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閑話
前編
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(……花の香がする)
松葉は日当たりの良い縁側に座り、柱に身をもたれたまま庭先に目を向けた。すると鮮やかな紫色の花弁を垂らす杜若が目に留まる。あの花が咲くには、まだ季節が早い。
「こら、そんなところで何してんだ」
背中から咎めるように響いたのは、ここ数日ですっかり聞きなれた低い声だった。敢えて振り返らなくても分かるので、視線を紫の花弁から外そうとは思わない。
「体に障るから、あまり長いこと起きてんなって言っただろう? そんなんじゃいつまで経っても、傷がよくならねえぞ」
「平気だ、痛みも無い」
「そりゃ俺の薬が効いてる間だけだ。治ったわけじゃねぇ……よっと」
フワリと浮遊感を感じ、視界が高くなった。
「な、何をするっ……」
「布団へ運ぶんだよ」
わざと不機嫌を装った男……右京に抱き上げられ、松葉は狼狽た。至近距離で覗き込まれると、心臓に悪い……鷹のような鋭い目付きなので、どちらかと言うと強面に見えるが、それを差し引いても足りる程度には、端正な美丈夫と言えよう。
「まったく、我儘なお姫さんだ」
「その呼び方は止めろと、何度も言っただろう!」
松葉は、普段は冷静沈着な己が、この男を前にすると吹き飛んでしまうのが、非常に悔しかった。しかも声を荒らげて食って掛かっても、自分よりずっと上背もあって逞しい右京の前では、恐らく迫力など微塵も感じられないことも知っている。だが、ただ黙って言いなりになるのは、性に合わない。
「よしよし、それだけ元気があれば飯も食えるな」
右京はさも可笑しそうに、口の端を片方だけ持ち上げてみせた。その気障とも呼べる仕草に、松葉は動揺を悟られないようふいと顔を逸らす。柔らかい布団の上に、まるで壊れ物を扱うように優しく下ろされるのも、温かな腕を離す刹那そっと後ろ髪をひと撫でされるのも、何もかも気に入らなかった。
右京はそんな松葉の葛藤をまるっと無視して、傍らの盆に乗った小さな土鍋の蓋を、男くさい外見からは想像できない繊細な手つきでゆっくりと開いた。
鍋には葱を散らした柔らかそうな粥が、手付かずのまま残されていた。また鍋の隣には、小さく刻んだ香の物が添えてあるが、こちらも箸を伸ばした様子がない。
「なんだ、全然食ってないじゃねえか。変な物は入れてねえぞ?」
右京は鋭い目を僅かに眇めて、布団の上に座る右京をチラリと見やる。
「ま、食いたくなければ、別に構わねえが……代わりに他の方法で、体力をつけてもらおうか……」
「別に、食べないとは言ってない」
松葉はしかめっ面で、盆に置かれた青い小花模様の蓮華を取り上げる。そして右京が粥を小鉢によそうと、ぶっきらぼうに手のひらを突き出した。
「早くそれをよこせ」
「はいはい、まったく……本当に、いちいち可愛いな、お前」
揶揄混じりの口調に鼓動が跳ねたが、松葉は素知らぬふりをして粥を口に運んだ。すっかり冷めてしまっているが、ふっくらした米の甘みが口中に広がり、鰹出汁の旨味が絡み合って喉越しも良い。だが、それでも一口食べるのがやっとだった。
「もう一口ぐらい食えないか」
「……無理だ」
食欲など全くなかった。背に受けた傷は思ったよりも深手で、また体力もかなり落ちてしまっている。その為、無理に食べ物を胃に入れても、思う様に消化できず、酷いと吐き戻してしまう。
「じゃあ仕方ねえな……ほら、観念してこっち来い」
中身がほとんど減ってない茶碗を取り上げられ、手首を握られると、強く引き寄せられた。崩した体勢を立て直そうとする前に、胡坐をかいた男の逞しい腕に捕まり、顎をすくい上げられた。
「……んぅっ……」
しっとりと重ねられた口から、ゆっくりと神気が流れ込んでくる。穏やかな温もりが体の隅々まで行き渡る感覚が、腹の立つことにたまらなく心地良かった。
「ん……こんなもんか」
名残惜しそうに離れた唇は、まだ触れそうな位置で一瞬止まった。それから仕上げとばかり濡れた唇を、太い親指で優しく拭われると、呆然としている松葉の体は素早く布団に押し込まれてしまう。
