神界の器

高菜あやめ

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第二部

九、神界への道

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「本当に、これでよかったのですか」

 志摩国しまのくににある匡院宮家ゆかりの屋敷を出発して間もなく、雨音の隣を歩く松葉が静かに呟いた。いつもの素っ気ない口調だが、問い質すつもりは無いらしく、ただ言いたい事があるなら言っても構わないといった気遣いが感じられた。

「はい……弟には会えたので、心残りはありません」
「そうですか」

 どこで会って、何を話したか等は聞かれなかった。松葉は必要最低限の干渉しかせずに、それでも出来るだけ雨音の希望をくんでくれようとする。この旅を通して、雨音はそういった松葉の思いやりを終始感じ、その人柄を少しばかり知ることが出来た気がした。

(それにしても……やっぱり顔色悪いよな……)

 昨日から気にはなっていたが、松葉の顔色があまり冴えない。疲れているのかと、これまでの道中も度々声を掛けてみたが「あなたは自分の心配だけしなさい」と剣もほろろに返されるばかりだ。

(次の宿場町までどのくらいだろう。行きに通った道と違うから、よく分からないな……できれば日が暮れる前に着ければいいんだけど)

 早朝から出発したが、進む速度は雨音の足に合わされる為、山越えは野宿になるかどうか微妙なところだ。申し訳なく思って足を早めても、松葉に気づかれると逆にとがめられてしまうので、それもままならない。
 せめてこれ以上面倒掛けないようにしなければ、と身が引き締まる思いがしたその時だった。

「……雨音、下がってなさい」

 松葉が手にした杖から仕込み刀を抜くと、前方に立ち塞がる黒い人影に向かって構えた。雨音は咄嗟に踵を返して、邪魔にならない後方の茂みに身を隠そうとしたが、背後にも仲間と思しき数名が退路を断つ。
 こういった状況に陥るのは、実は初めてではない。特に山道では度々野党に狙われ、何度も襲い掛かられたが、必ず松葉がいとも簡単に撃退してくれた。

(でも、今は松葉様の体調が……!)

 今の状態の松葉では、きっと無理をさせてしまう。ただ守られるだけの己の不甲斐なさを情け無く思う反面、下手に加勢しようと試みて、逆に足手まといになったらと思うとうかつに動けない。

 だが松葉は、普段より少々手こずっていたようではあったが、程なくして相手方を全員地に沈めることができた。
 松葉は刀を空を切るように振ってから杖に納めると、所在なく立っていた雨音を振り返った。

「……大丈夫でしたか」

 荒い息を吐きながら声を掛けてきた松葉に、雨音は言葉もなく何度も頷いていると、突然長い腕が伸ばされた。

「……松葉様!?」

 掴まれた手首を勢いよく引っ張られ、体勢を崩した雨音はその場に倒れ、全身を強かに打ち付けてしまう。だが目の前の光景に、痛みなど何も感じなかった。

「松葉様!」

 雨音を庇うように立ち塞がった松葉の体が、ドサリと音を立てて地になぎ倒された。背は着物ごと引き裂かれ、地面に血溜まりを作っていく。そして松葉が倒れたことで開けた視界に映ったのは、そびえ立つ巨大な獣の影だった。犬のようにも見えるが、見たこともないくらい大きい。

(逃げなきゃ……!)

 雨音は素早く松葉の肩に腕を回して引き揚げると、背後から地の底から響くかのような、うなり声が追いかけてきた。

『荷を寄越せ』

 そう聞こえた気もしたが、雨音は恐怖と混乱のあまり、体にしっかりと巻き付けた風呂敷包みの荷を解くことも思いつかず、ただ松葉を引きずって一心不乱に走り続けた。

(どうしよう……このままだと、すぐ追いつかれる)

 混乱と恐怖で無我夢中に走る雨音の耳に、か細い切れ切れの掠れ声が小さく届いた。

「雨音……私を、下ろしなさい」
「松葉様!?」

 次の瞬間、突き飛ばされる形で肩に回した腕が外れた。二人の体が同時に地面に崩れ落ちる刹那、狐へと変化する松葉の姿を、雨音は息を詰めて凝視した。

「……これで、少しは運び易くなったでしょう」

 一刻の猶予も無い中、急いで抱き上げた海老茶色の毛皮に包まれた体は、想像以上に軽くて小さかった。丸まった背を真っ赤に染める大きな傷に目を留めた雨音は、いとも簡単に途絶えてしまいそうな細い息に縋るような気持ちで走り続けた。

 ハッ、ハッ、ハッ……。

 獣のかける足音と荒い息遣いが、背後から徐々に近づいてくる。雨音の足はもつれ、呼吸は苦しく、松葉を抱える腕は小刻みに震えていた。

(どうしよう、誰か助けて……明翠様!)

 涙ながらに心の中で思い人の名を叫んだ瞬間、真っ白な閃光で視界が閉ざされた。

(これは……霧?)

