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第一部
三、白い器の面影
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右京の言葉に、雨音は誤解を解こうと口を開き掛けたが、それよりも先に明翠の手が肩に回され、庇うように懐深く抱きこまれてしまった。
「うるさい。それ以上くだらん軽口叩くなら、今後一切の取引は止めだ」
白い頬を高揚させて怒鳴る明翠に、雨音は驚いて瞠目する。こんな風に声を荒らげた姿を見たのは初めてで、よほど右京の誤解を不快に思ったに違いない。
(しかも俺を相手に、なんてとんでもないよな。御方様が気分を害されても当然だ……)
雨音は申し訳なさに項垂れると、肩に乗せられた明翠の手に力がこもった。
「違う、そうではない……」
低く絞り出された小声に、雨音はたまらず明翠の腕を逃れて身を引くと、右京の笑い声が室内に弾けた。
「何をむきになってんだ、冗談に決まってんだろう。お前みたいな朴念仁に、今更色っぽい話なんぞ期待しちゃいねえよ」
右京は人を食ったような笑顔を浮かべつつ、下駄の軽やかな音を立てながら近づいてきた。遠目では普通の人間となんら変わらないように思えたが、こうして間近で見上げると、瞳が明翠と同じく紫紺の不思議な色をしていた。藍染めの簡素な着流しを纏った姿は、襟の合わせからのぞく厚い胸板や、襟足で無造作に跳ねらせた黒髪と相まって、雑貨屋の店主というよりも腕に覚えのある浪人のように見える。
「あの、あなた様も、神様でしょうか……」
雨音が遠慮がちにたずねると、右京は面白そうに身を乗り出してきた。
「まあ、神格はあるわな。お前たち人間から見れば、俺も明翠もそう大差ないだろ?」
「一緒にするな。同じ神格持ちとはいえ、お前とは神気も種別が全く違う」
明翠は綺麗な弧を描く眉を不快そうに顰めながら、雨音を背中に庇うようにして右京の前に立ちはだかった。右京はそんな明翠をからかい混じりの視線で眺めつつ、着崩した着物の袂に入れた両手を悠々と組んでみせた。
「おうおう、こりゃ随分と大事にしてるみてえだなあ」
右京は楽しそうに笑っている。こんな風に明翠と対等に話しているのも驚きだが、明翠も今までになく、気の置けないくだけた調子で右京と話している姿に、雨音は軽い衝撃を覚えた。
それにしても右京は、間違いなく男前と呼べる、野性味溢れる美丈夫だ。見目麗しい男は明翠でかなり耐性ができたと思っていたが、二人に挟まれると妙に恐れ多い気がして、立っているのがやっとなくらい体が震えてしまう。
「坊主、お前しばらくこいつの屋敷にいるんだろう? 一応こいつの友達だから、これからもよろしくな」
「……右京、お前は変な神気を出し過ぎだ。雨音が怯えているから、あまり近づくな」
「ひでえな、お前だって変に殺気立って、さっきから無駄に神気を垂れ流してるじゃねえか」
「それはお前が私を苛立たせるからだ……まったく、わざわざ店の奥まで足を運んでやったというのに」
「まあ、そういうなって。大体お前だって……」
頭上で何やら言い合いが始まったので、雨音は気まずさのあまりそうっと二人の間をすり抜けようとしたが、ふと正面の棚に鎮座する器に目を奪われて足を止めた。
それは雨音の片手に収まるほど小振りの、美しい乳白色の器だった。
暖かく優しい色使いなのに、淡雪を連想させる儚さも感じられる不思議な印象で、なぜか雨音の心を強く惹きつけた。
もっと近くで見ようと雨音の体が棚へと動く前に、器は明翠の伸ばされた手に、ひょいと取り上げられてしまう。
「この器が気になるのか」
「あ……その、すごく綺麗だなあって思いまして……」
すると明翠は目を細めてしばし雨音を見つめ、それから手にした器をずいっと差し出した。
「お前にやる」
「えっ!?」
「こら明翠、そいつは売り物だぞ」
右京のからかい混じりの抗議に、明翠は苛立たし気に唸った。
「うるさいな。私が買うからいいだろう」
「お前、自分が作った器を買うつもりか? 欲しけりゃ自分で作りゃあいいのに……なあ坊主、せっかくだから新しい器作ってくれるよう、こいつにお願いしちゃくんねえか? こいつときたら、ここ何十年ちっとも……」
「右京、余計なこと言うな……雨音、帰るぞ」
