神界の器

高菜あやめ

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第二部

二、霧

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 その夜、事件は起こった。
 ぐっすり眠っていた雨音は、障子越しに聞こえてきた声に起こされた。

「雨音……雨音、起きてください」
「……松葉様?」

 寝ぼけ眼で半身を起こした雨音は、障子越しにうつった小さな影に首を傾げた。

「やっと起きましたか……開けますよ?」

 雨音の返事を待たずに障子が開かれると、小袖姿でちょこんと座る狐の姿があった。

「私です、雨音」
「あ……松葉様?」

 ここ最近はずっと人の姿をしていたので、本来は狐であることをすっかり失念していた。そんな雨音の心を読んだかのように、松葉は小さくため息をつく。

「寝ている時はいつもこの姿なんです。というのも、寝巻きは、この体に合う小さなものしか持ってませんから」

 最後の一言は、冗談だったのか本気だったのか分からず、雨音は神妙に頷くだけに留まった。

「あなたもその格好のままで構わないので、ついてきてください」

 雨音は松葉の言葉に従って、素直に布団から出ると、先を案内する小さな背中を追った。

「どちらへ向かわれるのですか」
「明翠様のお部屋です……あなたが来れば、きっと少しはましになるかと思いましてね」

 後半の呟きは何について言ってるのか分からなかったが、明翠の部屋へ向かっていることだけは理解した。

「霧に足を取られぬよう、気をつけてください」

 注意されて初めて、濃い霧が渡り廊下の端まで迫ってきていることに気づく。庭を見ると白く塗りつぶされて何も見えない。

(なんか……気味悪いな)

 雨音は出来るだけ廊下の内側を歩くようにしたが、時折庭からチロチロと白い炎のように伸びる霧に、得も言われぬ恐ろしさを感じた。まるで屋敷を飲み込もうと舌舐めずりしているようで、背筋が寒くなる。

 やがて明翠の部屋の近くまでやってくると、開け放たれた障子から狐達が忙しなく出入りしているのが見えた。何やら揉めているらしく、言葉の粒ははっきりと聞き取れないが、部屋の主人の不機嫌そうな声が混ざっているのが気になった。

 ちょうど廊下から顔を出した狐が雨音たちに気づくと、次々と他の狐が廊下に姿を見せ、二人に駆け寄ってきた。

「ああ松葉殿! よかった、若様を連れてきてくれたのか」
「松葉殿、こっちだこっち」
「松葉殿、早く若様を中へ」
「松葉殿、若様を御方様のお傍へ」

 松葉と雨音は、たくさんの狐達に押されるようにして、明翠の部屋へと雪崩れ込んだ。

(明翠様の寝所に入るのは、初めだ……なんか緊張するな)

 明翠の寝室は特別広いわけでもなく、雨音の部屋と似たような造りだった。狐が持ち運んだのか、不自然なほど多くの行灯が室内を煌々と明るく照らす中、布団の上で胡座をかく明翠の姿があった。

「……雨音?」

 明翠は雨音の姿を認め、たちまち表情を曇らせた。若干着崩れた寝巻きの襟から覗く首筋には、幾つもの汗の筋が光り、逞しい胸板へと滴り落ちている。

「明翠様、どこかお体の具合が悪いのですか!?」
「違う。ただ夢見が悪かっただけだ」

 即座に否定して顔を背けた明翠のこめかみから、汗が一筋流れ落ちた。雨音は布団の上にひざまずくと、咄嗟に手を伸ばして明翠の額に触れた。

「お熱があります」
「こら、雨音……」

 雨音は弟の看病に慣れていたので、こういう時は迷いなく体が動いてしまう。ちょうど狐が水を張った桶と手拭いを運んできたので、お礼を言ってそれを受け取り、改めて明翠に向き直った。
 明翠は憮然とした様子で、雨音の様子を眺めている。

「私は大丈夫だ」
「病人は皆そう言います」

 雨音は桶に浸した手拭いを絞ると、明翠の汗ばんだ顔や首を手際よく拭っていく。はじめは嫌そうな顔を見せていた明翠だったが、途中から次第に諦めた様子で雨音の好きにさせてくれた。
 雨音は銀色の長い髪を持ち上げて、うなじの部分までしっかりと拭き終えると、今度は寝ている間にもつれてしまった髪を手櫛で整え出した。

