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第五章 Flash And Slash
閃刃―⑩―
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午後9時37分 スプリングプレイス・ホテル フロント
ホテルの受付に殺到する人々の顔は、行き場のない感情に染まる。
その中で子供をあやす母親は、憔悴し切っていたが、どこか安堵を抱いた表情を浮かべていた。
プレストンは、そんな人々の織り成す喧騒の中で考える。
トルストイは、著作“アンナ・カレーニナ”で「幸福な家庭は全てよく似たものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である」という言葉を冒頭に置いた。
しかし、プレストンはそのことに疑問を持っていた。
幸福の存在を知らない者は、不幸も定義できない。
言葉は一つの様であるが、その取り方は多様。
“幸せ”と言う文字を見ても、主観的で他者の幸せの受け取り方は必ずしも一致しない。
他者の幸せを自分と共に感じることが出来れば、それを受け入れられない者もいる。
幸せを享受者と、不幸せな自分の現状を比べて貶めるものもいれば、幸福を向上させようというものいる。
そうして、世界は変わっていく。
自分が目の前のものを選び、考えながらそこから広がる新しい道を歩いていく。
この向かう方向が同じであることを鑑みれば、幸福が同じに見えるトルストイの冒頭は正しいが、人生に求める幸福の質は各々異なるとも言えた。
幸福が、成功の果てに得たか失敗から生じたものであれ、当人が何らかの意味を見出せば先へ歩める。
その体現者が、今の主人のエリザベス=マックスウェルだった。
彼女の知己である、ブルースと彼の下で働くロックに加え、主人を友として認めるサキ。
人生の質を求める求道者が集うのは、その方向性を同じとしているかもしれない。
だから、喧騒の中で唐突にある人物が見えた瞬間、彼は戸惑いを覚えた。
――アニカさん……?
プレストンは、自分が公平であると断言はできない。
しかし、人を個人として扱う際、労務とそれ以外の切り分けは出来ている自負はある。
だから、アニカが後ろめたさで、顔を曇らせているのがプレストンの眼を一際引いた。
客室清掃員の東南アジア系の女性が、周囲を見ながら歩く度に人波が少なくなっていく。
プレストンは彼女に気付かれない様に、後を歩いた。
それが、外れて欲しい。
しかし、人生の質を求める者には、厳しさが待ち受ける。
トルストイの著作の主役、アンナ・カレーニナに忍び寄る破滅の影をアニカから感じ取った。
「アニカさん……」
プレストンの声が、人気のない通路で響く。
その声に、後を付けられた中年女性は振り向いて目を強張らせた。
彼女の右手には、同じ大きさの携帯通信端末が握られている。
「サキ様の部屋に盗聴器を仕掛けられたのは、貴女だったのですね……」
驚愕の余り、プレストンの声から感情が失せる。
ネクタイとベストを纏ったプレストンの感情と抑揚のない顔を、見開いたアニカの目が離さない。
ロックとサキが会話をしている間、情報通信端末を見ていた。
予定の確認の他に、”ワールド・シェパード社”の活動も監視するためだ。
バンクーバーは、TPTPの元で行われている実験都市であり、”ワールド・シェパード社”はその前線に立っている。
しかし、”ブライトン・ロック社”は冷戦期のフォークランドに中東で無人爆撃機の操作に必要な情報処理も行っていた。
カナダは、英連邦の関係もあり、海外市場での影響力も衰えていない。
実質、バンクーバーは英国と環太平洋国家のどちらかが、”ウィッカー・マン”を倒すかの、覇権戦争の舞台となっている。
