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第三部
五、過去の迷い人
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色とりどりの花が咲き乱れる小さな草原には、日の光が届かない代わりに、草の根元から発する淡い光に満ち溢れていた。
草原の中央では、小柄で細身の青年がしゃがみ込み、熱心に草花をかきわけている。青年は着物の袖や裾が汚れるのも厭わず、目の前の事に夢中になっていた。
青年の切りそろえられた黒髪が微風に揺れ、白い額が覗いたその時……良く通る低い声が、辺りの空気に溶け込むように響いた。
「雨音……そこにいるのだろう?」
雨音と呼ばれた青年はぱっと顔を輝かせると、草まみれになった着物の裾をはらって立ち上がった。雨音の視線の先には、銀色の長い髪をなびかせる美しい神が佇んでいた。
「明翠様、お帰りなさいませ」
明翠と呼ばれた神は、慈愛に満ちた紫紺の瞳で青年を見つめていた。
「随分と早いお戻りでしたね。もしや何か、急なご用でも……」
「いや、そうではない」
「あっ……わわ、明翠様、お着物が汚れてしまいます!」
明翠に抱きすくめられた雨音は、囲い込む両腕の中で必死にもがいた。先刻まで草花の観察に熱中していた為、全身泥だらけになっているので、このままでは明翠の美しい衣が汚れてしまう。
「雨音、会いたかった」
「明翠様……」
雨音は観念して力を抜くと、温かな胸に身を寄せた。若草の香りとやさしい温もりに包まれ、うっとりと目を閉じる。
(やっぱり出掛けたりせずに、お屋敷でお帰りをお待ちしてればよかったなあ……)
ここ二日ほど、明翠は仕事で屋敷を空けていた。帰りは今日の夕方になると聞いていたので、日の高いうちは大丈夫だろうと草原へやって来たのだが、まさか昼餉前に帰宅するとは完全に予想外だった。
(お出迎えできなくて、ごめんなさい)
心の中で後悔の念に駆られていると、やさしい指先で頬にかかる髪を梳かれた。
「出迎えなど、構わないと言っているだろう」
(でもお帰りになった時、俺がお屋敷にいなかったから……きっと探されたでしょう?)
「そのようなこと……」
不自然に途切れてしまった言葉に、雨音はそっと明翠の顔を見上げた。すると今度は予想通り、顔を真っ赤に染めた明翠が、口を引き結んで明後日の方角を向いている。気まずい時に必ず見せる、明翠のいつもの表情だった。
「それで、今日は何をしていた?」
「昨日、野鳥の卵を見つけたんです。蛇に食べられてないか心配で、今日も様子を見にきたのですが……」
明翠は雨音の視線を追うように、草むらを見下ろした。そこには小さな籠のような巣があり、中には親指ほどの青い卵が三つ頭をのぞかせている。
「それでは私の加護を授けよう……そうすれば、蛇などに襲われたりしない」
「え、そのような事が可能なのですか!?」
「この場所ならば、な」
雨音はその言葉に納得した。この草原は屋敷の裏手から繋がっている……つまり、明翠の結界内だ。従って、明翠の力が最も及ぶところであり、彼の加護を与えられたものにとっては最も安全な場所となる。
雨音が神界にやってきて、早十年が過ぎようとしていた。
だが明翠の元で生きると決めてから、年月はそれほど重要ではなくなった。神界では人の時は止まってしまうらしく、雨音の外見も十八の頃から変わってない。