明翠に手を取られ、雨音は半ば引きずられるように歩き出した。うろたえつつ店を出る間際に後ろを振り返ると、ゆるゆると手を振っている右京の姿があった。
そうして雨音達が店を一歩出た途端、辺りは濃い霧に包まれた。それはまるで町にやってきた時と同様、視界は靄がかかったように真っ白に染められる。
隣の明翠は硬い表情で、真っ直ぐ前を向いて歩いていく。雨音が心配げに見つめても、決してこちらを見ようとしない。
(どうされたんだろ……)
雨音は自分が知らぬ間に何か失態を犯したのではと不安に苛まれる中、しっかりと繋がれている手だけが頼りで、無意識のうちに体を明翠に寄せていた。
「心配しなくても、じきに屋敷に着く。怖くないからな」
「はい……」
明翠と一緒だから怖くはない。ただ一緒にいるのに、明翠の心が分からないから不安なだけだ。しかしそんな気持ちを表す言葉も、伝える術もなく、雨音はただ唇を噛みしめるしかなかった。
その夜、自室に引っ込んだ雨音は、藺草がほのかに香る畳で仰向けに寝転ぶと、行燈の光を頼りに、手にした乳白色の器を眺めていた。
(綺麗だなあ)
銀の粉を吹いた表面が、光の加減で淡く輝いている。角度によってその様子は、切なくも儚くも、悲しくも感じられた。
明翠にもらった器は、これで二つ目だ。
一つ目は、弟を助ける為にもらった藍色の器だ。結局、本来の目的に使うことは叶わず、この屋敷に持ち帰ってしまった。そして明翠に返そうと何度も試みたのだが、彼に『一度やったのだからお前の物だ』と頑なに拒まれてしまい、今では恐れ多くも毎日の食事の器として使わせてもらってる……大きさからして納得もいくとはいえ、飯を入れる茶碗にしては恐れ多いことこの上ないのだが。
(この器は、何に使うためのものだろう。湯呑には小さいし、酒を飲むには少し大きい気がする……酒なんか飲めないけど)
きっと明翠が持つなら、酒を飲むのに丁度良い大きさだろう。脇に銀の煙管を添えたら、さらにしっくりきそうだ。
だが明翠は、決してこの器を使わないだろう。そんな気がした。
(こんな綺麗な器を作れるなんて、すごいなあ……でも)
ふと雨音の脳裏に、昼間の右京の言葉がよぎった。
『なあ坊主、せっかくだから新しい器作ってくれるよう、こいつにお願いしちゃくんねえか? こいつときたら、ここ何十年ちっとも……』
(右京様は『ちっとも作らない』って続けるおつもりだったんだろうな。だから俺に、御方様に新しい器を作ってもらうようお願いしてみて欲しいっておっしゃられたのだろう)
でも、なぜ明翠は何十年も新しい器を作ってないのか。
神界の器は、神様が気に入った者だけが手に入れることができる。つまり、ここ何十年も明翠が気に入る人物が現れなかったという事だろうか……雨音が現れるまで。
そう思うと、雨音はかっと頬が熱くなる思いがした。だがすぐに『そんなわけない』と全力で否定する。
(御方様は、愚かな俺を憐れんで、器を恵んでくださったんだ。勘違いしてはいけない)
雨音は自分自身がいかにつまらなく、器量良しでもなく、学も芸も持ち合わせない、取るに足らない人間であることを自覚していた。
別に自分を卑下しているわけでも、自己憐憫に浸ってるわけでもない。単に今まで暮らしていた中で、周りにいる人々の評価を受けて気づかされた『事実』だ。
(なぜ御方様は器を作らないのかな……何か理由がおありなのか)
だが自分のように無力な人間が、他人の事情を憶測するなんておこがましい。ましてや神様の行動の理由なんて、そんな恐れ多いことを考えたら、きっと罰があたるに違いない。
そう思いつつも、こうして手にした器を見つめていると、たまらない気持ちになってしまう。
(こんな綺麗な器を作れるのに……それなのに……)
明翠は訳あって作らないのだ。右京が頼んでも首を縦に振らないのに、雨音がお願いしたって無理に決まっている。
(よっぽどのご事情があるんだろうな。それが何か分からないけど、お嫌なことを無理に勧めるなんて、そんなこと誰にもできっこない……)
もし自分が、このように美しい器を作れたら……できるわけがないと分かっていても、想像するだけなら構わないだろう。
(こんな器を作れたら、いいなあ)
ぼんやりと器の白い地を眺めていると、屋敷への帰り道に見上げた、明翠の白い横顔を思い出す。決して明翠の心の中に踏み込むとか、理由を知りたいとか、そういう事ではない。
