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第一部
二、神界の町
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思い立ったが吉日とばかり、さっそく出掛けることになった。
狐達は『お出掛けするなら、お召し替えをしなくては』と強く主張し、その勢いに負けた雨音は、若緑色の小袖に藍色の袴を着付けてもらった。いかにも高価そうな着物に、着付けてもらった当の本人は、うっかり汚してしまったらどうしようかと気が気ではない。
そんな雨音の杞憂とは裏腹に、狐達は楽しげに雨音の髪を丁寧に梳き、どの髪紐が似合うかあれこれ合わせ、最後に頭の高い位置ですっきりと一つに結わいてくれた。
玄関に向かうと、先に支度を済ませた明翠が待ち構えていた。
「お待たせして、申し訳ありません」
「構わん……行くぞ」
狐達に屋敷の門から送り出されると、辺り一面は濃い霧に覆われていた。それはほんの数歩先ですら、道が全く見えない状態だった。
明翠は小さな提灯を手に、少し遅れて後ろから付いてくる雨音に振り返った。
「もっと近くに来い。はぐれてしまうと、二度と帰れなくなるぞ」
「は、はいっ……」
雨音が小走りで追いつくと、明翠は目線で自分の袂を指した。
「ここに掴まるといい」
言われた通り袂の端を指で摘まむ雨音に、明翠は満足げに小さく頷く。そして二人は深い霧の奥へと進んでいった。
辺り一面真っ白の霧に包まれる中、雨音は無言で足を動かしていた。道などまったく見えないのに、明翠は慣れた様子で迷いなく歩を進めていく。その様子を不思議に思いながら、雨音はチラリと背後を振り返った。すると予想通り、後ろも前方と変わらず真っ白なだけだった。
(そういえば、行先を聞いてなかったな……)
つかんでいる袂の持ち主の後ろ姿のみが頼りの中、否応なしに不安な気持ちが大きくなっていく。このまま白い霧に飲まれたらどうしよう、明翠とはぐれたらどうしようと、そればかり考えていた。
しかし雨音が思い悩み始めて幾ばくもしないうちに、目の前の霧がみるみるうちに晴れていく。
「うわ……あ……」
いつの間にか雨音たちは、驚くほど賑やかな通りに佇んでいた。
往来を行き交う人々は、よく見ると人の姿だけではなく、狐だったり兎だったり動物が混じっていた。共通しているのは、誰しもきちんと着物を纏い二本足で歩いているところだ。屋敷の狐達で多少慣れていたとはいえ、雨音は目を丸くして不思議な光景を眺めた。
「疲れてないか。少しどこかで休むか?」
「いえっ、その、大丈夫です」
明翠の問いかけに、雨音は大きくかぶりを振った。明翠は「そうか」と袂を軽く引いたので、周囲に気を取られて力が緩んでいた雨音の指先は簡単に外れてしまった。指の間を滑った明翠の着物の生地の手触りは、驚くほどなだらかだった。おそらく高級な絹に違いないと、先刻までその端とはいえ握り締めていたのが恐れ多い気がした。
(あまり触らないようにしないとな)
雨音は両手を背に回して顔を上げると、少し考えこむような表情をした明翠と目が合った。
「……はぐれないよう、ちゃんと着いてこい」
「はいっ」
明翠が先導し、雨音がその後ろを着いて通りを歩き始めた。道を挟んだ両側には、料理茶屋や居見世といった食事ができる店が軒を連ね、総菜屋の見世棚には様々な料理が並び、通りかかる人々の食欲をそそる。今まで生きてきた宿場町の一番賑やかな大通りよりも盛況で、雨音はただただ圧倒されるばかりだった。
程なくして、前を歩く明翠が雨音に振り返った。
「腹は空いてないか。もう昼餉の刻を過ぎている」
