神界の器

高菜あやめ

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第一部

六、不機嫌な理由

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 雨音が工房の掃除を始めて、早十日が過ぎた。

(どうしようかなあ)

 磨き上げられた床板、白く美しい漆喰の壁、黒光りする梁や柱……どこを見ても素晴らしく、贅沢な造りなのは間違いない。しかし非常に残念なことに、肝心な器作りに必要であろう道具は、どれも使い物にならないほど破損が激しかった。

(この丸い台は……何に使うんだろう)

 雨音は器作りについて何も知識が無い為、目の前の無残にも真っ二つに割れた円形の台が何に使われる物なのか分からない。だがその存在感から、非常に重要な道具であることは見て取れた。
 他にも作業台にあった、大小様々な筆や先が尖った道具等、丁寧に洗って乾かしてはみたが、到底良い状態とは言い難く、どのように手入れしたり直したりすればいいのか皆目見当つかない。特に失われた筆の先や、先端が割れてしまった小さな道具等は、専門の店に修理を依頼するか、さもなければ新調しなくてはならないだろう。

(右京様なら、何か良い方法をご存知かもしれない)

 以前右京の店を訪れた際、筆や変わった道具をはじめ、様々な品物が並んでいるのを見た。きっと器作りに必要な道具についても詳しいに違いない。

(松葉様に、相談してみようか)

 明日の午後の座学は、松葉が所用で街へ出向くから取り止めになっていた。厚かましいかもしれないが、右京へ言伝してもらうのはどうか。

 翌朝、さっそく雨音は松葉に相談してみることにした。

「右京様に伝言、ですか?」
「もし可能なら、ですけど……街へお出掛けになるついでに、お願いできないかと思いまして……ご面倒掛けて申し訳ないのですが……」
「右京様の店に行きたいのなら、なぜ明翠様に連れていって欲しいとお願いしないのですか」
「それは……御方様は、何かとお忙しい方ですし……」

 明翠は、午後は大抵どこかへ出掛けている。午前中は屋敷で仕事をしているらしく、街へ連れてって欲しいなど、とても頼めそうにない。
 それでなくても毎日午前と午後に二回ずつ、工房へ送り迎えしてもらっているのだから、これ以上何かお願いするのは気が引けた。

「では、どうせなら一緒に街へ出掛けますか。私が用事を済ませる間、あなたは右京様の店をたずねるといいでしょう」
「いいのですか!?」
「ええ、ただし出掛ける前に、きちんと明翠様に外出のお許しをいただくこと。それから右京様には、一応ふみを書きなさい。万が一、右京様がお留守の場合、店の者に言付けできますし、何より文を書くことは、手習いの良い練習になりますからね」
「はいっ!」

 こうして午前中の手習いは、松葉に手伝ってもらいながら右京への文を書き上げた。雨音は生まれて初めて書いた文に、なんだか誇らしげな気持ちになった。
 昼餉の後、雨音は松葉の同席の元、明翠に午後の掃除は取りやめて代わりに外出をしたい旨願い出た。
 話を聞いた明翠は、一瞬戸惑うような表情になり、次に冷たい視線を松葉に向けた。

「お前の入れ知恵か?」
「また人聞きの悪いことを。雨音が自分で、私と一緒に出掛けたいと言ったのですよ」

 一緒に行きたいと言葉通りに言ったわけではないが、連れていってくれるという話に同意したのだから、あながち間違いではない。問うような明翠の視線に、雨音は肯定の意味で小さく頷いた。
 明翠はスッと目を細めると、袂の中で腕組みをして雨音をしばらく見つめる。そしてゆっくりと、口を開いた。

「私が許さないと言ったら、どうする」

 雨音は一瞬がっかりしたが、すぐに仕方ないと思い直した。人の身でこの屋敷に置いてもらっているのだし、自分の我儘で、あるじである明翠に不快な思いをさせる事や、松葉をはじめとする狐達を困らせるのは本意ではない。

 だが道具が無くては、器作りの教えを乞うことはできない。何よりあの部屋を、本来の意味で元通りにするとなれば、道具が揃っていることは必至だ。その為にも、何とか右京に助言をもらいたい。

「お許しいただけないのでしたら、諦めます。その代わり……松葉様にお願いして、右京様への文を届けていただいても構わないでしょうか」
「文だと?」

 明翠は一瞬驚いたように身を乗り出したが、すぐに体を引くと、憮然とした様子で脇息に頬杖をついた。

「……許す。行ってこい」
「あ、ありがとうございます……!」

 雨音は感謝の意を示す為に深く平伏したが、顔を上げても明翠と視線が合わない。

(なんか、不機嫌になられてる……?)

