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ケイちゃん

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朝。いつものように制服を着て、いつもの時間に家を出る。本当は自転車で通える最寄りの高校に行きたかったが、そこは昔から問題を起こす生徒が集まりやすいせいか、もっと偏差値の高いところに進学してくれと親に言われたので、天音は毎朝バスに乗って自宅近くのバス停から1時間ほどの都立高校に通っていた。

バスに乗り込み発車すると、視点はあっという間に下駄箱に切り替わる。なぜだか自分には、この先に待ち受ける「悪夢」がすでに予兆できている。けれどそれを回避できない。「物語」はどんどん勝手に進んでいってしまうからだ。不穏なものを感じながら誰もいない校舎を歩くと、自分の教室からは薄暗い廊下に明かりが漏れ、にぎやかな声も廊下にまで溢れ出ている。

だが教室に入ると、騒がしかったはずの彼らがとたんにシンと静まりかえるのだ。しかしこれもわかっていたことだ。隣の席の友達に「おはよう」と言うが、小さな声でよそよそしく「おう」と返され、目を逸らされるのもわかっていた。

何人かはしばらくいつもどおり友達として付き合っていてくれる。だが徐々に男友達からは声をかけられることも減り、やがて自分のそばにこれまでの友人はいなくなった。一部の女子生徒たちだけが気を使って話しかけてくれたが、それはあくまでも友情ではなく同情によるものだ。仲間内のラインのグループは自分を抜いた新しいものが作られたそうだが、そうなる前からすでに誰からも連絡は来なくなっていた。


それでも毎朝、バスに乗らなければならない。1日の記憶はおぼろげだが、鮮明に覚えていることだけで物語はつむがれていく。あるときのホームルームで修学旅行の部屋割りについて話し合ったが、「席順は絶対に嫌です」と自分の周りの席の男子生徒たちが担任に訴えた。他のクラスメイトは気まずそうな顔をしたりクスクス笑ったりするが、担任もすでにこの事態を薄々察知していたのか、理由を問うこともせずただひたすらに困惑していた。

そして天音だけが特例として、移動中は女子のグループに受け入れてもらい、ホテルの部屋は引率の教師たちと一緒だと言われた。よりいっそう、クラスメイトたちから隔絶された瞬間だった。

家に帰ってから、修学旅行なんて行きたくないと親に訴えると、ふたりは担任と同じように困った顔をしたが、それでもいいと言ってくれた。活発で友達に囲まれていた中学時代から、たったの数ヶ月ですっかり様子の変わったひとり息子に対し、両親もどうしてよいのか分からないらしかった。

だが追求などされたくもないし、何も聞かずに放っておいてほしかったからそれでよかった。けれど何も聞けない彼らに対する罪悪感のようなもので、心が押しつぶされそうになった。

バスは毎朝やって来る。自分もいつもどおりに制服を着て、いつもの時間にバス停に並んでいる。その日のことも忘れられない。保健体育でも特別授業でもないただの世界史の時間に、担当の教師が性の多様化についての持論を唱えだし、そのとき天音は徹底的に叩き潰されることとなった。

クラスメイトたちはセクシャルマイノリティーに関わる言葉を知り、同性愛者への差別や迫害を知り、多様化する性の文化や歴史を知り、男同士のセックスによってHIVに感染する人々が増えていることを知り、つまりはわざわざ今ここで知る必要のない知識を頭につめこまれたのである。彼らは天音を見なかったが、心の視線はひとりのこらず彼に注ぎ、その瞬間に天音という人間は、差別を受け、迫害され、不治の病に感染する人たちと同じ人種であることを、若い彼らに強く意識づけることとなった。

病気になどかかっていないのに、水泳の授業には出ないでほしいと聞こえるように言われたので、その日からプールには入らず、見学の女子たちと並んで日陰のベンチで膝を抱えた。教師たちは厳しいことも言わないが、優しいことも言わなかった。厄介な問題が起こっているようだと意識の片隅にとどめる程度で、ただ、それだけだった。

バスに乗らなくなったのは、夏休み前の期末試験からだ。ある朝下駄箱のロッカーを開けると、いくつものコンドームがポロポロと落ちてきて、足元に散らばった。昼過ぎ、カバンの中で教科書に混ざって見覚えのない雑誌がまぎれこんでいることに気がつき、中に入れたままそっと表紙を見てみると、裸の男がふたり並んでおり、卑猥な煽り文が派手な色で目立つように添えられていた。

それが同性愛者向けに発行されたものであることすらわからなかったが、とにかく「かつての」クラスメイトたちが、いよいよ自分に牙を向けてきたことをさとった。

学校を早退すると、どうすればよいかわからず持ち帰ってきたコンドームと雑誌を近所の河原の草むらに投げ捨て、そのあとにカバンも投げ捨てた。教科書はカバンから飛び出てバラバラと散らばったが、それらを踏みながら川べりに立ち、ポケットに入れていたスマホも川に投げ捨てると、天音はその場にうずくまってすすり泣いた。

学校は遠いから、恋人と手をつないでいるところなどクラスの人に見られるわけがない、と思い込んでいた浅はかな自分を恨んだ。たくさんの人がラインで回ってきたその画像を見ていることも知らず、何食わぬ顔をして学生生活を営んでいたバカな自分が憎かった。

全部自分が悪い。元凶は幸せに浮かれていたマヌケな自分だ。それに、長いあいだ目を逸らされ迫害されてきたものを、今になって受け入れろという、世界史の教師のような世の中の風潮こそ間違っている。男同士が、昼間に雑踏の中で手をつなぐことが普通になる日なんて、永ごうやってくるはずがない。

世間のきれいごとと個人の心情はまったく乖離している。世間とは個人の集合体ではなく、鎧をまとった個人のいつわりが膨れあがっただけの、優しげな虚像に過ぎない。世界史の教師はそれを知らない。クラスメイトだって何も学んでいない。天音だけが、そのことを身をもって痛感しただけだ。

学校を辞め、恋人とも別れ、天音はしばらく放心したように日々を過ごしたが、バスに乗る悪夢にうなされつづけた。どこからどこまでが夢なのかわからない。だがただの夢ではなく、現実に起こった悪夢を繰り返し見ている。

変えられない過去が、環境の変わった未来にまで襲いかかってくる。見えない小人のような悪魔が忘れた頃に忍び寄ってきて、忘れるなよ、思い出せ、と口元を歪めてささやいてくるかのように。
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