ようやく我に返った松葉は、悔しさで唇を噛みしめた……また許してしまった、と。
「そんな怖い顔をするな。単なる医療行為だ」
「分かっている」
「分かってない顔してんぞ。まったく、昔は体も繋げたことがあるってのに……」
「言うな!」
布団を頭から被って隠れると、笑い声が追いかけてきた。本当に憎たらしい男だと思う。
「まあ機嫌を直せ。あれだって、れっきとした医療行為なんだ」
「……分かってる」
だから腹が立つのだ……この男は、それを分かっていない。
「まあそう怒るな。お前が俺を嫌っていることは承知の上だ」
本当に、この男は分かっていない……松葉は布団の中で歯噛みする。あやす様にポンポンと布団越しに頭を叩く手を振り払いたくても、今は無理に顔を出す気にはなれなかった。
(早く体を治して、明翠様の屋敷へ戻りたい)
こんな酷いけがは、神界にやってきた時以来だ。もう随分と昔のような気もするが、右京の屋敷にいると、ついこの間の事のような気がしてしまう。
松葉が神界にやって来たのは、実に運の良い偶然が重なったからだ。
人間を母に、妖狐を父に持つ松葉は、どちらの世界にも馴染めない半妖だ。元々人間の住むふもとの山で暮らしていたが、人の身の母が儚くなって以来、次第に人の心が薄れてしまい、日を追う毎に父親そっくりの妖狐へと近づいていった。
やがて母を失った悲しみに暮れた父が何処かへ姿をくらますと、松葉は山にたったひとり取り残された。半妖の為か他の妖魔とは相容れず、気がつくと人にも妖にもなれずに、たった一人で生きてくことを突きつけられた。
人の里で暮らすには赤茶けた髪の色は目立ち過ぎたし、妖狐として生きるには人の姿をし過ぎていた。狐の姿にもなれたが、体が小さく妖術もほとんど使えないので、むしろ人の姿の方が便利で安全だった。そうして人の姿を保ったまま山を徘徊し、獣を狩って生きながらえていた。
そんな松葉が生まれ育った山頂には、打ち捨てられた古い祠があった。その場所に辿り着くには険しい山道を通らなくてはならないので、人は滅多に寄り付かないが、代わりに数多の妖魔が周囲を彷徨っていた。彼らの狙いが祠の中に納められた小さな盃と松葉が知ったのは、山で暮らし始めて随分と経ってからだった。
祠は神通力を持つ人間によって結界が張られていた。その結界は、妖魔には決して破れるものではなかったが、半妖だった松葉は違った。
祠の入り口に掛けられた結界の綱は、人間ならば易々と乗り越えられる。松葉が興味本位で祠に入れるかどうか試してみると、多少体に違和感を覚えたが、特に問題無く中へと入れた。
拍子抜けすると同時に、軽い優越感を覚えた。生まれて初めて半妖であることに意味があった気がして、ただそれをもっと実感したいが為に、妖魔が狙っていた盃を手に取った。美しい赤い盃で、これで酒を飲んだらさぞうまいだろうと思った。
そんなわけで翌日、松葉はさっそく酒を持って祠を訪れた。そして入り口を覗き込む無数の妖魔の影を尻目に、堂々と正面から祠に入り、件の盃で酒を飲んだ。すると想像以上に酒がうまく感じたので、その後も度々訪れては酒を飲んだ。
しばらくすると、松葉の周囲に妖魔が近づいてくるようになった。以前は相手にすらされなかったのだが、祠に足を運ぶようになって以来度々遭遇するようになり、やがて常に付き纏われるようになった。
それほどあの盃に触れる自分が羨ましいのかと、松葉はますます得意になった。そして更に足繁く祠へ通うようになった。
そんなある日のこと、事件が起こった。
いつものように祠で酒を飲んだ後、そろそろ帰ろうかと外へ出た瞬間、待ち構えていた妖魔に襲われた。その夜はいつもより酒量が多く、足元が覚束なくて逃げることが叶わなかった。
恨みと羨望を込めた攻撃は凄まじく、あっという間に虫の息となった。このまま引き裂かれて死ぬのだろうかと、朦朧とした意識の中で思ったその時……浮遊感と共に、全身が温かな何かに包まれた。
「危なかったな、お前」
視界が白い霧に阻まれてはっきり見えなかったが、何者かに抱き上げられているのは分かった。それから松葉は意識を手放した。
次に目が覚めると、見知らぬ部屋にいた。
