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1巻
1-2
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とくに、庭園の奥にある大きな池。
その中央に、浮かぶようにして建てられたガゼボのベンチがわたしのお気に入りだった。
ここはとても静かだから。
厳しい講師も、次の授業へ急き立てる使用人もいない。
代わりにあるのは、優しい日差しと柔らかく吹き抜ける風、そしてかすかな水音と鳥のさえずり。
それにここでは──
(無邪気に遊びまわるエリアーナの声を聞かなくて済む……)
たったふたつしか年の違わない妹、エリアーナ。
わたしが王太子妃の候補になる前は、仲がいい普通の姉妹だったと思う。
けれど、候補にわたしの名が挙がって、両親がわたしの教育に夢中になった辺りから、様子が一変した。
きっと、寂しかったのだと思う。エリアーナは、わたしの授業を見守る母の隣で大騒ぎするようになり、わたしのノートや教本に落書きをしはじめ、果てはやってきた講師がわたしのもとへ来られないよう邪魔をするようになったのだ。
見かねた両親が、わたしの邪魔にならないようにと、講義中はエリアーナを外に連れ出すようになった。
メイドや母と楽しそうに外で遊びまわっているその姿を見るたび、胸の内側に嫌な気持ちがたくさん溜まっていった。
『王太子妃になるのだから、もう甘えてはいけない』と、わたしが繋がせてもらえない母の手を引いて、わたしには向けられることのなくなった母の笑顔を向けられて。
(わたしがエリアーナだったらよかったのに……)
何度そう思ったことだろう。
何度涙がこぼれそうになったことだろう。
でも一年、二年と月日を重ねるうちに、そんな思いもどこかへ行ってしまった。
どうせわたしは、あの子にはなれないのだから。
(それにしても、クロード様遅いわね……)
いつもなら、こんなくだらないことを考えている間に授業を終わらせた殿下が慌ただしくやってきて、今日は講師からこうやって逃げたとか、窓から見える木の上にリスが何匹いたとか話してくれる。
その話を聞いていると、自分が受けている厳しい教育もいつか彼の役に立つ日が来るのだろうと思える。
彼の苦手な部分をわたしが支えてあげられるのだ、と。
そしていつか、クロード様と同じ景色が見られるだろうか、とも。
「ふあぁ……」
はしたないとわかってはいるけれど、こうも暇だとあくびのひとつもしたくなる。
だってここは、静かで穏やかで、暖かいのだ。
家の、寒くて寂しくて、それでいて騒がしい勉強部屋とは違う。
(少しだけ、少しだけなら……)
言い訳のように心の中で繰り返して、わたしは束の間、押し寄せた睡魔に身を任せた──
「……ん」
あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。
頬にあたる風に冷たさを感じて、わたしはそっと瞼を持ち上げ、目の前に広がる景色に、思わず呆然とした。
あれほど暖かかった昼間の日差しはなりを潜め、今は背後から差す赤い光に、木々や草花の影が濃く伸びている。
(もう日が暮れかけているなんて……どういうこと?)
(クロード様はまだ来ていないの……? それとも、眠っていたせいで見つけてもらえなかったのかしら?)
混乱した頭のまま、いつの間にか横たわっていた体を起こすと、見覚えのないジャケットが肩からずり落ちた。
(これは、誰のかしら? サイズからいって殿下のものではないみたいだけど……それに、なんだかいい香り……)
見るからに大人の男性のものらしいそのジャケットからは、甘くすっきりとした香りがした。
(殿下の周りで、こんな香りを身につけている方、いらっしゃったかしら?)
寝起きの頭をなんとか働かせて、殿下の周りの人たちを思い出そうとするけれど、残念ながら思い当たる人物はいなかった。
でも、それならこれは誰のものなのか。
どうにも落ち着かない気分で辺りを見まわすと、岸とガゼボを繋ぐ橋の向こうにひとつの人影が見える。
夕日に透けるように輝く白金の髪がハッとするほど美しくて、思わず見惚れてしまう。
(……っ! こんなことをしている場合ではないわ!)
気を取り直した時には、夕日がほとんど沈みかけ、辺りには夜の気配が漂いはじめていた。
見惚れていたわたしも大概だけれど、向こう岸にいる男性も、なにかを待つようにその場を動かない。
誰かを待っているのかと思ったが、彼の姿をよくよく見て思わず声を上げそうになった。
ジャケットを着ていなかったのだ。
(まさか、これはあの方のもので……わたしが起きるのを、待っていてくださった、ということなの……?)
対岸で待っているのは、眠っているわたしに配慮してのことだろう。
羞恥心と申し訳なさと、ほかにもなんだかよくわからない感情がない交ぜになって、一気に頬が熱くなる。
(早く返さないと!)
