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Eli Eli Lema Sabachthani
□Eli Eli Lema Sabachthani_02
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かの人工島は大戦後の高度成長期――――急激な繁栄と人口爆発により国が逃げ道として北の海上に設立された計画都市だった。
東京二四区と大差ない面積を誇る大型島を中心に複数の小規模人工島が連なって存在している。
高層ビルが建ち並ぶオフィス街からアパート群の犇く市街地、繁華街、工業地帯など幅広く対応しているが、どの施設もすべてがすべて建設半ばで放棄された。
国家主体の大規模計画にも関わらず開発が途中で停止した訳は人工島に軍事基地を作りたいとの他国の介入があり、それを発端に戦後本国を援助していた二大強国同士のいざこざが勃発したからだと噂されている。
実際にまだ正式名称を与えられていない第二都市予定地だった人工島と列島を繋げている大橋に配置された検問所は二箇所あり、双方で管理をしている国が別だった。
お国の事情がなんにせよ、開発がとまっている間にここぞとばかりに世界中から後ろめたい者達が集まり、勝手に住み着き、気が付けば人工島はどの国も迂闊に手出しができない独立した魔窟へと変貌させられた。
浮浪者が日々地べたを這い、一夜の夢に溺れたい富豪が大金をばら撒く。年齢、人種、職種のなにもかも関係なく――――業と欲が燦々と溢れ返っている濁った楽園。
今現在、秩序と理論を弾丸一発で無に帰す欲望重視の真っ黒な人工島を治めるのは四つの犯罪組織。東西南北で区分され、四大組織に統治される人工島は各区ごとに定められた独自ルールさえ遵守していれば誰であろうと自由に暮らせる。
そんな人工島の北区はもっとも治安が悪いとされる劣悪な無法地帯だった。
自販機に集る虫の如く大量の室外機がびちりと引っ付く雑居ビルは建築基準法に真っ向から喧嘩を売った改築を施され、建物と呼ぶもおこがましい姿ながらも我が物顔で仁王立っている。放置されているのはナンバーを潰された盗難車や事故車ばかり。そしてそこをホテル代りに使う輩も多い。
奥へと進めば環境は悪化し、一部では昼間でも地面までは陽が届いていない。
下水設備もままならない路地はひしゃげた酒の空き缶やぶち撒けられた生ゴミに混ざって汚物が転がり、隅には中に何が入っているかも分からない大型の粗大ゴミが宝の山のように積まれ常に湿った悪臭が沈殿していた。
北区は淫猥なネオンで賑わう風俗街から少しでも細道に逸れればもはや迷宮で、動物の死骸だけではなく赤子になれなかった肉片が転がっていることも多々。
不衛生という言葉では済まない汚濁のゴミ溜まりだった。
「なーにが『その魂が清められますように』だよ。テメーが魂に漂白剤突ッ込め。あれが司祭だと。信じられるか兄様?」
「ロキが信じないなら僕も信じないかなあ」
「だよな! さすが俺の兄様!」
ゴミ溜まりに場違いな声が反響する。
嗅覚を壊し、眼球を刺激し、胃を爛れさせる強烈な異臭を引き裂いて、北区住民どころか腕利きのならず者ですら理由がなければ通らない路地裏まで兄弟はやって来た。
「俺ッて超可哀想。シャブ漬け信者の管理はちゃんとしろよ。そのせいで俺が兄様とのデートの時間減らされるとか超あり得ねーし」
手をきつく繋いだままホテル街でも闊歩する距離感で身を寄せて、ぶっ飛んだ罵詈雑言をロキは一方的に血が繋がっていないどころか国籍も異なる兄へ語り続ける。
ロキが兄様と愛でるナオは放送禁止用語が連なる悪態を「大変だね」「可哀想だね」「頑張ろうね」と労る言葉とは裏腹に笑顔で聞いていた。
