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1巻

1-3

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   ◆ ◆ ◆


 公爵が帰って緊張の糸が切れたのか、わたしはしばらく動くことができなかった。
 自分でやると言い張った午後の授業と公務は全てキャンセルして、着替えを手伝おうとするルリカや、お茶を用意しようとするメイドも全員下がらせた。
 そしてつかの静寂の中、わたしは公爵を迎えた時のドレス姿のまま、ソファに座って公爵家の馬車が帰っていったほうを見つめていた。
 けれどこの屋敷でそんな静寂が長く続くはずもない。
 パタパタという軽い足音にいで、ノックもなしに扉が開いた。

「お姉さま!」
「……エリアーナ、部屋に入るならノックをして」

 この子がノックをしないで部屋に入ってくるのを、もう何度とがめたかわからない。
 けれど一向に改善されないのは、多分そうやって入ってくるのがわたしの部屋だけだから。
 父と母の部屋なら、エリアーナは絶対にこんなことをしない。
 妙なところで、自分の立ち位置をわきまえているのだ。
 この屋敷で、誰にさからってはいけないのか。
 そして、自分よりも『下』なのは誰なのか。
 エリアーナにとって、両親に厳しくされているわたしは、自分より『下』という認識なのだろう。
 お姉さま、と呼んでいようと、それは単にわたしが先に生まれたからというだけで、そこに尊敬の意はきっとない。
 だから、エリアーナはわたしの注意など無視して、えんりょに部屋へ入ってくる。

「ねえお姉さま、ハロルドさまはどんなご用でいらしたの?」

 さも当然というように公爵を名前で呼び、なおかつ話の内容まで聞いてくる。
 公爵にあの場から追い出された時点で、自分が聞くべきではない話なのだとわかりそうなものなのだけれど、わたしと違い両親になにもかも許されてきたエリアーナに、こちらの常識が通じるはずもない。
 けれど素直に教えたくはなくて、エリアーナの興味を引かない程度の、わずかな抵抗をこころみる。

「……どうしてそんなことを聞くの?」
「どうしてって、ハロルドさまはまだわたしの婚約者だもの。気になるのは当然でしょう?」
(なにを、言っているの……?)

 そんなのわかっているでしょう、と言わんばかりの表情に、あきれや怒りを通り越して愕然とした。
 確かに今の時点で、エリアーナがあの方の婚約者であることに変わりはない。
 わたしがまだ、クロード様の婚約者であるように。

(でも、それでも……)

 そんな無邪気な顔で、軽々しく彼の婚約者だなんて言わないでほしい。
 胸をがすほどのこの想いを、やすやすと踏みにじるような真似をしないでほしい。
 思わず喉まで出かかった言葉を、呼吸ひとつ分の間でなんとか胸の内に押し戻す。
 ここで感情に任せてかつなことを言ってしまったら、全てが台なしになってしまうから。
 その代わりに、わたしは淑女の仮面を被る。
 優雅でしとやかで、それでいて心中をさとらせない微笑の仮面を。

「公爵は、今回の件をわたしがどう思っているのか確認されただけよ」
「そうなの? でもそんなことを聞きに、わざわざいらっしゃるなんて、ハロルドさまってお暇なのかしら?」
「……どう、かしらね」

 暇だなんて、あるはずない。
 それなのにわざわざ時間をいてうちに来たのは、わたしのため――ではないだろう。
 きっと、エリアーナとのこれからを父と話し合ったに違いない。
 王家への対応についても、なにかお話しされたかもしれない。

(全てはアナタのためなのに……)

 そのあとも、なんだかんだと聞いてくるエリアーナに適当な相づちを打ちながら、父の従者が呼びに来るまで、わたしは公爵家の馬車が去ったほうをながめていた。


 婚約者交換騒動から五日後。
 わたしはひとり、王宮へ足を運んでいた。
 ふかふかのじゅうたんに足を取られないようドレスのすそをさばきながら、案内役のじょに従って、歩き慣れた王城の回廊を進んでいく。
 窓の外を見るとすっきりとした青空が顔をのぞかせ、王宮の庭園を一層美しく見せていた。
 しきを楽しみながら、回廊の一番奥にある部屋の前にたどりつくと、案内役のじょは中にいる人物にわたしの来訪を告げた。