そういった場所で、長期滞在が出来るだろうか。
出来ない想定で動いた方が、早く、かつ現実的だった。
「wifi回線を使うのは良いでしょう……しかし、目的別に端末を用意されることをお勧めいたします。加えて、私たちの会社のものを使うというのは、良い考えではありません」
プレストンが、ロックとサキを監視していた時に見つけたのは、”ブライトン・ロック社”の情報端末用の基地局で暗号化された記録だった。
解像度や音質を上げると言うことは、その分容量も多くなることを意味する。
複雑化すればするほど、その情報は見られては困るモノと同意語だった。
「本来こういう任務は、誰かの用意したものを使う筈です。従業員用のネットワークを使ったということは、それほど、逼迫され――」
プレストンの言葉を、携帯通信端末の床に落ちた音が遮った。
東南アジア系の清掃員は一本の短剣を両手に握り、老紳士の心臓を狙う。
彼女の眼は鋭く、短剣の切っ先も一心不乱。
だからこそ、彼女はプレストンの動作に気づけなかった。
プレストンは、アニカの短剣を握る両手に自らの両手を重ねる。
彼は一呼吸も入れず、彼女の褐色の両手を押し出した。
中年女性は、後へ引っ張られるかのように、盛大に倒れる。
人間が、安定して掛けられる重心の広さは肩幅ほどだ。
だが、攻撃する際はどうしても、利き手側に重心がずれる。
プレストンは、彼女に掛かる重心を背後に流したのだ。
短剣の落ちる音が、廊下に響く。
痛みに歪んだ東南アジア系の従業員が膝を付くと、プレストンは右足で短剣を自分の方に寄せた。
「貴方たちは……危険よ」
アニカの吐き出した顔から、南国の太陽を思わせる包容力は消えている。
プレストンは、短剣を拾う様に目をやりながら、
「ある女から、あなた達のことを聞いたわ。サキちゃん……あんな酷いことになっても、優しいわ。何故、あなた達は、あんなに冷静になれるのよ!」
プレストンは、アニカに親の顔を見た。
眼の前の東南アジア系の女性に、娘がいたことを思い出す。
大学を卒業して、就職が決まったことも。
プレストンも何回かその話題に触れたことはあった。
「娘」と言う意味で言えば、自分の娘や、今仕えているエリザベス=ガブリエル=マックスウェル、アニカの娘やサキは、彼女と同じ話題で共有された子供たちである。
「こんな世の中でも……移民でも、働きづめで、ここは良かった。でも、それでもお金は掛かる。学生ローンの支払いも、子供だけではどうにもできない」
高等教育と将来への保証。
それを確約する為の未来の値段は、どこでも高く付いた。
人として裏切るには十分すぎ、プレストンにとって驚くことは無い。
だが、アニカの口から出た言葉は、老執事を突き刺した。
「あなた達と接して分かった……。あなた達は、人を選ぶ理屈を探している。サキちゃんという人間を助ける為に、全てを切り捨てる真似をしている。私と会ったサロメも……。あなた達は、それだけで傲慢なのよ!」
アニカの叫びは、プレストンの息を呑ませた。
サキの留学と現地での生活。
サキはその中でも、良い成績を収めていた。
だが、結局プレストン達の都合の良い方向へ、サキを導いている事実は変わらない。
「サロメに、あなた達は……サキちゃんに何をさせようとするの。あの子は……ただの、人間よ。一体、何をさせようとしているのよ!?」
アニカの恐怖に歪んだ顔に、悲しみの色が宿り始める。
だが、褐色の中年女性は、敵意の視線をプレストンの背後に向けた。
振り向いたプレストンも闖入者に驚き、息を止める。
エリザベス=ガブリエル=マックスウェル。
顔色が陰に隠れていて、表情は見えない。
プレストンは、感情を見せない主の意図を見守る。
その主人を見るアニカが、プレストンの体を動かした。
――お嬢様!?
