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第三部
七、白い花の咲く夜
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真夜中、暗闇の中で雨音は何度目かの寝返りをうった。
隣ではそろいの寝巻きを着た明翠が、背を向けておだやかな寝息をたてている。
(よかった……)
雨音は安堵しつつ布団からはい出ると、音を立てないようそっと障子を細く開いて、部屋の外へと身をすべらせた。
柱にもたれながら縁側の端に座り、素足を地面に向けてぶらつかせる。少しひんやりした空気の中で、薄闇に顔をのぞかせる月下美人の白い花弁が、儚げにゆれていた。
明翠の神気が高まるにしたがって、屋敷の守りがより強固となる。それを知ったのは、この屋敷へやって来てからまだ日が浅いころだった。
だが、だいぶ日が経ってから、もう一つ気づいたことがある。それは屋敷をとりまく気候が、明翠の気持ちを写す鏡となっていることだ。
心が晴やかなら、辺りは暖かくおだやかな空気に包まれ、悲しい気持ちになれば、雨がしとしとと降りそそぐ。仄暗い追想をされた日は、天上は鉛色の空に包まれ、しんみりした夜には、冷えこむ闇夜が帳を下ろす。
雨音はあらためて庭をながめた。暗い茂みのあちらこちらで、白く美しい大輪の花が咲き乱れてる。月明かりに照らされて青白く光り、少し冷たい風にゆれる姿は、切ない過去を連想させられた。
「眠れないのか」
「……明翠様」
肩にかけられた羽織は温かく、ほのかに明翠の香りがした。よりそうように座られては、何も話さず部屋へ引きかえすわけにはいかない。
「なにを気にしてる?」
「……いろいろです」
肩にぶつかる腕の温かさで、雨音の考えはすべて明翠につつぬけだろう。だから雨音が、一葉のことを考えていたのも、すでに伝わっているはずだ。
この屋敷に十年も暮らしていて、一葉の話を聞いたのは今日がはじめてだった。これまで明翠の心に、他の誰かの影を感じなかったわけではないが、雨音はあえて気づかないふりをしてた。また明翠も、そんな雨音を尊重して、自ら話そうとはしなかった。
雨音はほんの少しだけ、一葉がうらやましかった。
(俺は、まともな茶碗ひとつ作れなかったもんな)
雨音は、明翠に師事したにもかかわらず、早々に器作りをあきらめてしまったことを今でも悔んでいた。
(俺、あんなに無理言って弟子にしてもらったのに……)
雨音だって、いいかげんな気持ちで弟子入りしたわけではなかった。だが、ろくろを前にすると、腕がしびれたように動かなくなり、いくら力をこめても土の塊は器の形にならなかった。
(もう少しだけがんばったら、なにか変わったのかな)
「……気にするな。人には得手不得手があるものだ」
なぐさめるように肩をなでられ、少々気まずくなる。若い姿をしていても、中身はもう三十近いのだから、もう物知らずな若者ではないつもりだ。それなのに、いまだ引きずっている気持ちを、どう処理したらいいかわからないでいる。
そんな雨音に対し、明翠はあきれることなく、やさしく耳元で囁いた。
「あのときも説明したと思うが、私の神気を体内に入れた影響なゆえ、気に病むことはない」
明翠の直接的とも言える言葉に、雨音は顔から火を吹く思いでうつむく。ほぼ毎晩抱かれるため、明翠の神気で体内が満たされ、不思議と力がみなぎる。だがその反動か、工房がある庵では体が思うように動かせず、力が入らなくなってしまうのだった。
明翠によると、庵が神界と下界の狭間にあるのが原因らしい。神気をまとう体で下界にとどまるには、神気の制御のためにも、一定の体力が必要不可欠だという。
「情けないです……」
「いや……情けないのは、毎夜お前をはなせない私だ。それ以上は、深く考えないでくれるか」
たしかに神気を取りこまなければ、体に影響が出なくなるだろうが、そうすると明翠にいろいろと我慢を強いることになる。
(我慢、なのかな? 俺と、その、床を一緒にしなくても……本当はただ、おそばにいるだけでよかったのかもしれない)
「いや待て、そうではない! そのような酷なことは考えないでくれ」