外見は十代から二十代の青年にしか見えないが、彼はロキよりも五歳上であり、実年齢は三十を超えている。童顔と呼ぶには些か度が過ぎているが、意図的な若作りでも整形というわけでもなく――異常性すら感じさせる老化の麻痺は、彼の精神的な部分が強く影響を及ぼしていると予想された。
本来ならばナオは島の外の然るべき場所で、もしくは医療技術に特化した南区の教会施設で心身ともに丁重な治療を受けるべき人間なのだが、そんな事情はロキには知ったことではない。
「にーさまァ。帰ッたら超可哀想な弟をたくさん甘やかして?」
「うん。いいよ」
ロキが声音を露骨に変え、甘え声で強請ればナオは迷わずに頷いた。
「あとさ、アレ試したい」
発せられたのは試したいの一言で気軽に試してはいけないハードなプレイ内容。
それでもナオは「いいよ」と迷わずに受け入れた。
聞き流しているふうではなく、許されるべきでない非道徳的な発言のすべてをきちんと脳髄に刻んだ上で笑顔で肯定する。なぜならナオはそれこそが兄としての弟に対する適切な接し方だと刷り込まれているから。
「嬉しい。俺の兄様は超良い子」
従順な兄の態度に弟は満足げな嘲笑を浮かべた。その時、固い靴底が腐り掛けのなにかの死骸を踏む。
靴底の違和感をそのままにロキが歩みを止めればナオも足を揃える。
兄と呼称するだけで実際に目上として慕っているわけではない、それでもなによりも一等お気に入りの兄からロキは視線を外した。
視界に入った相手はオリーブグリーンのフード付きマウンテンパーカーを着た黒髪の若い男。
パーカーの大きなポケットからは無線機と繋がったイヤホンマイクが伸び片耳につけていた。足元は動き易いスニーカー。右手には強すぎる光を放つ業務用の懐中電灯を持っている。
暗鬱とした夜に馴染む兄弟の視野には冴えた光は少し鋭すぎた。ロキが眉間に皺を寄せる。
途端に、彼は懐中電灯を自分の背中側に回した。
温顔の若い男は二人を緑の眼に映すと場違いなほど丁寧に頭を下げた。それは例えるならば武道の試合で見る芯の通った礼だった。
「こんな時間にお呼び立てして申し訳ありません、ボス。ナオさん」
一目で鍛えていると分かる、身長にも筋肉の厚みにも恵まれた体格の良い彼は、心底申し訳なさそうに再度謝罪の意を込めた一礼をした。振る舞いから如何に律儀な性格なのかが透けて見える。
「見回りお疲れ様。俊輔」
ナオが貼り付けた笑みを俊輔に向ける。ロキも若い番犬にひらりと片手を上げた。
「はい。お疲れ様です」
姿勢を正した俊輔が頬を解す。子供に懐かれそうな穏やかな表情は裏側の住人だとは到底思えない。
それでも俊輔は確かに裏社会の一員で、しかも彼の身につく赤い腥さはそこらの者とは比べものにならない濃度だった。
北区統括組織幹部の一席に腰掛ける俊輔はまだ二十歳。側から見れば鼻で一蹴される若造だが、一度でも俊輔と相対すれば彼がどれほど苛烈な狂犬であるか命を以て知らされることとなる。
だからこそ俊輔はこの若さで幹部の席を与えられ、次期首領候補として現首領と右腕に日々えげつなく扱かれていた。
そんな俊輔から連絡が来たとなれば、現首領たるロキと右腕のナオは例え兄弟水入らずで遊んでいる最中でも動くしかない。
「ボス。今回も例の」
「シューン」
気を張った様子の俊輔の言葉をロキは自分の唇に人差し指を当てて遮る。
すかさず口を閉じた俊輔を横目にロキは兄の額に唇を落としてから「兄様。お先確認よろしく」と短く指示をし、ずっと兄と絡めていた指を離した。
頷いたナオが湿った地面を音もなく進み、俊輔の側に寄った。
「……あっ、すみません。どうぞ」
「ありがとう」
無言で右手を差し出してきたナオが懐中電灯を求めていると遅れて察した俊輔が慌てて懐中電灯を持ち直し、ナオの薄い手の平に懐中電灯の持ち手を添える。だがナオはそれを握り締めず俊輔の手元を凝視したまま押し黙る。
黒い目線の先は俊輔の左腕につけられたチタニウム製の腕時計。
ロキからのお下がりであるために俊輔の雰囲気とは噛み合わない腕時計に表示される時刻を確認しているらしいナオは妙な間をあけたあと懐中電灯を握った。瞬間、俊輔の背後に回っていたロキは自分と身長の変わらない忠犬を引っ張った。