(綺麗な御髪だなあ。手触りも良くて、ずっと触っていたくなる……)

 ふと明翠の顔を見ると、心なしか薄っすら赤くなっている。そこで雨音は初めて、髪を触っているだけでも心の中は筒抜けなのだと察した。気恥ずかしさのあまり手が止まりかけたその時、部屋の入口にいた狐が声を上げた。

「……おお、霧が引いていく」
「やはり、松葉殿の予想通りだったか」

 サワサワと囁き合う狐達の背後から、雨音はそうっと開け放たれた障子の向こうに広がる庭先を覗いた。

(あれ、いつの間に霧が消えてる……)

 月明かりの下、嘘のように濃い霧がすっかり掻き消えていた。庭先では、等間隔に並ぶ灯篭に照らされた草花が微かな夜風に身を任せ、穏やかに揺れている。

 雨音が呆けたように庭を眺めていると、近くで控えていた松葉が立ち上がった。

「雨音、今夜はこのまま、明翠様の部屋で休みなさい」
「え、松葉様、でも」

 海老茶色の毛並をした狐は、布団に横たわる明翠へと視線を移した。

「明翠様も、それでよろしいですね?」
「……」

 それは肯定の沈黙だったようだ。狐達は素早く布団をもう一組運び込むと、雨音と明翠を部屋に残して、さっさと部屋を出て行ってしまった。

 雨音は閉じられた障子をぼんやりと見つめる。もう誰も戻って来ないのか、そして本当に、このままここで寝てもいいのか……雨音は戸惑いがちに、半身を起こした明翠に顔を向けた。

「あの、明翠様」
「もう遅いから、ここで寝るといい」
「あ、はい……」

 雨音は並べられた布団にそそくさと移動して、中に潜り込もうとしたが、伸ばされた明翠の腕に体を絡め取られてしまった。

「明翠様?」
「今夜は冷える。嫌じゃなければ、こちらの布団で寝るといい」

 雨音は一瞬固まり、それから小さく頷いた。するとそのまま手を引かれ、明翠の寝床に引き込まれた。すっかり汗の引いた体に抱き込まれ、雨音は安堵のため息をつく。

(よかった、お熱があると思ったけど、勘違いだったみたいだ。お風邪を召されていたらと心配だけど、本当に、もう大丈夫なのかなあ)

「私たち神族は風邪など引かないから、安心するといい」

 大きな手で後頭部をそっと撫でられる。

「心配掛けて、悪かった」

 甘く低い囁き声に、くすぐったい気持ちなる。雨音は温かな腕に包まれて、顔を緩ませながら眠りに落ちていった。





 あの夜の出来事以来、相変わらず穏やかな日々が続いているが、ひとつだけ変わった事がある。

「雨音、どこにいる」

 庭先の灯篭の前でしゃがみこんでいた雨音は、縁側の向こうから響く声に振り返った。

「明翠様」
「そこで何をしている」
「いえ、この中はどうなっているのかと思いまして」

 明翠はヒラリと縁側から飛び降りると、雨音の隣に並んで屈み込んだ。

「この灯篭か?」
「はい。油も蝋燭も使ってないのに、夜になると明かりが灯るのが不思議で」
「そうか」

 隣で微笑む気配がしたが、特に説明はなかった。おそらくこの明かりは、神力によるものだろう。人間である雨音には分かりようもない、でも神界では単純なことに違いない。

(そうだ、俺は人間の分際で、こちらにご厄介になってる身だ。ここにいる間は、あまりあちこち首突っ込むのはよくないな。気をつけないと)

「そのようなことまで、気をつける必要はない。疑問に思った事があれば、何でも口に出して構わない」

(やっぱり明翠様は、お優しい方だな)

「……雨音、中へ戻るぞ」

 手を引かれ屋敷の中へ戻ると、通りかかった狐達と目が合った。以前なら「若様、若様」と騒がしいくらい構われたものだが、このところ、特に明翠と一緒の時は近づいてすらこなくなった。