「入りなさい」

 落ち着いた女性の声に誘われるように、目の前の扉がゆっくりと開かれる。
 花の香りが立ち込める室内に一歩足を踏み入れて、わたしは優雅に淑女の礼をした。

「王妃様。クラリンス侯爵長女、マリーアンネ・クラリンス、御前に参上いたしました」
「マリーアンネ、私たちの間に堅苦しい礼は不要よ」

 王家のものとは違う、雪のように白い髪に、明るい青の瞳。
 隣国の王家から嫁いできた王妃様の姿を拝見するたび、わたしは厚かましくも親近感のようなものを感じてしまう。

(髪の色だって、瞳の色だって、王妃様のものとは違うのに……)
「さぁ、そんな場所にいないでこちらに座ってちょうだい」

 勧められるままに、王妃様の対面の席に腰を下ろすと、計ったようなタイミングでお茶が運ばれてくる。
 ちょうどいい温かさのお茶を一口飲むと、王妃様はためらいがちに口を開いた。

「……突然、あなただけを呼び出してしまってごめんなさいね。本当なら、侯爵と妹君にも来てもらって、話を聞いたほうがいいのでしょうけど」
「いえ」

 浅く頭を下げながら、わたしは四日前のことを思い出す。


『王家から、今回のことに関する手紙が来た』

 書類が山積みになったデスクを挟んで、わたしとエリアーナは父と向き合っていた。
 どこか疲れた様子の父の手には、王家のもんが描かれた封筒が一通。
 既に封は切られてあった。

『まぁ! 両陛下はなんて? わたしはいつクロード様の正式な婚約者になれるの?』
『待ちなさい、エリィ。まずはマリーアンネ……四日後に王妃様が、お前をお茶会にお呼びだ』
『どうしてお姉さまだけなの!?』

 エリアーナはわたしと父の間に割って入ると、そのまま父に詰め寄り、封筒をうばい取った。

『エリィ、返しなさい』
『まあ、本当にお姉さましか呼ばれていないのね。でもどうして? クロード様の婚約者になるのはわたしなのに』

 納得がいかない、というようにエリアーナは美しい文字が書かれた便びんせんにらみつける。
 そんなににらんだって、書いてあることが変わるわけでもないのに。
 らちが明かないと思ったのか、父はエリアーナから便びんせんを取り返すと、気を取り直したようにわたしを見た。
 普段はきちんと整えられている銀の髪も、鋭い光を放つブルーグレーの瞳も、今はくたびれたように見える。

『王妃様に、失礼のないようにな』
『はい』
『お姉さま、わたしのお義母かあ様になる方によろしくお伝えしておいて! 失礼なこと、絶対に言わないでね!』


 あのあと今日の出発間際まで、エリアーナは『王妃様に』『お義母かあ様に』となにか言っていたけれど、その全部を無視してここへ来た。
 もし呼ばれたのがわたしだけではなかったらと思うと、今更ながらゾッとする。

「王妃様のご配慮には心から感謝しております」
「それならよかったわ。……それでさっそくなのだけれど、マリーアンネ。まずはクロードの母としてあなたに謝罪を……今回のこと、本当にごめんなさいね」

 座ったまま、王妃様は深く深く頭を下げた。

「王妃様、いけません。頭をお上げください」

 慌てて駆け寄り、王妃様の前にひざをつく。
 王族に頭を下げさせるなど、とんでもないことだ。
 それに今回の件は、打ち明けることはできないけれど、そもそもわたしが招いたことだ。

「……あなたは本当に優しい子ね」

 寂しげにほほむ王妃様を見て、胸の奥がチクリと痛む。

(きっと、今回のことでお心を痛めてしまったのだわ)

 思慮深く、聡明で優しい王妃様のことだ、今回の件を深く悩まれたことだろう。

(それでも、王妃様は致命的にクロード様に甘い……)

 臣下や民の期待という名の重圧に耐え、望んで望んで、ようやく生まれた待望のひとり息子に、甘くするなというほうが無理かもしれない。
 でもだからこそ、わたしはこのあとに続く答えを、既に予想できていた。

「マリーアンネ……これは母としての個人的な頼みよ。あなたには本当に、どんなに謝っても足りないとわかってはいるのだけれど、今回の件はクロードがどうしてもと言って譲らないの……こんなこと初めてで……だから、婚約者の交換を承諾してくれるかしら?」

 もとよりそのつもりだけれど、王妃様の手前、喜ぶわけにはいかない。
 ゆっくり目をせて、震えるように小さくうなずいた。

「ありがとう。次の婚約についてはできる限りあなたの要望に応えるわ。婚約者だって、なにも公爵でなくていいのよ? あなたの気になる方で……」
「……いいえ、王妃様。わたしの婚約者はメイヤー公爵にお願いしたいと思っております」

