神界の器

高菜あやめ

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第二部

十二、百花繚乱

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 ほんのり甘い、爽やかな香りが鼻腔をくすぐり、雨音は束の間の深い眠りから目覚めた。

 横向きに寝たままゆっくり瞳を開くと、薄く開いた障子の前に座る明翠の広い背中が見えた。どうやら目覚めたのは、障子の隙間から差し込む眩しい日差しが、瞼をなぞったからのようだ。

「……明翠様」

 驚かさないようにそっと声を掛けると、明翠は素早く障子を閉めて振り返った。

「起きたか……体の具合はどうだ」
「大丈夫です」

 体を起こそうとしたら、それを阻むように大きな体が覆い被さってくる。

「……まだ、ゆっくりするといい」

 広い胸板に包まれながら、何があったのだろうと首を傾げてしまう。

「別に、なんでもない」
「でも……」

 僅かに身動いだだけで、はなさないと言わんばかりに、ますます深く抱きこまれてしまう。どうにか頭だけ動かしたが、目に映るのは銀色に輝く豊かな髪と、その背後の天井しか見えない。

(お言葉に甘えて、もう少しだけ眠ろうかな)

 再び瞼を下ろしかけたその時……視界の端にヒラリと白い影がよぎった。

(あ、蝶だ……)

 天井に向かって円を描く白い羽は、出口を求めて彷徨っているように見えた。

「明翠様、蝶がお部屋に入ってしまったようです。外へ出してあげたいのですが、障子を開けてもいいですか」
「……蝶?」

 体に巻きついた腕の拘束が緩んだので、スルリと身を滑らせて布団から抜け出した。

「待て雨音。いや……その」

 明翠は何故か狼狽えた様子で、障子に手を掛けた雨音を呼んだ。

「開けても構わないが……笑うなよ?」

 この障子を開いたら、何かまずいのだろうか。

(もしかして、寒がりなのかな)

 朝の冷え込んだ空気を室内に入れるのが、嫌なのかもしれない。きっと先ほど抱き込まれたのも、暖を取る為だったのだ。
 渋々許してくれた明翠には申し訳ないが、部屋に閉じ込められた蝶も、このままでは可哀想だ。雨音は思い切って、縁側へと続く障子を大きく開け放した。

「うわあ……!」

 視界に飛び込んできたのは、溢れんばかりに咲き誇る、彩り豊かな花々だった。目にも鮮やかな椿の赤、可憐で控え目な菫の青、陽気で楽しげな菜の花の黄色、優しく清楚な水仙の白……そして彼らを取り巻く、みずみずしい萌黄色した若葉の上を、日の光が木霊となって、弾むように踊っている。

(なんて綺麗なんだろう……!)

 自然と顔が緩むのは、美しい物を前にした人のさがと言っていいのかもしれない。満面の笑みを浮かべて振り返ったら、明翠はぽかんと口を開いてこちらを見つめていた。

「……あ、ごめんなさい」

 笑うな、と言われたばかりなのにと、しょんぼり肩を落とす雨音に対し、明翠は布団を押し除けて身を乗り出す。

「もっと笑え」
「えっ、でも……さっき笑うなと」
「そういう風に笑うのは構わない。いや、特段どの笑い方が悪い、というつもりは無い……ただ、お前は笑顔がいい。とても可愛らしい」
「……っ……」

 真っ直ぐな物言いに、両頬が燃えるように熱くなる。するとその熱が飛び火したのか、明翠の頬も負けず劣らず真っ赤になった。拭いても取れないだろうに、明翠は手の甲でごしごしと片頬を擦って、それから雨音の頬に唇を寄せる。

「まるで、熟れた桃のようだ」

 それを言うなら明翠だって、と見つめ返す。

「明翠様」
「ん……なんだ」
「どうして、あんなにたくさんお花が咲いたのでしょう」

 すると再び明翠は狼狽したように、口を閉じたり開いたりを繰り返す。明らかに言いにくそうなので、困らせるのは本意でない雨音は首を振った。

「いえ、いいんです。ただ何となく聞いてみたかっただけで、俺は別に……」

 雨音の言葉が終わらないうちに、廊下の向こうから複数の軽やかな足音が近づいてきた。

「御方様、若様、おめでとうございます!」

 現れたのは胡蝶をはじめとする、数名の狐達だった。皆口々にめでたい、めでたいと言うので、雨音は好奇心から口を開いた。

「おめでたいって、何かあったんですか」

 すると狐達はコロコロと弾むように笑った。

「お二人が結ばれたからですよ」
「御方様のお喜びよう、お庭を拝見すれは一目瞭然ですものね」
「よく見ると、季節が入り混じってますな。まるで盆と正月が一度に来たようだ」
「おや、御方様? いかがなされました?」