身構える彼を、制する主の視線。
エリザベスは、そうして老紳士に無言の諫言を放ち、懐から紙束を取り出す。
それを同じくジャケットの懐から取り出したペンを紙の上で流した。
「サキを……人間として心に留めてくれて、ありがとう」
紙束をちぎって、アニカに渡す。
プレストンの眼に映ったのは小切手だった。
彼女の労働契約で得られる報酬の倍と、その他が加えられた額が記されている。
「サロメの……報酬より上ね。私は、お金を捨てられない。それもお見通しよね。サロメもあなた達も悪魔よ……人を制御できると、見るもの全てを変えられると思いあがっている!」
エリザベスは、何も返さなかった。
プレストンは、小切手を見て蹲るアニカに避難場所へ行くように促す。
歩き出したアニカは、呪詛を吐き続け、二度とプレストンを見ることは無かった。
ホテルの受付に殺到する人々の顔は、行き場のない感情に染まる。
その中で子供をあやす母親は、憔悴し切っていたが、どこか安堵を抱いた表情を浮かべていた。
プレストンは、そんな人々の織り成す喧騒の中で考える。
トルストイは、著作“アンナ・カレーニナ”で「幸福な家庭は全てよく似たものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である」という言葉を冒頭に置いた。
しかし、プレストンはそのことに疑問を持っていた。
幸福の存在を知らない者は、不幸も定義できない。
言葉は一つの様であるが、その取り方は多様。
“幸せ”と言う文字を見ても、主観的で他者の幸せの受け取り方は必ずしも一致しない。
他者の幸せを自分と共に感じることが出来れば、それを受け入れられない者もいる。
幸せを享受者と、不幸せな自分の現状を比べて貶めるものもいれば、幸福を向上させようというものいる。
そうして、世界は変わっていく。
自分が目の前のものを選び、考えながらそこから広がる新しい道を歩いていく。
この向かう方向が同じであることを鑑みれば、幸福が同じに見えるトルストイの冒頭は正しいが、人生に求める幸福の質は各々異なるとも言えた。
幸福が、成功の果てに得たか失敗から生じたものであれ、当人が何らかの意味を見出せば先へ歩める。
その体現者が、今の主人のエリザベス=マックスウェルだった。
彼女の知己である、ブルースと彼の下で働くロックに加え、主人を友として認めるサキ。
人生の質を求める求道者が集うのは、その方向性を同じとしているかもしれない。
だから、喧騒の中で唐突にある人物が見えた瞬間、彼は戸惑いを覚えた。
――アニカさん……?
プレストンは、自分が公平であると断言はできない。
しかし、人を個人として扱う際、労務とそれ以外の切り分けは出来ている自負はある。
だから、アニカが後ろめたさで、顔を曇らせているのがプレストンの眼を一際引いた。
客室清掃員の東南アジア系の女性が、周囲を見ながら歩く度に人波が少なくなっていく。
プレストンは彼女に気付かれない様に、後を歩いた。
それが、外れて欲しい。
しかし、人生の質を求める者には、厳しさが待ち受ける。
トルストイの著作の主役、アンナ・カレーニナに忍び寄る破滅の影をアニカから感じ取った。
「アニカさん……」
プレストンの声が、人気のない通路で響く。
その声に、後を付けられた中年女性は振り向いて目を強張らせた。
彼女の右手には、同じ大きさの携帯通信端末が握られている。
「サキ様の部屋に盗聴器を仕掛けられたのは、貴女だったのですね……」
驚愕の余り、プレストンの声から感情が失せる。
ネクタイとベストを纏ったプレストンの感情と抑揚のない顔を、見開いたアニカの目が離さない。
ロックとサキが会話をしている間、情報通信端末を見ていた。
予定の確認の他に、”ワールド・シェパード社”の活動も監視するためだ。
バンクーバーは、TPTPの元で行われている実験都市であり、”ワールド・シェパード社”はその前線に立っている。
しかし、”ブライトン・ロック社”は冷戦期のフォークランドに中東で無人爆撃機の操作に必要な情報処理も行っていた。
カナダは、英連邦の関係もあり、海外市場での影響力も衰えていない。
実質、バンクーバーは英国と環太平洋国家のどちらかが、”ウィッカー・マン”を倒すかの、覇権戦争の舞台となっている。
そういった場所で、長期滞在が出来るだろうか。
出来ない想定で動いた方が、早く、かつ現実的だった。
「wifi回線を使うのは良いでしょう……しかし、目的別に端末を用意されることをお勧めいたします。加えて、私たちの会社のものを使うというのは、良い考えではありません」