乱れた髪とドレスの裾を整え、ひとつ大きく深呼吸をしてから、わたしは橋の向こうにいる男性のもとへ歩き出した。
姿勢を正し、淑女の仮面の下に気恥ずかしさを追いやって、対岸へ続く橋を渡る。
「……あの」
「……あぁ、目が覚めたか」
振り返ったのは、エメラルドグリーンの瞳が印象的な男性だった。
まだ社交界デビューしていないわたしには、この方が誰なのかわからなかったけれど、それでも身に纏う空気が高貴なのはなんとなくわかる。
「ジャケットをお借りしてしまって、申し訳ございませんでした」
「気にすることはないさ。それより、よく眠れたようでよかったな」
差し出したジャケットを羽織りながら、彼はわずかに瞳を細めて微笑んだ。
(今更だけれど、わたし……この方に寝顔を見られてしまったのよね)
じわじわ胸の内に広がる羞恥心に、自分自身で拍車をかけながら、うつむきそうになるのをなんとか堪えた。
「そうだ。王太子の従者にはうまく言っておいたから、気にするなよ」
「えっ……?」
こともなげに放たれたとんでもない言葉に、わたしは思わずまじまじと男性の顔を見る。
王太子であるクロード様の従者が従うということは、すなわち王族か、それに近い立場の人間ということだ。
(今いる男性の王族は、国王陛下とクロード様だけじゃ……いえ、ちょっと待って……もうひとりいるわ)
ひとつ呼吸する間に、その名前にたどりついたわたしは、意識するよりも早く、再び淑女の礼を取っていた。
王族でありながら、社交界にはほとんど顔を出さない、国王陛下の弟君。
「メイヤー公爵とは知らず、ご無礼いたしました」
「そんなに固くなる必要はない。ここには私と貴女しかいないのだ」
「はい……」
そうは言っても、日々礼儀作法の教育を受けてきた体は、簡単に反応できない。
わたしは手順にのっとり、ゆっくりと礼を解いて顔を上げた。
「……美しい礼をするのだな」
「え?」
「まるでお手本のように、美しい礼だと思ってな……それより、体が冷えただろう? お茶を用意させるから、それで少し温まるといい」
「ありがたいお誘いなのですが……」
陽はとうに暮れてしまっている。
予定では、既にクラリンス侯爵邸に帰って歴史学の授業を受けているはずの時間だ。
王宮の庭園で居眠りをしたあげく、クロード様とのお茶会を欠席して、授業まで受けないなんて……
わたしを王太子妃にするため必死になっている父が知ったら、どうなるかわかったものではない。
もう手遅れのような気はするけれど、それでも一刻も早く屋敷に戻らなければならないと、わたしの中で警鐘が鳴っていた。
そんな胸の内を察したように、公爵は微苦笑とともに口を開く。
「あぁ、貴女ほどの令嬢ともなれば忙しいか……しかし、そんな青ざめた顔のまま帰すわけにはいかない。ここは私のわがままだと思って、少し付き合ってくれないか? 貴女の屋敷には私のほうから適当に連絡を入れておく」
公爵にここまで言われて、断ることができる者は、国王一家以外にいないだろう。
それにこの方は、どうやらわたしのことを心配して言ってくれているようだ。
(ご好意を無下にしては、失礼よね……)
「それなら少しの間だけ……」
「ありがとう」
可愛げと余裕のないわたしの言葉を大人の笑みで受け止めて、公爵は誘うように手を差し出した。
「では、ティールームまでエスコートさせていただこう」
「……はい」
殿下の手とも父の手とも違う、大きくてがっしりとした男性の手。
引っ張るでもなく、急かすでもない、わたしの歩調に合わせて進むエスコート。
クロード様はいつも、わたしの手をグイグイと引っ張って、自分の行きたい場所へ向かっていくし、父のエスコートなどほとんど受けたことはないけれど、少ない記憶をたどった先にあるのは、急かすような足取りと、わたしへの配慮などない歩調。
だからこんな丁寧なエスコートは初めてだった。
初めてで、心地よくて、でもどこか気恥ずかしくて――
(心がザワザワするわ……)
ふわふわとした奇妙な高揚感を覚えながら、わたしは公爵に手を引かれて王宮にあるティールームへ通された。
見事な装飾が施された暖炉には火が入っていて、室内を余すところなく温めてくれている。
その温かさに、無意識に張り詰めていたらしい肩の力がふっと抜けた。
勧められるままに、ふかふかのソファに腰を下ろすと、いい香りの紅茶とチョコレートが運ばれてくる。
「美味しい」
じんわりと心の強張りをほぐすようなその味に、自然と笑みがこぼれた。
「……貴女は笑っていたほうがいい」
(……え?)
