つらじろ仔ぎつね

めめくらげ

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二駅目で下車して、歩いて三分のマンションに帰ってくる。このまま一気に明日の朝まで眠れそうだが、今寝てもどうせ宵の口には目覚めてしまうのだろう。それなら夜まで寝るのをガマンして、きちんと明日の朝に目覚めたいものだ。エレベーターで六階に上がり、ようやく自宅に戻ってこられた。扉を開けた瞬間、冷気が漏れ出してくる。

「ただいま」

「おかえり。死人みたいな顔だ」

大和が出迎える。

「半分死人さ」

「デキる男はつらいな」

「社長が何でも僕らに任せすぎだ。……シャワー浴びてくる。すべてが気持ち悪い」

そう言うと大和が眉を下げて笑い、「着替えとタオル置いとくな」と言った。
ぬるめのシャワーを頭からかぶりながら、ゲーテが言った"ツンと匂う何か"という言葉を思い起こす。それは無論シャワーの湯で洗い流せるものではない。あの男はかつて女郎部屋で半ノラで飼われてたせいか、まるで遊女のごとくいやなところが鋭い。

自分もかつては親代わりの社長に付き従い、子どもの頃から明治、大正、昭和、そして現在に至るまで、酒場や性風俗産業の渦中を見ながら育ってきたわけだが、昔っからどうにも妓楼ではたらく女は恐ろしかった。やさしくていい匂いの姐さんたちは、だいたい請け出されるかとっとと自立していなくなる。ぜんぜん売れてなくたって、きれいじゃなくたって、一途なところがウケて結局は幸せになっていく。しかもこれまた、地味で堅い金持ちによく好かれるのだ。

しかしそれとは反対に、いろんな男を引き寄せて長く売れる、男好きする姐さんというのが、おそらくゲーテのいうところのツンとした匂いをぷんぷんと漂わせる女たちだ。
頭がよくて、機転がきいて、鼻も利く。粋な話し方をして、髪も服も化粧も話題も、いつも最先端だ。だから派手に金を使うタイプの男によくモテた。
けれどクロはその手の人が怖かった。ふつうの人間の女として見たことはない。なにか自分たちとはまた違う種族のあやかしのケモノにしか思えなかった。
だが社長はそういう女の方が好きなので、彼のやる店にはそういうのばかりが身を置いて、静かでやさしい地味な女は、あまり長く居ずにちゃっちゃとカタギの世界に羽ばたいていってしまう。

時代は流れ、女たちのよそおいやしゃべる言葉が変わったが、本質は変わらないように思う。黒服として働く店でも、人気の上位にいるのは皆独特な色香を纏った者たちだ。顔立ちも髪型もドレスも千差万別だが、どうにもみんな、眼は同じ。底知れぬ欲望を秘めている。だから一様にケモノの目つきになる。

しかしゲーテが自分から嗅ぎ取った匂いというのは、そういう野心や上昇の気持ちの絡まったものではない。この肉体から発せられる"餓え"の匂い。知ってしまって覚えてしまうと、クセになってもう戻れないし、振り払えない。子どもの頃から長く女たちを見てきて、クロはきっとそれらに感化されているのだと思った。

あれは明治後期の妓楼にて。売れっ子のねえさんの客のひとりが妙な趣向の男で、酒を運びにきた当時少年のクロに興味を持って、彼女の目のないところでこっそりと逢瀬の申し入れをされた。僕は男ですと言ってもそれを承知の上と見え、困ったクロは番頭に言って、その男の座敷には手伝いをしに行かないことになった。すると男はとたんに姐さんに冷たくするようになり、ワケを聞き出されたときに「あの小僧でちっと遊んでやろうとしたら、生意気にも断りやがった」と返したのだ。

本来ならそこで子どもなんかに浮気心を持った客の方が怒られるはずだが、そうはならない。姐さんはクロに対して烈火のごとく怒り、張り倒して髪を引っ掴んで、なんべんも平手打ちをし、ワンワン泣きわめく子どものクロに容赦なくとどめのゲンコツを喰らわせた。
そのときに「性悪狐」と罵られたことを、傍目で見ていた社長は大いに笑い、いまだにそのことを笑ってくるが、あんなのは二度とごめんだ。子供にヤキモチを焼くなんてと陰で笑われても、それが女の嫉妬心と意地なのだと身を以て知ったクロは強烈に女が恐ろしくなったし、なにより自分もここにいる限りは"同じ土俵"にいるのだと感じた。

それが、感化の一端になっている。客の好みでセックスの場面を見させられることが何度かあったが、女にかぶさる男ではなく、下になる女の気分のほうが自分にはよくわかった。

大和にドライヤーで髪を乾かしてもらい、すっきりするが、シャンとはならない。いよいよ疲労感と眠気がドッと押し寄せてきた。しかし大和は眠ることを許さない。裸のクロをベッドに運び、おおいかぶさってキスをする。ゲーテのことばが何度もよみがえる。いま自分はとてつもなく彼をそそる匂いを発している。

「会えないのはつらい」

大和がささやき、そのまま耳を舐める。そのくすぐったさで、耳をパタパタと動かした。

"お耳としっぽが出ちまうよ"

眠いのに興奮している。クロの耳はキツネのそれに変貌し、真っ白な毛に覆われた大きな尾が、重なる大和の腰にまきつく。
大和は優男の顔で、疲れて弱っているクロを無理やり抱くのが好きだ。種をまかれてぐったりとする様を見ると、満足感が頂点に達する。

クロは色事とは無縁そうな涼やかなふうを装いながら、本当は男の腕の中でその腹の奥を突かれるのが好きなのだ。求めてないフリで欲しがっているものほど、そそられるものはない。大和のペニスは数日ぶりの"獲物"を前に、最高潮に達していた。
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