 不自然にならないように、でもきっぱりと言い切った。

「わたしも公爵も、今後しばらく社交界でうわさの的になるでしょう。そうなれば、公爵はともかく、わたしのような者を欲しがる貴族などいるとは思えません。ですから、公爵さえよろしければ、このままで……」
「……ふふっ。あなた、公爵と同じことを言うのね」
「え?」

 驚いて顔を上げると、王妃様は本当におかしそうにほほんでいた。

「今回の事情を聞こうと呼んだ公爵が、陛下に言ったのよ。どうせなら、令嬢の中で一番気心の知れたあなたを婚約者にって」

 その瞬間、痛いくらいに胸が高鳴った。
 どんな理由であれ、公爵がわたしを婚約者にと望んでくれた事実が、あまりに嬉しくて。

(あぁ、どうか夢ではありませんように……)
「ふたりの了承が得られたなら、手続きは早めに行いましょう。その前に、クラリンス侯爵と妹君にもお話を聞くけれど、遅くとも来月……十月末の建国祭のパーティーには、互いに新しいパートナーと出席できるようにしておくわ」

 動きはじめた運命が、わたしの手を離れて、坂道を転がるように進んでいく。
 それがいいことなのか悪いことなのか、今はまだわからない、けれど――

「……どうぞ、よろしくお願いいたします」

 終始申し訳なさそうにしている王妃様に罪悪感を覚えつつも、わたしは震えるほどの幸せを感じながら丁寧ていねいに淑女の礼をした。



   第二章


 秋が深まり、色づいた葉がしきあざやかに染める頃。
 メイヤー公爵家に、一通の重要な書類が届いた。

『ハロルド・メイヤー公爵並びに、マリーアンネ・クラリンス侯爵令嬢の婚約誓約書』

 大きくそう書かれた紙を見下ろしながら、俺は彼女の名前をそっとでた。
 先日、王家から公式に発行された、貴族の婚約のための書類。
 平民の間では、結婚の時にしか誓約書は交わさないと聞く。
 しかし、財産や権利を多く所有する貴族となると事情が変わってくる。
 誓約書を交わさず、口約束で婚約していた時代もあったらしいが、婚約中の各々の権利を巡って、婚家同士での刃傷にんじょう沙汰ざたが何度か起こったらしい。
 そうした理由で、今では貴族がえんを結ぶ際には誓約書が必須となっている。
 これが送られてくる前に、エリアーナとの婚約解消に同意する書類もきていたはずだが、解けるえんにそれほど興味はないので、執事に全ての処理を任せておいた。
 今、新たな婚約の書類がここにあるということは、極めて迅速に処理がなされたらしい。

(でもまさか、こんなに早く婚約にこぎつけるとは……)

 自分が彼女との婚約を望んでいると、国王である兄に伝えた時は渋い顔をされたのだが、彼女のほうも自分との婚約を望んでいると王妃に話してくれたおかげで、驚くほど事態は素早く進んだ。

(王家としても、彼女に大なり小なりい目を感じている、ということか)

 言うなればこれは、王太子であるクロードのわがままが引き起こした事態だ。俺と彼女は、それに巻き込まれたに過ぎない。
 個人的には、もう少しい目を感じてもらわないと割に合わない、と思うが、今はこれ以上とやかく言うのはやめておこう。
 なぜなら――

「旦那様、よろしいでしょうか?」
「あぁ、入れ」

 開いた扉の向こうで、バルドが丁寧ていねいに頭を下げる。
 俺ははやる気持ちを抑えて、じっと彼の言葉を待った。

「クラリンス家の馬車が到着なさいました」
「今行こう。書類はあとで応接室に持ってきてくれ」
「かしこまりました」
「よろしく頼む」

 たくを整えて部屋を出ようとする俺に、バルドが再度深く頭を下げた。

「……旦那様。本日はマリーアンネ嬢とのご婚約、誠におめでとうございます」

 その声は、感極まったように震えていた。
 この執事は、全てを知っているのだ。
 俺がずっと彼女を想い続けていたことも。
 あきらめきれない想いを抱えたまま、彼女の妹と婚約した理由も。
 今日という日を俺がどれだけ待ちわびていたのかも。

「バルド、今度一番いい酒を開けよう」
「……はい」
「しかし、気を抜くのはまだ早い」

 頭を下げ続ける執事の肩を、気合を入れるように叩く。

(そうだ、まだ確定したわけではない……)