不意にかけられた言葉に視線を上げると、公爵の優しいまなざしと目が合った。
「……あぁ、失礼。目覚めてからずっと、硬い表情をしていたから、ついな」
「そ、それは失礼いたしました」
緊張していたからといって、淑女としての対面も保てないなど、もしここに礼儀作法の講師がいたなら、叱責されていたことだろう。
(公爵も、不愉快に思われたのではないかしら……)
しかし、そんなわたしの不安は、次の言葉でかき消えた。
「こんなことで謝らなくていい。王太子妃候補とはいえまだ貴女は成人前なのだから、もっと肩の力を抜いていいのだ」
ふわりと、慈しむような優しい視線と言葉に、ぎゅっと胸の奥が締めつけられる。
同時に、鼻の奥にツンとした痛みが走ったかと思うと、一気に視界が滲んだ。
思い返せば、四年前に王太子妃の候補になった時から、わたしにかけられる言葉は、わたし自身を否定するものばかりだった。
『あなたは努力が足りないのです』
『こんな状態では王太子妃になれるはずがない』
『家族の前でも気を抜いてはなりません』
『感情を表に出してはなりません』
王太子妃の候補になってからこれまで誰ひとり、わたしに『肩の力を抜いていい』なんて言わなかった。
常に気を張り、淑女らしく美しい微笑をたたえて、どんなことも軽くあしらわなければならない。
嬉しくても、喜んではいけない。
楽しくても、笑ってはいけない。
悲しくても、泣いてはいけない。
怒っても、声を荒らげてはいけない。
『あなたは、王太子妃候補の筆頭なのですから』
呪いのように繰り返される言葉に雁字搦めになっていたわたしの心を、公爵はいとも簡単に解きほぐした。
実の親すらもくれなかった温かい言葉で、温かい視線で。
この日わたしは、王太子妃候補の座についてから初めて、声を上げて泣いた。
心の中に溜まっていた感情を吐き出すように。
その間、公爵はわたしのそばにいて、とめどなく溢れる涙を拭ってくれていた──
(あの日のことは、今でも鮮明に思い出せる……)
幼い子供のように泣きじゃくるわたしの頭を撫でてくれた、あの方の手の温かさも、頬を伝う涙の熱さも。
今思い出すと、とんでもなく恥ずかしいけれど、忘れたいとは思わない。
だってあの日を境に、わたしの心は驚くほど軽くなったのだ。
公爵とのあの日の時間を思い出すだけで、砂を噛むようだった食事は味がするようになり、夜も眠れるようになった。そしてなにより、授業中の妹の笑い声が気にならなくなったのだ。
『あの方がいてくれる』。そう思うだけで、世界に色が付いた気がした。
そんな風に、わたしの世界を変えてくれた彼を求めてしまうのは、必然といえば必然だったと思う。
けれどそのあと数年、再び王宮で公爵と会うことはなく、恋しいと思う心を抱えたままわたしはクロード様の婚約者に選ばれた。
(そして次の年、どういうわけか公爵は十四も年の離れたエリアーナの婚約者になった……)
あの時は、貴族が騒いだのを覚えている。
クラリンス侯爵家の姉妹が、どちらも王家に連なる者の婚約者になったのだから当然だろう。
しかしそんなざわめきも、時が経つにつれて、潮が引くように聞こえなくなった。
そして皮肉にも、わたしがあれほど会いたいと願った人は、頻繁にクラリンス侯爵邸を訪れるようになり、会えなかった数年間が嘘のようにともに過ごす機会が増えた。
でも、あの日わたしに向けられた微笑も、涙を拭ってくれた大きく温かい手も、二度とわたしに向けられることはなかった。
その瞳はいつもエリアーナを映し、優しく低い声は愛しげにエリアーナを呼んだ。
わたしが欲しいと思っていたものは、気がつけば全部エリアーナの手の中にあった。
こんなことなら、二度と会えなくなるほうがましだったかもしれない。
見知らぬ誰かと結婚してくれたほうが、諦めがついた。
最初の数年は、自分の運命を呪いたくなるほど辛かった。
再び色を失った世界で生きるのは、色を得る前よりもずっと苦しかった。
でもある日、クロード様からもらったネックレスを、エリアーナの古びたネックレスと交換していた時、思ってしまったのだ。
(どうせ交換するなら、クロード様と公爵を交換してくれればいいのに……)
大それた考えだと思った。
あんなに公爵と仲睦まじいのだから、さすがのエリアーナもそこまではしないだろう、と。
(でも、もしかしたら……)
最低で卑劣な思いつきだという自覚はあった。
けれど、そこからのわたしの行動は迅速で、かつ慎重だった。
クロード様には申し訳ないと思ったけれど、エリアーナの目がクロード様に向くように、わたしはこれまで以上にクロード様との時間を楽しんでいる風を装った。
そしてわざと、エリアーナとクロード様がふたりきりになる時間を作るようにした。
(もしこれでも、エリアーナがクロード様に興味を示さなければ、諦めもつくわ……)
でももし……もしも、エリアーナがクロード様に興味を持ったら――
(その時は……)
そして数か月後、エリアーナはクロード様に会いに隠れて王宮へ行くようになり、わたしは自分の計画が成功してしまったのを知った。
更に数か月、喜びと絶望が混ざったような感情を胸に抱えて、あのパーティーの日を迎えた。
震えるほどの幸福感と、叫び出しそうなほどの罪悪感。
(公爵の婚約者になれるかもしれない……けれどわたしはあの方から最愛のエリアーナを奪ったんだわ)
