神界の器

高菜あやめ

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第二部

六、心の澱

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 志摩国しまのくにに到着した弥吉は、ここまで着いて来てしまったことに、正直まだ迷いがあった。
 あまり国元から離れた場所にいたら、いざという時に兄を探しにくくなる。また見知らぬ土地にたった一人でやってきた不安もあり、奥津の屋敷から出てきた事を、すでに少しばかり後悔していた。

 奥津の屋敷に滞在している頃は、元いた奉公先の旅籠からもほど近く、いろいろな意味で安心できた。しかも晴れた日は、屋敷の日本庭園から緑永山がよく見えた。
 奥津の屋敷では、ずっと眠りが浅く、よく明け方頃には目が覚めた。そんな時には必ず障子を開けて、朝霧にけむる山の頂を眺めた。 なぜならあの場所に、兄がいる気がしたからだ。周囲の者は誰一人、兄があの山へ向かったと信じていないようだったが、弥吉だけは違っていた。

 兄は真面目で、嘘がつけない性格だ。だから緑永山へ行くと言ったら、必ず行くだろう。そしてきっと自分の元へ戻ってくると信じて疑わなかった。
 だが信じていても、これほど離れたところにいると、どうしようもなく不安に駆られてしまう。みなとの住む屋敷へ向かう道中も、本当は不安で仕方なかった。その不安は、志摩の屋敷に到着したら、より一層大きくなった。このように遠くまできてしまったら、簡単に帰れないのではと不吉な予感すらした。

 通された八畳ほどの部屋は、縁側から差し込む陽射しで明るく、床の間には季節の花が飾られて、ふくよかな甘い香に満ちていた。天井を見上げると、中央に繊細な造りの欄間らんまが設けられ、部屋全体を優雅で美しく彩っている。すべてが質実剛健で華美さを嫌う奥津の屋敷とは様子が違い、弥吉を酷く落ち着かなくさせた。

 奥津の奥方の釣り上がった目尻も、大旦那の厳しく寄せられた太い眉も、女中達の薄ら笑いを浮かべる白塗りの顔も、志摩には無いのか疑わしい。実は皆どこかに隠れていて、弥吉が気を抜いた途端、急に現れるかもしれない。

 猜疑心にさいなまれていると、隣に立つ湊にやさしく声を掛けられた。

「どうしたの、疲れた?」

 首を振ってみせたが、湊は秀麗な眉を寄せて納得がいってない様子だった。

「顔色が冴えないね。少し休んだほうがいいかな。すぐに寝所を整えよう。それまで、ここで菓子でも食べて、ゆっくりしておいで」
「……」

 弥吉は何と答えればいいのか分からなかった。このように親切に声を掛けられたのも、菓子を勧められたのも、生まれてはじめてだった。

「……あの、俺は……何をすれば」

 恐らく引き換えに、何かしなくてはいけないのだろう。これまでも何か与えられる時は、必ずそれに見合った、もしくはそれ以上の対価が求められた。多くは労働と引き換えに、衣服や食べ物、寝床を与えられたが、ここ最近は少しばかり違っていた。

 労働の代わりに琵琶の稽古を強要され、礼儀作法を仕込まれ、上手く出来ないと折檻された。着物に隠れて見えない部分には、このひと月余りで増えたけがが生々しく残っている。

「当面の間は何も。琵琶のお稽古は、手のけがが治ってから、私が直々につけてあげる。こう見えて、結構上手いんだよ」
「……」
「あとはそうだな……毎日、顔を見せてもらうよ」
「顔?」
「そう。お前の顔を見ていると、懐かしい人を思い出すんだ」

 弥吉は勧められるまま湊の正面に腰を下ろすと、出されたお茶にも菓子にも目をくれずに、目の前でうっそりと微笑む青年の顔を見つめ返した。

「お前の御母上だよ。とても美しい人だった」
「俺の、ははうえ……?」
「そう、面立ちがそっくりだ。宴で会った時、本当に驚いたよ。まさかもう一度、こんな形であの方に会えるとは思わなかったから、とても嬉しかった」

 湊の言葉の一つ一つが、弥吉の心を大きく揺さぶる。この青年は、自分の母親に会った事があるのか? いつ? どこで、どのように? 聞きたい事は山ほどあるのに、どこからどう聞いたらいいのか分からない。弥吉はもどかしさに唇を噛んだ。

 自分の母親を『とても美しい人』と言ったこの青年に、好感を覚えずにはいられない。母を褒められて、とても嬉しかった。そして自分の顔が、記憶の中でぼやけてしまった母親の顔に似ていると言われたことも。
 だが……似ているのは顔だけだろう。弥吉は襟元でギュッと手を握り締めた。





 その晩、弥吉はなかなか寝付けず、慣れない寝床で幾度となく寝返りを打った。
 結局、最初に通された部屋で休むことになった。日の光で満ちていた昼間と違い、今は月明かりが差し込む室内は静かで穏やかな空気に満ちている。そんな中で横になっている自分が、とても異質な存在に思えて仕方がなかった。

 奉公先の旅籠では、とても狭い房で兄と二人、寄り添って眠っていた。兄は昼間の労働で疲れ切っていたので、横になるや否や眠りについてしまう。だが弥吉はよく体調を崩して寝てることが多かった為、昼夜問わずに、浅く短い眠りを日に幾度となく繰り返すばかりだった。