だが明翠は、十年前から美しい姿をしていたが、年月を経るごとにますます美しく、輝かしく変化しているように思う。屋敷の女中頭である胡蝶によると、神気が強くなっている証だそうで、なぜか雨音のお陰だと信じて疑わない。
(俺には、何の力も無いのになあ……)
そして屋敷の様子も、ここ十年の間にずいぶんと様変わりした。
まず白い霧が遥か遠くまで後退したため、屋敷の周囲には清々しい竹林や草原が広がり、また常に美しい草花が庭ばかりではなく、そこかしこに咲き乱れるようになった。
また屋敷内でも、たびたび不思議な現象を目にする。一番驚いたのは、胡蝶を始めとする狐達が、人の姿を取るようになったことだ。これも明翠の神気と関係しているそうで、人の姿になった狐達は、しきりと雨音に礼を述べるので困惑してしまう。
(つまるところ、明翠様のお力なのに……)
ふと雨音は首だけ回して、背後に広がる草原をながめた。遠く後方に霞む白い霧は、昔ほど怖くなくなった……特に、明翠の傍にいる時は安心感しかない。ただ居心地良さと同時に、抑えきれない胸の高鳴りも覚えて少し恥ずかしいが。
「……っ……可愛い事を」
「あっ……明翠、様……」
ふわりと草の上に押し倒され、雨音は一瞬、誤って巣を壊してしまわないかと心配になる。
「案ずるな。お前が大事に思っているものを、この私が傷つけると思うか」
「あ、いいえ……やっ、あ……」
着物の襟が開かれ、熱い手と舌で素肌をなぞられると、自然と背が跳ねてしまう。着物のすそから太腿の内側へと這わされた手に、二日前の夜にさんざん受け止めた熱を思い出してしまい、羞恥心で顔から火が出るほど恥ずかしい。
「ま、待ってくださ……」
「待たない」
明翠は言葉足らずのところもあるが、その分態度で示してくれるので不安は無かった。だが時として、それは行き過ぎた行為……たとえば今のような……となり、その度に雨音は困ってしまう。
だが触れただけで雨音の心の内を『分かって』しまう明翠の前では、本気で嫌がっていないことも伝わってしまうので、遠慮無くあふれんばかりの愛情を注がれてしまい、こばむ術もなかった。
「雨音、雨音……愛してる、雨音」
行き過ぎた快楽からあふれ出た涙で曇った視界の先に、蕩けそうな笑みを向ける美しい顔がうつる。明翠の愛はとどまることを知らず、雨音は受け止めきれているか今一つ自信が持てないが、明翠はそれすらも愛おしいと言う。そんな風に言われてしまっては、潔く身をゆだねるしかない。
雨音は、あたかも荒波に放り出された小舟のように、激しく打ち寄せる波の狭間で、今日も明翠の思うままに揺さぶられるのだった。
屋敷に戻ると、めずらしく客人が待ち構えていた。
「松葉様……お久しぶりです!」
赤銅色の髪を長く垂らし、背筋を伸ばして茶をすすっていたのは、かつてこの屋敷で明翠の側仕えをしていた松葉だった。雨音も勉強を見てもらったり、礼儀作法を教わったりと、何かと世話になったが、松葉の指導は容赦なく厳しかったので、慣れてないうちは少しばかり怖く思っていた。
しかし松葉が街へ移り住んでからは、会う機会もめっきり減ってしまい、しばらくの間はずいぶんと寂しく感じたものだ。
松葉は湯呑を茶たくに置くと、明翠と雨音に冷めた視線をよこした。
「本当に、久しぶりに戻ってきても、あなたがたは相変わらずですね」
「えっ、どういう意味でしょう」
明翠は無言で口元を緩めると、首を傾げている雨音の髪を整えるように撫でた。己の乱れた髪に情事の名残を感じ、雨音の頬はみるみるうちに火照り出す。
(は、恥ずかしい……これも全部、明翠様のせいだ……!)