「いえ、俺は平気です。でも御方様が召し上がるなら、近くでお待ちします」
「そうか……」
明翠は小さく頷くと、何か探すように周囲に視線を巡らした。てっきり料理茶屋を選んでいるかと思いきや、明翠が足を向けたのは天ぷらを売る屋台だった。
「これをひとつ」
明翠が指差し示した食材を、店主は衣の種をたっぷりと絡めて、熱した油の中に投入した。店主は白い毛並みの兎で、赤い目を凝らして油の中でじゅうじゅうと音を立てる衣の具合を慎重に確認している。そして時折、手にした箸でクルリと慣れた調子で返す様子が雨音の視線を釘付けにした。
天ぷらがからりと揚がると、店主は串に刺した揚げたてを漬け汁の壺に潜らせる。そして小銭と引き換えに、串を明翠に手渡した。
熱々の天ぷらは、食欲を刺激する芳ばしい香りと湯気を立てていた。明翠は手にした串をしばし見つめ、おもむろに雨音へ差し出した。
「ほら、食べろ」
「えっ、い、いいです、結構です!」
宿場町で暮らしていた頃は、食事は日に二回、朝餉と夕餉のみだった。それは別に珍しい事ではなく、あの辺りに住んでいる貧しい長屋の住人や店の奉公人は、大抵一日二食が当たり前だった。
明翠の屋敷で暮らすようになってからというもの、当然のように昼餉を出されたが、いずれ元いた世界に戻る事を考えて、最初は丁重に断っていた。しかし明翠はそれをよしとせず、仕方なく雨音は少しだけならと口にするようになった。それでも雨音は、こっそり狐達にお願いして、食事の量を出来る限り少なくしてもらっている。
旅籠に居た頃は、病弱で床に伏せがちの弟への風当たりが強く、二言目には追い出してやる云々と口にする奥方の顔色を伺いながら暮らしていた。二人分の食いぶちを少しでも減らすよう、常に食事の量には気をつけていた。そんな生活に慣れていた雨音にとって、昼餉など贅沢以外何物でもない。
雨音が天ぷらの串に手を出せないでいると、明翠は小さくため息を漏らした。
「……この魚は苦手なんだ。お前が食べないと言うなら、無駄にすることになる」
そう言われて強引に押し付けられてしまえば、雨音もこれ以上固辞する訳にはいかなかった。
(仕方ない、一度くらいなら……)
贅沢に慣れてはいけないと自制していたが、せっかくの食べ物を無駄にするのは心苦しい。
「では、ご馳走になります……」
明翠の視線を感じつつ、雨音は緊張で強張る口を開き、きつね色に揚がった衣の端を齧った。
(う、わあ……何これ!?)
サクサクの衣に包まれた白身魚は、ふんわりと口の中で蕩けるように解れていく。あまりの美味しさに、雨音は口も聞けずに打ち震えていると、明翠が硬い表情で身を乗り出してきた。
「どうだ?」
「おいしい、です……」
雨音の言葉に、明翠の表情が微かに和らぐ。
「そうか、美味いか」
「はい……」
「それはよかった」
すると明翠は、店主に穴子の天ぷらを二つ注文し、ちょうど雨音が白身魚を食べ終える頃に、揚げたてをひとつ差し出してきた。
「これは私も食べられるが、やはり二つは多い。ひとつはお前が食べるといい」
「……はい」
ここまで来ると、明翠がわざと色々な理由をつけて、雨音に天ぷらを食べさせようとしているのは明白だった。雨音は熱くなる頬を誤魔化す為に、揚げたての衣に大きくかぶりついた。
「熱っ……」
「大丈夫か!?」
雨音は熱い衣で舌を火傷してしまった。ひりつく口の中を涙目で堪えていると、明翠は水売りから冷たい水を買ってくれた。
「ほら、ゆっくり飲め」
「はい……」
冷水は砂糖が加えられているのか、ほんのり甘く、しかも柔らかな白玉が二つ入っていた。その素晴らしい美味しさに、雨音は火傷も忘れて夢中になった。