 明翠はくるりと背を向けると、部屋の奥へと引っ込んでしまった。雨音は訳が分からず、楽しそうに笑う狐達と明翠の後ろ姿を交互に見比べる。すると胡蝶が軽く手を叩いて、助け舟を出してくれた。

「まったく、あなた達は……少し口をつつしみなさいな。ああ見えて御方様は、とても繊細な方なんですからね」
「あのう胡蝶様、これは一体……?」

 胡蝶は声を抑えて、雨音に囁いた。

「このお屋敷は、御方様の神気によって作られた場所なんですよ。お気持ちが弱まれば神気も弱り、また逆にお心が強くなれば神気は無限に強くなります。それによって、我々を含む屋敷全体の有り様が変わってくるんですわ」

 そう話す胡蝶と雨音の間を、ヒラリと蝶が横切った。蝶は白い羽を優雅に操って、咲き乱れる花の茂みへと姿を消す。胡蝶はその跡を追うように、穏やかな微笑を庭へ向けた。

「これほどにぎやかな庭を見るのは、こちらへ暮らし出して以来初めてですわ。御方様の胸の内が、こんな形で拝見できるなんて、なんと喜ばしいことでしょう」

 この素晴らしく美しい庭が、明翠の心の現れだとしたら、それはきっと幸せな気持ちで一杯だという事に違いない。見ているだけで心浮き立ち、自然と笑みがこぼれてしまう光景を前に、雨音は感動のあまり涙ぐむ。

 雨音が鼻を啜ると、背中を向けていた明翠が驚きの表情で飛んできた。

「どうした、どこか痛むのか……やはり昨夜は無理させ過ぎたか」
「違います、そうではなくて」

 そっと明翠の手を取り、指をからめると、菫色の瞳がきらめき、笑顔の花がほころぶ。一層赤く染まった両頬から首筋にかけて流れる銀色の髪がまばゆく、その神々しい姿は百花繚乱の庭をもかすむ美しさだ。

(なんて綺麗なんだろう……こんな美しい方を見たことない)

 でも、雨音はもう分かっている。この美しい神は、少し照れ屋で不器用で、その優しさ故に傷つきやすく、とても……。

(可愛らしい方、と言ったら失礼かな)

 雨音の気持ちが伝わったのだろう。握り締めた手に、ぎゅっと力が加わる。どんな顔をしているのか見たかったのに、ふわりと抱きしめられ、また顔を隠されてしまう。
 先程より心持ち高くなった明翠の体温に包まれ、まるで陽だまりの中にいるようだった。





 それからというもの、屋敷での生活は一変した。

 まず狐達が変わった。個体差が出てきて、しかも名前まで分かるようになり、誰が誰だか区別がつくようになった。
 また、屋敷の周囲にたくさんの花が咲くようになった。当然ながら、最も華やかなのは庭で、常に清々しい新緑と甘い蜜の香りが入り混じって、素晴らしく心地良い空気に包まれている。

 そして何よりこれまでと違うのは、明翠と同じ部屋で寝起きするようになった事だろう。多くの時間を共に過ごすことができて、素直に嬉しいが少々照れ臭くもある。
 その上、明翠が今まで以上に、雨音に対して甘くなった。

 屋敷で暮らし始めた時から、明翠には事あるごとに甘やかされてきたように思える。だが、その時の雨音は常に、いつか山を下りて元の日常へ戻る考えが念頭にあったので、素直に甘えられないと自制していた。だが今は出来るだけ素直になって、少々甘えてみようと思っている……しかし。

「えっ、俺の膝ですか?」
「わざわざ枕を持ってくるのは面倒だからな……いいから、ここに座れ」

 縁側に座っていた明翠は、用意した茶を傍らの盆に置くと、隣に座る雨音を招き寄せる。

「あのう、俺の膝よりも、座布団の方が柔らかくていいのではないですか?」
「だが座布団を取り上げたら、お前の足が痛むだろう。それに、冷えたら良くない」

 つい今しがた譲ってもらった座布団を返そうとしたが、取り合ってもらえず、結局のところ膝を貸すことになった。明翠は、雨音の薄い腹に後頭部を押しつける形で横たわると、満足そうに目を閉じた。

(急に『膝は空いているか』なんて、一体何の事かと思ったら……)