(避けられてるみたいだ。俺、何かしちゃったのかな……)

「そうではない。私の手前、遠慮してるだけだ」

(明翠様の……そうか、皆は明翠様のお世話で忙しかったんだ。ただでさえ世話になりっぱなしな俺のことなんて、気に掛けてる暇は無いよな。ここに居る間は、せめて迷惑掛けないようにしなくちゃ……)

「……」

 繋いだ手にぎゅっと力が込められ、雨音は明翠を見上げた。固く結んだ唇は、何か不満に感じているのだと、雨音は少し悲しく思う。

「あの、俺、そろそろ工房のお掃除に行って参ります」
「まだ早いだろう。松葉はどうした」
「松葉様は右京様のお店にご用があるとかで、町へお出掛けされてます。ご不在の間の課題も済ませたので、今日は他にすることがなくって……」

 だから少し早めでも工房へ行こうと考えたのだが、明翠に連れていってもらえないと、あの場所へ行けない。

「あ、もし明翠様がお忙しいのでしたら、明日でも……」
「では、こちらへ来い」

 繋いだ手を引かれ、雨音は大人しくついていく。きっといつものように、明翠の書斎へ連れて行かれるのだろう。

(またか……お仕事がお忙しいのかな)

 このところ、こんな風に工房へ掃除に行けない日が増えた。
 掃除をしに通うようになって、すでに一ヶ月以上経つ。工房の中はすっかり綺麗になり、調度品も磨がかれ、あとは道具さえ揃えば、というところまで改善された。
 ただ円形の台……ろくろと呼ぶらしい……が、真っ二つに割れたままだ。器作りには欠かせない重要な道具らしく、しかも明翠に相談したところ特別製なので、新調したくても、おいそれと入手出来ないという。
 それでもいつか、すべての道具が揃う日が来ると信じて、雨音はせっせと掃除に通う。空気を入れ替えて、埃を払い、床を磨く。一連の作業は短時間で終わってしまうので、以前は日に二回通っていたところを、近頃は日に一度で十分足りた。

 だがあの夜以来、工房へ行けない日々が続いていた。まだ三日目なので、それほど汚れたり荒れたりしてないだろうが、これまでずっと毎日掃除をしていたから、少し気になっていた。
 そんな事を考えているうちに、明翠の書斎に到着した。文机に向かう明翠の傍で、本を読んで時間を過ごすのが、雨音のここ最近の日課だ。

 松葉の指導もあって、雨音は今や簡単な書物ならば読めるようになった。仏書や歴史書も勉強の一環で多少読むが、午後にこうして書斎にいる間はもっぱら娯楽小説を借りて読む。

(あ、この間読んだ本の続編だ! うれしいな、先が気になってたんだ)

 手に取った真新しい本は折り目が全くついておらず、まだ誰も読んでないことがうかがえた。このような装丁も美しい本を読ませてもらえること自体、ありがたくも贅沢で、勿体ない気がしてならなかった。

「その本が気に入ったか」

 本を手に笑みを浮かべていた雨音の髪を、明翠の長い指が優しく梳く。

「はい、読んでいると一緒に旅しているようで、とても楽しいです」

 話は珍道中が綴られた旅物語で、文字を覚えたてのため少々苦戦したが、雨音にとって初めて読破できた記念すべき本だ。またこの話は続き物で、全巻制覇への道のりは遠い。

(そういえば、たしか長屋の近所に貸本屋があったな)

 仮にここで全巻読めなくても、これだけ面白い話なら人気のはずだから、町へ戻ってもどこかの貸本屋で借りることが出来るはずだ。貧しくても、本を借りて読むくらいなら、仕事の合間の楽しみとして許される贅沢だろう。

「文字が、本が読めるって、こんなに素晴らしい事だったのですね。このような楽しみが出来るなんて、本当に明翠様と松葉様には、感謝してもし足りないくらいです」
「……」
「明翠様?」

 明翠は顔を曇らせると、黙ったまま背を向けてしまった。




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