神界の器

高菜あやめ

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第一部

四、願い事

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 翌日、朝餉を済ませた雨音は、日課である手習いをしながら松葉を待っていた。

(あ、蝶だ)

 風に攫われた花弁のように舞う青い羽は、縁側を横切って庭の奥へと消えていった。

(近くに花畑でもあるのかなあ)

 屋敷の周りにはよく蝶が飛んできては、色とりどりの羽で雨音の目を楽しませてくれる。
 庭は手入れが行き届いているが、灯篭と池を囲むのが花をつけない低木ばかりのせいか、全体的に涼やかで趣はあるにもかかわらず、何処と無く人を寄せ付けない冷たい印象があった。そのため鮮やかな衣を纏う小さな訪問者は、色合いの乏しい風景によく映えて、まるで緑の影に灯る明かりのようだ。

「雨音、何をぼんやりとしているのです?」
「松葉様……失礼しました!」

 いつの間にか縁側から現れた松葉に鋭く指摘された雨音は、握りしめていた筆から墨汁が滴り落ち、手元の真っ白な紙を汚していることに気づいて慌てた。
 松葉は眉を寄せつつ部屋に入ると、いつもの定位置である雨音の前に座ろうとはせず、代わりに誰かを部屋に招き入れた。
 入ってきたのは、腰の曲がった小さな老人だった。老人は雨音の隣にやってくると、小さな体を大義そうに折り曲げてちょこんと座り、人好きする顔に皺を寄せて微笑んだ。

「坊や、こちらの暮らしには慣れたかね?」
「あ、はいっ!」

 誰だろうか、と考えるより先に問われたので、つい勢いよく返事をしたら、老人は白い顎髭を擦りながら笑みを深くした。

「そうかそうか、元気な様子で何より。松葉に泣かされたりしてないか? 他の狐達は皆気のいい連中ばかりだろうがね」
「と、とんでもございません。松葉様にも、もちろん狐の皆様にも、とてもよくしていただいております」

 雨音は両手と首を同時に振った。たしかに松葉は厳しいところがあるが、辛抱強く指導してくれる素晴らしい人、もとい狐だと尊敬している。そして狐達は言わずもがな、皆とてもやさしくて面倒見が良く、楽しい人達、もとい狐達で感謝していた。

「……おきなも明翠様も、なぜ私が雨音をいじめてると思うのでしょうね」

 ようやく雨音の正面に腰をおろした松葉は、神経質そうな細い顎をしゃくると、面白く無さそうに鼻を鳴らした。

「翁、こちらが雨音です……雨音、緑永山の仙人にご挨拶なさい」
「え、では、あなた様が……し、失礼しましたっ」

 雨音が勢いよく額を畳に押し付けて平伏すると、翁仙人は朗らかな笑い声を上げた。

「そんな仰々しい挨拶はいらんよ。仙人と言っても元は人間だし、人よりちいとばかり長く生きてるだけなんだから」
「でも仙人様は、俺よりずっと偉いお方です……」
「ふうむ、坊やのように人の世界で暮らしてきた者は、とかく何かと比べて品定めする。だがね、何かの本質を見定めようとする時には、そいつはやっかいな癖になる。まあ、あまりかしこまらんでいいから、顔をお上げ」

 頭上から降る翁の言葉を、雨音は半分も理解出来なかったが、少なくとも怒っているわけではないようで安堵した。そろそろと顔を上げると、先程と変わらない、無邪気とも言える笑みを浮かべた翁仙人と対峙する。

「なるほど、明翠様が手元に置きたくなるわけだ。目を見れば分かるよ。坊やは一見か弱そうに見えても、芯がしっかりした真面目な良い子だ」

 思いもよらない言葉に、雨音は恐れ多くて必死に首を振った。

「俺は、ただ御方様のご慈悲で、このお屋敷に置いてもらってるだけなんです」
「だが坊やは、明翠様から器をもらったんだろう? あのお方は、本当に気に入った者にしか自分の器をやらんよ。まあ本来なら……いや、何でもない。とにかく坊やは気に入られて、この屋敷にいるというわけだ」

 たしかに明翠から器をもらった。しかも二つも。そして勿体ないほどの高待遇で、この屋敷に置いてもらっている。自分にそこまでしてもらう価値があるとはどうしても思えず、また分不相応な生活に罪悪感すら覚えていた。
 だが、明日失っても不思議じゃないここでの暮らしは、雨音がこれまで生きてきた中で、両親と暮らした日々を除けば、間違いなく一番穏やかで優しい日々に違いなかった。きっとこの先どんなに辛い目に遭ったとしても、ここでの思い出がこの先の自分を支えてくれるだろう。

「お世話になりっぱなしで、本当に心苦しいばかりです……俺にも何か、御方様にお返し出来ることがあればいいのですが」

 そう言って眉尻を下げる雨音に、松葉がやれやれとため息をついた。

「それは明翠様がお許しにならないでしょうね。狐達も、あなたに仕事を手伝わせたら、また明翠様のお叱りを受けてしまいますよ」
「はい……」

 しょんぼり項垂れる雨音に、翁仙人は何か思案するように顎を手で擦った。

「坊やは、何か学ぶ事については、明翠様に許されているんだろう。ならば、いっそのこと明翠様の弟子にしてもらって、器作りを学んでみてはどうかね? 弟子なら、師匠の身の回りのお世話をするのは自然だし、仕事だって手伝わせてもらえるだろう」
「えっ!」