雨音はほんの少し明翠を恨めしく思ったが、こうなっては後の祭りと言うものだ。
「まあ仲がよろしいのは、結構なことですけどね」
松葉が淡々とした態度を崩さずに、興味無さそうな口調で話してくれるのが、せめてもの救いだろう。
「それで、今日の用向きはなんだ」
「右京の使いで参りました」
松葉は、街で雑貨屋を営む右京の元で暮らしていた。右京は『神格持ち』と呼ばれる、神力を操る能力を持っていて、明翠と同じく神族に属する立場らしい。また医学の心得もあり、大けがした松葉の命を救ってくれたこともあるので、雨音は彼をとても尊敬していた。
「右京か……」
微かに眉を寄せる明翠は、右京とは仕事を通して付き合いが長いにもかかわらず、あまり相性が良くない。右京の奔放であけすけな物言いは、雨音には気さくで好ましく思えるが、どうやら明翠は苦手のようだ。ただ右京の方は、一方的に明翠を気に入っているようで、事あるごとに手を差し伸べてくれる。
「下界で、明翠様の器のひとつが見つかったそうです」
松葉の言葉に、雨音は息を飲みこんだ。右京はこれまで、下界に存在する明翠の器を探し出し、回収する作業を何年もかけて行ってきたと聞いている。
明翠は自分の手掛けた器が、下界の人々の間でいさかいを招くと考えていた。明翠が右京に頼んだのか、右京が自ら買って出たのか、詳しいいきさつは知らないが、下界に現存する器はひとつ残らず回収するつもりでいるらしい。
「ではいつものように、回収した後は店で売るなり好きにしろと、右京に伝えてくれ」
「……どうやら一葉が持ち出した、最後のひとつだそうです」
松葉の言葉の後、不自然な間があった。だが一呼吸おいて、明翠は静かに口を開いた。
「そうか。では見つけ次第、破壊しろ」
明翠は立ち上がると、雨音と松葉に背を向けて、さっさと部屋を出て行ってしまった。雨音は唖然としたまま、明翠が出て行った襖を見つめる。
「明翠様、どうされたのでしょうか……それに一葉って……」
「一葉は、以前この屋敷で暮らしたことのある人間です」
松葉の言葉は、雨音の心にさざなみを立たせる。
「今から五十年近く前の話になるでしょうか……明翠様が、緑永山に迷い込んだ一葉を見つけ、この屋敷へ連れてきたのは」
雨音は衝撃のあまり、頭が真っ白になってしまった。自分の前に、明翠と暮らしたことがある人間が存在したなど、考えたこともなかった。
(でも俺だって、明翠様に緑永山で拾われたんだ……他に俺と同じような人がいたって、不思議じゃないのに)
むしろ今まで、その考えにおよばなかったのが不思議でならない。明翠は慈悲深い神で、自分のようなさまつな人間にも、慈悲と愛情を注いでくださる方だ。
「雨音、大丈夫ですか」
「何がでしょう」
「顔色が悪いですよ。この話を聞きたくないなら、話すのは止しましょう」
「いえ、どうかお聞かせください」
雨音は身を乗り出すと、松葉の袖にすがりついて懇願する。自分は知る必要がある。一葉という人物は何者で、どこからやってきて、なぜここからいなくなったのか。
「分かりました……では私が知っている事だけ話しましょう」
松葉は小さくため息をついた。
草原の中央では、小柄で細身の青年がしゃがみ込み、熱心に草花をかきわけている。青年は着物の袖や裾が汚れるのも厭わず、目の前の事に夢中になっていた。
青年の切りそろえられた黒髪が微風に揺れ、白い額が覗いたその時……良く通る低い声が、辺りの空気に溶け込むように響いた。
「雨音……そこにいるのだろう?」
雨音と呼ばれた青年はぱっと顔を輝かせると、草まみれになった着物の裾をはらって立ち上がった。雨音の視線の先には、銀色の長い髪をなびかせる美しい神が佇んでいた。
「明翠様、お帰りなさいませ」
明翠と呼ばれた神は、慈愛に満ちた紫紺の瞳で青年を見つめていた。
「随分と早いお戻りでしたね。もしや何か、急なご用でも……」
「いや、そうではない」
「あっ……わわ、明翠様、お着物が汚れてしまいます!」
明翠に抱きすくめられた雨音は、囲い込む両腕の中で必死にもがいた。先刻まで草花の観察に熱中していた為、全身泥だらけになっているので、このままでは明翠の美しい衣が汚れてしまう。
「雨音、会いたかった」
「明翠様……」
雨音は観念して力を抜くと、温かな胸に身を寄せた。若草の香りとやさしい温もりに包まれ、うっとりと目を閉じる。
(やっぱり出掛けたりせずに、お屋敷でお帰りをお待ちしてればよかったなあ……)
ここ二日ほど、明翠は仕事で屋敷を空けていた。帰りは今日の夕方になると聞いていたので、日の高いうちは大丈夫だろうと草原へやって来たのだが、まさか昼餉前に帰宅するとは完全に予想外だった。
(お出迎えできなくて、ごめんなさい)
心の中で後悔の念に駆られていると、やさしい指先で頬にかかる髪を梳かれた。
「出迎えなど、構わないと言っているだろう」
(でもお帰りになった時、俺がお屋敷にいなかったから……きっと探されたでしょう?)