 彼女を確実に手元においておけるようになるまで、安心してはいけない。
 一番確実なのは、結婚してしまうことだ。
 この国では、王族は一度結婚するとえんができない。
 それは、国王のみが持つことを許される側室であっても同様だった。
 理由はいろいろあったが、一番大きな理由は、えん後にきさきかいにんが発覚した際、その血筋を巡って問題が起こるのをけるためだ。
 だから結婚を急ぎたいのが本音だが、俺のがそれを許さなかった。
 貴族の中でも一部の人間と公爵家当主である俺自身しか知らないが、俺は複雑な事情、というか制約を抱えている。
 自ら望んで受け入れたものだったが、今となってはその制約のせいで彼女をすぐに妻にできないのがとてもがゆい。
 けれど望みや願いというのは、一足飛びに叶うものではない。
 少しずつ、確実に叶えていくものだ。
 今日は、その一歩になる。
 屋敷内の、ソワソワと浮き立つような空気を感じながら、俺はエントランスへ歩き出した。
 最愛の想い人。
 マリーアンネ・クラリンス嬢と、正式に婚約を交わすために――


 メイドをひとりだけ伴って、彼女はエントランスへ入ってきた。
 上品な光沢を持ったブルーラベンダー色のドレスが、彼女の美しい銀髪と濃紺の瞳によく似合う。
 エントランスで彼女を出迎えた全員が、その美しさに息を呑むのを、俺は肌で感じた。
 れる俺たちに、その美しい人はどこか寂しげな笑みを浮かべ、しとやかに膝を折る。

「メイヤー公爵。クラリンス侯爵の長女、マリーアンネ・クラリンスでございます。この度は、わたくしとの婚約にご同意くださり、誠にありがとうございます」
「あぁ、いや……私こそ、ありがたく思っている」

 俺はそれ以上何も言えなかった。
 美しい面に浮かんだ寂しげな笑みを見て、彼女は望んでここに立っているわけではないと、気がついてしまったから。
 本来なら、近い将来彼女は王太子のきさきとして、国民の盛大な祝福を受け王城入りするはずだった。
 そこで多くの人に迎えられ、望まれて、愛する王太子のはんりょとして生きていくことが確定していたのだ。
 それなのに今は、たったひとりのメイドを連れて、この屋敷のエントランスに立っている。
 盛大な祝福もなく、愛する者もないまま、寂しげな秋の風景だけを背負って。
 胸が締めつけられるようだった。
 先ほどまでの浮き立つような空気は消え、ただただ胸が苦しい。

(逃がしてやるべきだっただろうか……)

 王家の呪縛から。
 愛する者のそばから。愛する者をうばった妹のそばから。
 彼女をさいなんでいる、全てのものから。
 本当はそうすべきだったのだ。
 自分が彼女との婚約を望んだからといって、彼女がそれに応える義務はない。
 もっと別の、年の近い貴族の令息を選ぶことだってできた。
 彼女は王妃に『うわさの的になれば、貰い手がなくなる』と話したと聞いたが、そんなことはありえない。
 むしろ、相手に困るのは俺のほうだっただろう。
 それくらい、彼女の美しさと控えめな振る舞いに心をうばわれている者は多い。
 今までは『王太子殿下の婚約者』という肩書があったせいで、皆近寄らなかったに過ぎない。

(そんな人を、望むべきではなかったのだろうが……)

 彼女の置かれた状況から見ても、自分が手を伸ばすべきではなかったかもしれない。
『クラリンス家から婚約者交換の話が出ている』と聞いた時、もっと兄一家に働きかけるべきだった。
 考え直すように、おいを説得するべきだった。
 ――そう、頭ではわかっている。いや、わかっていた。
 でも実際はそれをしなかった。
 手が届くはずがないとあきらめていたものが、手中に転がり込んできたのだ。
 手放せるわけがなかった。突き放せるわけがなかった。

(これは、俺の欲だ。彼女を、一番そばで守りたいと思ってしまった俺の……)

 もし受けるべき罰があるなら、それは甘んじて受けよう。
 だから、今は自分の心に従うことにする。
 彼女を守るために、守れる立場になるために。
 彼女が覚えているかはわからないけれど、あの日と同じように、俺は手を差し出した。

「エスコートさせていただこう」
「……ありがとう、ございます」

 あの頃の記憶よりも大きく、けれど女性らしい華奢きゃしゃな手が、自分のこつで大きな手にえられる。
 やっと取ることができた手を、強く握りすぎないように、けれどしっかりと掴んで歩き出す。
 隣で揺れる銀色の髪を、切ないほどに愛おしいと思いながら――