こんな自分を知られたくない。
こんな醜くて、真っ黒な感情を抱えた自分が、あの方の瞳に映る資格などあるはずないのに――
「わたしはもうあの方なしでは生きていけない……」
だからどうか気がつかないで、貴方の大切なものを奪ったわたしに。
それなのに貴方の一番そばにいたいと願うわたしに。
帰っていく公爵家の馬車を、自室のバルコニーから見送りながら、わたしは祈るように両手を組んだ。
◆ ◆ ◆
「旦那様、侯爵邸でのお話はいかがでした?」
馬車が侯爵邸の門を出た途端、対面に座る執事──バルドがそっとたずねてきた。
普段は口数の少ない、職務に忠実な男だが、今日に限っては違うらしい。
柔和な笑みをたたえた瞳の奥に、好奇心が見え隠れしている。
きっと待っている間、ずっと気になっていたのだろう。
なにせ自分の主人の未来に、ひいては自分の未来に大きく関わることなのだ。
しかし、彼が本当に欲する話を俺は持ち帰ってはいない。
「突然の訪問だったからな。令嬢たちと少し言葉を交わして、そのあと侯爵から謝罪を受けたくらいだ。ほかの詳しいことは王家と話をしてからだと言われた」
「左様でございますか」
いつもなら、俺もバルドもここで口をつぐんで、公爵邸まで馬車の中は静まり返る。
けれどやはり今日は、常とは違うらしい。
屋敷の者もそうだが、俺自身も――
「……悲しそうな顔を、していた」
誰とは言わない。いや、まだ言えない。
けれどバルドは全てを承知しているようにゆっくりと頷いた。
「彼女は、今回のことを心から承諾しているわけではないらしい」
「では、殿下が無理を通したと?」
「あぁ……クロードの中で、決定しているようだったから、と」
(だが、どちらかといえばクロードではなく、妹のほうだろうな……)
これまで見てきた彼女の性格からして、間違いない。
しかし結果として、最後に決めたのはクロードなのだろう。
あの時のマリーアンネの表情を思い出して、拳を握りしめる。
色を失った美しい顔も、伏せられた悲しげな瞳も、無理に作った笑みも、見ているほうが苦しくなった。
だから、甥の愚行を謝罪することしか、俺にはできなかった。
自分と婚約することになるかもしれない彼女に、災難だな、と声をかけることしかできなかったのだ。
本当は、もっと聞きたいことがあった。
(……貴女は、あの日のことを覚えているだろうか?)
兄に呼び出されて久々に出向いた王宮の、あの夕暮れの庭園で、彼女と初めて会った。
あの日は、国王である兄から甥のことについて相談を受けた帰りだったと思う。
子供の頃、池に住む妖精の伝説を乳母から聞いて以来お気に入りの場所になった、庭園奥にある大きな池。
その中央に建つガゼボで眠る彼女を見つけた時、本当に伝説の中の妖精が飛び出してきたのかと思った。
けれど、あまりの美しさに見惚れる俺の前で、その妖精は眠りながら泣いていた。
静かに、静かに。
誰に縋るでもなく、声を上げるでもない。
ただ、自分を守るように身を小さくして、泣いていた。
不覚にも、俺はその美しく寂しげな姿に胸が高鳴った。
妖精のように美しいけれど、その顔にまだ幼さを残した少女。
まだ両親の腕に守られているべき齢の彼女が、たったひとりで泣いている。
その姿がいじらしくて、愛おしくて、美しかった。
あの時初めて家族以外の誰かを、守りたいと思った。
もう少しだけ一緒にいたくて、彼女を探しに来たクロードと従者を適当な理由で追い払って、目覚めた彼女をティールームへ誘った。
話して感じた。年齢よりも大人びて見てるのは、彼女がそうあるように強いられているからだということ。
胸の内に、大きな苦悩や悲しみを抱えていること。
そのあと、彼女の深い夜空のような瞳から流れる涙を見て、息が詰まるほどの苦しさを覚えた。
年相応の泣き顔は、本当なら両親のもとで大事に守られるべきものだ。
けれど彼女は、まるで手の伸ばし方を知らないようだった。
声を上げることどころか、泣くこと自体ためらっているようで、その姿はまるで――
(昔の私のようだ……)
ある事情から、安息の地であった王宮を去り、公爵としてひとりきりで生きていくことを決めた自分に。
そう気がついてしまった瞬間、彼女にどうしようもない愛おしさを覚えてしまった。
初めは、ただの同情心だと思った。けれど同情にしてはその想いは強くて。
年が離れているとか、甥の婚約者候補であるとか、そんなことはわかっていた。
しかし、芽生えてしまった感情は状況に関係なく勝手に育っていく。
会わなければ自然に消えるかと思ったけれど、その想いは何年経っても消えることはなかった。
彼女の婚約を知り、故あって自身が彼女の妹と婚約することになったあとも、胸の奥底で熾火のようにずっと燻ぶっていた。
その姿を目で追わないよう、思わず名を呼んでしまわないよう、必死に押し込めてきた。
『自分の婚約者はエリアーナなのだ』と言い聞かせて、愛せなくてもエリアーナを慈しんできた。
けれど、必死に抑えてきたその想いが、実ろうとしている。
だから、今日会ったら彼女に聞きたかった。
あの日のことを覚えているのか、そして――
(俺との婚約をどう思っているのか……)
しかし結局、それを聞くことはできなかった。