 雨音は驚きと同時に、心が浮き立つような興奮を覚えた。明翠の弟子になって仕事を手伝うなんて、これまで思いつかなかった。
 しかし松葉は呆れたように口を挟む。

「無理でしょう、明翠様はこれまで一度だって、弟子を取られたことなどありませんよ」
「そりゃ、誰も手を挙げなかったからだろうよ。坊やが頼めば、きっと首を縦に振ってくれるよ。なんせ自分の屋敷に住まわせるくらい、この坊やのことをお気に召されたようだからね」

 翁の言葉に松葉は小さくうなった。翁が問うような視線を寄こしたので、雨音は緊張気味に小さく頷く。

「俺、御方様に弟子入りさせていただけないか、お願いしてみます」
「いいねえ、可愛い弟子が出来れば、明翠様もまた器作りを再開されるかもしれんなあ」
「そう簡単にいけばいいですけれどね」

 松葉の水を差すようなひと言にも、雨音の決心は揺らがなかった。初めて自らやりたい事が見つかり、希望の欠片に胸が熱くなる。
 たとえ今弟子入りを断られても、一生懸命お願いしたら、いつか認めてもらえる日が来るかもしれない。そのためにも精一杯学び、いずれは仕事を手伝えるくらいになれたら、どれほどうれしいだろう。





 その夜、いつものように明翠と差し向いで夕餉を取りながら、雨音はいつ話を切り出そうかと考えていた。だがいざ明翠を目の前にすると、なかなか勇気が出ない。
 とうとう箸を置くまで切り出せず、雨音は自己嫌悪に陥ってしまう。お願い事を口にするのが難しい。ましてや雨音は頼み事に慣れておらず、また時間が経てば経つほど、厚かまし過ぎやしないかと心配と不安で気持ちが定まらない。

 雨音の様子がおかしいことに、明翠も気づいているようだった。食事中も、何度か問うような視線を寄こしたが、雨音は気づかない振りを装った。

「食事中ずっとうわの空だったな。何があった?」

 膳が下げられるや否や、とうとう明翠が口火を切った。

「話しにくい事なのか」

 雨音は躊躇いがちに視線を上げると、ようやく重い口を開いた。

「あの、もし、お許しいただけるなら、と思ったのですが……」
「なんだ、言ってみろ」

 なかなか言葉を続けることができない雨音に対し、明翠は何か思い当たるような表情を見せた。

「右京の店で、あの器以外にも気になる物があったのか。たしかに、あいつの店は品揃いだけはいいからな。欲しい物でもあるなら、遠慮なく言えばいい」
「い、いえ、右京様のお店の品はどれも素晴らしいですが、そういうわけじゃないんです……」
「そうなのか? では、望みはなんだ?」

 不思議そうに首を傾げる明翠に、雨音は思い切って膝を進めた。

「俺……御方様に、俺のお師匠様になっていただきたいんです」
「……私が、か?」

 明翠は意表を突かれた様子で、微かに目を見開いた。次に訝しげな表情で身を乗り出してくる。

「松葉と何かあったか」
「えっ……」

 雨音は一瞬惚けたあと、勢いよく首を横に振った。

「ち、違います、松葉様はとても良い方です。そうじゃなくて、俺、御方様に器の作り方を教えていただきたいんです!」
「器を……?」

 明翠は一瞬、秀麗な眉をグッと寄せた。部屋は息苦しいほど張り詰めた空気に包まれる。
 やがて明翠は、ゆっくりと口を開いた。

「何故、私に教えを乞う?」
「それは……右京様のお店で、御方様のお作りになられた器を見た時、胸の奥が、その、苦しい感じがして……あんなに綺麗なのに、泣きたくなるような感じと、でも温かくもあって……」

 実に、気持ちを言葉に乗せることは、こんなにも難しい。伝えたいと強く思う事ほど、それは一層難しく感じた。

「俺、あんな器を作れたらって……そう思ったんです……」
「そうか」

 明翠はゆらりと立ち上がった。

「ならば、教えてやろう」
「えっ……ほ、本当ですか」
「ただし、これを見てまだそういう気があればの話だが」

 明翠は雨音に近づくと、腰を浮かせて立ち上がりかけた雨音を覗き込む。

「……触れても、いいか」
「えっ……あ、はい……」

 両手を伸ばされ、あっという間に抱き上げられてしまう。

「あ、あのっ……」

 焦った雨音が明翠の顔を見上げると、背後の風景が次第にぼやけていく。
 やがて再び視界が明瞭なってくると、辺りの様子は驚愕の変貌を遂げていた。

(え、ここは……どこ?)

 まず目についたのは、腐朽ふきゅうした天井やはりだった。次に、崩れて所々穴のある土壁が視界に映る。壊れて傾いた棚の上には、割れた無残な姿の器が無造作に積み重ねられていた。何より部屋全体を取り巻く、陰鬱で打ち捨てられた様が、雨音の心を締め付けた。

「……お前が感じてるように、決して居心地の良い場所ではない。まあ何十年も放置したから、当然だろうが」
「あの、ここは一体……」
「私の工房だ。いや、かつて工房だった、と言う方が正しい」

 雨音は抱き上げられまま、首を動かし辺りを見回した。たしかに部屋の隅には、作業台のような物が鎮座し、それらしき道具が折り重なるように散らばっている。だがどれも埃が被り、汚れた無残な有様だった。

 工房は何十年もの時を経て、絶望的なまでに荒れ果てていた……誰も寄せ付けないと言わんばかりに。




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