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第二章 シュレーディンガーの幽霊
第12話 事務所
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神原の事務所に到着したのは、昼下がりのことだった。新宿区の坂を上った先にある雑居ビル、その三階に事務所はあった。一階に喫茶店、二階には――確か空きテナントになっていたはずだ。二階だったら有名な漫画と同じ構成だったのだけれど、それを知ってか知らずか回避したのは神原らしいところではある。
三階の事務所、その入り口となる扉をノックしてから中に入る。ノックしたからって返事がある訳ではないし、寧ろない方がここでは自然だ。しかし、裏を返すとノックしたことできちんと意思表示を示したということにもなるのだけれど。
扉を開けると、一段と明かりが暗くなっている。これもまた、いつも通りといったところかもしれない。……それを当たり前と思ってはいけないのだけれど。
「おい、居るか、神原」
声を出したところで、返事など来るはずもなかった。いつも通り――で片付けて良いのかどうかすら、最早分かりはしないのだけれど、とにかくこの不健康極まりない部屋を少しでも健康に近づけていかねばならなかった。
それは、少しだけ抵抗している――ってことにもなるのかもしれないけれど、でもそこまで重要なことでもない。いつものように締め切っている場所を、少しだけ開け放とうとしているだけに過ぎない――全く、どうしてそれを守ってはくれないのだろうか?
ただ、ここだけは良いことなのかもしれないけれど、床にゴミが敷き詰められているような、言わばゴミ屋敷のような状態ではないことは確かだ。まあ、椅子やソファーの上にはゴミ袋が置かれているし、世間一般的には汚いの部類に入るのだろうけれど、百パーセント一方的にこっちが攻撃し続けるのもどうかと思うし、少しは褒めるポイントがあったって良いと思う。
「……ったく、何時まで経っても掃除という言葉を覚えねえな、全く……」
そもそも覚えると思っているのか、という話については一旦保留することとして。
不要品のことを延々と考えるならば、一度ばっさり捨ててしまってから考えれば良いような気がする――多分。
「おい、神原。居るのか。居ないのか。居るのなら返事をしろ……、いつ泥棒が入ってもおかしくないぞ、全く」
「それなら安心したまえ、盗む物すらありゃしないのだからね」
うわっ、びっくりした。
いきなり声を出すなよ……、心臓から口から飛び出しそうになったぞ……。
「逆では?」
「あれ、そうか……。ああ、確かにそうだな。口から心臓が飛び出しそうになった、が正解か」
冷静だな、全く。
冷静であるのは構わないけれど、もっとちゃんと日常生活を送れるような人間であって欲しいものだけれどね。
「口から心臓が飛び出そうに……ね。驚いたことに対する感想としては一番知られている表現なのかもしれないけれど、いざ現実に当てはめてみると……、そんなこと有り得るのか? という話になってしまうのだけれどね。どう思う?」
「どう思う? と言われてもね……」
事務所の中央にあるソファに、ぼくは腰掛ける。とはいえ既にゴミ袋という先客が居たので、丁重にそいつらを床に置いてやった。
人間が座る場所にゴミ袋を置くんじゃないと何回言えば分かるものなのか――ここまで来るとわざとやっているんじゃないか、などと思うようになってきてしまう。あんまり他人を疑うことはしたくないのだけれどね。
「良く言うよ、他人を信じたことがないくせに。……ま、それは僕ちゃんも同じかな。誰も信用はしていない、だからこそ僕ちゃんは孤独だ」
そう。
こいつは天才だ。それは紛れもない事実だし、だからこそ探偵という普通の人間では出来ないような仕事で飯が食えている。
けれども、裏を返すと――天才過ぎた、というのが事実だろう。
天才過ぎるが故に、一般人の常識が理解出来ない。
自分の思考があまりにも凡人には追いつけない範疇であることを、全く理解していない。
だから、孤独だった。
だから、独りだった。
だから、孤立だった。
「……お前はいつまでも、独りだったからな」
独りであることを自覚すると、衰えが早い。