(どうしよう、こんなこといけないのに……どうしよう)
そう思いながらも、雨音は幸せな気持ちで胸が一杯になった。
腹がすっかり満たされると、明翠は雨音を連れて大通りの外れにある古い建物へと向かった。
入り口の暖簾を潜ると、店内は四方の壁を取り囲むようにぐるりと見世棚が並び、様々な雑貨が所狭しと並んでいた。
「適当に見てろ。ただし決して店の外には出るなよ……私は奥で、店主と話してくる」
明翠は雨音にそう言い聞かせ、出迎えた店員らしき人と共に、正面の衝立を越えた襖の向こう側に姿を消してしまった。
ひとりその場に残された雨音は、見世棚を端から見ていくことにする。棚には硯や筆といった日用品から、虹色に輝く螺鈿細工の箱、水のように透明な器等、眺めているだけで心浮き立つ物が所狭しと並んでいた。
中でも特に雨音の目を引いたのは、銀色に輝く細身の煙管だった。近づいてよく見てみると、表面に繊細な彫りが施されてあるのが分かった。男性用というよりも、高貴な身分の女性用といったところだろうか。
奉公先の旅籠の奥方は、胴体が黒檀で出来た煙管を使っていた。呼び出される時は大抵叱られることが多かった為、床の間の前で煙管を手に鎮座する姿は威圧感に満ちており、鉄製の雁首で灰吹きを叩く音に逐一おびえていた。
「それが欲しいのか」
頭上から響いた声音にハッとして棚から飛びのくと、いつの間に背後に立っていた明翠にまともにぶつかってよろめく。
「も、申し訳ありません……」
明翠の腕に抱きとめられた形となり、雨音は羞恥で顔が熱くなるのを感じた。
「煙管か……まあ欲しいのなら買ってやろう。煙草は体に毒だから吸わせないが、ただの飾りとしても悪くない品だ」
そういって煙管を棚から取り上げた明翠に、雨音は驚いて首を振った。
「ち、違うんです……そうじゃ、なくって……」
(違う、ただ俺は……御方様にお似合いだろうなあって)
美しい銀細工の煙管は、きっと明翠の白い指先に映えるだろう。ただ何となくそう思っただけで、彼が煙草を吸っている姿を見かけたことは無い事や、奥方の筋張った手が叩きつけるように灰を落とす姿が恐ろしかった事や、様々なことが雨音の頭をよぎり、何て説明したらいいのか考えが纏まりそうもなかった。
「……なるほど、そういう事か」
明翠はフワリと微笑むと、勿体つけて銀の煙管を構えてみせた。
「ならば私が使う事にしよう」
その姿は想像以上に似合っていた。感嘆の息を漏らす雨音だが、先ほど明翠が言った言葉が引っかかった。
(煙草って、体に毒なの? じゃあ御方様にも毒なのかな……)
「心配するな。煙草を吸うわけではない」
「えっ……?」
どういう意味だろう。雨音が首を傾げると、明翠は銀細工の繊細な模様をなぞるように指を滑らせながら、小さく笑った。
「神界には煙草が存在しない。代わりに煙管には、果物や花を詰めて、その香りを楽しむのだ」
「えっ!?」
神界には不思議なものがあるのだなあと感心する一方、早くこの世界の常識を学ばなくてはならない焦りも感じる。
「慌てなくても、時間は沢山あるのだから、ゆっくり学べばいい」
慈愛に満ちた明翠の表情に、雨音は従順に頷く。すると突然店の奥から笑い声が響いた。
「こりゃ傑作だ、明翠のそんな姿なんぞ初めてみたわ」
「右京……何しに出てきた。商談は先程済ませたはずだが」
右京と呼ばれた強面の男は腕を組むと、まるで新しいおもちゃを手に入れた子供のように笑った。そして興味津々といった様子で、雨音の顔をまじまじと見つめる。
「まだ幼気な子どもじゃねえか。お前よもや、手ぇ出しちゃいねえだろうな?」