(あんな苦しそうな表情を見せられて、聞けるものか……)
自分自身の気持ちを持て余したような彼女の表情が、全てを物語っていると思った。
我ながら、いい年をした大人なのに情けないと思う。
(しかし、これ以上どうしろと言うのだ……)
残酷にも、歯車はきっと彼女の望まぬほうに動きはじめている。
国王である兄も、王妃である義姉も、結局のところひとり息子のクロードには甘い。
クロードが心から望むのなら、強くは反対できないだろう。
彼女がどんなに優秀でクロードを愛していても、事態は動いていく。
そしてなにより俺自身が、再び彼女の瞳に映ることを、望んでしまっているのだから――
その中央に、浮かぶようにして建てられたガゼボのベンチがわたしのお気に入りだった。
ここはとても静かだから。
厳しい講師も、次の授業へ急き立てる使用人もいない。
代わりにあるのは、優しい日差しと柔らかく吹き抜ける風、そしてかすかな水音と鳥のさえずり。
それにここでは──
(無邪気に遊びまわるエリアーナの声を聞かなくて済む……)
たったふたつしか年の違わない妹、エリアーナ。
わたしが王太子妃の候補になる前は、仲がいい普通の姉妹だったと思う。
けれど、候補にわたしの名が挙がって、両親がわたしの教育に夢中になった辺りから、様子が一変した。
きっと、寂しかったのだと思う。エリアーナは、わたしの授業を見守る母の隣で大騒ぎするようになり、わたしのノートや教本に落書きをしはじめ、果てはやってきた講師がわたしのもとへ来られないよう邪魔をするようになったのだ。
見かねた両親が、わたしの邪魔にならないようにと、講義中はエリアーナを外に連れ出すようになった。
メイドや母と楽しそうに外で遊びまわっているその姿を見るたび、胸の内側に嫌な気持ちがたくさん溜まっていった。
『王太子妃になるのだから、もう甘えてはいけない』と、わたしが繋がせてもらえない母の手を引いて、わたしには向けられることのなくなった母の笑顔を向けられて。
(わたしがエリアーナだったらよかったのに……)
何度そう思ったことだろう。
何度涙がこぼれそうになったことだろう。
でも一年、二年と月日を重ねるうちに、そんな思いもどこかへ行ってしまった。
どうせわたしは、あの子にはなれないのだから。
(それにしても、クロード様遅いわね……)
いつもなら、こんなくだらないことを考えている間に授業を終わらせた殿下が慌ただしくやってきて、今日は講師からこうやって逃げたとか、窓から見える木の上にリスが何匹いたとか話してくれる。
その話を聞いていると、自分が受けている厳しい教育もいつか彼の役に立つ日が来るのだろうと思える。
彼の苦手な部分をわたしが支えてあげられるのだ、と。
そしていつか、クロード様と同じ景色が見られるだろうか、とも。
「ふあぁ……」
はしたないとわかってはいるけれど、こうも暇だとあくびのひとつもしたくなる。
だってここは、静かで穏やかで、暖かいのだ。
家の、寒くて寂しくて、それでいて騒がしい勉強部屋とは違う。
(少しだけ、少しだけなら……)
言い訳のように心の中で繰り返して、わたしは束の間、押し寄せた睡魔に身を任せた──
「……ん」
あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。
頬にあたる風に冷たさを感じて、わたしはそっと瞼を持ち上げ、目の前に広がる景色に、思わず呆然とした。
あれほど暖かかった昼間の日差しはなりを潜め、今は背後から差す赤い光に、木々や草花の影が濃く伸びている。
(もう日が暮れかけているなんて……どういうこと?)
(クロード様はまだ来ていないの……? それとも、眠っていたせいで見つけてもらえなかったのかしら?)
混乱した頭のまま、いつの間にか横たわっていた体を起こすと、見覚えのないジャケットが肩からずり落ちた。
(これは、誰のかしら? サイズからいって殿下のものではないみたいだけど……それに、なんだかいい香り……)
見るからに大人の男性のものらしいそのジャケットからは、甘くすっきりとした香りがした。
(殿下の周りで、こんな香りを身につけている方、いらっしゃったかしら?)
寝起きの頭をなんとか働かせて、殿下の周りの人たちを思い出そうとするけれど、残念ながら思い当たる人物はいなかった。
でも、それならこれは誰のものなのか。
どうにも落ち着かない気分で辺りを見まわすと、岸とガゼボを繋ぐ橋の向こうにひとつの人影が見える。
夕日に透けるように輝く白金の髪がハッとするほど美しくて、思わず見惚れてしまう。
(……っ! こんなことをしている場合ではないわ!)
気を取り直した時には、夕日がほとんど沈みかけ、辺りには夜の気配が漂いはじめていた。
見惚れていたわたしも大概だけれど、向こう岸にいる男性も、なにかを待つようにその場を動かない。
誰かを待っているのかと思ったが、彼の姿をよくよく見て思わず声を上げそうになった。
ジャケットを着ていなかったのだ。
(まさか、これはあの方のもので……わたしが起きるのを、待っていてくださった、ということなの……?)
対岸で待っているのは、眠っているわたしに配慮してのことだろう。
羞恥心と申し訳なさと、ほかにもなんだかよくわからない感情がない交ぜになって、一気に頬が熱くなる。
(早く返さないと!)
