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……しかし離れろというものの、また新たな部屋割りをすぐに組めるわけもない。なおかつ今は今で生活は安定しており、誰にも現在の部屋割りに対する不満は無いので、人と部屋を無理に動かすことは適していない。

それにハルヒコにも、今朝珠希に言われたことをサラに伝える勇気など到底ないのだ。だから結局その夜にはうやむやになり、珠希もそれ以上ハルヒコに厳しい言葉を投げかけることはなかった。

彼らの「別居計画」の話が再びなされるのは、夏休みが明けてからのことである。しかし珠希の叱咤がハルヒコへの一石となったことは確かであり、ハルヒコはその日からずっと、サラへ抱いていたはずの「愛情」が単なる思い込みであったのかと、自分自身に問いかけては否定と肯定を繰り返し、たびたび悶々となった。

サラのことは、嫌いじゃない。生意気だが悪い奴だと思ったこともないし、ひねくれているように見えて素直な面の方が多い。

抱きしめるといい匂いがするし、表情が乏しいなりにも、彼の笑った顔は良いものだと思う。けれどそういう表面的なことを除いた内情と、今の互いの立ち位置が不明瞭だ。ならばふたりはどうあるべきかと言えば、それもよくわからない。愛情の正体とは何であろう?珠希のいうとおり、本当にはじめから両者の間に存在していなかったのではないだろうか?

昼休みの屋上で愛情とは何かと池田に尋ねたが、彼も困った顔で首をひねるばかりであった。だが池田が愛情を知らないのではなく、どう説明すべきかわからないらしかった。はじめに親に与えてもらうものだと言われたが、なんせ自分に親はない。

人を好きになれば得られる気持ちだとも言われたが、そもそも相手に対する愛情がなければ、その人を好きと思うこともないだろうと返すと、彼はさらに困った顔をして、腕を組んだまま固まって黙りこくってしまった。

そのときハルヒコは、ふと思い出した。夢の中で、サラにフェンス越しに抱きしめられたときに沸き起こった、あの気持ちだ。なぜだかすっかり忘れていたが、今までにない鮮烈な気持ちに支配されたのをよく覚えている。夢と現実の区別はついているつもりだが、もしもフェンスの向こうの人物がサラ以外の誰かだったなら、同じ気持ちは沸き起こっていただろうか?

池田を含む身近な人物をひとりずつ当てはめる。どれもしっくりこない。しかし「あの場所」に立っていて欲しい人物は、本当はもっと別にあるのではないだろうか。だとしたら、いったい誰だ?

……わからぬまま、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ってしまった。それから悶々としたまま週末を迎え、天音からラジオもホットケーキの件にも特に触れられないまま、金曜の深夜にサラを胸に抱きながら眠りについた。

ハルヒコはその日、久々にあの夢を見た。空は重く垂れ込め、戦闘機がゴウゴウとやかましい。軍人ハウスの密集地を見てみようと思って降り立った、人っ子ひとり見当たらないさびれたローカル線の駅前。

基地のフェンスが果てしなく続くだけの、よく見知ったあの場所だ。案の定、向こうから何かがコロコロと転がってくる。後ろを振り返れば、首のない地蔵に何事かを喚き散らす奇妙な男と、甲高く不快な声で笑う小人たち。そして足元の茶色い紙袋。漂う匂いから察するに、あの男はシンナー中毒に違いない。この光景は何度か見ているのに、いつも男が誰だか分からない。とんと忘れているのだ。

フェンスの向こうは米軍の領地だが、ずいぶん古めかしいおもちゃのようなプロペラ機が飛び交い、サルーンが点在し、カウボーイや炭鉱夫、砂金堀りの男たちが、昼から楽しげにジョッキを傾けている。その脇をドレス姿の婦人を乗せた馬車がガラガラと通り、保安官が仲間と談笑しながら馬に乗って通り過ぎて行く。フェンス1枚で隔たった日本とは大違いで、あちら側のアメリカはいやに栄えて賑々しい。






ー「おや」

視界の端で何かがうごめく。土の色と同化しているが、フェンス越しにこちらを見つめる鋭い視線に気がついた。しばらく見つめ合ったのち、「それ」はフイと顔をそらし、ノタノタとフェンスに沿って歩き出した。どうやらその先に生えているサボテンを食べたいのだろう。

「お前はオスか?立派な体格だ」

そのイグアナは1メートルを優に超え、恐らく10kgはありそうな大きな体をしていた。モソモソとサボテンに喰らいつく横顔をじっと眺め、フェンスの隙間から指を差し込んで頬にツンと触れてみると、こちらをギロリと睨みつけた。

