神界の器

高菜あやめ

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第二部

十、再会の夜

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「こちらへ呼ぶのが、遅くなって済まない……けがは無いか」

 雨音の姿を認めた途端、明翠の瞳に一瞬生気が宿った。そのまま頭から爪先まで、食い入るように見詰められる。

「黙っていては分からない……どこか痛い所は無いのか……あれば言って欲しい」

 雨音は堪らず両膝を着くと、震える背を丸め、その場で平伏する。勢い余って額を畳にぶつけたのもあって、涙がどっとあふれ出た。

「顔を見せてくれ。見えないと、お前が無事なのかどうか、確かめることが出来ない」
「……ふっ……う、ううっ……」

 この屋敷にも狐達にも、そして何より明翠本人にも、何か恐ろしい異変が起こっているのは明らかだった。

(それなのに、どうして明翠様は……俺の心配をしているの)

 涙で濡れた手の甲には、庭から流れ込んだ霧が舐めるように撫でていく。よく見ると、手をついた畳は痛んでボロボロだった。

「最後に、お前の無事を知りたい……頼む、せめてもう一度だけ、顔を見せてくれないか」

 明翠は、雨音に触れようとはしなかった。それどころか、近づこうともしない。

 ふと雨音の脳裏に、先刻見た狐達の様子が頭によぎった。胡蝶も他の狐達も皆なぜか体が透けていた。そして屋敷は朽ち果て、今にも濃い霧に飲み込まれんばかりになっている。

 こうしている今も、部屋の中にどんどん霧が流れ込み、やがて明翠の体も隠してしまうかもしれない。雨音は堪らず、涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げた。

「……明翠様……き、消えないで……」
「雨音……?」

 いよいよ白い霧が室内に立ち込め、明翠の姿を包み隠そうとしたその時だった。

「嫌だ、消えちゃ嫌だ……明翠様……俺を一人にしないで……!」

 雨音は這うように布団へ乗り上げると、かろうじて見えた明翠の手に自分の手を重ね合わせた。

「……!」

 次の瞬間、さあっと目の前の霧が掻き消えた。

 室内を白く濁らせていた霧は一斉に、縁側へと続く障子の向こうへと、吸い込まれるように流れ出ていく。

(え、何で……?)

 雨音は霧の流れを辿って肩越しに振り返ると、そこには見慣れた庭の光景が、かつてないほど鮮やかな色彩で描かれていた。先ほどの濃霧は跡形も無く消え失せ、まるで狐に摘ままれたようだ。

「雨音……」
「あ……」

 握っていた手は、いつの間にか大きな手に包み込まれるように握られていた。火照った顔を上げると、そこには思い焦がれた人の柔らかな微笑があり、先程とは別の種類の涙が込み上げてくる。

(お慕いしております)

 明翠は手の甲で口元を押さえると、雨音の顔からから視線を外した。

(ずっと、ずっと、おそばにいたい……)

「……これ以上は駄目だ、抑えがきかなくなる」

 握られた手が離されてしまい、雨音は瞳を揺らした。自分の胸の内が赤裸々に伝わってしまった事に遅まきながら気づき、羞恥と申し訳なさに項垂れてしまう。

「申し訳ありません……ご不快な思いを、させてしまって……」
「違う、そうではない。そうではなくて、その……」

 明翠は何か言おうとして口を開いたが、なかなか音にならず、その困った姿は雨音をますます落ち込ませた。

「あの……俺は大丈夫ですから。一方的に気持ちを押し付けたりして、ごめんなさい……」
「違う、謝ることなどない。そのような態度を取るな……ああまったく!」

 明翠は眉間にしわを寄せると、身を乗り出して雨音の顔を覗き込んだ。

「私はただ、お前を愛しく思うだけだ」
「えっ……」
「そのように、零れ落ちそうな瞳で見詰められると……自制が効かなくなる」

 雨音が言葉の意味を問おうと口を開きかけると、伸ばされた明翠の両腕に捕らえられ、懐深く抱きすくめられた。

(今、どんなお顔をされてるんだろう……)

「駄目だ、今は見てはならん……」

 後頭部には大きく温かい手が添えられ、広い胸板に頬を押し付けられている為、顔を上げたくても頭を動かせなかった。

(お顔を、見たいのに……)

「ああ、そのように可愛らしい不満を漏らすな……少し待ってくれ。お前の気持ちは余すところなく伝わっているから、安心するといい」

 明翠が今どんな顔をしているのか見てみたい気もするが、このまま体温を感じられるだけでも十分だ。それにこうして触れていれば、少なくとも自分の心を明翠に明け渡せる。雨音は明翠に体を預けて、そっと目を閉じた。

 こんな風に、思い人へ気持ちを伝えられるなんて幸せなことだと思う。言葉に出来ない気持ちも、身を焦がす切ない思いも、すべて余すことなく伝えられるのだから。





 その晩、屋敷では盛大な宴が開かれた。
 帰還祝いと称された集まりに、雨音はせめて松葉が屋敷に戻ってきてから、と一度断りを入れたのだが、狐達には「松葉様の快気祝いは、後日また開けばいいのです」と押し切られてしまった。