乱れた髪とドレスの裾を整え、ひとつ大きく深呼吸をしてから、わたしは橋の向こうにいる男性のもとへ歩き出した。
姿勢を正し、淑女の仮面の下に気恥ずかしさを追いやって、対岸へ続く橋を渡る。
「……あの」
「……あぁ、目が覚めたか」
振り返ったのは、エメラルドグリーンの瞳が印象的な男性だった。
まだ社交界デビューしていないわたしには、この方が誰なのかわからなかったけれど、それでも身に纏う空気が高貴なのはなんとなくわかる。
「ジャケットをお借りしてしまって、申し訳ございませんでした」
「気にすることはないさ。それより、よく眠れたようでよかったな」
差し出したジャケットを羽織りながら、彼はわずかに瞳を細めて微笑んだ。
(今更だけれど、わたし……この方に寝顔を見られてしまったのよね)
じわじわ胸の内に広がる羞恥心に、自分自身で拍車をかけながら、うつむきそうになるのをなんとか堪えた。
「そうだ。王太子の従者にはうまく言っておいたから、気にするなよ」
「えっ……?」
こともなげに放たれたとんでもない言葉に、わたしは思わずまじまじと男性の顔を見る。
王太子であるクロード様の従者が従うということは、すなわち王族か、それに近い立場の人間ということだ。
(今いる男性の王族は、国王陛下とクロード様だけじゃ……いえ、ちょっと待って……もうひとりいるわ)
ひとつ呼吸する間に、その名前にたどりついたわたしは、意識するよりも早く、再び淑女の礼を取っていた。
王族でありながら、社交界にはほとんど顔を出さない、国王陛下の弟君。
「メイヤー公爵とは知らず、ご無礼いたしました」
「そんなに固くなる必要はない。ここには私と貴女しかいないのだ」
「はい……」
そうは言っても、日々礼儀作法の教育を受けてきた体は、簡単に反応できない。
わたしは手順にのっとり、ゆっくりと礼を解いて顔を上げた。
「……美しい礼をするのだな」
「え?」
「まるでお手本のように、美しい礼だと思ってな……それより、体が冷えただろう? お茶を用意させるから、それで少し温まるといい」
「ありがたいお誘いなのですが……」
陽はとうに暮れてしまっている。
予定では、既にクラリンス侯爵邸に帰って歴史学の授業を受けているはずの時間だ。
王宮の庭園で居眠りをしたあげく、クロード様とのお茶会を欠席して、授業まで受けないなんて……
わたしを王太子妃にするため必死になっている父が知ったら、どうなるかわかったものではない。
もう手遅れのような気はするけれど、それでも一刻も早く屋敷に戻らなければならないと、わたしの中で警鐘が鳴っていた。
そんな胸の内を察したように、公爵は微苦笑とともに口を開く。
「あぁ、貴女ほどの令嬢ともなれば忙しいか……しかし、そんな青ざめた顔のまま帰すわけにはいかない。ここは私のわがままだと思って、少し付き合ってくれないか? 貴女の屋敷には私のほうから適当に連絡を入れておく」
公爵にここまで言われて、断ることができる者は、国王一家以外にいないだろう。
それにこの方は、どうやらわたしのことを心配して言ってくれているようだ。
(ご好意を無下にしては、失礼よね……)
「それなら少しの間だけ……」
「ありがとう」
可愛げと余裕のないわたしの言葉を大人の笑みで受け止めて、公爵は誘うように手を差し出した。
「では、ティールームまでエスコートさせていただこう」
「……はい」
殿下の手とも父の手とも違う、大きくてがっしりとした男性の手。
引っ張るでもなく、急かすでもない、わたしの歩調に合わせて進むエスコート。
クロード様はいつも、わたしの手をグイグイと引っ張って、自分の行きたい場所へ向かっていくし、父のエスコートなどほとんど受けたことはないけれど、少ない記憶をたどった先にあるのは、急かすような足取りと、わたしへの配慮などない歩調。
だからこんな丁寧なエスコートは初めてだった。
初めてで、心地よくて、でもどこか気恥ずかしくて――
(心がザワザワするわ……)
ふわふわとした奇妙な高揚感を覚えながら、わたしは公爵に手を引かれて王宮にあるティールームへ通された。
見事な装飾が施された暖炉には火が入っていて、室内を余すところなく温めてくれている。
その温かさに、無意識に張り詰めていたらしい肩の力がふっと抜けた。
勧められるままに、ふかふかのソファに腰を下ろすと、いい香りの紅茶とチョコレートが運ばれてくる。
「美味しい」
じんわりと心の強張りをほぐすようなその味に、自然と笑みがこぼれた。
「……貴女は笑っていたほうがいい」
(……え?)