プレストンが、ロックとサキを監視していた時に見つけたのは、”ブライトン・ロック社”の情報端末用の基地局で暗号化された記録だった。
解像度や音質を上げると言うことは、その分容量も多くなることを意味する。
複雑化すればするほど、その情報は見られては困るモノと同意語だった。
「本来こういう任務は、誰かの用意したものを使う筈です。従業員用のネットワークを使ったということは、それほど、逼迫され――」
プレストンの言葉を、携帯通信端末の床に落ちた音が遮った。
東南アジア系の清掃員は一本の短剣を両手に握り、老紳士の心臓を狙う。
彼女の眼は鋭く、短剣の切っ先も一心不乱。
だからこそ、彼女はプレストンの動作に気づけなかった。
プレストンは、アニカの短剣を握る両手に自らの両手を重ねる。
彼は一呼吸も入れず、彼女の褐色の両手を押し出した。
中年女性は、後へ引っ張られるかのように、盛大に倒れる。
人間が、安定して掛けられる重心の広さは肩幅ほどだ。
だが、攻撃する際はどうしても、利き手側に重心がずれる。
プレストンは、彼女に掛かる重心を背後に流したのだ。
短剣の落ちる音が、廊下に響く。
痛みに歪んだ東南アジア系の従業員が膝を付くと、プレストンは右足で短剣を自分の方に寄せた。
「貴方たちは……危険よ」
アニカの吐き出した顔から、南国の太陽を思わせる包容力は消えている。
プレストンは、短剣を拾う様に目をやりながら、
「ある女から、あなた達のことを聞いたわ。サキちゃん……あんな酷いことになっても、優しいわ。何故、あなた達は、あんなに冷静になれるのよ!」
プレストンは、アニカに親の顔を見た。
眼の前の東南アジア系の女性に、娘がいたことを思い出す。
大学を卒業して、就職が決まったことも。
プレストンも何回かその話題に触れたことはあった。
「娘」と言う意味で言えば、自分の娘や、今仕えているエリザベス=ガブリエル=マックスウェル、アニカの娘やサキは、彼女と同じ話題で共有された子供たちである。
「こんな世の中でも……移民でも、働きづめで、ここは良かった。でも、それでもお金は掛かる。学生ローンの支払いも、子供だけではどうにもできない」
高等教育と将来への保証。
それを確約する為の未来の値段は、どこでも高く付いた。
人として裏切るには十分すぎ、プレストンにとって驚くことは無い。
だが、アニカの口から出た言葉は、老執事を突き刺した。
「あなた達と接して分かった……。あなた達は、人を選ぶ理屈を探している。サキちゃんという人間を助ける為に、全てを切り捨てる真似をしている。私と会ったサロメも……。あなた達は、それだけで傲慢なのよ!」
アニカの叫びは、プレストンの息を呑ませた。
サキの留学と現地での生活。
サキはその中でも、良い成績を収めていた。
だが、結局プレストン達の都合の良い方向へ、サキを導いている事実は変わらない。
「サロメに、あなた達は……サキちゃんに何をさせようとするの。あの子は……ただの、人間よ。一体、何をさせようとしているのよ!?」
アニカの恐怖に歪んだ顔に、悲しみの色が宿り始める。
だが、褐色の中年女性は、敵意の視線をプレストンの背後に向けた。
振り向いたプレストンも闖入者に驚き、息を止める。
エリザベス=ガブリエル=マックスウェル。
顔色が陰に隠れていて、表情は見えない。
プレストンは、感情を見せない主の意図を見守る。
その主人を見るアニカが、プレストンの体を動かした。
――お嬢様!?
身構える彼を、制する主の視線。
エリザベスは、そうして老紳士に無言の諫言を放ち、懐から紙束を取り出す。
それを同じくジャケットの懐から取り出したペンを紙の上で流した。
「サキを……人間として心に留めてくれて、ありがとう」
紙束をちぎって、アニカに渡す。
プレストンの眼に映ったのは小切手だった。
彼女の労働契約で得られる報酬の倍と、その他が加えられた額が記されている。
「サロメの……報酬より上ね。私は、お金を捨てられない。それもお見通しよね。サロメもあなた達も悪魔よ……人を制御できると、見るもの全てを変えられると思いあがっている!」
エリザベスは、何も返さなかった。
プレストンは、小切手を見て蹲るアニカに避難場所へ行くように促す。
歩き出したアニカは、呪詛を吐き続け、二度とプレストンを見ることは無かった。
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