神界の器

高菜あやめ

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第一部

五、大掃除と不思議な出来事

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 雨音は工房の荒廃ぶりを目の当たりにして、ただただ絶句した。

(本当に、何十年も器を作られてないんだ……)

 このような環境で、器作りなどとてもできないだろう。部屋の荒れ具合から推測するに、部屋を締め切ったまま、長い間放置したとしか思えない。
 しかも道具がそこかしこに散乱している様子から、まるで突然思い立ってこの場を去ったようにすら見える。その証拠に、絵付け中かと思われる半分塗りかけの器が、作業台の端に無造作に転がっていた。だがそれも年月を経て変色し、汚れで灰色にくすんでいた。

 このような状態で何十年も放置するなんて、当時一体何が起こったのだろう。痛ましい部屋の有様が、あたかも明翠の心の一部を現しているように見え、雨音の胸が締め付けられる。

「もういいか? ここは空気も悪いし、そろそろ屋敷に戻」
「あのっ、俺、掃除しても構いませんか!?」

 雨音は思い切ってそう提案すると、明翠の腕を抜けてスルリと床に降り立った。着地すると床板が軋み、素足にはざらついた感触があった。

「うわ、真っ黒……」

 雨音は足裏を覗き込むと、ベッタリと張り付いた黒い汚れに目を丸くした。

(でも、掃除すればきっと良くなる)

 改めて部屋を見回すと、廃屋とも言える有様だが、造りは決して悪くない。むしろ梁や柱は太く頑丈そうな木材が使われていて立派だし、家具や調度品は壊れたり汚れたりしていても、贅沢な品であることが伺えた。
 痛んだ天井や梁は補強すればいいし、壊れた棚は作り直せばいい。実は雨音には、大工仕事に多少腕に覚えがある。

 雨音の父親はかつて腕の良い宮大工だった。事情があって都を離れ、田舎暮らしを始めたと母親から聞いたことがある。貧しい農村で畑仕事に精を出す傍ら、父親は隣近所に頼まれて、家の痛んだ箇所の修繕や壊れた家具の修理をした。
 雨音は物心ついた時から、奉公に出される十二の年になるまで、よく父親の後をついて回り、様々な工具を使って作業する姿を見て育った。道具が多少扱える年になると、父親から直接教えてもらい、簡単な修繕や修理を一緒に行った経験がある。だから壊れた物や痛んだ箇所は、適切に処置すれば再び蘇る事を経験上知っていた。

「この部屋を掃除する、と言ったか?」

 明翠は信じられない、と言いたげな表情で雨音を見つめてる。雨音こそ、そんな事を問う明翠が不思議でならなかった。

「掃除すれば、綺麗になります」
「そうなのか……?」

 考え込む様子の明翠に、雨音は急に心配になってきた。もしかしたらこの部屋に思い入れがあって、誰かに手を出されたくないのかもしれない。
 自分の気持ちばかり優先して、図々しい事を言ってしまったと雨音は反省して項垂れた。

「あの、もし俺にお部屋を触られるのがお嫌でしたら、無理にとは……」
「いや、そうではない。ただ少し驚いただけだ」

 明翠は当惑気味に部屋を見回している。もう一度迷惑ではないか、とたずねたところ、それは無いときっぱりと言い切られてしまい、雨音も引っ込みがつかなくなった。

(無理されているようにも見えないし……せっかくだから掃除させてもらいたいな)

 屋敷に連れてこられてからというもの、毎日一日の大半は屋内で過ごしているので、体をほとんど動かしていない。旅籠で暮らしていた頃は、朝から晩まで働き詰めだったので、今の生活は体が鈍って気持ちが悪いくらいだ。先日明翠に連れられて、たった一度外出したくらいでは、とても動き足りない。

「それで、どこから掃除を始めるつもりだ?」
「まずは天井の埃を……あ、掃除道具はどこでしょう?」
「たしか隣の部屋にあったと思うが、おそらく使い物にならないだろう。一度屋敷に戻り、狐達から借りてくるしかあるまい……触れてもいいか」

 そう言って明翠が腕を伸ばしたので、また抱き上げられるのかと思い、雨音は頰を赤らめて後ずさる。

「あの、そうしていただかないと、お屋敷と行き来出来ないのでしょうか?」
「……そうだが。嫌か?」

 雨音が首を振ると、明翠は安堵の表情を浮かべて、細身の体を抱き上げた。

「すまない。少しの間、我慢してくれ」

 明翠の横顔が、少し切なそうな色を帯びている。我慢などしてない、と言っても気休めにしかならないだろう……思えば最近の明翠は、いつも触れる前に「いいか」と聞いてくる。それは恐らく、彼が人の心を読む力がある故の気遣いなのだろう。





 雨音が工房の掃除に乗り出してから、数日経ったある日の事。

(あれ?)