「そのようなこと……」
不自然に途切れてしまった言葉に、雨音はそっと明翠の顔を見上げた。すると今度は予想通り、顔を真っ赤に染めた明翠が、口を引き結んで明後日の方角を向いている。気まずい時に必ず見せる、明翠のいつもの表情だった。
「それで、今日は何をしていた?」
「昨日、野鳥の卵を見つけたんです。蛇に食べられてないか心配で、今日も様子を見にきたのですが……」
明翠は雨音の視線を追うように、草むらを見下ろした。そこには小さな籠のような巣があり、中には親指ほどの青い卵が三つ頭をのぞかせている。
「それでは私の加護を授けよう……そうすれば、蛇などに襲われたりしない」
「え、そのような事が可能なのですか!?」
「この場所ならば、な」
雨音はその言葉に納得した。この草原は屋敷の裏手から繋がっている……つまり、明翠の結界内だ。従って、明翠の力が最も及ぶところであり、彼の加護を与えられたものにとっては最も安全な場所となる。
雨音が神界にやってきて、早十年が過ぎようとしていた。
だが明翠の元で生きると決めてから、年月はそれほど重要ではなくなった。神界では人の時は止まってしまうらしく、雨音の外見も十八の頃から変わってない。
だが明翠は、十年前から美しい姿をしていたが、年月を経るごとにますます美しく、輝かしく変化しているように思う。屋敷の女中頭である胡蝶によると、神気が強くなっている証だそうで、なぜか雨音のお陰だと信じて疑わない。
(俺には、何の力も無いのになあ……)
そして屋敷の様子も、ここ十年の間にずいぶんと様変わりした。
まず白い霧が遥か遠くまで後退したため、屋敷の周囲には清々しい竹林や草原が広がり、また常に美しい草花が庭ばかりではなく、そこかしこに咲き乱れるようになった。
また屋敷内でも、たびたび不思議な現象を目にする。一番驚いたのは、胡蝶を始めとする狐達が、人の姿を取るようになったことだ。これも明翠の神気と関係しているそうで、人の姿になった狐達は、しきりと雨音に礼を述べるので困惑してしまう。
(つまるところ、明翠様のお力なのに……)
ふと雨音は首だけ回して、背後に広がる草原をながめた。遠く後方に霞む白い霧は、昔ほど怖くなくなった……特に、明翠の傍にいる時は安心感しかない。ただ居心地良さと同時に、抑えきれない胸の高鳴りも覚えて少し恥ずかしいが。
「……っ……可愛い事を」
「あっ……明翠、様……」
ふわりと草の上に押し倒され、雨音は一瞬、誤って巣を壊してしまわないかと心配になる。
「案ずるな。お前が大事に思っているものを、この私が傷つけると思うか」
「あ、いいえ……やっ、あ……」
着物の襟が開かれ、熱い手と舌で素肌をなぞられると、自然と背が跳ねてしまう。着物のすそから太腿の内側へと這わされた手に、二日前の夜にさんざん受け止めた熱を思い出してしまい、羞恥心で顔から火が出るほど恥ずかしい。
「ま、待ってくださ……」
「待たない」
明翠は言葉足らずのところもあるが、その分態度で示してくれるので不安は無かった。だが時として、それは行き過ぎた行為……たとえば今のような……となり、その度に雨音は困ってしまう。
だが触れただけで雨音の心の内を『分かって』しまう明翠の前では、本気で嫌がっていないことも伝わってしまうので、遠慮無くあふれんばかりの愛情を注がれてしまい、こばむ術もなかった。
「雨音、雨音……愛してる、雨音」
行き過ぎた快楽からあふれ出た涙で曇った視界の先に、蕩けそうな笑みを向ける美しい顔がうつる。明翠の愛はとどまることを知らず、雨音は受け止めきれているか今一つ自信が持てないが、明翠はそれすらも愛おしいと言う。そんな風に言われてしまっては、潔く身をゆだねるしかない。
雨音は、あたかも荒波に放り出された小舟のように、激しく打ち寄せる波の狭間で、今日も明翠の思うままに揺さぶられるのだった。
屋敷に戻ると、めずらしく客人が待ち構えていた。
「松葉様……お久しぶりです!」
赤銅色の髪を長く垂らし、背筋を伸ばして茶をすすっていたのは、かつてこの屋敷で明翠の側仕えをしていた松葉だった。雨音も勉強を見てもらったり、礼儀作法を教わったりと、何かと世話になったが、松葉の指導は容赦なく厳しかったので、慣れてないうちは少しばかり怖く思っていた。
しかし松葉が街へ移り住んでからは、会う機会もめっきり減ってしまい、しばらくの間はずいぶんと寂しく感じたものだ。
松葉は湯呑を茶たくに置くと、明翠と雨音に冷めた視線をよこした。
「本当に、久しぶりに戻ってきても、あなたがたは相変わらずですね」
「えっ、どういう意味でしょう」
明翠は無言で口元を緩めると、首を傾げている雨音の髪を整えるように撫でた。己の乱れた髪に情事の名残を感じ、雨音の頬はみるみるうちに火照り出す。
(は、恥ずかしい……これも全部、明翠様のせいだ……!)