「お前の故郷はガラパゴスの島々のはずだ」

ひととおり食べて満足したのか、イグアナは再びのそのそと歩き出す。

「こっちに来いよ。お前ならそこのフェンスの抜け穴を通れる」

破れたフェンスから腕を差し入れると、存外にも彼は素直にその穴までやってきて、のそりと国境をまたいできた。

「よーし、いい子だ」

噛まれないよう警戒しながら、大きな体を持ち上げる。目を閉じて抱きしめてみると、鋭い手が肩に乗せられた。

「かわいいやつだな。……俺の故郷に来いよ。あたたかくて陽射しが強くて、お前の故郷とよく似ているはずだ。サボテンは無いが、きっとここよりも生きやすい」

するとイグアナは言った。

「僕は暑いところは苦手だ。でも、夏休みだけなら行ってみてもいいよ」

そっと目を開ける。

「……なぜお前がここに?」

「君こそなぜここに?」

「電車に乗るといつも勝手に連れてこられる。降りたくないのに、着いたら降りるしかないんだ」

「降りなければいい」

「そうなんだが、どうしても降りてきてしまう」

「ふうん……じゃあきっと、どこで降りてもここに着くんだ」

いつのまにかイグアナとすり替わっていた素っ裸の天音が、感情のない瞳で言った。

「君は弱いから、永遠にここから抜け出せない」

「俺は弱くない」

「弱いよ……だからここにやって来る」

「どうすれば抜け出せる?」

「どうにもできない。…今のままじゃ」

どちらからともなく腕を回し、強く抱きしめ合う。この気持ちは、前にもここで味わったことがある。フェンスの向こうに立っていた男に、一方的に抱きしめてもらったときのあの気持ちと同じだ。

だが今はそれよりもずっと強い感情が、脳の奥から溢れ出しそうなほど沸き起こってくる。この気持ちは、いったい何だろう?

「ねえハルヒコ……」

耳に吐息が当たる。

「僕とセックスしよう」









ー「……っ!」

激しい鼓動で一気に目が覚める。薄暗い部屋のいつものベッドの上にいることを把握するのに数秒を要し、腕の中にいるのは天音ではなくサラで、その華奢な身体を強く抱きしめていたことに気がつくのには、もう数秒を要した。

心臓の音が聞こえるようだ。おまけにひやりとするほど寝汗をかいている。悪夢を見たときにはいつも必ずこうなるが、今の夢は果たして悪夢なのだろうか。サラは胸で深い眠りについており、ハルヒコの鼓動で目覚めることはなかったが、抱擁が苦しかったのか少しだけ身をよじった。

サラを起こさぬようそっと腕を抜き起き上がる。股間部分にやけに圧迫を感じると思ったら、寝巻きの短パンは見事にテントを張っていた。また夢精したのかと焦ってシーツを触ってみるが、幸いにも寝汗の湿り気しかなかった。

カーテンを閉め切っているので部屋は薄暗いが、時刻はすでに9時をまわっている。ベッドから出て洗面所に行き顔を洗うと、どこかから甘い匂いが漂ってくるのに気がついた。

「なんだ……?」

するとようやく、今日は「約束の日」であったことに気付く。昨夜までは覚えていたが、夢のせいですっかり忘れていた。まさかと思い調理場へ立ち寄ると、そこには同じく寝巻き姿の天音がいた。

「……鼻が利く奴だな。やっぱり野生児だ」

入り口に佇むハルヒコを見やると、ホットケーキを焼く彼が意地の悪い顔で笑った。

「ラジオ、聴いたのか?」

「聴いたよ。別に許しちゃいないけど」

「ならば何故?」

「材料があるから。……作るとも言ってないのに、君が先走って買ってきたやつ。余ったやつはこのまま貰っていい?」

「構わん」

「ねえ、何で今日ホットケーキがいるの?どっかに持ってくの?」

「いや。……俺は普通のケーキが好きじゃないんだ」

「どういうこと?」

「材料の袋の中に、ロウソク入ってたろ」

「え?……ああ、そういえば。かなりたくさんあったけど、あれ何?」

「19本ある」

「19?」

「ホットケーキに刺せるかわからんが、刺せるだけ刺したら、火を灯すんだ」

「それって……」

「今日は俺の誕生日だ。俺を生んだ奴が、正しい日付で出生届を出していればな」
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