いつもの洞窟に敷いた藁の寝床ではなく、雲のように柔らかな、綿の布団に寝かされていた。恐る恐る手を動かすと、全身引きつれるように酷く痛んだ。
「起きたか。具合はどうだ」
視線を上げると、開いた襖の前に、大柄な男が立っていた。人の姿をしているが、明らかに人とは違う圧倒的な気を纏っている為だろうか……松葉は本能的に、恐怖と警戒心をもって身構えた。
「そう怖い顔するな。別に取って食おうってんじゃねぇよ」
近づいてくる姿に、松葉は咄嗟に逃げ出そうと試みるも、体は鉛のように重くて、腕を上げるのがやっとだった。
「こら、急に動こうとするな。腹にでっかい穴が開いてたんだ。せっかく塞いだのに、また破れちまうだろう」
「は、腹に……穴が?」
言われてじくじくと腹の傷が痛み出し、全身が震えるのを止められなかった。汗を滲ませた額に、大きな手がそっと乗せられる。するとスッと痛みが和らいだ。
「あと一歩で、妖魔の餌になるところだっんだぞ……まったく、あんな盃で酒なんて飲むからだ」
「盃……」
「あれは神界の器のひとつで、しかも明翠の作ったやつだからな。盃に込められた神気が酒に溶け出て、お前の体の中に入っちまった。まあ、だから何とか死なずに済んだってのもあるが」
男は右京と名乗り、この場所が神界であることからはじまって、自分が地上に存在する神界の器を収集していること、器に宿る神気を辿った先で妖魔に襲われていた松葉を発見したことを、順を追って手短に説明した。
「なぜ、俺を助けた」
「なぜって、そりゃ助けられるものを見殺しにするなんて、寝覚めが悪いからだ」
あの数の妖魔を相手にケロリとそう言う目の前の男は、恐らく只者じゃないだろう。しかも触れられている額から感じる温かさは、どこか件の盃で飲んだ酒の味と同様の、不思議な心地良さを感じる。
(まさかこの男の……神気なのか?)
松葉は途端に狼狽した。神気があるとは、つまり神格を持つ者ということになる。本来ならば半妖の自分が関わることなど有り得ない、とても遠い存在のはずだ。
「おい、動くなって言ってんだろ」
焦って身をよじる松葉を、右京はたしなめる口調で諭す。
「余計なことを考えずに、しばらく寝てろ」
瞼に手がかざされると、そこから徐々に温かいものが伝わってきて、次第に瞼が重くなってくる。そこで再び、松葉の意識は途切れた。
松葉は日当たりの良い縁側に座り、柱に身をもたれたまま庭先に目を向けた。すると鮮やかな紫色の花弁を垂らす杜若が目に留まる。あの花が咲くには、まだ季節が早い。
「こら、そんなところで何してんだ」
背中から咎めるように響いたのは、ここ数日ですっかり聞きなれた低い声だった。敢えて振り返らなくても分かるので、視線を紫の花弁から外そうとは思わない。
「体に障るから、あまり長いこと起きてんなって言っただろう? そんなんじゃいつまで経っても、傷がよくならねえぞ」
「平気だ、痛みも無い」
「そりゃ俺の薬が効いてる間だけだ。治ったわけじゃねぇ……よっと」
フワリと浮遊感を感じ、視界が高くなった。
「な、何をするっ……」
「布団へ運ぶんだよ」
わざと不機嫌を装った男……右京に抱き上げられ、松葉は狼狽た。至近距離で覗き込まれると、心臓に悪い……鷹のような鋭い目付きなので、どちらかと言うと強面に見えるが、それを差し引いても足りる程度には、端正な美丈夫と言えよう。
「まったく、我儘なお姫さんだ」
「その呼び方は止めろと、何度も言っただろう!」
松葉は、普段は冷静沈着な己が、この男を前にすると吹き飛んでしまうのが、非常に悔しかった。しかも声を荒らげて食って掛かっても、自分よりずっと上背もあって逞しい右京の前では、恐らく迫力など微塵も感じられないことも知っている。だが、ただ黙って言いなりになるのは、性に合わない。
「よしよし、それだけ元気があれば飯も食えるな」
右京はさも可笑しそうに、口の端を片方だけ持ち上げてみせた。その気障とも呼べる仕草に、松葉は動揺を悟られないようふいと顔を逸らす。柔らかい布団の上に、まるで壊れ物を扱うように優しく下ろされるのも、温かな腕を離す刹那そっと後ろ髪をひと撫でされるのも、何もかも気に入らなかった。
右京はそんな松葉の葛藤をまるっと無視して、傍らの盆に乗った小さな土鍋の蓋を、男くさい外見からは想像できない繊細な手つきでゆっくりと開いた。