 せっせと床磨きをしていた雨音は、ふと天井を見上げて首を傾げた。

(変だな……)

 掃除の初日、最初に取り掛かったのは、天井のすす払いだ。正確には煤ではないかもしれないが、埃とも違う黒い汚れがびっしりと一面に張り付いていて、それを払い落とすのに相当骨が折れた。
 その努力の甲斐もあって、初日で天井と梁はなんとか、木目が見える程度には汚れが落ちたので、二日目から床磨きを始めた。工房の裏手には井戸があり、桶に清い水を入れてせっせと運び、布巾を濡らして床にこびりついた汚れを丁寧に拭き取ることを繰り返す。
 何度も水を替えて拭いていると、徐々に板の木目が浮き出てきた。その様子を満足げに眺めながら、雨音はふと、天井はどのくらい木目が見えるのか確認しようと頭上を注意深く観察したところ、小さな違和感を抱いた。

(あの部分は、もっとボロボロだったと思ったけど……これなら根継ぎしなくても使えるかなあ?)

 腐朽した部分を削って、新しい木材で接ぐ『根継ぎ』を行う必要があると考えていたが、改めてよく見るとそう痛んではいないようだ。
 根継ぎのやり方は父親に教わったが、ひとりでやった経験はなく、ちゃんとやれるか自信が無かった。だからやらなくて済むならば、それに越したことはないどころか、むしろありがたい。
 この時は単純に、よかったなあと思った雨音だが、その二日後に再び首を傾げる事態に遭遇した。

(え……この柱って、もっと痛んでたよな?)

 部屋の中央に設えた立派な大黒柱は、初日に痛み具合を確認した時と比べて、状態が格段に良くなっていた。

(もしかしたら俺のいない間に、誰かがここに来て、手入れしてるとか……?)

 雨音が掃除に来れるのは、日課である朝の手習いの後から昼餉の刻までと、午後の松葉による座学が終わってから夕餉の刻までの、日に二回だ。いずれも明翠が送り迎えしてくれる。だからそれ以外の時間は、誰かがやってきても雨音には分からない。

 雨音は手習いの時、松葉にそれとなく聞いてみたが、一笑に付されてしまった。

「あの場所は特別な場所です。明翠様がお連れしない限り、何人なんびとたりとも入る事は叶いません」
「そうですか……」

 雨音は筆を置くと、小さくため息をついて自分の字を見下ろす。

「よく書けてますよ」
「そうでしょうか」

 松葉は最近よく褒めてくれるが、雨音はまだまだ納得がいかなかった。字を書く練習は嫌いではない。もっと流れるような美しい文字を書けるようになりたいと、再び筆を手に取って墨を浸した。
 だが文字の練習をしながら考えるのは、やはりあの部屋で起きてる不思議な現象についてだ。

(やっぱり、御方様なのかな)

 今では、梁や柱はまるで時を遡ったかのように蘇りつつあるのは、疑いようもなかった。修繕の跡もないので、なにか不思議な力を使ったとしか思えない。

(御方様は神様だし、神力を使って直されたのかもしれない)

 だがそう考えると、明翠の態度に説明がつかない。なぜなら雨音を送り迎えする際には、必ずといっていいほど驚きとともに、部屋の様子を興味深げに見回しているからだ。

「なんだか妙に部屋が明るくなったな。梁も天井も、思ったほど痛んでないようだ。汚れていたから気づかなかった」

 そう言って薄く微笑む明翠に、雨音はますます困惑した。わざと素知らぬふりをしている可能性もあるが、明翠の様子を見る限り、どうしてもそうは思えない。
 それからもうひとつ、変わった事があった。

「……御方様、そろそろ夕餉のご用意が」
「ああ、そうだったな」

 夕方、明翠は雨音を屋敷に連れ帰ると、食事の支度が整うまでの短い間、雨音を抱き締めたまま縁側でくつろぐようになった。
 明翠は神様なので、たとえ心の内が伝わっても嫌な気持ちはちっとも感じないが、ただ無性に恥ずかしい。その羞恥の気持ちすら、明翠に伝わっているのだろう。明翠はクスクス笑いながら「何も恥ずかしがる必要はない」と耳元に形の良い唇を近づけて、何度もあやすように囁く。
 また、狐達が膳の準備が整った事を告げにやってくる時、明翠に抱きしめられたままでいると、何とも気まずく恥ずかしくて仕方ない。狐達は微笑ましそうに二人を見つめているだけだが、雨音は毎回羞恥に耐えなくてはならなかった。

(俺、小さい子じゃないのに……もう大人なのに)

「それは私もよく分かっているぞ?」

 心を読んだ明翠が、いつものように雨音の耳元で密やかに囁いた。




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