神界の器

高菜あやめ

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第三部

四、白波事件

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 西久世にしくぜは、屋敷の当主にもかかわらず、庭の舞台正面に設えられた特別席ではなく、庭の隅にひっそりと佇む茶室にいた。
 湊は遠慮もなく小さな入口から室内に這って入るので、飛鳥も後に続くことにする。想像以上に小さな部屋に驚愕するものの、天井は高く息苦しさは感じなかった。
「お久しぶりです」
 みなとは、先ほどの宴の席と打って変わって、飾り気の無い、明るくほがらかな口調で部屋の主にあいさつをする。
「よく来たな」
 小部屋の奥に座っている西久世と思われる男は、短くも温かみのある口調で返答し、湊の訪れを心から喜んでいるように見えた。
 匡院宮家きょういんのみやけ当主との面会と違い、穏やかな笑みを交わす二人の間には、親愛の情のようなものが伝わってきた。同席する飛鳥は、わずかな疎外感とともに、己の存在が酷く場違いな気がして一層落ち着かなくなる。
「飛鳥」
 湊に名前を呼ばれ、我に返った飛鳥は、西久世へ向かって深々と頭を下げた。
「はじめまして、飛鳥と申します」
「よく都へいらしたな。湊の説得に応じたか」
 西久世は気さくな口調で飛鳥に声をかけてきた。年の頃は三十半ば過ぎだろうか、落ち着きある物腰と涼し気な一重の目元が、都の貴人らしく洗練された風貌に男らしい色気を加えている。飛鳥が出会った数少ない大人の男の中でも、間違いなく魅力的な人物と言えるだろう。
 西久世は湊と飛鳥に対し、流れるような所作で茶をたててくれた。ほろ苦い抹茶の口当たりはまろやかで、宴の喧騒での緊張がほどけていくようだ。
「湊とは長い付き合いでね。もう二十年になるか」
「私が宮中へ参内(さんだい)した時分からなので、そのくらいになりますね。まだ物も分からぬ子どもだった自分を、いろいろ助けてくださいました」
「いやこちらもほんの若造で、それほど世間を知っていたわけでない。特に宮中は恐ろしい場所だからな」
 西久世の言葉には、どこか含みを持たせた響きがあった。
(湊が宮廷に出仕されていた頃からの付き合い、か……)
 飛鳥が出会った頃には、湊はすでに志摩国しまのくにで隠遁生活を送っていたのだから、それ以前からとなると確かに長いつきあいだ。二人の間に、どことなく互いを懐かしむ空気が取り巻くのも不思議ではない。
 しかも、湊がこのように他人に対して気を許している姿はめずらしい。それほど信頼を置いている、この西久世という男に、飛鳥はがぜん興味がわいた。
「お二人はどのように知り合ったのでしょうか」
「そうだな、湊が出仕してしばらく経ったころか」
「ええ、あの時は本当にお世話になりました……あなたの助けがあったからこそ、私は今こうしていられる」
 湊の言葉に、飛鳥は首を捻る。
(それは一体、どういう意味だろう)
 飛鳥の疑問を他所に、西久世はかすかに眉を上げた。
「……湊、お前は彼に話したのか」
「いえ。この場をお借りして、あなたの口からお話していただこうかと。これでも一応、彼の養い親のようなものですから、どうしても口が重くなってしまいまして……気がつけば、十年も経ってしまいました」
 湊の静かな瞳が、飛鳥を見つめている。
「飛鳥、お前は私のそばにいたいと言ったね?」
「ええ、申し上げましたが……」
「では、これから話す事を聞いて、それでも私のそばにいたいというなら……止めないよ」
 湊の表情は凪いだ海のように、静かで穏やかだった。