 やはり我儘が過ぎたのだろうか。雨音は自分から口にした事とはいえ、すでに後悔し始めていた。道具を揃えるのも、部屋を掃除するのも、もちろん自分からやりたいと思ったことなのだが、結局のところ明翠に少しでも喜んでもらいたい、という気持ちの部分が大きい。その明翠の機嫌を損ねてまで、やらなくてはならない事だろうかと疑問を持つ。

(やっぱり、あきらめよう)

 そう思い直した雨音が口を開きかけたその時、松葉が「そろそろ出発しましょう」と割って入った。

「ぐずぐずしてると、すぐに日が暮れてしまいますよ。さあ、行きましょう……では明翠様、御前失礼いたします」
「あのっ、松葉様、でも……」

 雨音はオロオロしながら、部屋を出ようとする松葉と、相変わらず頬杖をついて明後日の方向を向いている明翠を交互に見比べていたが、松葉に「早くなさい」と急き立てられて、とうとう立ち上がった。

「では、行って参ります……」
「……ああ」

 明翠は最後まで、雨音と視線を合わそうとはしなかった。





「そりゃあ、嫉妬だよ」

 右京はひとしきり笑い転げた後、片袖で目尻から滲んだ涙を拭きながら、雨音の頭をがしがしとかき回した。雨音はといえば、驚きのあまり瞬きを繰り返すばかりである。

 町に着くなり松葉は、右京の店に雨音を連れて行った。そして快く出迎えてくれた右京に、用事があるから一刻ほど雨音を預かって欲しいと告げ、さっさと出て行ってしまった。
 右京は少し残念そうに松葉の後ろ姿を見送ると、雨音を奥の母屋に誘い入れ、お茶とお菓子を振舞ったのがつい先刻の事。
 雨音は右京に、今日訪ねてきた理由を説明し、せっかく書いてきたからと懐から文を差し出した。すると「元気がないな」と右京がやさしく問うので、雨音はつい、明翠の機嫌を損ねてしまった下りまで話してしまった。

「もしかして、御方様もお誘いすればよかったのでしょうか……お仕事でお忙しいのに、邪魔をしてはならないと、声を掛けなかったのですけど」

 もしかしたら明翠も、気分転換したかったのかもしれない。気が利かない雨音に、明翠は不機嫌になってしまったのだろうか。それとも忙しい明翠の前で、出掛けたいなどと言うこと自体、失礼に当たったのかもしれない。

「坊主、なんか勘違いしてねえか? 俺が言ってる意味をちっとも分かってねえだろう」
「いえ、俺の気が回らなくって……御方様にはご不快な思いをさせてしまいました」

 右京は、やっぱり分かってねえ、とブツブツ呟いている。雨音はすすめられた茶を手に、しょんぼりと項垂れるしかなかった。

「しかもご丁寧に文まで持ってきやがって、まったく」
「すいません……」
「違う違う、だから坊主の考えてるようなことじゃねえって」

 右京は手紙を開くと「おお良く書けてるじゃねえか」と、うれしそうに顎を指で擦る。

「いえ、お恥ずかしい限りです……なんせ文なんて、初めて書いたものですから」
「えっ、そうなのか?」
「はい」

 右京はあちゃあ、と片手で額を抑えて、困ったような面白がっているような、奇妙な表情で胡坐をかいていた足を解き、片膝を立てた。それから手にした雨音の文をひらひらと振ってみせる。

「これ、俺がもらっていいのか」
「? ええ、もちろんです」
「こいつは坊主が、生まれて初めて書いた文だろう? 一生懸命、一文字ずつ」
「そう、ですけど……?」

 雨音は、右京の質問の意図が掴めず、眉尻を下げた。

「まあそう落ち込むな。悪いのはどちらかというと、はっきり言わないあいつだからな。坊主はそのまんま、素直に生きてりゃいいんだよ。ほら、お迎えがきたぞ」

 もう松葉が戻って来る時刻になったのかと、店へ続く戸口から顔を出すと、ちょうど暖簾のれんをかきわけて入ってきた人物に目を丸くした。

「……御方様?」
「迎えに来た。帰るぞ」

 手を差し出され、雨音は躊躇する。

「……嫌か?」

 明翠が顔を曇らせ、手を引っ込めようとしたので、雨音は慌ててその手を掴んだ。

「いえ、嫌とかそういう意味ではなくて、ただ松葉様が……」
「松葉がどうした」

 すると店の奥から、再び盛大な笑い声が聞こえてきた。

「いいからお前たちは先に帰れ。松葉の事なら俺が引き受けるから、坊主は心配するな」

 右京はひらり、と手を振りながら、にんまりと笑った。

「お二人さん、もう少し腹を割って話し合ったほうがいいぜ?」




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