だからこそ、独りであることを自覚しない方が良い。
独りであることは、毒だ。
まあ、それを良いと思う人だって居るのだけれど。毒を食らわば何とやら、とはこのことを言うのだろう。多分。
「ところで、僕ちゃんに会いに来たってことは、何か暇潰しでもしに来たのかい?」
「暇潰しという物でもないし、そもそも分かっているだろうよ。ぼくがやってくるってことは……」
「――分かっているよ、また幽霊未遂か?」
幽霊未遂。
要するに幽霊を見ることが出来たのは、ただ一人であるから――本当に幽霊の存在があるのかどうか、というのが分からない。だから第三者が見ることが出来るようになるまでは、あくまでも未遂という解釈になる訳だ。
無論、それが一般常識という訳でもないし、多分神原が勝手に言っているだけに過ぎないのだろうけれど。
「幽霊未遂だよ。……相変わらず、という感じだけれどその単語止めた方が良いんじゃないか? だって、それって依頼人を信用していないってことだろう」
「幽霊というのは、人を騙すのには最適ではあるからねえ。何せ見ることが出来ない存在だし、信用している人にとってはたとえ見えなくても問題なかったりするのだから。――宗教だってそうだろう? 人の拠り所とは言われているけれど、要するに弱みにつけ込んで金をせしめる宗教だってあるだろうよ」
全部が全部そうとは言い切れないと思うけれどな……。別にお金が全てとは言わない坊さんだって居るだろうし。それと、その台詞絶対表で言うんじゃないぞ。何か訴えられても、流石に弁護までは出来ないからな。
「そうしたら弁護士でも雇うさ。ともあれ、間違ったことは言っていないと思うけれどねえ。皆、思っているけれど見えない圧力で言えないだけじゃないか」
「まあ、その話を散々するつもりはないのだけれど……、とにかくぼくが話したいのは幽霊の話だ」
「幽霊未遂」
「……幽霊未遂の話だ」
面倒臭い探偵だよ、本当に。
「幽霊未遂、か。しかし最近多い物だね。僕ちゃんが探偵を始めた頃は大して多くもなかったから、これで食べるのは難しいとばかり思っていたけれど――今じゃ、月に一回はある。これならまあ何とかなるかなぐらいの感じでやっていけるし、悪くはないかな」
「こないだの地下アイドルの報酬は、もう入ったのか?」
「ああ、あれか――」
神原は袖机からスマートフォンを取り出すと、何回か画面をタップしたりスライドさせたりしている。恐らくQRコード決済アプリで残高か取引履歴をチェックしているのだろう。
「――入っていたよ。早いもんだね、ああいう職業というのはお金のやりくりが大変だと聞いたことがあるから、少し回収に手こずるかなとばかり思っていたけれど、ちゃんとしているようで良かった」
「因みに」
「うん?」
「幾らだったんだ?」
「スイスエアラインでチューリッヒ直行便に乗れるぐらいかなあ」
ええと、レートのことを考えると……。
「そんなに大金を貰えたのか?」
「きみの知り合いの……樋口だったかな? 彼女に聞いたけれど、サンシャインズという地下アイドルでも稼ぎ頭らしいんだよな。だから、彼女の稼ぎでは相当儲かっているらしい。これぐらいの支払いも問題ないんだろう。こちらとしては、十二分ぐらいの支払いではあるけれどね。財布が潤う」
潤っているのは、QRコード決済アプリの残高だから数字が増えているだけだろうに。
三階の事務所、その入り口となる扉をノックしてから中に入る。ノックしたからって返事がある訳ではないし、寧ろない方がここでは自然だ。しかし、裏を返すとノックしたことできちんと意思表示を示したということにもなるのだけれど。
扉を開けると、一段と明かりが暗くなっている。これもまた、いつも通りといったところかもしれない。……それを当たり前と思ってはいけないのだけれど。
「おい、居るか、神原」
声を出したところで、返事など来るはずもなかった。いつも通り――で片付けて良いのかどうかすら、最早分かりはしないのだけれど、とにかくこの不健康極まりない部屋を少しでも健康に近づけていかねばならなかった。
それは、少しだけ抵抗している――ってことにもなるのかもしれないけれど、でもそこまで重要なことでもない。いつものように締め切っている場所を、少しだけ開け放とうとしているだけに過ぎない――全く、どうしてそれを守ってはくれないのだろうか?