めずらしくあせったように両肩をつかまれ、雨音はうろたえた。
「明翠様?」
「お前には、本当にすまないと思っている。出来るだけおさえているが、以前と比べて神気が強まってしまい……負担をかけたくないが、こればかりは」
美しく整った顔が近づくと、そのまばゆさに雨音はいまだ心臓がはね、緊張して身をかたくしてしまう。明翠は、そんな物慣れないところも好きだと言ってくれるが、雨音はそんな自分が嫌で、明翠の気持ちがうまく理解できなかった。
「無理に理解しようとするな」
顔を上げると、明翠の銀色の長い睫毛が、暗がりの中で星屑のように光っていた。熱い吐息が頬にかかると、胸の奥が甘くうずく。
「お前の良さは、私だけがわかっていればいい……だから」
まるで壊れ物をあつかう繊細さで抱きよせられ、ようやく雨音の体からこわばりがひいていく。すると明翠の体が、少し熱をはらみ、ふれたところからその熱が流れこんできた。
(これが神気なのかな)
雨音は人の身なので、はっきりと神気そのものを感じとれない。なんとなく温かく、満ちたりたもののようだが、そんなぼんやりとした感覚しかないため、たとえ体力があっても制御など到底できそうもなかった。
(でも、いつかできるといいな。そうすれば以前のように、もっと庵へ通って、明翠様のお手伝いができる)
「ああ。それに、人の里に下りることも可能になる。短い間なら、な」
(そうか、人の里にも……)
「ほんの短い間だけだ。それ以上は、無理だ……私が」
腕の拘束が強まる。その意味を、今さら問う必要もない……雨音だって、明翠と長くはなれては、生きていけないのだから。
(人の世界に、もう未練はない。だって居場所もなければ、会うべき人もいないのだから)
「……お前には弟がいるだろう」
(お別れは、すでに十年前にすませました。それに今、俺がこの姿で弥吉に会ったら……おどろかせてしまう)
「それは……」
(それに俺も、今のあの子を知らない。きっと会っても、変わりすぎて気づかないでしょう)
今の弟には、今の生活がある。きっと自分の人生を、精一杯生きているだろう。そこに自分が、過去の亡霊のように現れても、いたずらに困惑させるだけだ……雨音は小さく首をふった。理解はできても、心が追いつかない。
(いつまでも子どもじみた感情がすてられずに、物分かりも悪くって、我ながら嫌になってしまいます。もっといろいろ知れば、自分自身の中で、心の折りあいがつくのでしょうか)
「どうだろう。お前は十八のころからずっと、この屋敷で暮らしてきた。そのため、さまざまな経験や知識を得る機会が、どうしても限られてしまう」
(それは……良くないことですよね)
「もし良くないとするならば、責任は私にある。お前をここにとどめているのは、他でもない私なのだから」
「それは違います!」
雨音は、つい声に出してしまった。明翠の澄んだ瞳に一瞬、悲しげな色が帯びるのを見逃さなかった。
「俺は自分の意志で、明翠様のそばにいるんです。あなたとともにいるって、俺自身が望んでいるんです」
「すまない、そうだったな」
そう口では言っても、これからも明翠はくりかえし思い悩むに違いない。雨音が人として生まれたからには、人の生活があったはずだと。それをうばったのは、己のせいだと。
(そんな気持ちにさせる俺こそ、自分を責めたくなってしまう)
「雨音、それは……」
(だから、俺たち一緒です。つらい気持ちも、わかりあえます……)
「雨音……」
明翠の薄く色づいた唇が震え、言葉を失くしたまま、ゆっくりと近づいてくる。重なり合うと、温かい何かが体に流れこんできた。だがそれが心に染みこむ瞬間、しみるような痛みを覚える。
ただ一緒にいられれば幸せだなんて、そんな単純な話ではない。互いが、なにかをささげあい、何かを失って、そこから新しいなにかが生まれる。それを幸福と呼ぶならば、相手の何かを奪った上での感情だ。罪深い気持ちになるのは、どうしようもないのではないか。
雨音は自分の考えが、どこか未熟で誤っていると自覚していた。明翠はそれをわかっていながら、無理に悟らせようとはしない。わかった上で受けいれるのが、彼の愛しかたなのだろう。