狐達は『お出掛けするなら、お召し替えをしなくては』と強く主張し、その勢いに負けた雨音は、若緑色の小袖に藍色の袴を着付けてもらった。いかにも高価そうな着物に、着付けてもらった当の本人は、うっかり汚してしまったらどうしようかと気が気ではない。
そんな雨音の杞憂とは裏腹に、狐達は楽しげに雨音の髪を丁寧に梳き、どの髪紐が似合うかあれこれ合わせ、最後に頭の高い位置ですっきりと一つに結わいてくれた。
玄関に向かうと、先に支度を済ませた明翠が待ち構えていた。
「お待たせして、申し訳ありません」
「構わん……行くぞ」
狐達に屋敷の門から送り出されると、辺り一面は濃い霧に覆われていた。それはほんの数歩先ですら、道が全く見えない状態だった。
明翠は小さな提灯を手に、少し遅れて後ろから付いてくる雨音に振り返った。
「もっと近くに来い。はぐれてしまうと、二度と帰れなくなるぞ」
「は、はいっ……」
雨音が小走りで追いつくと、明翠は目線で自分の袂を指した。
「ここに掴まるといい」
言われた通り袂の端を指で摘まむ雨音に、明翠は満足げに小さく頷く。そして二人は深い霧の奥へと進んでいった。
辺り一面真っ白の霧に包まれる中、雨音は無言で足を動かしていた。道などまったく見えないのに、明翠は慣れた様子で迷いなく歩を進めていく。その様子を不思議に思いながら、雨音はチラリと背後を振り返った。すると予想通り、後ろも前方と変わらず真っ白なだけだった。
(そういえば、行先を聞いてなかったな……)
つかんでいる袂の持ち主の後ろ姿のみが頼りの中、否応なしに不安な気持ちが大きくなっていく。このまま白い霧に飲まれたらどうしよう、明翠とはぐれたらどうしようと、そればかり考えていた。
しかし雨音が思い悩み始めて幾ばくもしないうちに、目の前の霧がみるみるうちに晴れていく。
「うわ……あ……」
いつの間にか雨音たちは、驚くほど賑やかな通りに佇んでいた。
往来を行き交う人々は、よく見ると人の姿だけではなく、狐だったり兎だったり動物が混じっていた。共通しているのは、誰しもきちんと着物を纏い二本足で歩いているところだ。屋敷の狐達で多少慣れていたとはいえ、雨音は目を丸くして不思議な光景を眺めた。
「疲れてないか。少しどこかで休むか?」
「いえっ、その、大丈夫です」
明翠の問いかけに、雨音は大きくかぶりを振った。明翠は「そうか」と袂を軽く引いたので、周囲に気を取られて力が緩んでいた雨音の指先は簡単に外れてしまった。指の間を滑った明翠の着物の生地の手触りは、驚くほどなだらかだった。おそらく高級な絹に違いないと、先刻までその端とはいえ握り締めていたのが恐れ多い気がした。
(あまり触らないようにしないとな)
雨音は両手を背に回して顔を上げると、少し考えこむような表情をした明翠と目が合った。
「……はぐれないよう、ちゃんと着いてこい」
「はいっ」
明翠が先導し、雨音がその後ろを着いて通りを歩き始めた。道を挟んだ両側には、料理茶屋や居見世といった食事ができる店が軒を連ね、総菜屋の見世棚には様々な料理が並び、通りかかる人々の食欲をそそる。今まで生きてきた宿場町の一番賑やかな大通りよりも盛況で、雨音はただただ圧倒されるばかりだった。
程なくして、前を歩く明翠が雨音に振り返った。
「腹は空いてないか。もう昼餉の刻を過ぎている」
「いえ、俺は平気です。でも御方様が召し上がるなら、近くでお待ちします」
「そうか……」
明翠は小さく頷くと、何か探すように周囲に視線を巡らした。てっきり料理茶屋を選んでいるかと思いきや、明翠が足を向けたのは天ぷらを売る屋台だった。
「これをひとつ」