ただこのような素晴らしく美しい器が生み出せるのに、今は作られてないなんて、とても惜しい気がしたのだ。
「うるさい。それ以上くだらん軽口叩くなら、今後一切の取引は止めだ」
白い頬を高揚させて怒鳴る明翠に、雨音は驚いて瞠目する。こんな風に声を荒らげた姿を見たのは初めてで、よほど右京の誤解を不快に思ったに違いない。
(しかも俺を相手に、なんてとんでもないよな。御方様が気分を害されても当然だ……)
雨音は申し訳なさに項垂れると、肩に乗せられた明翠の手に力がこもった。
「違う、そうではない……」
低く絞り出された小声に、雨音はたまらず明翠の腕を逃れて身を引くと、右京の笑い声が室内に弾けた。
「何をむきになってんだ、冗談に決まってんだろう。お前みたいな朴念仁に、今更色っぽい話なんぞ期待しちゃいねえよ」
右京は人を食ったような笑顔を浮かべつつ、下駄の軽やかな音を立てながら近づいてきた。遠目では普通の人間となんら変わらないように思えたが、こうして間近で見上げると、瞳が明翠と同じく紫紺の不思議な色をしていた。藍染めの簡素な着流しを纏った姿は、襟の合わせからのぞく厚い胸板や、襟足で無造作に跳ねらせた黒髪と相まって、雑貨屋の店主というよりも腕に覚えのある浪人のように見える。
「あの、あなた様も、神様でしょうか……」
雨音が遠慮がちにたずねると、右京は面白そうに身を乗り出してきた。
「まあ、神格はあるわな。お前たち人間から見れば、俺も明翠もそう大差ないだろ?」
「一緒にするな。同じ神格持ちとはいえ、お前とは神気も種別が全く違う」
明翠は綺麗な弧を描く眉を不快そうに顰めながら、雨音を背中に庇うようにして右京の前に立ちはだかった。右京はそんな明翠をからかい混じりの視線で眺めつつ、着崩した着物の袂に入れた両手を悠々と組んでみせた。
「おうおう、こりゃ随分と大事にしてるみてえだなあ」
右京は楽しそうに笑っている。こんな風に明翠と対等に話しているのも驚きだが、明翠も今までになく、気の置けないくだけた調子で右京と話している姿に、雨音は軽い衝撃を覚えた。
それにしても右京は、間違いなく男前と呼べる、野性味溢れる美丈夫だ。見目麗しい男は明翠でかなり耐性ができたと思っていたが、二人に挟まれると妙に恐れ多い気がして、立っているのがやっとなくらい体が震えてしまう。
「坊主、お前しばらくこいつの屋敷にいるんだろう? 一応こいつの友達だから、これからもよろしくな」
「……右京、お前は変な神気を出し過ぎだ。雨音が怯えているから、あまり近づくな」
「ひでえな、お前だって変に殺気立って、さっきから無駄に神気を垂れ流してるじゃねえか」
「それはお前が私を苛立たせるからだ……まったく、わざわざ店の奥まで足を運んでやったというのに」
「まあ、そういうなって。大体お前だって……」
頭上で何やら言い合いが始まったので、雨音は気まずさのあまりそうっと二人の間をすり抜けようとしたが、ふと正面の棚に鎮座する器に目を奪われて足を止めた。
それは雨音の片手に収まるほど小振りの、美しい乳白色の器だった。
暖かく優しい色使いなのに、淡雪を連想させる儚さも感じられる不思議な印象で、なぜか雨音の心を強く惹きつけた。
もっと近くで見ようと雨音の体が棚へと動く前に、器は明翠の伸ばされた手に、ひょいと取り上げられてしまう。
「この器が気になるのか」
「あ……その、すごく綺麗だなあって思いまして……」
すると明翠は目を細めてしばし雨音を見つめ、それから手にした器をずいっと差し出した。
「お前にやる」
「えっ!?」
「こら明翠、そいつは売り物だぞ」
右京のからかい混じりの抗議に、明翠は苛立たし気に唸った。
「うるさいな。私が買うからいいだろう」
「お前、自分が作った器を買うつもりか? 欲しけりゃ自分で作りゃあいいのに……なあ坊主、せっかくだから新しい器作ってくれるよう、こいつにお願いしちゃくんねえか? こいつときたら、ここ何十年ちっとも……」
「右京、余計なこと言うな……雨音、帰るぞ」
明翠に手を取られ、雨音は半ば引きずられるように歩き出した。うろたえつつ店を出る間際に後ろを振り返ると、ゆるゆると手を振っている右京の姿があった。
そうして雨音達が店を一歩出た途端、辺りは濃い霧に包まれた。それはまるで町にやってきた時と同様、視界は靄がかかったように真っ白に染められる。