ただ、ここだけは良いことなのかもしれないけれど、床にゴミが敷き詰められているような、言わばゴミ屋敷のような状態ではないことは確かだ。まあ、椅子やソファーの上にはゴミ袋が置かれているし、世間一般的には汚いの部類に入るのだろうけれど、百パーセント一方的にこっちが攻撃し続けるのもどうかと思うし、少しは褒めるポイントがあったって良いと思う。
「……ったく、何時まで経っても掃除という言葉を覚えねえな、全く……」
そもそも覚えると思っているのか、という話については一旦保留することとして。
不要品のことを延々と考えるならば、一度ばっさり捨ててしまってから考えれば良いような気がする――多分。
「おい、神原。居るのか。居ないのか。居るのなら返事をしろ……、いつ泥棒が入ってもおかしくないぞ、全く」
「それなら安心したまえ、盗む物すらありゃしないのだからね」
うわっ、びっくりした。
いきなり声を出すなよ……、心臓から口から飛び出しそうになったぞ……。
「逆では?」
「あれ、そうか……。ああ、確かにそうだな。口から心臓が飛び出しそうになった、が正解か」
冷静だな、全く。
冷静であるのは構わないけれど、もっとちゃんと日常生活を送れるような人間であって欲しいものだけれどね。
「口から心臓が飛び出そうに……ね。驚いたことに対する感想としては一番知られている表現なのかもしれないけれど、いざ現実に当てはめてみると……、そんなこと有り得るのか? という話になってしまうのだけれどね。どう思う?」
「どう思う? と言われてもね……」
事務所の中央にあるソファに、ぼくは腰掛ける。とはいえ既にゴミ袋という先客が居たので、丁重にそいつらを床に置いてやった。
人間が座る場所にゴミ袋を置くんじゃないと何回言えば分かるものなのか――ここまで来るとわざとやっているんじゃないか、などと思うようになってきてしまう。あんまり他人を疑うことはしたくないのだけれどね。
「良く言うよ、他人を信じたことがないくせに。……ま、それは僕ちゃんも同じかな。誰も信用はしていない、だからこそ僕ちゃんは孤独だ」
そう。
こいつは天才だ。それは紛れもない事実だし、だからこそ探偵という普通の人間では出来ないような仕事で飯が食えている。
けれども、裏を返すと――天才過ぎた、というのが事実だろう。
天才過ぎるが故に、一般人の常識が理解出来ない。
自分の思考があまりにも凡人には追いつけない範疇であることを、全く理解していない。
だから、孤独だった。
だから、独りだった。
だから、孤立だった。
「……お前はいつまでも、独りだったからな」
独りであることを自覚すると、衰えが早い。
だからこそ、独りであることを自覚しない方が良い。
独りであることは、毒だ。
まあ、それを良いと思う人だって居るのだけれど。毒を食らわば何とやら、とはこのことを言うのだろう。多分。
「ところで、僕ちゃんに会いに来たってことは、何か暇潰しでもしに来たのかい?」
「暇潰しという物でもないし、そもそも分かっているだろうよ。ぼくがやってくるってことは……」
「――分かっているよ、また幽霊未遂か?」
幽霊未遂。
要するに幽霊を見ることが出来たのは、ただ一人であるから――本当に幽霊の存在があるのかどうか、というのが分からない。だから第三者が見ることが出来るようになるまでは、あくまでも未遂という解釈になる訳だ。
無論、それが一般常識という訳でもないし、多分神原が勝手に言っているだけに過ぎないのだろうけれど。
「幽霊未遂だよ。……相変わらず、という感じだけれどその単語止めた方が良いんじゃないか? だって、それって依頼人を信用していないってことだろう」
「幽霊というのは、人を騙すのには最適ではあるからねえ。何せ見ることが出来ない存在だし、信用している人にとってはたとえ見えなくても問題なかったりするのだから。――宗教だってそうだろう? 人の拠り所とは言われているけれど、要するに弱みにつけ込んで金をせしめる宗教だってあるだろうよ」
全部が全部そうとは言い切れないと思うけれどな……。別にお金が全てとは言わない坊さんだって居るだろうし。それと、その台詞絶対表で言うんじゃないぞ。何か訴えられても、流石に弁護までは出来ないからな。
「そうしたら弁護士でも雇うさ。ともあれ、間違ったことは言っていないと思うけれどねえ。皆、思っているけれど見えない圧力で言えないだけじゃないか」
「まあ、その話を散々するつもりはないのだけれど……、とにかくぼくが話したいのは幽霊の話だ」
「幽霊未遂」
「……幽霊未遂の話だ」
面倒臭い探偵だよ、本当に。
「幽霊未遂、か。しかし最近多い物だね。僕ちゃんが探偵を始めた頃は大して多くもなかったから、これで食べるのは難しいとばかり思っていたけれど――今じゃ、月に一回はある。これならまあ何とかなるかなぐらいの感じでやっていけるし、悪くはないかな」
「こないだの地下アイドルの報酬は、もう入ったのか?」
「ああ、あれか――」
神原は袖机からスマートフォンを取り出すと、何回か画面をタップしたりスライドさせたりしている。恐らくQRコード決済アプリで残高か取引履歴をチェックしているのだろう。
「――入っていたよ。早いもんだね、ああいう職業というのはお金のやりくりが大変だと聞いたことがあるから、少し回収に手こずるかなとばかり思っていたけれど、ちゃんとしているようで良かった」
「因みに」
「うん?」
「幾らだったんだ?」
「スイスエアラインでチューリッヒ直行便に乗れるぐらいかなあ」
ええと、レートのことを考えると……。
「そんなに大金を貰えたのか?」
「きみの知り合いの……樋口だったかな? 彼女に聞いたけれど、サンシャインズという地下アイドルでも稼ぎ頭らしいんだよな。だから、彼女の稼ぎでは相当儲かっているらしい。これぐらいの支払いも問題ないんだろう。こちらとしては、十二分ぐらいの支払いではあるけれどね。財布が潤う」
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