不意にかけられた言葉に視線を上げると、公爵の優しいまなざしと目が合った。
「……あぁ、失礼。目覚めてからずっと、硬い表情をしていたから、ついな」
「そ、それは失礼いたしました」
緊張していたからといって、淑女としての対面も保てないなど、もしここに礼儀作法の講師がいたなら、叱責されていたことだろう。
(公爵も、不愉快に思われたのではないかしら……)
しかし、そんなわたしの不安は、次の言葉でかき消えた。
「こんなことで謝らなくていい。王太子妃候補とはいえまだ貴女は成人前なのだから、もっと肩の力を抜いていいのだ」
ふわりと、慈しむような優しい視線と言葉に、ぎゅっと胸の奥が締めつけられる。
同時に、鼻の奥にツンとした痛みが走ったかと思うと、一気に視界が滲んだ。
思い返せば、四年前に王太子妃の候補になった時から、わたしにかけられる言葉は、わたし自身を否定するものばかりだった。
『あなたは努力が足りないのです』
『こんな状態では王太子妃になれるはずがない』
『家族の前でも気を抜いてはなりません』
『感情を表に出してはなりません』
王太子妃の候補になってからこれまで誰ひとり、わたしに『肩の力を抜いていい』なんて言わなかった。
常に気を張り、淑女らしく美しい微笑をたたえて、どんなことも軽くあしらわなければならない。
嬉しくても、喜んではいけない。
楽しくても、笑ってはいけない。
悲しくても、泣いてはいけない。
怒っても、声を荒らげてはいけない。
『あなたは、王太子妃候補の筆頭なのですから』
呪いのように繰り返される言葉に雁字搦めになっていたわたしの心を、公爵はいとも簡単に解きほぐした。
実の親すらもくれなかった温かい言葉で、温かい視線で。
この日わたしは、王太子妃候補の座についてから初めて、声を上げて泣いた。
心の中に溜まっていた感情を吐き出すように。
その間、公爵はわたしのそばにいて、とめどなく溢れる涙を拭ってくれていた──
(あの日のことは、今でも鮮明に思い出せる……)
幼い子供のように泣きじゃくるわたしの頭を撫でてくれた、あの方の手の温かさも、頬を伝う涙の熱さも。
今思い出すと、とんでもなく恥ずかしいけれど、忘れたいとは思わない。
だってあの日を境に、わたしの心は驚くほど軽くなったのだ。
公爵とのあの日の時間を思い出すだけで、砂を噛むようだった食事は味がするようになり、夜も眠れるようになった。そしてなにより、授業中の妹の笑い声が気にならなくなったのだ。
『あの方がいてくれる』。そう思うだけで、世界に色が付いた気がした。
そんな風に、わたしの世界を変えてくれた彼を求めてしまうのは、必然といえば必然だったと思う。
けれどそのあと数年、再び王宮で公爵と会うことはなく、恋しいと思う心を抱えたままわたしはクロード様の婚約者に選ばれた。
(そして次の年、どういうわけか公爵は十四も年の離れたエリアーナの婚約者になった……)
あの時は、貴族が騒いだのを覚えている。
クラリンス侯爵家の姉妹が、どちらも王家に連なる者の婚約者になったのだから当然だろう。
しかしそんなざわめきも、時が経つにつれて、潮が引くように聞こえなくなった。
そして皮肉にも、わたしがあれほど会いたいと願った人は、頻繁にクラリンス侯爵邸を訪れるようになり、会えなかった数年間が嘘のようにともに過ごす機会が増えた。
でも、あの日わたしに向けられた微笑も、涙を拭ってくれた大きく温かい手も、二度とわたしに向けられることはなかった。
その瞳はいつもエリアーナを映し、優しく低い声は愛しげにエリアーナを呼んだ。
わたしが欲しいと思っていたものは、気がつけば全部エリアーナの手の中にあった。
こんなことなら、二度と会えなくなるほうがましだったかもしれない。
見知らぬ誰かと結婚してくれたほうが、諦めがついた。
最初の数年は、自分の運命を呪いたくなるほど辛かった。
再び色を失った世界で生きるのは、色を得る前よりもずっと苦しかった。
でもある日、クロード様からもらったネックレスを、エリアーナの古びたネックレスと交換していた時、思ってしまったのだ。
(どうせ交換するなら、クロード様と公爵を交換してくれればいいのに……)
大それた考えだと思った。
あんなに公爵と仲睦まじいのだから、さすがのエリアーナもそこまではしないだろう、と。
(でも、もしかしたら……)
最低で卑劣な思いつきだという自覚はあった。
けれど、そこからのわたしの行動は迅速で、かつ慎重だった。
クロード様には申し訳ないと思ったけれど、エリアーナの目がクロード様に向くように、わたしはこれまで以上にクロード様との時間を楽しんでいる風を装った。
そしてわざと、エリアーナとクロード様がふたりきりになる時間を作るようにした。
(もしこれでも、エリアーナがクロード様に興味を示さなければ、諦めもつくわ……)
でももし……もしも、エリアーナがクロード様に興味を持ったら――
(その時は……)
そして数か月後、エリアーナはクロード様に会いに隠れて王宮へ行くようになり、わたしは自分の計画が成功してしまったのを知った。
更に数か月、喜びと絶望が混ざったような感情を胸に抱えて、あのパーティーの日を迎えた。
震えるほどの幸福感と、叫び出しそうなほどの罪悪感。
(公爵の婚約者になれるかもしれない……けれどわたしはあの方から最愛のエリアーナを奪ったんだわ)
こんな自分を知られたくない。
こんな醜くて、真っ黒な感情を抱えた自分が、あの方の瞳に映る資格などあるはずないのに――
「わたしはもうあの方なしでは生きていけない……」
だからどうか気がつかないで、貴方の大切なものを奪ったわたしに。
それなのに貴方の一番そばにいたいと願うわたしに。
