神界の器

高菜あやめ

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第二部

一、対の片割れ

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 志摩国しまのくにの、とある岬に程近い高台に、一軒の屋敷がひっそりと佇んでいた。
 華美ではないが趣味の良い造りで、下方の農村で多く見られる合掌造りの民家と比べ、この辺りでは異彩を放つ。それなのに悪目立ちしないのは、建物の大部分が常緑樹のこずえに覆われて、集落の目から隠れるように、遠慮がちに存在しているからだろう。

 屋敷には数年前、都のさる高貴な身分の者が、ほんの一握りの供を連れて現れ、そのまま住み着いた。だが、かの貴人はこれまで一度も、村人の前に姿を見せたことない。
 三カ月に一度、旅人風情の人物が訪れる以外、その屋敷はとても静かなもので、すっかり集落の風景に溶け込んでいた。しかし村人は、どこか謎めいて浮世離れしたその屋敷には近づこうとしなかった。

 屋敷は外観から受ける印象より広々とした間取りで、最奥の部屋には遠くに海を望める解放的な縁側があり、そこから趣味の良い庭が続いていた。
 その部屋は集落とは真逆に位置している為、縁側から身を乗り出しても、村人に姿を見られることはない。だからこの屋敷の主人であり、数年前から隠遁いんとん生活を送る青年のお気に入りの場所だった。

「本当に、こちらへ訪れる度に、俗世の喧騒が夢幻ゆめまぼろしのように思えてなりませぬ」

 客用の座布団に座る白髪の男は、手にした湯呑の蓋を摘んで外すと、一口うまそうに熱い茶をすすった。

「そのような戯言を口にしていると、そのうち私のように、ひなびた田舎に引っ込んだまま都に戻れなくなるよ?」

 上座で愉快そうにつぶやく青年は、小袖の着流し姿で脇息にもたれ、開かれた障子から水面が眩しい海を眺めていた。少し肌寒い空気にもかかわらず、十徳じっとくの袖を通さずさらりと肩に羽織っている様は、それだけで一つの絵になりそうだ。
 青年はここ数年刃を入れてない、艶やかな黒髪を襟足で一つに括り、無造作に右肩に垂らしてた。繊細に整った顔立ちは女好きするきらいがあるものの、中身は豪胆かつ男気があって、良い意味で裏切られる。また公家の出自にしては剣の腕も立つので、優男風情に惑わされて判断を見誤った為返り討ちにあった者は多い。

「鄙びた田舎にお住まいでも、審美眼は都随一であられることにお変わりありますまい。本日お持ちした美術品も、まさにみなと様に相応しい逸品と言えましょう」

 男の傍には、愛用の行李こうりが置かれている。年季が入って古ぼけて見えるそれは、知る人ぞ知る所謂『宝箱』だ。男はその『宝箱』の中から小振りの木箱を取り出すと、丁寧な手つきで蓋を開けて中身を取り出し、青年へと差し出した。
 青年は、脇息を押しやって男に向き直ると、渡された器を両手で受け取り、微かに眉を上げた。

「なるほど。こんな珍しい物、一体どこで手に入れたんだい?」
「都の古美術商に、是非引き取って欲しいと懇願されましてね。なんでも入嶋いりしま廻船問屋かいせんどんやから流れてきた品だそうで、盗品の疑いがあるから店に出せないって弱っておったのですよ」
「盗品、ね」

 青年は片手にすっぽり収まる、乳白色の器をじっと見つめた。柔らかな粉雪が舞うような儚さを感じられ、妙に心を惹きつけられる。

「これは人の手で作られた物ではないな」
「すると、やはりこれは……」

 男は高揚した気持ちを隠そうとせず、青年へと身を乗り出した。

「ああ、まさに『神界の器』と呼ぶに相応しいね。それにこれは、夫婦めおと茶碗だな」
「なんと、同じ物がもう一つ存在すると仰られますか」
「ああ。まるで半身を失ったかのように、対の片割れを求めてる。それがどこに在るのか知らないがね」

 青年は指先で、器の白い縁をそっとなぞった。

「可哀想に……会わせてあげられるといいのだが。件の廻船問屋に、片割れは残ってないのだろうか」
「はて、調べてみませんと何とも。それはそうと、ついでにと言ってはなんですが、興味深い話を耳にいたしました」

 男は、青年の問いたげな視線を受けて、軽く咳払いをする。

「その廻船問屋ですけどね、つい最近、旅籠はたごの奉公人を養子に引き取ったそうです。まだ元服前の少年らしいのですが、なんでもさる高貴な公家のご落胤らくいんだとか」
「よくある話だ。大方その少年をダシに、どこぞの公家に取り入ろうという算段だろう」