雨音はほんの少し明翠を恨めしく思ったが、こうなっては後の祭りと言うものだ。
「まあ仲がよろしいのは、結構なことですけどね」
松葉が淡々とした態度を崩さずに、興味無さそうな口調で話してくれるのが、せめてもの救いだろう。
「それで、今日の用向きはなんだ」
「右京の使いで参りました」
松葉は、街で雑貨屋を営む右京の元で暮らしていた。右京は『神格持ち』と呼ばれる、神力を操る能力を持っていて、明翠と同じく神族に属する立場らしい。また医学の心得もあり、大けがした松葉の命を救ってくれたこともあるので、雨音は彼をとても尊敬していた。
「右京か……」
微かに眉を寄せる明翠は、右京とは仕事を通して付き合いが長いにもかかわらず、あまり相性が良くない。右京の奔放であけすけな物言いは、雨音には気さくで好ましく思えるが、どうやら明翠は苦手のようだ。ただ右京の方は、一方的に明翠を気に入っているようで、事あるごとに手を差し伸べてくれる。
「下界で、明翠様の器のひとつが見つかったそうです」
松葉の言葉に、雨音は息を飲みこんだ。右京はこれまで、下界に存在する明翠の器を探し出し、回収する作業を何年もかけて行ってきたと聞いている。
明翠は自分の手掛けた器が、下界の人々の間でいさかいを招くと考えていた。明翠が右京に頼んだのか、右京が自ら買って出たのか、詳しいいきさつは知らないが、下界に現存する器はひとつ残らず回収するつもりでいるらしい。
「ではいつものように、回収した後は店で売るなり好きにしろと、右京に伝えてくれ」
「……どうやら一葉が持ち出した、最後のひとつだそうです」
松葉の言葉の後、不自然な間があった。だが一呼吸おいて、明翠は静かに口を開いた。
「そうか。では見つけ次第、破壊しろ」
明翠は立ち上がると、雨音と松葉に背を向けて、さっさと部屋を出て行ってしまった。雨音は唖然としたまま、明翠が出て行った襖を見つめる。
「明翠様、どうされたのでしょうか……それに一葉って……」
「一葉は、以前この屋敷で暮らしたことのある人間です」
松葉の言葉は、雨音の心にさざなみを立たせる。
「今から五十年近く前の話になるでしょうか……明翠様が、緑永山に迷い込んだ一葉を見つけ、この屋敷へ連れてきたのは」
雨音は衝撃のあまり、頭が真っ白になってしまった。自分の前に、明翠と暮らしたことがある人間が存在したなど、考えたこともなかった。
(でも俺だって、明翠様に緑永山で拾われたんだ……他に俺と同じような人がいたって、不思議じゃないのに)
むしろ今まで、その考えにおよばなかったのが不思議でならない。明翠は慈悲深い神で、自分のようなさまつな人間にも、慈悲と愛情を注いでくださる方だ。
「雨音、大丈夫ですか」
「何がでしょう」
「顔色が悪いですよ。この話を聞きたくないなら、話すのは止しましょう」
「いえ、どうかお聞かせください」
雨音は身を乗り出すと、松葉の袖にすがりついて懇願する。自分は知る必要がある。一葉という人物は何者で、どこからやってきて、なぜここからいなくなったのか。
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