19 / 34
第二部
八、望むこと
しおりを挟む
「あれ、起きてたの」
奥の襖が開く音と同時に、湊のよく通る声が室内に響いた。開け放された障子の前に座って庭を見つめていた弥吉は、しまったとばかり肩をすくめる。
「寝てなくては駄目じゃないか。また熱が上がってしまうよ?」
「ごめんなさい……」
すごすごと寝床に戻って布団に潜り込んだら、湊の長い手が伸びて、額にかかった髪を優しく梳かれた。心配そうなのに、どこか嬉しそうにも見えるから不思議に思う。そんな姿を見る度、本心では弥吉にずっと病気でいてもらいたいのでは、と疑念を抱かずにはいられない。
弥吉がそんな事を考えていると、来訪者の視線がゆっくりと枕の上側に放置された膳へと向けられる。ハッとして、急いで料理の皿を隠そうとしたが、すでに遅かった。
「また私に食べさせて欲しいのかい?」
揶揄するように言われ、弥吉は大いに慌てた。前にも同じような状況で、強制的に手ずから食べさせられたのは記憶に新しい。
「違います、そうじゃなくって……その、後から食べようと、思ったから……」
食欲が無いのは、ここ数日ほとんど一日中寝てばかりいるからだろう。だがそれは、湊も分かっているはずで、それでも日にしっかり三度も膳を運ばれるから閉口する。
「そう。でも後が今になっただけだよ……ほら、おいで」
観念した弥吉は、湊に背中を抱えられて半身を起こした。箸で小さくちぎった煮しめを口元に運ばれ、渋々口を開ける。年端もいかない幼子ならばいざ知らず、こんな風に誰かに食べさせてもらなんてあり得ないと眉を寄せた。
湊が世話焼きなのは、こちらの屋敷で暮らし始めてすぐ気づいた。雨音も大概だったが、湊は間違いなくその上をいく。弥吉の汁物で濡れた口端を、柔らかな懐紙で拭う湊は楽しそうだ。
「日が落ちてきたら、風が冷たくなったね。寒い?」
「少しだけ……」
「じゃあそろそろ戸を閉めようね」
戸を閉めようと言いながら、湊は弥吉を背中からすっぽりと抱きしめて、動こうとしない。
「湊様……あのう……」
「『様』はいらないって、何度も言ってるだろう? 他人行儀な言葉遣いも駄目。私は君の兄なのだからね」
そう言った湊に、一層強く抱きしめられる。まるでしがみつかれているようだと、困惑してしまう。そう、こんな時だ……湊が、とても寂しい人だと感じるのは。
ただ庇護者としてではなく、何かを求められていると感じたのは、つい最近のことだ。その何かが分からず、手を差し伸べられる度に、弥吉は思い悩む……この手に何を乗せてあげれば、湊は満足するのだろう、と。
だが湊の感情は分かりにくく、しかも嘘つきだから、期待に応えるのはとても難しい。例えば琵琶の練習や食事をきちんと食べる等、言われた事を真面目にやっても、湊は簡単には喜ばない。向けられる笑顔は作り物めいていて、ちっとも嬉しそうに見えないのだ。
だがある日、出された食事に大嫌いな椎茸の煮付けが入っていて、普段は我慢して口にするのだが、その時はどうしても嫌で残してしまった。すると湊は『好き嫌いは駄目だよ』と咎める口調にも関わらず、それはそれは鮮やかな笑顔を見せてくれた。
また熱を出して床に伏している中、日が暮れる前にどうしても庭へ出たいと駄々をこねたら、最初は反対していたものの、最後には『仕方ないな』と弥吉を抱き上げて庭へ連れ出してくれた。その時夕焼けを背に、照れたような笑みが浮かべた横顔が印象的だった。
ほんの少しのお願いと我儘に、湊は嬉しそうに応じてくれる。本当は出来る限りわずらわせたくないが、聞き分け良くしていても湊は笑ってくれない。
だから今も、どうすれば湊が喜ぶのか、ついつい考えてしまう。