   ◆ ◆ ◆


貴女あなたも、ここにサインを」
「……はい」

 震えそうになる手でペンを受け取って、わたしは公爵の名前の下にサインをする。
 最後の『S』を書き終えて、ほっと息を吐いた。
 どうやら緊張で、知らぬ間に息を止めてしまっていたらしい。
 サインを終えた誓約書に一度ざっと目を通して、公爵は大きくうなずいた。

「問題はなさそうだな。ではこれを複製し、原本は王家に、複製は私の執務室とクラリンス侯爵邸へ頼む」

 丁寧ていねいに運ばれていく誓約書を見送り、失礼にならないようしばらくの間を置いて、わたしはそっと立ち上がった。

「公爵、本日はお忙しいのにお時間を取っていただき、ありがとうございました。お邪魔になってもいけませんので、これで失礼いたします」

 ただでさえ公爵にとってはそれほど乗り気でない婚約な上、王弟としての執務もあって忙しいだろう。

(長居をして、お心をわずらわせてはいけないし、それに……)

 先ほど、エントランスでわたしを出迎えた時の、硬くこわった公爵の表情を思い出すと、長居なんてできるはずもない。

(きっと、わたしが来たことで、エリアーナとのえんが切れてしまったのを実感なさっているのだわ)

 でも、幸か不幸か婚約は結ばれてしまった。

(……今更感傷的になってはダメ。全てはわたしが招いたことなのだから)

 自分自身に言い聞かせるように心の中で呟いて、わたしは出口へ向き直る。
 けれど半歩も進まぬうちに腕を引かれて、足を止めた。

「せっかく来たのだ、そんなに急ぐこともないだろう」
「いえ、しかし……」
「このあとなにか急ぎの用があるのか?」

 クロード様との婚約解消に同意して以降、これまで多くの時間をついやしてきた王太子妃教育は終わり、これまで忙しかった日常が嘘のように、わたしは穏やかで静かな日々を過ごしていた。
 だから今日も屋敷に帰ったところで、本を読むか刺繍ししゅうをするか、窓からしきながめるかくらいしか、わたしにはすることがない。
 そうなると、返事はおのずと決まってくる。

「……いえ、特には」
「ならば、少し庭を歩きながら話そう。経緯はどうあれ私たちは婚約したのだ、貴女あなたのことを教えてくれ」

 出会ったあの日と同じ、優しく細められた目に見下ろされ、考えるより前にうなずいていた。


「天気はいいが、風が冷たいな。その格好で寒くはないか?」
「はい、問題ございません。これで充分です」

 そう言って、わたしはルリカが用意してくれたショールの端をつまんでみせる。
 実際は緊張で寒さを感じる余裕すらないだけなのだけれど、公爵に無用な気遣いをさせるわけにはいかない。
 けれど、彼はどうにも心もとない様子でわたしを見た。

「……あの、これでは足りませんか?」
「あぁいや、貴女あなたがいいなら構わないが。しかし……もし寒くなったらすぐに言ってくれ。婚約早々、貴女あなたに風邪など引かせるわけにはいかないからな」
「はい」
「では、行こうか」

 当然のように手を取られ、そのたくましい腕に導かれる。
 それは確かに自分の身に起こっていることのはずなのに、どこか現実味がなくて他人事のように感じてしまう。
 そんな奇妙な感覚を抱えたまま、わたしは公爵と並んで歩き出した。

「以前から顔を合わせてはいたが、こうして貴女あなたと話す機会はあまりなかったな」
「はい……以前は、ふたりきりになることはございませんでしたので」

 そう、少し前は互いに別の婚約者がいて、こんな風に庭をふたりでゆっくり散歩することなどなかった。いや、あってはならなかった。
 だから、今こうして歩いているのも、少しだけ落ち着かない。
 もう堂々と胸を張っていいはずなのに、これまでの経緯や複雑な感情が折り重なって、なかなかそうさせてくれないのだ。

「確かにそうだな……では今日は手はじめに、互いの好きなものの話をしようか」
「好きなもの、ですか?」

 首をかしげるわたしに、公爵はほほみながらうなずくと、広大な庭に目を向けた。

「なんでもいい。好きな食べ物、色、場所、季節。貴女あなたの心が動くのはどんな時なのか、私に教えてほしい。もちろん、私も貴女あなたに教えよう。そうやって少しずつ、今まで話さなかった分を埋めていこう」
(あぁ、この方は……)

 これからのわたしとの未来を見てくださっている。
 互いを知って、ともに歩めるように。
 同じ方向を向けるように。
 同じ歩幅で進んでいけるように。
 その優しさが嬉しくて、同時にとても切なかった。


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