、イヌは群れるのが好きじゃのう。俺は金なんか持っとらんぞ。クロ、お前が"こーでねーと"した服をよこせ」

「・・・・・」

まだ頬を染めたまま、黒いカットソーとジーンズを無言で投げてよこした。

「まったく、くるわ育ちの年寄りのくせに、いつまで経ってもウブな奴よ」



ー「はあ、なるほどな。だからネコとキツネなのに友達をやっていたわけか」

近所のレストランのテラス席で、佐野が羊肉のソーセージにかぶりつきながら言った。

「クロはなぜその大富豪の家に?」

「社長が、妓楼以外の場所も見ておけと……まあいつものくだらぬ思いつきですよ。若いうちにいろいろ社会見学をしろと、突然言ってきましてね。柿本家でちょうど使用人を募集してたのです。だから十五、六のときに、そこへ丁稚にやられました」

「ゲーテは?」

「俺はいろんな家を転々としながら暮らしてたが、ある日蝶々を追って柿本の庭に入り込んだら、それを見てた女主人に気に入られてな。なんせめったに見ない黒シャムよ。だからその日に婿入りしたわけさ。ゲーテという名をつけたのもそのばーさんじゃ。外国の詩やら戯曲やら、当時にしてはずいぶんハイカラな趣味を持っとる人でな」

「西殿にゃ悪いが、お前がネコのまんまなら、今の家よりそういう主人と屋敷に暮らすほうが似合ってるな」

「そうだろう?だが女主人のばーさんが、変な飾りのついた首輪をくくりつけてくるのが嫌でなあ。つけられるたんびにそこらへんに捨ててくるんだが、奴は年寄りのくせにしつこかった。結局俺が折れて、そいつが死ぬまで妙ちくりんな首輪をしたままだった。それを見るたんびに底意地の悪いツラで笑っとったのが、このクロじゃ」

「お体の弱いご主人様がせっかく編んでくださったのに、この人はそのご厚意をいつも無下にしてましてね。道端に落ちてた首輪をいくつ回収したか……それらを、ゲーテさんが眠ってる間にこっそり並べて置いておくんです。起きてその光景を見て驚いてるところを観察するのが、私の趣味でした」

「昔っから根暗でひねくれた男だったからな。俺ぁキツネなんか大嫌いだったから、余計に嫌いになったよ。だいたいクロ坊はまだ子供だったからな、今よりずいぶん生意気なガキだった」

「そりゃお互い様ですよ。でも百年経っても、こうして好い仲を築けてるじゃないですか」

「腐れ縁じゃ」

「ははは、お前らは根底が似てるんだ。だから百年も続いてこれたのさ」

「たわけ」

「で、どれくらい柿本家に?」

「驚くなかれ、十年以上も居着いてしまったわ。俺もクロも、そのばーさんが死ぬまでな」

「そりゃあずいぶん長かったな……」

「クロ坊は腹黒いなりに、ただの丁稚からぐんぐん出世しよってな。年季が入るほどエラくなってった。ハタチを超えたころには、使用人の二番手だか三番手くらいにはなっとったよ。身体の弱ったばーさんの片腕となり、いろんな仕事を任されるような立場さ。執事も同然の役職だったな」

「ある程度やったらまた帰ってこいと言って、気楽に奉公に出したつもりの社長も困ってました。私が仕事を簡単には抜けられなくなってしまって……ですからこの際、主人が変わるまではお力になりなさいと言われて、そのまま……」

「まあ、クロは確かに性質的に執事向きだ。今だって社長の執事のようなものだからな」

「懐かしいのう、柿本での暮らしは。首輪以外は何不自由ない暮らしじゃ。ばーさんも優しかったし。俺がときどき庭でスズメを捕まえて食ってると、えらいえらいと大いに褒めてくれたものだ。だからときどき獲物をとったらばーさんの部屋までいって見せつけてやってな。執事たちは大慌てだが、ばーさんだけは嬉しそうに笑っとった」

「あれは非常に迷惑でした」

「あの家の使用人は、男のくせに狩りも出来ん軟弱ばかりだったからな。ばーさんは女だから、死体とか血を見ても騒がねえのさ」

「何を言う。婦人のほうがよく叫ぶじゃないか」

「女の叫ぶのはな、狼の遠吠えとおんなじじゃ。仲間に危険を知らせとるだけだ。怖くて叫ぶんじゃない」

「はじめて聞いたぜ」

「ウソに決まってるでしょう」

「だが、クロよ。俺もお前も、あのころは時代の変貌の渦中にあったな。立松の坊ちゃんがばーさんと組んで、下町の呉服屋が、今や銀座の老舗の百貨店よ。あれから時代はめざましく変わっていった。少なくとも銀座の光景は、どんどん豪奢になっていった」

「そうですねえ。懐かしい。立松の若旦那様は、ご主人様に本当にお優しくしてくださいました。あれほど可愛がられていたあなたですら、ご主人様にとっては徳郎様の二番手です」

「あの坊ちゃんは、ボンボンの割りに策士であったな。優しいだけでない、そういう腹に一物あるヤツが、ばーさんは好きだったのさ」

ゲーテが手を頭の後ろで組み、深く椅子にもたれかかって空を仰いだ。



クロがそのときのことを振り返るたびに、思い出すのはあの男のこと。

ー「よう、お蓮」

いつも鮮やかによみがえる、忘れられない人がいる。
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