愛し方には、いろいろな形がある。どのやりかたを選ぶのかは、誰かに指図されて決めるのではない……己が決めるのだ。
白い花の咲く夜は、二つの寄りそう影を静かに、やさしく包んでいた。
隣ではそろいの寝巻きを着た明翠が、背を向けておだやかな寝息をたてている。
(よかった……)
雨音は安堵しつつ布団からはい出ると、音を立てないようそっと障子を細く開いて、部屋の外へと身をすべらせた。
柱にもたれながら縁側の端に座り、素足を地面に向けてぶらつかせる。少しひんやりした空気の中で、薄闇に顔をのぞかせる月下美人の白い花弁が、儚げにゆれていた。
明翠の神気が高まるにしたがって、屋敷の守りがより強固となる。それを知ったのは、この屋敷へやって来てからまだ日が浅いころだった。
だが、だいぶ日が経ってから、もう一つ気づいたことがある。それは屋敷をとりまく気候が、明翠の気持ちを写す鏡となっていることだ。
心が晴やかなら、辺りは暖かくおだやかな空気に包まれ、悲しい気持ちになれば、雨がしとしとと降りそそぐ。仄暗い追想をされた日は、天上は鉛色の空に包まれ、しんみりした夜には、冷えこむ闇夜が帳を下ろす。
雨音はあらためて庭をながめた。暗い茂みのあちらこちらで、白く美しい大輪の花が咲き乱れてる。月明かりに照らされて青白く光り、少し冷たい風にゆれる姿は、切ない過去を連想させられた。
「眠れないのか」
「……明翠様」
肩にかけられた羽織は温かく、ほのかに明翠の香りがした。よりそうように座られては、何も話さず部屋へ引きかえすわけにはいかない。
「なにを気にしてる?」
「……いろいろです」
肩にぶつかる腕の温かさで、雨音の考えはすべて明翠につつぬけだろう。だから雨音が、一葉のことを考えていたのも、すでに伝わっているはずだ。
この屋敷に十年も暮らしていて、一葉の話を聞いたのは今日がはじめてだった。これまで明翠の心に、他の誰かの影を感じなかったわけではないが、雨音はあえて気づかないふりをしてた。また明翠も、そんな雨音を尊重して、自ら話そうとはしなかった。
雨音はほんの少しだけ、一葉がうらやましかった。
(俺は、まともな茶碗ひとつ作れなかったもんな)
雨音は、明翠に師事したにもかかわらず、早々に器作りをあきらめてしまったことを今でも悔んでいた。
(俺、あんなに無理言って弟子にしてもらったのに……)
雨音だって、いいかげんな気持ちで弟子入りしたわけではなかった。だが、ろくろを前にすると、腕がしびれたように動かなくなり、いくら力をこめても土の塊は器の形にならなかった。
(もう少しだけがんばったら、なにか変わったのかな)
「……気にするな。人には得手不得手があるものだ」
なぐさめるように肩をなでられ、少々気まずくなる。若い姿をしていても、中身はもう三十近いのだから、もう物知らずな若者ではないつもりだ。それなのに、いまだ引きずっている気持ちを、どう処理したらいいかわからないでいる。
そんな雨音に対し、明翠はあきれることなく、やさしく耳元で囁いた。
「あのときも説明したと思うが、私の神気を体内に入れた影響なゆえ、気に病むことはない」
明翠の直接的とも言える言葉に、雨音は顔から火を吹く思いでうつむく。ほぼ毎晩抱かれるため、明翠の神気で体内が満たされ、不思議と力がみなぎる。だがその反動か、工房がある庵では体が思うように動かせず、力が入らなくなってしまうのだった。
明翠によると、庵が神界と下界の狭間にあるのが原因らしい。神気をまとう体で下界にとどまるには、神気の制御のためにも、一定の体力が必要不可欠だという。
「情けないです……」
「いや……情けないのは、毎夜お前をはなせない私だ。それ以上は、深く考えないでくれるか」
たしかに神気を取りこまなければ、体に影響が出なくなるだろうが、そうすると明翠にいろいろと我慢を強いることになる。
(我慢、なのかな? 俺と、その、床を一緒にしなくても……本当はただ、おそばにいるだけでよかったのかもしれない)
「いや待て、そうではない! そのような酷なことは考えないでくれ」
めずらしくあせったように両肩をつかまれ、雨音はうろたえた。
「明翠様?」
「お前には、本当にすまないと思っている。出来るだけおさえているが、以前と比べて神気が強まってしまい……負担をかけたくないが、こればかりは」