 青年は興味無さげに、脇息に頬杖をついた。そのような使い古された、陳腐な話に耳を傾ける連中がいるのか疑問だ。
「しかも噂では、匡院きょういん家の血筋のようですよ」

 男の一言に、青年は身を起こすとスッと目を細めた。

「……それは興味深い。詳しく話してくれ」





 雨音あまねは井戸の水を汲み上げると、おけを地面に置いて額の汗を拭いつつ顔を上げた。
 寒くもなければ暑くもなく、穏やかな天気だ。ただ井戸の向こうに広がる白く濃い霧は、こちらへ通うようになって以来、一度も晴れたことがない。

(この霧は、いつになったら晴れるのかな)

 明翠めいすいの工房の裏手には、この井戸の他には何も無いようだが、霧の奥には何かあるかもしれないので断言はできない。興味がまったく無いわけではないが、明翠には決して一人で霧の中に入るなと強く言い聞かされているので、言いつけに背くつもりはなかった。

 雨音は工房に戻ろうとして、ふと足を止めると、改めて建物の外観を眺めた。やはりどう見ても、山奥の崩れかけたいおりにしか見えない。

(まさかこんな場所で、神様が器を作ってるなんて誰も思わないだろうなあ)

 つい先日、この場所が緑永山 りょくえいざんの山奥にある小屋だと、明翠から聞いて知った。ただし小屋を取り巻く霧が晴れて下界に繋がることはまれで、故にここに辿り着いた人間はほんの一握りしかいないそうだ。また逆も然りで、この山小屋から下界へ降りることは滅多に出来ないという。
 滅多に出来ない、ということは、出来ることもある、という意味になる。雨音は振り返ると、もう一度真っ白な濃い霧をぼんやりと眺めた。

(この霧の先に、ふもとの町へ繋がる道があるのかな……)

 雨音は頭を振って、たった今浮かんだ考えを追い払った。興味本位で霧の中を歩いたら、迷ったまま抜け出せなくなる。仮に道を見つけて麓の宿場町へ戻ったとしても、そこにはもう雨音の居場所は無い。

 神界にやって来て、すでに二ヶ月が過ぎようとしていた。ここでの穏やかな生活は、雨音の傷ついた心を癒してくれる。何の不満も無いのだが、たったひとつ気がかりがあるとすれば、やはり血を分けた弟のことだった。

(弥吉は今頃、奥津の屋敷で大事にされているのかな)

 先方の屋敷には奉公人としてではなく、養子として引き取られたはずだ。きっと、大切にされているだろう。無理するとすぐ熱を出す病弱な体でも、廻船問屋の御主人と奥方が良い医師を手配してくれて、手厚い看護を受けられるに違いない。

(やっぱり弥吉と離れてよかったんだ。俺と一緒じゃ、貧乏な暮らししか出来ないもの)

 ジワリと瞼が熱くなったその時、戸を隔てた工房の奥から聞き慣れた声が響いた。

「雨音、早く中に戻って来い」

 引き戸が開いて、明翠が姿を現した。新月の光を集めたような髪を背に流し、涼やかな紫紺の双眸そうぼうがひたりと向けられると、見慣れたとはいえ心臓が一瞬跳ねてしまう。

「霧が濃くなる。足を取られる前に、急げ」

 そう言われて足元を見ると、ちょうど白い霧が地を這うように伸びて、雨音の草履の先に絡みついてきた。

「あっ……」

 雨音は驚きのあまり足をすくませると、焦れた明翠に腕を掴まれる。強く引っ張られた拍子にもつれた足が桶にぶつかり、それが派手に倒れて地面が水浸しになった。
 跳ねた水が太腿にかかり、工房の中に戻ったときには着物がしっとり濡れていた。雨音はハッとして明翠から体を引こうとしたが、逆に腰を絡め取られて、抱き込まれるように引き寄せられてしまう。

「明翠様、お着物が濡れてしまいます」
「構わん。それよりこのままでは風邪を引く。戻るぞ」

 固い表情を浮かべた横顔に、雨音は何も言えなくなってしまう。身を固くして、抱き上げられるまま広い胸にもたれると、回された腕に力がこもった。

「……そのように心を閉ざさないでくれ。ただ、心配なだけだ」
「はい……」

 こんな風に時折小さなすれ違いがあるが、そんなやり取りも、お互い慣れてきた証拠だと雨音は思っていた。だがそれはあくまで雨音の方だけで、明翠の気持ちは誰にも分からないまま取り残されていた。




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