「あの、俺……もう少し庭を見ていたい」
そうっと伺うように湊の顔を見上げると、ふわりと微笑まれた。
「でも夜風は体に毒だよ」
「……」
「仕方ないなあ」
甘い微笑がゆっくりと広がって、拘束する腕に力がこもるのを感じた。少しくらい苦しくても、我慢すればその分長くこの笑顔を見ていられる。湊のこういった笑顔は、弥吉を幸せな気持ちにしてくれた。
「弥吉は、庭を見るのが好きだね」
「うん……」
「屋敷の外に出掛けたい? 庭から何か、気になるものでも見えた?」
「……あの田んぼの向こう、山の真ん中に、赤い鳥居がたくさん見えたから」
「ああ、あれは稲荷神社だよ。あそこには神様のお使いをする、白い狐が住んでいるんだ」
「神様のお使い……」
弥吉は湊の懐から身を乗り出すと、庭から望む小さな山を見つめた。神様がいるのは、どうやら緑永山だけでないらしい。
「あの山を越えたずっと向こうに入嶋国、さらに進むと都がある……ま、弥吉の足では到底辿り着けないかな」
腕の拘束はますます強くなった。確かに都からこの地まで遠かった為、贅沢にも駕籠を使って移動した。弥吉はほとんど歩かせてもらえず、おまけに駕籠は酷く揺れた為、三日間の道中すっかり気分が悪くなってしまった。
だが弥吉が今考えているのは、あの地獄のような旅路の思い出ではない。緑永山以外にも神が住う山がある、という衝撃の事実だった。
あの山くらい小さければ、てっぺんへ行くのもそれほど難しくないように思えた。一方、兄の雨音が向かった緑永山は、とても高くて険しい山道だと聞いた。
もしあの小さな山にも神様がいるのなら、もっと簡単に器のひとつもお願い出来たかもしれない。知っていれば、兄も無理して緑永山へ向かわずに済んだかもしれない。
でも、兄は緑永山へ行ってしまった。今更知ったところで、どうにもならない。
なぜ、もっと早くこの山の存在を知ることが出来なかったのだろう。そうすれば、雨音も今頃無事に戻ってきたはずだ。
「そろそろ明かりを用意させよう。じき外は真っ暗になる……戸は閉めてもいいね?」
「待って……」
どうせもう暗くて何も見えないのだから、眺めていても仕方ない。そう思うのに、弥吉は目を凝らして山の方角を見つめ続けた。
「もう少しだけ、お願い」
「仕方ないなあ」
顔の側で、湊が嬉しそうに微笑んだ気配がした。
翌朝、空が白む頃に浅い眠りから目覚めた弥吉は、そうっと部屋を抜け出して庭先へ出た。
辺りの景色は朝霧でとろりと白み、遠くには淡い緑色した田畑と、その奥には小さな青い山の輪郭が薄っすら浮かんでいた。こうやって山を眺めていると、まるでまだ覚めない夢の中みたいだと思う。
志摩の屋敷にやってきてからも、庭先から山を眺める習慣は抜けなかった。あれは緑永山ではないと分かっていても、目が覚めるとつい庭に出て山を眺めてしまう。それは湊にも話していない、弥吉だけの秘密だった。
きっと湊は、弥吉がこんな朝早くに、しかも寝巻姿のまま庭に出ると知ったら、とても怒るに違いない。そして怒りながら、とても嬉しそうに微笑むだろう。でも山を眺める理由を知ったら、とても悲しむ気がした……だから湊には秘密だ。
「……弥吉? そこにいるのは、弥吉なのか」
弥吉は足を止めると、声をした方角に顔を向けた。懐かしい声だと思ったが、こんな場所にいるはずがない……恐らく湊だろうと、気まずい気持ちで目を凝らす。
だが近づいてくる影が、次第にその人の姿形を霧の中に描き出すと、弥吉は目を見開いて戦慄いた。
「……兄ちゃん?」
それは紛れもなく、兄の雨音の姿だった。
「あれ、俺……夢でも見てるのかな……?」
「夢じゃない。俺だよ、弥吉」