美しく整った顔が近づくと、そのまばゆさに雨音はいまだ心臓がはね、緊張して身をかたくしてしまう。明翠は、そんな物慣れないところも好きだと言ってくれるが、雨音はそんな自分が嫌で、明翠の気持ちがうまく理解できなかった。
「無理に理解しようとするな」
顔を上げると、明翠の銀色の長い睫毛が、暗がりの中で星屑のように光っていた。熱い吐息が頬にかかると、胸の奥が甘くうずく。
「お前の良さは、私だけがわかっていればいい……だから」
まるで壊れ物をあつかう繊細さで抱きよせられ、ようやく雨音の体からこわばりがひいていく。すると明翠の体が、少し熱をはらみ、ふれたところからその熱が流れこんできた。
(これが神気なのかな)
雨音は人の身なので、はっきりと神気そのものを感じとれない。なんとなく温かく、満ちたりたもののようだが、そんなぼんやりとした感覚しかないため、たとえ体力があっても制御など到底できそうもなかった。
(でも、いつかできるといいな。そうすれば以前のように、もっと庵へ通って、明翠様のお手伝いができる)
「ああ。それに、人の里に下りることも可能になる。短い間なら、な」
(そうか、人の里にも……)
「ほんの短い間だけだ。それ以上は、無理だ……私が」
腕の拘束が強まる。その意味を、今さら問う必要もない……雨音だって、明翠と長くはなれては、生きていけないのだから。
(人の世界に、もう未練はない。だって居場所もなければ、会うべき人もいないのだから)
「……お前には弟がいるだろう」
(お別れは、すでに十年前にすませました。それに今、俺がこの姿で弥吉に会ったら……おどろかせてしまう)
「それは……」
(それに俺も、今のあの子を知らない。きっと会っても、変わりすぎて気づかないでしょう)
今の弟には、今の生活がある。きっと自分の人生を、精一杯生きているだろう。そこに自分が、過去の亡霊のように現れても、いたずらに困惑させるだけだ……雨音は小さく首をふった。理解はできても、心が追いつかない。
(いつまでも子どもじみた感情がすてられずに、物分かりも悪くって、我ながら嫌になってしまいます。もっといろいろ知れば、自分自身の中で、心の折りあいがつくのでしょうか)
「どうだろう。お前は十八のころからずっと、この屋敷で暮らしてきた。そのため、さまざまな経験や知識を得る機会が、どうしても限られてしまう」
(それは……良くないことですよね)
「もし良くないとするならば、責任は私にある。お前をここにとどめているのは、他でもない私なのだから」
「それは違います!」
雨音は、つい声に出してしまった。明翠の澄んだ瞳に一瞬、悲しげな色が帯びるのを見逃さなかった。
「俺は自分の意志で、明翠様のそばにいるんです。あなたとともにいるって、俺自身が望んでいるんです」
「すまない、そうだったな」
そう口では言っても、これからも明翠はくりかえし思い悩むに違いない。雨音が人として生まれたからには、人の生活があったはずだと。それをうばったのは、己のせいだと。
(そんな気持ちにさせる俺こそ、自分を責めたくなってしまう)
「雨音、それは……」
(だから、俺たち一緒です。つらい気持ちも、わかりあえます……)
「雨音……」
明翠の薄く色づいた唇が震え、言葉を失くしたまま、ゆっくりと近づいてくる。重なり合うと、温かい何かが体に流れこんできた。だがそれが心に染みこむ瞬間、しみるような痛みを覚える。
ただ一緒にいられれば幸せだなんて、そんな単純な話ではない。互いが、なにかをささげあい、何かを失って、そこから新しいなにかが生まれる。それを幸福と呼ぶならば、相手の何かを奪った上での感情だ。罪深い気持ちになるのは、どうしようもないのではないか。
雨音は自分の考えが、どこか未熟で誤っていると自覚していた。明翠はそれをわかっていながら、無理に悟らせようとはしない。わかった上で受けいれるのが、彼の愛しかたなのだろう。
愛し方には、いろいろな形がある。どのやりかたを選ぶのかは、誰かに指図されて決めるのではない……己が決めるのだ。
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