隣の明翠は硬い表情で、真っ直ぐ前を向いて歩いていく。雨音が心配げに見つめても、決してこちらを見ようとしない。
(どうされたんだろ……)
雨音は自分が知らぬ間に何か失態を犯したのではと不安に苛まれる中、しっかりと繋がれている手だけが頼りで、無意識のうちに体を明翠に寄せていた。
「心配しなくても、じきに屋敷に着く。怖くないからな」
「はい……」
明翠と一緒だから怖くはない。ただ一緒にいるのに、明翠の心が分からないから不安なだけだ。しかしそんな気持ちを表す言葉も、伝える術もなく、雨音はただ唇を噛みしめるしかなかった。
その夜、自室に引っ込んだ雨音は、藺草がほのかに香る畳で仰向けに寝転ぶと、行燈の光を頼りに、手にした乳白色の器を眺めていた。
(綺麗だなあ)
銀の粉を吹いた表面が、光の加減で淡く輝いている。角度によってその様子は、切なくも儚くも、悲しくも感じられた。
明翠にもらった器は、これで二つ目だ。
一つ目は、弟を助ける為にもらった藍色の器だ。結局、本来の目的に使うことは叶わず、この屋敷に持ち帰ってしまった。そして明翠に返そうと何度も試みたのだが、彼に『一度やったのだからお前の物だ』と頑なに拒まれてしまい、今では恐れ多くも毎日の食事の器として使わせてもらってる……大きさからして納得もいくとはいえ、飯を入れる茶碗にしては恐れ多いことこの上ないのだが。
(この器は、何に使うためのものだろう。湯呑には小さいし、酒を飲むには少し大きい気がする……酒なんか飲めないけど)
きっと明翠が持つなら、酒を飲むのに丁度良い大きさだろう。脇に銀の煙管を添えたら、さらにしっくりきそうだ。
だが明翠は、決してこの器を使わないだろう。そんな気がした。
(こんな綺麗な器を作れるなんて、すごいなあ……でも)
ふと雨音の脳裏に、昼間の右京の言葉がよぎった。
『なあ坊主、せっかくだから新しい器作ってくれるよう、こいつにお願いしちゃくんねえか? こいつときたら、ここ何十年ちっとも……』
(右京様は『ちっとも作らない』って続けるおつもりだったんだろうな。だから俺に、御方様に新しい器を作ってもらうようお願いしてみて欲しいっておっしゃられたのだろう)
でも、なぜ明翠は何十年も新しい器を作ってないのか。
神界の器は、神様が気に入った者だけが手に入れることができる。つまり、ここ何十年も明翠が気に入る人物が現れなかったという事だろうか……雨音が現れるまで。
そう思うと、雨音はかっと頬が熱くなる思いがした。だがすぐに『そんなわけない』と全力で否定する。
(御方様は、愚かな俺を憐れんで、器を恵んでくださったんだ。勘違いしてはいけない)
雨音は自分自身がいかにつまらなく、器量良しでもなく、学も芸も持ち合わせない、取るに足らない人間であることを自覚していた。
別に自分を卑下しているわけでも、自己憐憫に浸ってるわけでもない。単に今まで暮らしていた中で、周りにいる人々の評価を受けて気づかされた『事実』だ。
(なぜ御方様は器を作らないのかな……何か理由がおありなのか)
だが自分のように無力な人間が、他人の事情を憶測するなんておこがましい。ましてや神様の行動の理由なんて、そんな恐れ多いことを考えたら、きっと罰があたるに違いない。
そう思いつつも、こうして手にした器を見つめていると、たまらない気持ちになってしまう。
(こんな綺麗な器を作れるのに……それなのに……)
明翠は訳あって作らないのだ。右京が頼んでも首を縦に振らないのに、雨音がお願いしたって無理に決まっている。
(よっぽどのご事情があるんだろうな。それが何か分からないけど、お嫌なことを無理に勧めるなんて、そんなこと誰にもできっこない……)
もし自分が、このように美しい器を作れたら……できるわけがないと分かっていても、想像するだけなら構わないだろう。
(こんな器を作れたら、いいなあ)
ぼんやりと器の白い地を眺めていると、屋敷への帰り道に見上げた、明翠の白い横顔を思い出す。決して明翠の心の中に踏み込むとか、理由を知りたいとか、そういう事ではない。
ただこのような素晴らしく美しい器が生み出せるのに、今は作られてないなんて、とても惜しい気がしたのだ。
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