目の前に立つ兄は、自分と同様に寝巻きしか着ておらず、少し寒そうに見えた。
「よかった、ここで会えて」
「兄ちゃんなの……本当に?」
「ああ、体の具合はもういいのか?」
弥吉の涙腺は一気に崩壊し、涙が止めどなく溢れ出す。
「ど、どうして、ここに……兄ちゃんがいるの……? お、俺、緑永山に、行ったんだと思って……か、神様の、器をもらいに、行ったって……」
「行ったよ。器も、もらった……でも、お前が奥津に引き取られるって知って……」
涙を流し続ける弥吉は、雨音の両腕に抱きしめられた。一瞬垣間見た表情は、泣きそうに歪んで見えたが、たぶん気のせいだ……兄はいつでも強い人だから、弥吉の前で泣くはずが無いのだから。
「ごめんな。心配掛けて……いろいろ苦労かけて」
「そんなの俺こそ、兄ちゃんに迷惑ばかり掛けて……ごめんなさい」
「迷惑なんかじゃない」
雨音はそっと腕を解くと、真剣な表情で弥吉の両肩を掴んだ。
「お前のせいじゃない。それどころか、お前がいたから、俺は辛い事でも苦しい事でも、今まで耐えてこられたんだ。そうじゃなければ、ここまでだって辿り着けなかった。だからお前は、何にも引け目に思うことはないんだ」
「兄ちゃん……」
「ごめん、お前はまだ小さいからって、ちゃんと話さなくて悪かった。俺のことを心配して、逆に辛い気持ちにさせてたって、こちらの屋敷の主人に聞いてやっと理解できたんだ」
「えっ、湊様が……?」
「うん、いい方だね。それに俺なんかよりも、ずっと大人で立派な人だ」
「でも……湊様は、お一人なんだ」
弥吉は話しながら、ふいに霧が晴れたみたいに、自分の気持ちがはっきりと見えてくる。
「湊様は……たったお一人で、ここに暮らしていて……だから俺、湊様のお傍にいたい」
「……そっか」
雨音の声が静かに響いた。
「それなら、弥吉の好きにするといいよ」
「兄ちゃん……兄ちゃんは?」
「俺も、お傍にいたい人がいるんだ」
――だから、ここでお別れだ。
最後にそう言い残すと、兄は背を向けて霧の中へと去っていってしまう。弥吉はその後ろ姿を見えなくなるまで、その場を動けなかった。やがて完全に見えなくなると、急に辺りが明るさを増してきたことに気づく。
田畑は鮮やかな緑に染まり、真っ赤な鳥居がのぞく小さな山は、深緑色の木々を茂らせて静かに佇んでいた。
これはきっと、夢だったのだ。でも夢でも兄に会えてよかったと、満たされた気持ちになった。さあ早く、湊に見つかる前に戻らなくては……弥吉は踵を返すと、部屋へ向かって駆けだした。
奥の襖が開く音と同時に、湊のよく通る声が室内に響いた。開け放された障子の前に座って庭を見つめていた弥吉は、しまったとばかり肩をすくめる。
「寝てなくては駄目じゃないか。また熱が上がってしまうよ?」
「ごめんなさい……」
すごすごと寝床に戻って布団に潜り込んだら、湊の長い手が伸びて、額にかかった髪を優しく梳かれた。心配そうなのに、どこか嬉しそうにも見えるから不思議に思う。そんな姿を見る度、本心では弥吉にずっと病気でいてもらいたいのでは、と疑念を抱かずにはいられない。
弥吉がそんな事を考えていると、来訪者の視線がゆっくりと枕の上側に放置された膳へと向けられる。ハッとして、急いで料理の皿を隠そうとしたが、すでに遅かった。
「また私に食べさせて欲しいのかい?」
揶揄するように言われ、弥吉は大いに慌てた。前にも同じような状況で、強制的に手ずから食べさせられたのは記憶に新しい。
「違います、そうじゃなくって……その、後から食べようと、思ったから……」
食欲が無いのは、ここ数日ほとんど一日中寝てばかりいるからだろう。だがそれは、湊も分かっているはずで、それでも日にしっかり三度も膳を運ばれるから閉口する。