 ふと目が覚めた時、隣にやつれた兄の寝顔があると、安心感よりも胸が痛んだ。自分のせいで兄に無理をさせている事は、幼い少年の目から見ても明白だった。兄は愚痴ひとつこぼさず、いつも弥吉をかばってくれた。それがとても辛かった。

 日に日に罪悪感と後ろめたさは増していき、やがて兄の顔を見るのも辛くなった。兄に頼らなくては生きていけない自分なのに、兄と一緒にいるのが辛い。薄く固い寝床で寝ていると、まるで体中に大きな石が乗せられ、太い縄で縛り付けられている気分になった。自分はこの屋敷からも、兄からも逃げられない……そんな考えが浮かんで怖くなった。

 自分を大切にしてくれる兄から『逃げられない』なんて……どうしてそんな風に思ってしまうのだろう。
 弥吉は閉じていた双眸を開き、薄暗い部屋の天井を見つめる。そろりと布団を剥ぐと、部屋を抜け出し、裸足のまま庭先へ降りた。

 煌々と辺りを照らす銀色の月明かりの下、水鉢の濡れた御影石みかげいしが鈍く光っている。その遥か向こうには、日中は萌黄色もえぎいろした田畑が広がっていたが、今は闇に黒く塗りつぶされて見る影もない。時折遠くから聞こえる葉擦れの音が、夜風に乗ってザザッ、ザザッと、大きな獣の足音のように、こちらへと近づいてくる。弥吉がぶるりと体を震わせた、その時……背中から静かな声が響いた。

「眠れないの?」
「……みなと、さま……」

 寝巻の単衣姿で縁側に立つ青年は、弥吉の足元を見やると呆れた顔をした。

「どうして何も履いてないの」
「草履が、無かったから……」

 すると何が可笑しいのか、湊は笑いながら「仕方ないなあ」と自らも裸足で庭先に飛び降りると、あっという間に弥吉を抱き上げ、再び縁側に上がった。

「足を拭かなくてはね。私の部屋に布巾があるから、連れていくよ」
「あの、俺……」

 そのまま廊下を渡って、湊の部屋に連れて行かれた。室内は弥吉が寝ていた部屋とさほど変わらず、ただ部屋の隅には燭台があって、明かりが灯されていた。ゆっくり降ろされた布団は、ひやりと冷たかった。

 部屋の隅には、燭台の細かく揺れる炎の照らされたいくつかの箱が数個、乱雑に置かれていた。湊はその箱の中から、柔らかそうな美しい布を引っ張り出した。

「これでいいかな」

 青年の手に足首を掴まれ、汚れた足裏に布を宛がおうとする。驚いた弥吉は足をばたつかせ、懸命に体を引こうともがいた。

「こら、暴れないで」
「だ、駄目、汚れちゃう……」
「だから拭こうとしているんだよ? ほらいい子だからこっちへおいで」

 青年と少年の力の差は歴然で、観念した弥吉は大人しく湊のされるまま足を拭かれた。両足を拭き終わると、ついでにとばかり、親指で目尻を拭われた。どうやら知らぬ間に涙が滲んでいたようだ。

「可愛いなあ。ずっとお前みたいな弟が欲しかったんだ」

 ギュッと抱きしめられ、弥吉は茫然とする。すると視界の端に、箱の横に置かれた白く光る器が目に映った。妙に惹きつけられ、じっと見つめていると、その視線に気づいた湊が手を伸ばして器を取り上げ、弥吉の手に乗せてくれた。

「美しいだろう。神界の器だよ」
「しんかい……」
「そう。神様の作った器。君も入嶋国の緑永山は知っているだろう? あのてっぺんには仙人が住んでいて、そこへ辿り着いた旅人に神々が焼いたと言われる器を授けてくれるんだ」

 ――ちゃんと俺が緑永山の神様に頼んで、新しい器をもらってきてやるから心配するな。

 弥吉の体が酷く震え出す。息が詰まって苦しく、心臓が破れそうなほど、激しく鼓動を打ち出した。遠くで誰かの声が響いていたが、もはや弥吉の耳には届かなかった。

「……兄ちゃん、ごめん。俺のせいで……!」

 いつか言ったその言葉が、自然に口から零れ落ちる。聞いて欲しい相手は、ここにはいない。弥吉の前から姿を消し、あの山へ行ってしまったに違いない。弥吉の為に、弟である自分の為に……兄は、いつもそうだ。

「どうして……おれのために、そんなの、いやなのに……どうして……」

 兄がいなくなって、自分は奥津の屋敷に引き取られた。言う事を聞けば、何不自由ない生活を送れると言われたから、厳しい琵琶の練習だって頑張った。折檻されても耐えることができた。

 いつか兄は帰ってくると信じている。でも、だから恐ろしい。
 本当に自分は、兄が帰って来ることを望んでいるのだろうか……ふとそう思うことがある。もう二度と会えなくなってしまうかもしれない、という不安を抱えながらも、遥々この地までやってきてしまった自分は、もしかしたら心のどこかで、兄と離れたかったのだろうか。

 会いたいけれど、会うのが怖い……そんな不可解な気持ちがおりのようになって、心の底に降り積もっていく。それをどうすれば取り除けるのか分からないまま、日が経つにつれ少しずつ澱は増えていくのだった。




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