「あいつらはお前を気に入ってる。それに口実を作って騒ぎたいのもあるから、気にすることない」

 大広間の上座に着いた明翠は、素っ気無い口調で隣の雨音に告げると盃を傾けた。すると横で酌をしていた狐達は、聞き捨てならないとばかり抗議する。

「若様のご帰還は、この上なくめでたい事ではありませんか!」
「若様が戻られたからこそ、我々もこうして酒を飲んで踊れるのです」
「酒を飲んで踊れるならば、宴を開かなくてどうします」

 狐達の歌って踊る姿を眺めながら、雨音は自分が戻った事と、狐達が元気になった事は、何か関係があるのだろうかと考えた。

 目の前に置かれた豪華な膳は、青々とした真新しい畳の上に鎮座している。真新しい白木の鴨居や、豪奢な襖絵を目の当たりにして、これではまるで新築のようだと不思議に思う。

「……あまり食が進まないな。どこか具合でも悪いのか」

 明翠は心配そうに、こちらをうかがうように見ているので、雨音は苦笑気味に首を振った。

「少しばかり、疲れたようです」
「そうか。ではもう寝所へ行くか」

 明翠はゆるりと立ち上がると、雨音についてくるよう視線で促した。

 縁側に面した廊下に出ると、庭先の灯籠に明かりがともっていた。その光の連なりを最後に見たのはそれほど昔ではないのに、すでに懐かしい気持ちで一杯になる。

「綺麗な明かりですね」
「あれは狐火だ。狐の数だけ、明かりが灯る」

 前を歩く明翠の説明に、雨音は改めて灯籠を眺めた。庭に並んだ仄かな明かりは、雨音たちの足元を照らして行き先を示してくれる。

 やがて到着した部屋は、以前雨音が使っていた部屋よりもずっと広かった。渡り廊下で母屋と繋がっているが、真新しい柱や襖から察するに、雨音が旅に出た後に建てられた棟なのだろう。
 部屋の中央には、すでに布団が敷かれていたが、見たこともないくらい大きな寝床だった。特別に設えたに違いないが、雨音が寝るには少々大きすぎるように思えた。

「……さて、休むか」

 明翠の言葉に合点がいく。ここは恐らく彼の寝所なのだろう……そう考えると、広い部屋も大きな寝床も当然だと思えた。

「どうした、早くこちらへ」
「あ、はい……」

 急かされて布団の横に立つ明翠に近寄ると、遠慮がちに切り出した。

「あのう、俺はどこで寝ればいいのでしょう?」
「どちら側でも構わない。好きな方を選べ」

 雨音は明翠の言葉に首をひねりつつ、背を向けた明翠の肩に手を掛けた。その途端、大きく跳ねた体に、雨音は驚いて思わず手を引っ込める。

「あの、お着替えを手伝おうかと……」
「あ、ああ……」

 どうも明翠の様子がおかしい。帯を解こうとしてままならないようなので、手伝おうと前に回り込もうとしたら、肩をそっと押されて顔を背けられた。

「……構わなくていい。自分でやる」
「あ、はい……」

 仕方なく手持ち無沙汰で立っていると、解かれた腰帯が床に落ちた。それを拾い上げて畳もうと膝を着いたら、視界に二つ並んだ枕が飛び込んできた。

(あれ……なんで)

「雨音」

 顔を上げると、いつの間にか単衣姿になった明翠が、屈み込むようにして雨音の顔を覗き込んでいた。

「その、触れてもいいか……?」
「? はい、もちろん……」

 言葉が終わる前に、雨音の両肩に明翠の手が掛かり、ゆっくりと布団に押し倒された。ここに至ってようやく雨音は、何が起ころうとしているのか悟った。

 宿場町の外れには、小さいながら色街があり、春を売る女達で賑わっていた。旅籠の客の中には、どの遊郭がいいか聞いてくる者もいて、何度か男娼がいる陰間茶屋について聞かれたこともあった。

 たった一度だけ、女とみまがうほど華奢で美しい男娼を、旅籠に連れ込んだ客がいた。普段なら連れ込み行為は遠慮してもらうのだが、その時は大金を積まれたらしく、店の奥方も旦那も特別に目をつぶった。

 だから雨音は、男同士でもそういった行為が行われる事は知っている。しかし実際、何をどうすればいいのか、そこまでの知識はなかった。ただひとつ言えるのは、自分は旅籠で見た男娼のように美しくもなければ、女のように華奢でもないということだ。たとえ背はそれほど高くなくても、また痩せぎすの体でも、女のように柔らかな肌を持っていない。

 自分が相手では、抱き心地なんて良くないのでは……そう雨音が不安に思っていると、頭上から溜息とともに影が落ちた。

「まったく、余計な心配ばかりして……仕方ないやつだ」

 明翠は熱を帯びた瞳で雨音を見下ろすと、少し怒った表情で雨音の頬に手を当てた。

「私をこんな気持ちにさせておいて」

 温かく大きな手が首筋へと滑り、襟を割って胸から脇腹へと辿っていくと、雨音の体に甘い疼きが生まれる。息を詰めて声を堪えていたら、固く引き結んだ口元に明翠の唇が寄せられた。




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