「そう。でも後が今になっただけだよ……ほら、おいで」
観念した弥吉は、湊に背中を抱えられて半身を起こした。箸で小さくちぎった煮しめを口元に運ばれ、渋々口を開ける。年端もいかない幼子ならばいざ知らず、こんな風に誰かに食べさせてもらなんてあり得ないと眉を寄せた。
湊が世話焼きなのは、こちらの屋敷で暮らし始めてすぐ気づいた。雨音も大概だったが、湊は間違いなくその上をいく。弥吉の汁物で濡れた口端を、柔らかな懐紙で拭う湊は楽しそうだ。
「日が落ちてきたら、風が冷たくなったね。寒い?」
「少しだけ……」
「じゃあそろそろ戸を閉めようね」
戸を閉めようと言いながら、湊は弥吉を背中からすっぽりと抱きしめて、動こうとしない。
「湊様……あのう……」
「『様』はいらないって、何度も言ってるだろう? 他人行儀な言葉遣いも駄目。私は君の兄なのだからね」
そう言った湊に、一層強く抱きしめられる。まるでしがみつかれているようだと、困惑してしまう。そう、こんな時だ……湊が、とても寂しい人だと感じるのは。
ただ庇護者としてではなく、何かを求められていると感じたのは、つい最近のことだ。その何かが分からず、手を差し伸べられる度に、弥吉は思い悩む……この手に何を乗せてあげれば、湊は満足するのだろう、と。
だが湊の感情は分かりにくく、しかも嘘つきだから、期待に応えるのはとても難しい。例えば琵琶の練習や食事をきちんと食べる等、言われた事を真面目にやっても、湊は簡単には喜ばない。向けられる笑顔は作り物めいていて、ちっとも嬉しそうに見えないのだ。
だがある日、出された食事に大嫌いな椎茸の煮付けが入っていて、普段は我慢して口にするのだが、その時はどうしても嫌で残してしまった。すると湊は『好き嫌いは駄目だよ』と咎める口調にも関わらず、それはそれは鮮やかな笑顔を見せてくれた。
また熱を出して床に伏している中、日が暮れる前にどうしても庭へ出たいと駄々をこねたら、最初は反対していたものの、最後には『仕方ないな』と弥吉を抱き上げて庭へ連れ出してくれた。その時夕焼けを背に、照れたような笑みが浮かべた横顔が印象的だった。
ほんの少しのお願いと我儘に、湊は嬉しそうに応じてくれる。本当は出来る限りわずらわせたくないが、聞き分け良くしていても湊は笑ってくれない。
だから今も、どうすれば湊が喜ぶのか、ついつい考えてしまう。
「あの、俺……もう少し庭を見ていたい」
そうっと伺うように湊の顔を見上げると、ふわりと微笑まれた。
「でも夜風は体に毒だよ」
「……」
「仕方ないなあ」
甘い微笑がゆっくりと広がって、拘束する腕に力がこもるのを感じた。少しくらい苦しくても、我慢すればその分長くこの笑顔を見ていられる。湊のこういった笑顔は、弥吉を幸せな気持ちにしてくれた。
「弥吉は、庭を見るのが好きだね」
「うん……」
「屋敷の外に出掛けたい? 庭から何か、気になるものでも見えた?」
「……あの田んぼの向こう、山の真ん中に、赤い鳥居がたくさん見えたから」
「ああ、あれは稲荷神社だよ。あそこには神様のお使いをする、白い狐が住んでいるんだ」
「神様のお使い……」
弥吉は湊の懐から身を乗り出すと、庭から望む小さな山を見つめた。神様がいるのは、どうやら緑永山だけでないらしい。
「あの山を越えたずっと向こうに入嶋国、さらに進むと都がある……ま、弥吉の足では到底辿り着けないかな」
腕の拘束はますます強くなった。確かに都からこの地まで遠かった為、贅沢にも駕籠を使って移動した。弥吉はほとんど歩かせてもらえず、おまけに駕籠は酷く揺れた為、三日間の道中すっかり気分が悪くなってしまった。