 もっと分かりやすく『膝枕』と言ってもらえたら、雨音だって座布団の方を勧めるなどと、無粋な真似はしなかっただろうが、銀色の髪の間から覗く真っ赤に染まった耳を見るに、道のりはまだまだ遠そうだ。

 神様は甘やかすのは上手だが、甘え下手だ。

 口をつけてない茶は、白く美しい湯呑みで湯気を立てている。これは明翠に頼まれて運んだが、恐らく雨音の為に用意させたのだろう。

(本当に、困った方)

「何のことだ」

 少し緊張気味に問われるが、明翠ならば雨音の心境が手に取るように分かるはずだ。しかし敢えて、音にして言わせたいのだ。

(でも……恥ずかしくて言えないよ)

「なぜ恥ずかしがることがある。ここには私とお前しかいないだろう」
「それは、そうですが」

 言葉にしにくい思いを、髪を撫でることで伝えようとする。なだらかな銀色の髪は指通りが良く、梳く度にサラサラと音が鳴りそうだ。

「……冷めない内に、代わりに茶を飲むといい。私は寝ていて飲めないからな」
「はい、頂きます」

 茶碗に手を伸ばすと、熱すぎず、ちょうど良い温度に冷めていた。口をつける前に、白磁の表面に目を留める。淡雪を思い起こさせる儚さは、雨音が持つもうひとつの器とそっくりだ。

「……夫婦茶碗のつもりで作ったからな」

 素っ気ない口調だが、明翠はこの器を大事にしている。雨音からもらった物だから、と言うが、それだけではないように思う。
 この器は志摩国の匡院宮の屋敷を去る前に、その屋敷の主人から渡された手土産だった。

『あの子の代わりに、持っていくといい。神界の器と言えど、私自身が好きになれない以上、持っていても仕方ないからね』

 どこまで事情を知っているのか分からないが、雨音が弟の為に神界の器を求めて山へ登ったことは知っているようだった。

(でもまさか、山の獣に襲われた原因が、この器を持っていたせいだったなんて……)

 器に込められた神気が、山の妖魔化した狐を呼び寄せた為、雨音と松葉が襲われたのだと後から聞いて驚いた。

 あのような平和な村の近くに、恐ろしい妖魔が住み着いているなんて、きっと同行していた松葉だって思いもよらなかっただろう。あの屋敷の主人は、妖魔のことを知っているだろうか。知らずにいて、いつか弟を危険にさらしたりしないだろうか。

(ううん、きっとあの人ならば、弥吉を守ってくれるはずだ)

 あの時に負傷した松葉は、右京の元へ行ったまま、未だ屋敷に戻っていない。順調に回復していると、毎日のように胡蝶から教えてもらっているものの、見舞いに行くことが許されず、待っているだけなのは辛い。

「どうせ右京が離そうとしないだけだ」
「……でも、お顔を拝見しないと心配です」

 明翠は寝返りを打つと、仰向けになって雨音の顔を下から覗き込む。

「ならば、明日にでも見舞いに行くか」
「えっ、いいのですか!?」
「仕方ないだろう、お前が心配して松葉ばかり気に掛けているからな」

 明翠はボソリと呟くと、再び寝返りを打った。雨音の腹に顔が押しつけられ、腰にぐるりと腕が回される。そのしがみつく様な格好に、雨音の頬が熱くなった。

「め、明翠様……」

 表情は見えなくても、銀の髪から覗く耳は相変わらず真っ赤だ。

 どうも明翠は、神界の器について引け目を感じているのではないかと思う。確かに美しい器は、人の心を惑わし、盗みや争いごとを引き起こすかもしれない。だが、器に罪はない。それを手にした、人の心が問題なのだ。
 それに神界の器を求めて山に登ったから、雨音は明翠と出会うことができた。

「……もう一対、夫婦茶碗を作るか」
「えっ、松葉様たちに、ですか」
「お前と私の、に決まっているだろう」

 むくりと体を起こした明翠は、片膝をたてて乱れた髪をかきあげると、すねた顔で雨音を軽くにらんだ。

「この白い茶碗は、本来酒を飲む用だ。お前とは、真新しい茶碗で一緒に茶を飲みたい」
「はい、え、では……」
「明日から工房へ行く。一緒についてくるといい」

 雨音の顔が嬉しさで緩んだ。

「俺もご一緒して、作るところを拝見してもいいんですか?」
「お前は、私の弟子ではなかったのか」

 ふわっと優しく微笑み返される。その時ちょうど庭先に飛んできた蝶が、縁側の端にとまり、あたかも二人の会話を聞いているかのように羽を休めていた。





(第二部・完)
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