鍋には葱を散らした柔らかそうな粥が、手付かずのまま残されていた。また鍋の隣には、小さく刻んだ香の物が添えてあるが、こちらも箸を伸ばした様子がない。
「なんだ、全然食ってないじゃねえか。変な物は入れてねえぞ?」
右京は鋭い目を僅かに眇めて、布団の上に座る右京をチラリと見やる。
「ま、食いたくなければ、別に構わねえが……代わりに他の方法で、体力をつけてもらおうか……」
「別に、食べないとは言ってない」
松葉はしかめっ面で、盆に置かれた青い小花模様の蓮華を取り上げる。そして右京が粥を小鉢によそうと、ぶっきらぼうに手のひらを突き出した。
「早くそれをよこせ」
「はいはい、まったく……本当に、いちいち可愛いな、お前」
揶揄混じりの口調に鼓動が跳ねたが、松葉は素知らぬふりをして粥を口に運んだ。すっかり冷めてしまっているが、ふっくらした米の甘みが口中に広がり、鰹出汁の旨味が絡み合って喉越しも良い。だが、それでも一口食べるのがやっとだった。
「もう一口ぐらい食えないか」
「……無理だ」
食欲など全くなかった。背に受けた傷は思ったよりも深手で、また体力もかなり落ちてしまっている。その為、無理に食べ物を胃に入れても、思う様に消化できず、酷いと吐き戻してしまう。
「じゃあ仕方ねえな……ほら、観念してこっち来い」
中身がほとんど減ってない茶碗を取り上げられ、手首を握られると、強く引き寄せられた。崩した体勢を立て直そうとする前に、胡坐をかいた男の逞しい腕に捕まり、顎をすくい上げられた。
「……んぅっ……」
しっとりと重ねられた口から、ゆっくりと神気が流れ込んでくる。穏やかな温もりが体の隅々まで行き渡る感覚が、腹の立つことにたまらなく心地良かった。
「ん……こんなもんか」
名残惜しそうに離れた唇は、まだ触れそうな位置で一瞬止まった。それから仕上げとばかり濡れた唇を、太い親指で優しく拭われると、呆然としている松葉の体は素早く布団に押し込まれてしまう。
ようやく我に返った松葉は、悔しさで唇を噛みしめた……また許してしまった、と。
「そんな怖い顔をするな。単なる医療行為だ」
「分かっている」
「分かってない顔してんぞ。まったく、昔は体も繋げたことがあるってのに……」
「言うな!」
布団を頭から被って隠れると、笑い声が追いかけてきた。本当に憎たらしい男だと思う。
「まあ機嫌を直せ。あれだって、れっきとした医療行為なんだ」
「……分かってる」
だから腹が立つのだ……この男は、それを分かっていない。
「まあそう怒るな。お前が俺を嫌っていることは承知の上だ」
本当に、この男は分かっていない……松葉は布団の中で歯噛みする。あやす様にポンポンと布団越しに頭を叩く手を振り払いたくても、今は無理に顔を出す気にはなれなかった。
(早く体を治して、明翠様の屋敷へ戻りたい)
こんな酷いけがは、神界にやってきた時以来だ。もう随分と昔のような気もするが、右京の屋敷にいると、ついこの間の事のような気がしてしまう。
松葉が神界にやって来たのは、実に運の良い偶然が重なったからだ。
人間を母に、妖狐を父に持つ松葉は、どちらの世界にも馴染めない半妖だ。元々人間の住むふもとの山で暮らしていたが、人の身の母が儚くなって以来、次第に人の心が薄れてしまい、日を追う毎に父親そっくりの妖狐へと近づいていった。
やがて母を失った悲しみに暮れた父が何処かへ姿をくらますと、松葉は山にたったひとり取り残された。半妖の為か他の妖魔とは相容れず、気がつくと人にも妖にもなれずに、たった一人で生きてくことを突きつけられた。
人の里で暮らすには赤茶けた髪の色は目立ち過ぎたし、妖狐として生きるには人の姿をし過ぎていた。狐の姿にもなれたが、体が小さく妖術もほとんど使えないので、むしろ人の姿の方が便利で安全だった。そうして人の姿を保ったまま山を徘徊し、獣を狩って生きながらえていた。
そんな松葉が生まれ育った山頂には、打ち捨てられた古い祠があった。その場所に辿り着くには険しい山道を通らなくてはならないので、人は滅多に寄り付かないが、代わりに数多の妖魔が周囲を彷徨っていた。彼らの狙いが祠の中に納められた小さな盃と松葉が知ったのは、山で暮らし始めて随分と経ってからだった。