だが弥吉が今考えているのは、あの地獄のような旅路の思い出ではない。緑永山以外にも神が住う山がある、という衝撃の事実だった。
あの山くらい小さければ、てっぺんへ行くのもそれほど難しくないように思えた。一方、兄の雨音が向かった緑永山は、とても高くて険しい山道だと聞いた。
もしあの小さな山にも神様がいるのなら、もっと簡単に器のひとつもお願い出来たかもしれない。知っていれば、兄も無理して緑永山へ向かわずに済んだかもしれない。
でも、兄は緑永山へ行ってしまった。今更知ったところで、どうにもならない。
なぜ、もっと早くこの山の存在を知ることが出来なかったのだろう。そうすれば、雨音も今頃無事に戻ってきたはずだ。
「そろそろ明かりを用意させよう。じき外は真っ暗になる……戸は閉めてもいいね?」
「待って……」
どうせもう暗くて何も見えないのだから、眺めていても仕方ない。そう思うのに、弥吉は目を凝らして山の方角を見つめ続けた。
「もう少しだけ、お願い」
「仕方ないなあ」
顔の側で、湊が嬉しそうに微笑んだ気配がした。
翌朝、空が白む頃に浅い眠りから目覚めた弥吉は、そうっと部屋を抜け出して庭先へ出た。
辺りの景色は朝霧でとろりと白み、遠くには淡い緑色した田畑と、その奥には小さな青い山の輪郭が薄っすら浮かんでいた。こうやって山を眺めていると、まるでまだ覚めない夢の中みたいだと思う。
志摩の屋敷にやってきてからも、庭先から山を眺める習慣は抜けなかった。あれは緑永山ではないと分かっていても、目が覚めるとつい庭に出て山を眺めてしまう。それは湊にも話していない、弥吉だけの秘密だった。
きっと湊は、弥吉がこんな朝早くに、しかも寝巻姿のまま庭に出ると知ったら、とても怒るに違いない。そして怒りながら、とても嬉しそうに微笑むだろう。でも山を眺める理由を知ったら、とても悲しむ気がした……だから湊には秘密だ。
「……弥吉? そこにいるのは、弥吉なのか」
弥吉は足を止めると、声をした方角に顔を向けた。懐かしい声だと思ったが、こんな場所にいるはずがない……恐らく湊だろうと、気まずい気持ちで目を凝らす。
だが近づいてくる影が、次第にその人の姿形を霧の中に描き出すと、弥吉は目を見開いて戦慄いた。
「……兄ちゃん?」
それは紛れもなく、兄の雨音の姿だった。
「あれ、俺……夢でも見てるのかな……?」
「夢じゃない。俺だよ、弥吉」
目の前に立つ兄は、自分と同様に寝巻きしか着ておらず、少し寒そうに見えた。
「よかった、ここで会えて」
「兄ちゃんなの……本当に?」
「ああ、体の具合はもういいのか?」
弥吉の涙腺は一気に崩壊し、涙が止めどなく溢れ出す。
「ど、どうして、ここに……兄ちゃんがいるの……? お、俺、緑永山に、行ったんだと思って……か、神様の、器をもらいに、行ったって……」
「行ったよ。器も、もらった……でも、お前が奥津に引き取られるって知って……」
涙を流し続ける弥吉は、雨音の両腕に抱きしめられた。一瞬垣間見た表情は、泣きそうに歪んで見えたが、たぶん気のせいだ……兄はいつでも強い人だから、弥吉の前で泣くはずが無いのだから。
「ごめんな。心配掛けて……いろいろ苦労かけて」
「そんなの俺こそ、兄ちゃんに迷惑ばかり掛けて……ごめんなさい」
「迷惑なんかじゃない」
雨音はそっと腕を解くと、真剣な表情で弥吉の両肩を掴んだ。
「お前のせいじゃない。それどころか、お前がいたから、俺は辛い事でも苦しい事でも、今まで耐えてこられたんだ。そうじゃなければ、ここまでだって辿り着けなかった。だからお前は、何にも引け目に思うことはないんだ」
「兄ちゃん……」