 辺りはすっかり濃い霧に包まれていた。慌てて周囲を見回しても、獣の姿どころか辺りの景色すら見えない。このまま迷ってしまうのではと、別の意味で不安に駆られたその時……遠くから幾つもの声が微かに聞こえてきた。

 最初は別の野党かもしれないと身構えたが、声が近づくにつれ、徐々に鮮明になる言葉の粒を拾った雨音は驚愕した。

「若様ー」
「若様、ご無事ですかー」
「若様、今そちらは参りますよー」

 雨音がへなへなとその場に座り込むと同時に、提灯を手にした狐達が姿を現した。

「若様、お帰りなさいませ」
「若様、さぞやお疲れでしょう」
「若様、そちらはまさか松葉様では……」

 雨音は我に返ると、腕に抱えていた松葉を見下ろす。すると狐達も近づいてきて、雨音の腕の中を覗き込んだ。

「これは酷い、早く手当てをしなくては」
「お医者様に診せなくては」
「右京様のもとへお連れしよう」

 松葉は何匹かの狐に抱えられて、あっという間に霧の向こうへと姿を消してしまった。その素早さについていき損ねた雨音は、消えた方角をただ呆然と見つめる。

「右京様って……町でお店をされてる、あの右京様のことですか……?」
「ええ、右京様は医術の心得もあるのですよ」
「それよりも、若様は奥へ」
「ささお早く、御方様のもとへ」

 狐の発した『御方様』という言葉に、雨音はにわかに緊張する。会いたいと思っていたのに、いざ会うとなると不安で一杯になる。自らの意思で彼のもとを離れたくせに、今更戻ってきたらなんと言われるだろうか。

 だが何を言われようとも、明翠と会える機会を失うわけにはいかない。どんなに遠く離れていても、どれほど時間が掛かろうとも、会える方向へと足を進めようと固く決意した。

「この場所からお屋敷まで、どのくらいあるんでしょうか……そもそも皆さん、どうして俺がここにいるって分かったんですか?」
「その懐の御守りですよ」
「若様に危険が迫ると、こちらへの道が開けるのですよ」
「我々は、その御守りの発する神気を頼りに、若様を探しました」

 雨音は驚いて、首に下げてある御守りを懐から取り出した。手のひらに乗る大きさのそれは、仄かに光っている。雨音の目頭がじわりと熱くなり、頬に濡れた感触がした。

 今回の道中、明翠はこの御守りを通して、ずっと雨音を見守ってくれていたのだ。

「ささ若様、お早く」

 雨音は狐に促されて立ち上がると、手の甲で涙に濡れた頬を擦った。早く明翠に会って、お礼を言いたかった。その為には、濃霧に包まれた険しい山道も厭わない。

「すいません、では明翠様のお屋敷まで、案内していただけますか……」
「ここは屋敷の中ですよ」
「えっ……」

 狐の言葉に、雨音は一瞬自分の耳を疑った。

「ここは屋敷の庭ですよ」
「ほら、若様のすぐ傍に灯籠とうろうがございます」

 言われて視線を落とすと、微かに薄れた霧の狭間から、石造りの灯籠が顔を覗かせた。絶句した雨音の脳裏に蘇ったのは、いつか庭先で明翠と交わした会話だった。

 ――雨音、どこにいる。
 ――明翠様。
 ――そこで何をしている。
 ――いえ、この中はどうなっているのかと思いまして……油も蝋燭も使ってないのに、夜になると明かりが灯るのが不思議で。

「雨音様!」

 懐かしい声に呼ばれて顔を上げると、霧の向こうに狐の影が見えた。影はどこからか飛び降りると、雨音へ向かって駆け寄ってきた。

「もしかして……胡蝶様?」
「ああ、雨音様! こちらにおいでだったのですね。よかった……神界の道が開けたものの、なかなか御姿が見えないので、もしや途中で迷われたのかと心配しました」

 胡蝶は屋敷でも古参の狐で、松葉以外では唯一他の狐達と見分けがつく狐だ。白い毛並みが少し灰色にくすみ、よく見るとそれは縁側に続く石段の色が混じっているのだと気づいた。

「胡蝶様、体が……透けてる……?」
「雨音様、それは後で。とにかく一刻もお早く……明翠様の元へ」

 胡蝶に指し示された石段を上がり、縁側から続く閉ざされた障子の前に立った。

(この障子の向こう側に、明翠様が……?)

 心臓は破れそうなくらい激しく鼓動を打ち鳴らし、障子の取っ手に伸びる自分の手が大きく震えていた。雨音は大きく深呼吸をひとつすると、思い切って障子を開いた。

 目の前には、いつか見た部屋が広がっていた。かつて雨音が寝起きしていた部屋と、そう大差は無い。部屋の中央に敷かれた、布団の白さだけがやけに眼につくくらい、物が少なく何も目新しいことはない……白い単衣を着た明翠が半身を起こし、こちらを見つめている以外は。

「……戻って、きたのか……」

 明翠は精彩の欠いた表情で、庭を背に立ち尽くす雨音を見上げた。





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