祠は神通力を持つ人間によって結界が張られていた。その結界は、妖魔には決して破れるものではなかったが、半妖だった松葉は違った。
祠の入り口に掛けられた結界の綱は、人間ならば易々と乗り越えられる。松葉が興味本位で祠に入れるかどうか試してみると、多少体に違和感を覚えたが、特に問題無く中へと入れた。
拍子抜けすると同時に、軽い優越感を覚えた。生まれて初めて半妖であることに意味があった気がして、ただそれをもっと実感したいが為に、妖魔が狙っていた盃を手に取った。美しい赤い盃で、これで酒を飲んだらさぞうまいだろうと思った。
そんなわけで翌日、松葉はさっそく酒を持って祠を訪れた。そして入り口を覗き込む無数の妖魔の影を尻目に、堂々と正面から祠に入り、件の盃で酒を飲んだ。すると想像以上に酒がうまく感じたので、その後も度々訪れては酒を飲んだ。
しばらくすると、松葉の周囲に妖魔が近づいてくるようになった。以前は相手にすらされなかったのだが、祠に足を運ぶようになって以来度々遭遇するようになり、やがて常に付き纏われるようになった。
それほどあの盃に触れる自分が羨ましいのかと、松葉はますます得意になった。そして更に足繁く祠へ通うようになった。
そんなある日のこと、事件が起こった。
いつものように祠で酒を飲んだ後、そろそろ帰ろうかと外へ出た瞬間、待ち構えていた妖魔に襲われた。その夜はいつもより酒量が多く、足元が覚束なくて逃げることが叶わなかった。
恨みと羨望を込めた攻撃は凄まじく、あっという間に虫の息となった。このまま引き裂かれて死ぬのだろうかと、朦朧とした意識の中で思ったその時……浮遊感と共に、全身が温かな何かに包まれた。
「危なかったな、お前」
視界が白い霧に阻まれてはっきり見えなかったが、何者かに抱き上げられているのは分かった。それから松葉は意識を手放した。
次に目が覚めると、見知らぬ部屋にいた。
いつもの洞窟に敷いた藁の寝床ではなく、雲のように柔らかな、綿の布団に寝かされていた。恐る恐る手を動かすと、全身引きつれるように酷く痛んだ。
「起きたか。具合はどうだ」
視線を上げると、開いた襖の前に、大柄な男が立っていた。人の姿をしているが、明らかに人とは違う圧倒的な気を纏っている為だろうか……松葉は本能的に、恐怖と警戒心をもって身構えた。
「そう怖い顔するな。別に取って食おうってんじゃねぇよ」
近づいてくる姿に、松葉は咄嗟に逃げ出そうと試みるも、体は鉛のように重くて、腕を上げるのがやっとだった。
「こら、急に動こうとするな。腹にでっかい穴が開いてたんだ。せっかく塞いだのに、また破れちまうだろう」
「は、腹に……穴が?」
言われてじくじくと腹の傷が痛み出し、全身が震えるのを止められなかった。汗を滲ませた額に、大きな手がそっと乗せられる。するとスッと痛みが和らいだ。
「あと一歩で、妖魔の餌になるところだっんだぞ……まったく、あんな盃で酒なんて飲むからだ」
「盃……」
「あれは神界の器のひとつで、しかも明翠の作ったやつだからな。盃に込められた神気が酒に溶け出て、お前の体の中に入っちまった。まあ、だから何とか死なずに済んだってのもあるが」
男は右京と名乗り、この場所が神界であることからはじまって、自分が地上に存在する神界の器を収集していること、器に宿る神気を辿った先で妖魔に襲われていた松葉を発見したことを、順を追って手短に説明した。
「なぜ、俺を助けた」
「なぜって、そりゃ助けられるものを見殺しにするなんて、寝覚めが悪いからだ」
あの数の妖魔を相手にケロリとそう言う目の前の男は、恐らく只者じゃないだろう。しかも触れられている額から感じる温かさは、どこか件の盃で飲んだ酒の味と同様の、不思議な心地良さを感じる。
(まさかこの男の……神気なのか?)
松葉は途端に狼狽した。神気があるとは、つまり神格を持つ者ということになる。本来ならば半妖の自分が関わることなど有り得ない、とても遠い存在のはずだ。
「おい、動くなって言ってんだろ」
焦って身をよじる松葉を、右京はたしなめる口調で諭す。
「余計なことを考えずに、しばらく寝てろ」
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