「ごめん、お前はまだ小さいからって、ちゃんと話さなくて悪かった。俺のことを心配して、逆に辛い気持ちにさせてたって、こちらの屋敷の主人に聞いてやっと理解できたんだ」
「えっ、湊様が……?」
「うん、いい方だね。それに俺なんかよりも、ずっと大人で立派な人だ」
「でも……湊様は、お一人なんだ」
弥吉は話しながら、ふいに霧が晴れたみたいに、自分の気持ちがはっきりと見えてくる。
「湊様は……たったお一人で、ここに暮らしていて……だから俺、湊様のお傍にいたい」
「……そっか」
雨音の声が静かに響いた。
「それなら、弥吉の好きにするといいよ」
「兄ちゃん……兄ちゃんは?」
「俺も、お傍にいたい人がいるんだ」
――だから、ここでお別れだ。
最後にそう言い残すと、兄は背を向けて霧の中へと去っていってしまう。弥吉はその後ろ姿を見えなくなるまで、その場を動けなかった。やがて完全に見えなくなると、急に辺りが明るさを増してきたことに気づく。
田畑は鮮やかな緑に染まり、真っ赤な鳥居がのぞく小さな山は、深緑色の木々を茂らせて静かに佇んでいた。
これはきっと、夢だったのだ。でも夢でも兄に会えてよかったと、満たされた気持ちになった。さあ早く、湊に見つかる前に戻らなくては……弥吉は踵を返すと、部屋へ向かって駆けだした。
4
お気に入りに追加
72
あなたにおすすめの小説

青少年病棟
暖
BL
性に関する診察・治療を行う病院。
小学生から高校生まで、性に関する悩みを抱えた様々な青少年に対して、外来での診察・治療及び、入院での治療を行なっています。
※性的描写あり。
※患者・医師ともに全員男性です。
※主人公の患者は中学一年生設定。
※結末未定。できるだけリクエスト等には対応してい期待と考えているため、ぜひコメントお願いします。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

王道学園の冷徹生徒会長、裏の顔がバレて総受けルート突入しちゃいました!え?逃げ場無しですか?
名無しのナナ氏
BL
王道学園に入学して1ヶ月でトップに君臨した冷徹生徒会長、有栖川 誠(ありすがわ まこと)。常に冷静で無表情、そして無言の誠を生徒達からは尊敬の眼差しで見られていた。
そんな彼のもう1つの姿は… どの企業にも属さないにも関わらず、VTuber界で人気を博した個人VTuber〈〈 アイリス 〉〉!? 本性は寂しがり屋の泣き虫。色々あって周りから誤解されまくってしまった結果アイリスとして素を出していた。そんなある日、生徒会の仕事を1人で黙々とやっている内に疲れてしまい__________
※
・非王道気味
・固定カプ予定は無い
・悲しい過去🐜のたまにシリアス
・話の流れが遅い
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
あなたの隣で初めての恋を知る
ななもりあや
BL
5歳のときバス事故で両親を失った四季。足に大怪我を負い車椅子での生活を余儀なくされる。しらさぎが丘養護施設で育ち、高校卒業後、施設を出て一人暮らしをはじめる。
その日暮らしの苦しい生活でも決して明るさを失わない四季。
そんなある日、突然の雷雨に身の危険を感じ、雨宿りするためにあるマンションの駐車場に避難する四季。そこで、運命の出会いをすることに。
一回りも年上の彼に一目惚れされ溺愛される四季。
初めての恋に戸惑いつつも四季は、やがて彼を愛するようになる。
表紙絵は絵師のkaworineさんに描いていただきました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる