神界の器

高菜あやめ

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第三部

八、魔性の男

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 飛鳥が西久世の屋敷に来てから、早十日が過ぎようとしていた。
 屋敷内では西久世の遠縁に当たる屋敷で働いていた者とだけ伝え、詳しい身元は伏せる事にした。また客人扱いを嫌った飛鳥は、名目上『側仕え』として西久世の身の回りの世話をしている。
「私は下働きでも構わないのですが」
 手入れの行き届いた庭に面する部屋で、飛鳥は西久世の着替えを手伝いながら、一日一度は呟く言葉を口にした。
「まさか。みなとの手前、そのような扱いできるはずもないだろう。お前は大事な預かりなのだからね。本当は客人としてもてなしたいところを、これでも譲歩したのだよ?」
 西久世は涼やかな目元を細め、さもおかしそうに笑っている。初日に下働きを希望した際もこんな風に笑われたが、飛鳥はそれほどおかしな提案をしたつもりはなかった。志摩国しまのくにでは湊の側仕えだったが、屋敷の使用人は限られていたので、必要であれば下働きでも力仕事でも何でもしていた。
 飛鳥は湊に仕えたことしかないので、都の貴族が満足するとは到底思えなかった。ここは都で、志摩国とは違う。初めは珍しがって鄙びた男を側に置いても、所詮は都人、そのうち嫌気が差すだろうと軽く考えていたのだが。
「……いつまでも俺のような田舎者を側に置くなど、西久世様は変わっておられる」
「西久世ではなく、柚月ゆづきと呼べと言っただろう?」
「柚月様」
 柚月は機嫌良さそうに頷くと、すっかり出掛ける支度を整えた様子で、横に控える飛鳥へ向かって先に玄関で待つよう促した。履物を用意しておけという意味だろう。
 西久世は毎日出掛ける予定があり、どこへ行くにも飛鳥を共の一人として連れていく。さすがに宮中へ出仕する時は付いていくのを控えたが、それ以外は必ず付き添いの一人に加えられた。
「本日はどちらへおいでですか」
「懇意にしている呉服屋だよ。たまには奥方に反物の一つでも贈ろうかと思ってね」
 小さく笑う柚月だが、夫婦の仲は冷え切っていると屋敷内では周知の事実だった。そもそも家の都合で決めた婚姻で、必ずしも愛情があったわけじゃなかったそうだ。それでも五人の子宝に恵まれたのだから、家督を継いだ者としての役目は果たしていると言えるだろう。
(要するに都では、うまくいっている夫婦と言えるのだろうな)
 志摩国にある湊の屋敷では、住み込みで下働きをしている夫婦がいる。おしどり夫婦と評判だが、子宝に恵まれなかった。それでも二人はとても幸せそうに見えた。
(西久世……柚月様の幸せはきっと、そうではないのだ)
 立場が違えば幸せの形も違うのだろう。特に家督を継いだものは、一族の存続があってこそ安寧あんねいがあり、それが幸せとなる。個々の気持ちは顧みられず、自分の役目を果たすのが当たり前なのだ。
(湊もそうだったのか)
 やはり都は好きになれそうにない――志摩国へ帰りたい。だがこれまで通りに生きていくことは、許されるのだろうか。これまで通りの生き方が許されるのならば、いつまでだろうか。
 どういう言葉ならば、湊を納得させられるだろうか。飛鳥は何度も考えたが、思いつく言葉はどれも浅はかで薄っぺらな気がしてしまい、何と告げればいいのか分からずにいた。
 だいたい湊は、飛鳥が都を気に入るとでも思ったのか。
(それこそお門違いだ……どうせ自分だって、都なぞ好きではないくせに)
 湊は都を好きではない。むしろ嫌っているのではないか……その疑いは、こちらにきて確信に変わった。あの作ったような微笑みの下には、冷徹でしたたかな顔がある。だが同時にとても繊細で脆い面も感じられるのだ。小さい頃から傍で見つめてきたから、湊の気持ちは何となく分かってしまう。どんなに綺麗に隠しても、飛鳥だけは騙されなかった。
 湊が飛鳥に強く都行きを勧めた理由は、誰かに合わせたいからと話していた。しかしこうして他所の屋敷で、彼の迎えをただ待ち続けていると、思考が悪い方ばかりへ向いてしまう。厄介払いのつもりとは信じたくないが、しばらく距離を置きたがっているのかもしれないと考えてしまう。
(ずっと湊と一緒だったから……良くも悪くも、長く近くに居過ぎたのかもしれない)
 そうこう考えているうちに、目的の呉服屋に到着した。
 柚月の買い物を待ちながら、飛鳥はつい厭世的えんせいてきな思考に囚われそうになる自分を叱咤する。気晴らしになるかと店内を見回すと、さすが都の一等地に店を構えるだけあって、品揃えが豊富だと目を見張った。
 飛鳥は幼い頃は宿場町で奉公していたから、呉服屋をはじめ様々な種類の店に馴染はあるものの、このような高級店に入ったのはこれが初めてだ。あまり迷惑にならないよう、端で控えつつも視線を巡らせていたら、不意に一つの反物に目が留まった。
(湊に似合いそうだな)
 藤色に鮮やかな緑の葉が描かれているそれは、恐らく女物だろうが、湊なら上手い具合に着こなすに違いない。
「なあ、お前。その様子、もしや都は初めてか?」
 急に横から声を掛けられて、飛鳥は思考が反物から引き戻された。隣にいるのは飛鳥同様、柚月の供の一人で、何度かこうして外出の際に顔を合わせた事があった。
「ええ、まあ」
「へえ、国はどこだ?」
「大和国でございます」
 つい幼い頃の奉公先を口にしたが、妙な違和感を覚えた。この十年と言う歳月が、すっかり飛鳥の心をあの宿場町から遠ざからせていたようだ。
 山陽さんようと名乗る男は、大和国や以前勤めていた屋敷についてあれこれ聞きたがったが、飛鳥は無難な受け答えで何とかかわした。話好きのようだが、それほど深くは立ち入った質問をしないところを見るに、最低限の礼儀は持ち合わせているようだった。
「ところで、この間お屋敷で開かれた宴にはいたのか? ああいう大がかりな宴は初めてだろう」
「ええ、華やかな場でしたね」
「表にいたのか。俺は裏方に回されたから、よく分からなかったが……ならば、」
 飛鳥は曖昧な笑みで受け流す。すると山陽は身を乗り出し、辺りを窺うようにしながら小声でひそひそ話し出した。
「匡院宮の弟君も来てたらしいが、お前見たか?」
「見た、とは?」
 山陽は、したり顔で頷くと、あのな、とさらに声を低く抑える。
「都にやってきたばかりで、お前が知らないのは無理もない。あのな、魔性の男ってやつだよ」
 飛鳥は微かに眉をひそめた。
「どういう意味だ」
「やたら綺麗な男らしい。その容姿で何人もの権力者を虜にして、一時は傾きかけた匡院宮家を再興させたそうだ」
 山陽の口調は決して馬鹿にしている様子はなかったが、どこか気味悪がっているように見えた。何か薄気味悪い化け物の噂話のようで、そんな山陽の態度に、飛鳥は気分が悪くなるのを顔に出さないよう精一杯努めた。
(俺の知らない、湊の過去……)
 過去の湊は、周囲からどのように見られていたのか。それを知る術が目の前にあり、今を逃すと謎のままとなるだろう。
 今の彼を知っていれば十分だと、何度も心で繰り返し思ったはずなのに、いざ目の前に思い人の知られざる過去の姿が掲げられ、しかも山陽のような赤の他人すら知っているとなれば、心穏やかでいられるはずもなかった。
(敢えて耳を塞ぐこともあるまい……)
 飛鳥がじっと聞いていることを確認した山陽は、知っている者が知らない物に教える時によく見られる、ある種の優越権で顔を紅潮させながら、得意げに話し続けた。
「何年も前の話だが、宮中で有力者ばかりが関わった事件があってな。主上の寵愛を受けた女官が、さる貴族によって手籠めにされたそうだ。当然、首謀者は断罪され、関わった貴族の何人かは島流しにあったそうだけど、その中で罪を免れた連中もいたらしい。そのうちの一人が、その匡院宮の三男だよ。なんでも罪を逃れる為に、周囲の権力者をたらし込んで、うまく丸め込んだって噂だ」
「……そう、なのか……」
「しかも罪を免れたばかりか、匡院宮の再興の為に、複数の公家や貴族の愛人をやってたらしい。しかも当時まだ元服し立ての若さで、なんとも恐ろしいものだ。まさに魔性の男ってやつだろう? だが家が再興し、しばらくするとどこかの田舎に引っ込んじまったらしい」
 山陽が一気に話し終えた時、まるで見計らったかのように柚月から声が掛かった。
「待たせたな、二人とも」
 柚月に荷物を渡された山陽は、ちらりと飛鳥を見やってから素知らぬ振りをして、先に店の外へと出て行ってしまった。
 残された飛鳥の視界の端に、先ほどの反物が飛び込んできた。途端に砂を噛むような、形容し難い気持ちに陥ってしまう。気分が優れず、胸が痛んで仕方ない。
「何か、妙な噂を吹き込まれていたようだな」
「……噂、なのでしょうか」
 飛鳥は自分の声が震えていることに気づき、にわかに動揺が走る。それを気づかない振りする柚月が、今はとてもありがたく思えた。
「さあ。私も全て知っているわけではないからな。どこまでが真実なのか、本人が口を割らない限り知る由もない。ただ同じ物事を見ても、人によって随分見え方が違うものだ」
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