 二十年前、宮中で複数の公家による乱交事件が発覚した。
 首謀者は、代々摂政せっしょうを務める名門白波家の五男、白波一葉宗久しらなみかずさむねひさで、件の事件は俗に『白波事件』と呼ばれる。
 事件発覚当時、白波の他に公家出身の貴人が六名処分されたが、長年に渡って隠蔽されてきたこの悪習には、当時処分された者たちの数倍の人間が関わっていたであろうと、殿上人の間ではまことしやかにささやかれていた。
「罪に問われず、処分もまぬがれたが、匡院宮家もこの事件への関与を疑われた。そこで当時左大臣だった匡院宮家当主は、役職を返上し、家督を嫡子にゆずって隠居した」
 隠居した前当主は、事件後ごく僅かな人間を供に、行き先も告げずに都から姿をくらませたそうだ。いわゆる都落ちと呼ばれるやつだ。
「また事件に巻き込まれた者の中には、元服したばかりのいとけない若者も含まれていた……そうした者も、やがて密やかに都を出奔しゅっぽんし、どこぞの地方へ身を隠した」
 西久世はそこで言葉を切ると、飛鳥を真正面から見据えた。その視線を真っ直ぐ受け止めつつ、飛鳥は隣に座る湊の気配を感じていた。
(まさか……そんな、まさか……)
 静粛は、湊の小さなひと言でやぶられた。
「私のことだよ」
 静かな声音には、怒りや悲しみといった負の感情ではなく、すべてを達観した響きがあった。
「まだ十三だった私は、元服してすぐ宮中へ出仕した。父上である匡院宮家当主は、私の出仕を随分としぶったそうだが、主上の命とあれば仕方ない」
 当時から湊の美しさは、若くして都中に知れわたっていた。恐らく元服の儀に参列した人々の口の端に噂がのぼったのだろう。その噂は瞬く間に宮中にも広がり、主上の耳に入るまで時間はかからなかった。
 元服した頃の湊はきっと、少年特有の線の細さと相まって、絶世の美少女に見えたことだろう。飛鳥にも、当時の湊の姿を容易に想像できた。
(だが、そのせいで……湊は……)
 飛鳥は無意識に両手を固く握りしめていた。震えるこぶしにそっと触れた白い手に、飛鳥ははっとして顔を上げる。
「お前の考えている事は、大体想像がつく。でも本当に話したいことは、この先だ」
「この先、とは……?」
「私はね、そういう宮中で生きてきた人間だ。どういう意味かわかるか」
 重ねられた手が、とても冷たく感じる。
「いくら外見を取りつくろっても、中身はさほど綺麗じゃない。あの事件の後、しばらくあの場所で生き残るために、さまざまなことをしてきた。その多くは、あまりほめられたやり方ではなかった……西久世、あなたもそう思うだろう?」
「さあて、それを知って知らぬふりをするのが、都人かもしれないな。ただお前の強さとしたたかさは、嫌いではないよ?」
「あなたも、たいがい毒されてますね……都という名の毒に」
「お前は志摩の空気と水で、ずいぶんと清らかになったものだ」
「何をおっしゃいます。一度この毒に侵されたものは、そう簡単に清められるはずがない。そうでしょう?」
 湊は小さく笑うと、飛鳥に向きなおった。
「飛鳥……私がお前に都行きをすすめたのはね、この事実を知って私に幻滅してもらい、これからどう生きるか決めてもらいたかったからだ。お前が嫁をもらって田舎に住みたいと言うならば、どこか静かな場所を用意させよう。もし都で暮らしたいのなら、西久世が後見人として支えてくれる」
「ああ、匡院宮家が居心地悪いのであれば、当面我が屋敷に滞在してもいい。宮中へ出仕を望むなら、こちらで口利きをしてあげよう」
「恐縮ながら、お断りいたします」
 飛鳥は背筋を伸ばすと、西久世の申し出をきっぱりと断った。その様子を見ていた湊は、困ったように首をかしげる。
「飛鳥、そう結論に急いでは駄目だよ。私はしばらく都に滞在するから、その間にゆっくり考えるといい」
「考えるまでもない。俺は、あなたのおそばにいます」
「飛鳥いい子だから、一度よく考えるんだ。考えることは、むだじゃない。お前のこれからの生き方に関わることだ。今は感情にまかせて決断すべきではないし、してほしくない」
 飛鳥は黙って視線を落とした。この狭い空間のなかで、あたかも飛鳥ただ一人が感情をかき乱しているようだが、きっとそうではないだろう。静かにこちらをながめている西久世も、なだめるように飛鳥の肩にふれる湊も、何も感じてないはずがない。そうでなければ、飛鳥の気持ちだけが空回りして、結局は何も変わることなく、何事もなかったかのようにただ静かに終わりを迎えてしまう。
(俺は、湊と生きることをあきらめたくない……でも、湊はきっと)
 彼はきっと、とうの昔にあきらめていたのだ。否、望んですらいなかった。
 彼はいつも前を見すえ、終わりのときへとまっすぐ歩いてきた。飛鳥はただその手を取って、彼と同じ道を歩いてきただけ……二人の終わりへ向かっていると、気づかないまま。
 恐らくここで我を張っても、湊を説得できないだろう。しばらく時間を置いてから、もう一度話をした方が、飛鳥の決意が揺るぎないものだと理解してもらえる可能性が高い。
「わかりました、ではきちんと考えてから、あらためてお返事します」
「よし、では今夜から西久世の屋敷に滞在してくれ」
「はっ!?」
 湊の思いもよらない提案に、飛鳥は目を丸くする。
「私は兄上に用事があるから、一旦は匡院宮の屋敷へ戻るつもりだ。西久世、飛鳥を頼んだよ?」
「ああ」
「お待ちください、そのような事を勝手に決められても……!」
 うろたえる飛鳥に、忍び笑いを漏らしたのは西久世だった。
「まさに手塩にかけて育てた、箱入り息子だな……湊から離れるのが、それほど不安か?」
 西久世の挑発的な言葉に、飛鳥は怒りのあまり一瞬言葉を失った。
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