帰っていく公爵家の馬車を、自室のバルコニーから見送りながら、わたしは祈るように両手を組んだ。
◆ ◆ ◆
「旦那様、侯爵邸でのお話はいかがでした?」
馬車が侯爵邸の門を出た途端、対面に座る執事──バルドがそっとたずねてきた。
普段は口数の少ない、職務に忠実な男だが、今日に限っては違うらしい。
柔和な笑みをたたえた瞳の奥に、好奇心が見え隠れしている。
きっと待っている間、ずっと気になっていたのだろう。
なにせ自分の主人の未来に、ひいては自分の未来に大きく関わることなのだ。
しかし、彼が本当に欲する話を俺は持ち帰ってはいない。
「突然の訪問だったからな。令嬢たちと少し言葉を交わして、そのあと侯爵から謝罪を受けたくらいだ。ほかの詳しいことは王家と話をしてからだと言われた」
「左様でございますか」
いつもなら、俺もバルドもここで口をつぐんで、公爵邸まで馬車の中は静まり返る。
けれどやはり今日は、常とは違うらしい。
屋敷の者もそうだが、俺自身も――
「……悲しそうな顔を、していた」
誰とは言わない。いや、まだ言えない。
けれどバルドは全てを承知しているようにゆっくりと頷いた。
「彼女は、今回のことを心から承諾しているわけではないらしい」
「では、殿下が無理を通したと?」
「あぁ……クロードの中で、決定しているようだったから、と」
(だが、どちらかといえばクロードではなく、妹のほうだろうな……)
これまで見てきた彼女の性格からして、間違いない。
しかし結果として、最後に決めたのはクロードなのだろう。
あの時のマリーアンネの表情を思い出して、拳を握りしめる。
色を失った美しい顔も、伏せられた悲しげな瞳も、無理に作った笑みも、見ているほうが苦しくなった。
だから、甥の愚行を謝罪することしか、俺にはできなかった。
自分と婚約することになるかもしれない彼女に、災難だな、と声をかけることしかできなかったのだ。
本当は、もっと聞きたいことがあった。
(……貴女は、あの日のことを覚えているだろうか?)
兄に呼び出されて久々に出向いた王宮の、あの夕暮れの庭園で、彼女と初めて会った。
あの日は、国王である兄から甥のことについて相談を受けた帰りだったと思う。
子供の頃、池に住む妖精の伝説を乳母から聞いて以来お気に入りの場所になった、庭園奥にある大きな池。
その中央に建つガゼボで眠る彼女を見つけた時、本当に伝説の中の妖精が飛び出してきたのかと思った。
けれど、あまりの美しさに見惚れる俺の前で、その妖精は眠りながら泣いていた。
静かに、静かに。
誰に縋るでもなく、声を上げるでもない。
ただ、自分を守るように身を小さくして、泣いていた。
不覚にも、俺はその美しく寂しげな姿に胸が高鳴った。
妖精のように美しいけれど、その顔にまだ幼さを残した少女。
まだ両親の腕に守られているべき齢の彼女が、たったひとりで泣いている。
その姿がいじらしくて、愛おしくて、美しかった。
あの時初めて家族以外の誰かを、守りたいと思った。
もう少しだけ一緒にいたくて、彼女を探しに来たクロードと従者を適当な理由で追い払って、目覚めた彼女をティールームへ誘った。
話して感じた。年齢よりも大人びて見てるのは、彼女がそうあるように強いられているからだということ。
胸の内に、大きな苦悩や悲しみを抱えていること。
そのあと、彼女の深い夜空のような瞳から流れる涙を見て、息が詰まるほどの苦しさを覚えた。
年相応の泣き顔は、本当なら両親のもとで大事に守られるべきものだ。
けれど彼女は、まるで手の伸ばし方を知らないようだった。
声を上げることどころか、泣くこと自体ためらっているようで、その姿はまるで――
(昔の私のようだ……)
ある事情から、安息の地であった王宮を去り、公爵としてひとりきりで生きていくことを決めた自分に。
そう気がついてしまった瞬間、彼女にどうしようもない愛おしさを覚えてしまった。
初めは、ただの同情心だと思った。けれど同情にしてはその想いは強くて。
年が離れているとか、甥の婚約者候補であるとか、そんなことはわかっていた。
しかし、芽生えてしまった感情は状況に関係なく勝手に育っていく。
会わなければ自然に消えるかと思ったけれど、その想いは何年経っても消えることはなかった。
彼女の婚約を知り、故あって自身が彼女の妹と婚約することになったあとも、胸の奥底で熾火のようにずっと燻ぶっていた。
その姿を目で追わないよう、思わず名を呼んでしまわないよう、必死に押し込めてきた。
『自分の婚約者はエリアーナなのだ』と言い聞かせて、愛せなくてもエリアーナを慈しんできた。
けれど、必死に抑えてきたその想いが、実ろうとしている。
だから、今日会ったら彼女に聞きたかった。
あの日のことを覚えているのか、そして――
(俺との婚約をどう思っているのか……)
しかし結局、それを聞くことはできなかった。
(あんな苦しそうな表情を見せられて、聞けるものか……)
自分自身の気持ちを持て余したような彼女の表情が、全てを物語っていると思った。
我ながら、いい年をした大人なのに情けないと思う。
(しかし、これ以上どうしろと言うのだ……)
残酷にも、歯車はきっと彼女の望まぬほうに動きはじめている。
国王である兄も、王妃である義姉も、結局のところひとり息子のクロードには甘い。
クロードが心から望むのなら、強くは反対できないだろう。
彼女がどんなに優秀でクロードを愛していても、事態は動いていく。
そしてなにより俺自身が、再び彼女の瞳に映ることを、望んでしまっているのだから――
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