かの人工島は大戦後の高度成長期――――急激な繁栄と人口爆発により国が逃げ道として北の海上に設立された計画都市だった。
東京二四区と大差ない面積を誇る大型島を中心に複数の小規模人工島が連なって存在している。
高層ビルが建ち並ぶオフィス街からアパート群の犇く市街地、繁華街、工業地帯など幅広く対応しているが、どの施設もすべてがすべて建設半ばで放棄された。
国家主体の大規模計画にも関わらず開発が途中で停止した訳は人工島に軍事基地を作りたいとの他国の介入があり、それを発端に戦後本国を援助していた二大強国同士のいざこざが勃発したからだと噂されている。
実際にまだ正式名称を与えられていない第二都市予定地だった人工島と列島を繋げている大橋に配置された検問所は二箇所あり、双方で管理をしている国が別だった。
お国の事情がなんにせよ、開発がとまっている間にここぞとばかりに世界中から後ろめたい者達が集まり、勝手に住み着き、気が付けば人工島はどの国も迂闊に手出しができない独立した魔窟へと変貌させられた。
浮浪者が日々地べたを這い、一夜の夢に溺れたい富豪が大金をばら撒く。年齢、人種、職種のなにもかも関係なく――――業と欲が燦々と溢れ返っている濁った楽園。
今現在、秩序と理論を弾丸一発で無に帰す欲望重視の真っ黒な人工島を治めるのは四つの犯罪組織。東西南北で区分され、四大組織に統治される人工島は各区ごとに定められた独自ルールさえ遵守していれば誰であろうと自由に暮らせる。
そんな人工島の北区はもっとも治安が悪いとされる劣悪な無法地帯だった。
自販機に集る虫の如く大量の室外機がびちりと引っ付く雑居ビルは建築基準法に真っ向から喧嘩を売った改築を施され、建物と呼ぶもおこがましい姿ながらも我が物顔で仁王立っている。放置されているのはナンバーを潰された盗難車や事故車ばかり。そしてそこをホテル代りに使う輩も多い。
奥へと進めば環境は悪化し、一部では昼間でも地面までは陽が届いていない。
下水設備もままならない路地はひしゃげた酒の空き缶やぶち撒けられた生ゴミに混ざって汚物が転がり、隅には中に何が入っているかも分からない大型の粗大ゴミが宝の山のように積まれ常に湿った悪臭が沈殿していた。
北区は淫猥なネオンで賑わう風俗街から少しでも細道に逸れればもはや迷宮で、動物の死骸だけではなく赤子になれなかった肉片が転がっていることも多々。
不衛生という言葉では済まない汚濁のゴミ溜まりだった。
「なーにが『その魂が清められますように』だよ。テメーが魂に漂白剤突ッ込め。あれが司祭だと。信じられるか兄様?」
「ロキが信じないなら僕も信じないかなあ」
「だよな! さすが俺の兄様!」
ゴミ溜まりに場違いな声が反響する。
嗅覚を壊し、眼球を刺激し、胃を爛れさせる強烈な異臭を引き裂いて、北区住民どころか腕利きのならず者ですら理由がなければ通らない路地裏まで兄弟はやって来た。
「俺ッて超可哀想。シャブ漬け信者の管理はちゃんとしろよ。そのせいで俺が兄様とのデートの時間減らされるとか超あり得ねーし」
手をきつく繋いだままホテル街でも闊歩する距離感で身を寄せて、ぶっ飛んだ罵詈雑言をロキは一方的に血が繋がっていないどころか国籍も異なる兄へ語り続ける。
ロキが兄様と愛でるナオは放送禁止用語が連なる悪態を「大変だね」「可哀想だね」「頑張ろうね」と労る言葉とは裏腹に笑顔で聞いていた。
外見は十代から二十代の青年にしか見えないが、彼はロキよりも五歳上であり、実年齢は三十を超えている。童顔と呼ぶには些か度が過ぎているが、意図的な若作りでも整形というわけでもなく――異常性すら感じさせる老化の麻痺は、彼の精神的な部分が強く影響を及ぼしていると予想された。
本来ならばナオは島の外の然るべき場所で、もしくは医療技術に特化した南区の教会施設で心身ともに丁重な治療を受けるべき人間なのだが、そんな事情はロキには知ったことではない。
「にーさまァ。帰ッたら超可哀想な弟をたくさん甘やかして?」
「うん。いいよ」
ロキが声音を露骨に変え、甘え声で強請ればナオは迷わずに頷いた。
「あとさ、アレ試したい」
発せられたのは試したいの一言で気軽に試してはいけないハードなプレイ内容。
それでもナオは「いいよ」と迷わずに受け入れた。
聞き流しているふうではなく、許されるべきでない非道徳的な発言のすべてをきちんと脳髄に刻んだ上で笑顔で肯定する。なぜならナオはそれこそが兄としての弟に対する適切な接し方だと刷り込まれているから。
「嬉しい。俺の兄様は超良い子」
従順な兄の態度に弟は満足げな嘲笑を浮かべた。その時、固い靴底が腐り掛けのなにかの死骸を踏む。
靴底の違和感をそのままにロキが歩みを止めればナオも足を揃える。
兄と呼称するだけで実際に目上として慕っているわけではない、それでもなによりも一等お気に入りの兄からロキは視線を外した。
視界に入った相手はオリーブグリーンのフード付きマウンテンパーカーを着た黒髪の若い男。
パーカーの大きなポケットからは無線機と繋がったイヤホンマイクが伸び片耳につけていた。足元は動き易いスニーカー。右手には強すぎる光を放つ業務用の懐中電灯を持っている。
暗鬱とした夜に馴染む兄弟の視野には冴えた光は少し鋭すぎた。ロキが眉間に皺を寄せる。
途端に、彼は懐中電灯を自分の背中側に回した。
温顔の若い男は二人を緑の眼に映すと場違いなほど丁寧に頭を下げた。それは例えるならば武道の試合で見る芯の通った礼だった。
「こんな時間にお呼び立てして申し訳ありません、ボス。ナオさん」
一目で鍛えていると分かる、身長にも筋肉の厚みにも恵まれた体格の良い彼は、心底申し訳なさそうに再度謝罪の意を込めた一礼をした。振る舞いから如何に律儀な性格なのかが透けて見える。
「見回りお疲れ様。俊輔」
ナオが貼り付けた笑みを俊輔に向ける。ロキも若い番犬にひらりと片手を上げた。
「はい。お疲れ様です」
姿勢を正した俊輔が頬を解す。子供に懐かれそうな穏やかな表情は裏側の住人だとは到底思えない。
それでも俊輔は確かに裏社会の一員で、しかも彼の身につく赤い腥さはそこらの者とは比べものにならない濃度だった。
北区統括組織幹部の一席に腰掛ける俊輔はまだ二十歳。側から見れば鼻で一蹴される若造だが、一度でも俊輔と相対すれば彼がどれほど苛烈な狂犬であるか命を以て知らされることとなる。
だからこそ俊輔はこの若さで幹部の席を与えられ、次期首領候補として現首領と右腕に日々えげつなく扱かれていた。
そんな俊輔から連絡が来たとなれば、現首領たるロキと右腕のナオは例え兄弟水入らずで遊んでいる最中でも動くしかない。
「ボス。今回も例の」
「シューン」
気を張った様子の俊輔の言葉をロキは自分の唇に人差し指を当てて遮る。
すかさず口を閉じた俊輔を横目にロキは兄の額に唇を落としてから「兄様。お先確認よろしく」と短く指示をし、ずっと兄と絡めていた指を離した。
頷いたナオが湿った地面を音もなく進み、俊輔の側に寄った。
「……あっ、すみません。どうぞ」
「ありがとう」
無言で右手を差し出してきたナオが懐中電灯を求めていると遅れて察した俊輔が慌てて懐中電灯を持ち直し、ナオの薄い手の平に懐中電灯の持ち手を添える。だがナオはそれを握り締めず俊輔の手元を凝視したまま押し黙る。
黒い目線の先は俊輔の左腕につけられたチタニウム製の腕時計。
ロキからのお下がりであるために俊輔の雰囲気とは噛み合わない腕時計に表示される時刻を確認しているらしいナオは妙な間をあけたあと懐中電灯を握った。瞬間、俊輔の背後に回っていたロキは自分と身長の変わらない忠犬を引っ張った。
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