明翠が指差し示した食材を、店主は衣の種をたっぷりと絡めて、熱した油の中に投入した。店主は白い毛並みの兎で、赤い目を凝らして油の中でじゅうじゅうと音を立てる衣の具合を慎重に確認している。そして時折、手にした箸でクルリと慣れた調子で返す様子が雨音の視線を釘付けにした。
天ぷらがからりと揚がると、店主は串に刺した揚げたてを漬け汁の壺に潜らせる。そして小銭と引き換えに、串を明翠に手渡した。
熱々の天ぷらは、食欲を刺激する芳ばしい香りと湯気を立てていた。明翠は手にした串をしばし見つめ、おもむろに雨音へ差し出した。
「ほら、食べろ」
「えっ、い、いいです、結構です!」
宿場町で暮らしていた頃は、食事は日に二回、朝餉と夕餉のみだった。それは別に珍しい事ではなく、あの辺りに住んでいる貧しい長屋の住人や店の奉公人は、大抵一日二食が当たり前だった。
明翠の屋敷で暮らすようになってからというもの、当然のように昼餉を出されたが、いずれ元いた世界に戻る事を考えて、最初は丁重に断っていた。しかし明翠はそれをよしとせず、仕方なく雨音は少しだけならと口にするようになった。それでも雨音は、こっそり狐達にお願いして、食事の量を出来る限り少なくしてもらっている。
旅籠に居た頃は、病弱で床に伏せがちの弟への風当たりが強く、二言目には追い出してやる云々と口にする奥方の顔色を伺いながら暮らしていた。二人分の食いぶちを少しでも減らすよう、常に食事の量には気をつけていた。そんな生活に慣れていた雨音にとって、昼餉など贅沢以外何物でもない。
雨音が天ぷらの串に手を出せないでいると、明翠は小さくため息を漏らした。
「……この魚は苦手なんだ。お前が食べないと言うなら、無駄にすることになる」
そう言われて強引に押し付けられてしまえば、雨音もこれ以上固辞する訳にはいかなかった。
(仕方ない、一度くらいなら……)
贅沢に慣れてはいけないと自制していたが、せっかくの食べ物を無駄にするのは心苦しい。
「では、ご馳走になります……」
明翠の視線を感じつつ、雨音は緊張で強張る口を開き、きつね色に揚がった衣の端を齧った。
(う、わあ……何これ!?)
サクサクの衣に包まれた白身魚は、ふんわりと口の中で蕩けるように解れていく。あまりの美味しさに、雨音は口も聞けずに打ち震えていると、明翠が硬い表情で身を乗り出してきた。
「どうだ?」
「おいしい、です……」
雨音の言葉に、明翠の表情が微かに和らぐ。
「そうか、美味いか」
「はい……」
「それはよかった」
すると明翠は、店主に穴子の天ぷらを二つ注文し、ちょうど雨音が白身魚を食べ終える頃に、揚げたてをひとつ差し出してきた。
「これは私も食べられるが、やはり二つは多い。ひとつはお前が食べるといい」
「……はい」
ここまで来ると、明翠がわざと色々な理由をつけて、雨音に天ぷらを食べさせようとしているのは明白だった。雨音は熱くなる頬を誤魔化す為に、揚げたての衣に大きくかぶりついた。
「熱っ……」
「大丈夫か!?」
雨音は熱い衣で舌を火傷してしまった。ひりつく口の中を涙目で堪えていると、明翠は水売りから冷たい水を買ってくれた。
「ほら、ゆっくり飲め」
「はい……」
冷水は砂糖が加えられているのか、ほんのり甘く、しかも柔らかな白玉が二つ入っていた。その素晴らしい美味しさに、雨音は火傷も忘れて夢中になった。
(どうしよう、こんなこといけないのに……どうしよう)
そう思いながらも、雨音は幸せな気持ちで胸が一杯になった。
腹がすっかり満たされると、明翠は雨音を連れて大通りの外れにある古い建物へと向かった。
入り口の暖簾を潜ると、店内は四方の壁を取り囲むようにぐるりと見世棚が並び、様々な雑貨が所狭しと並んでいた。
「適当に見てろ。ただし決して店の外には出るなよ……私は奥で、店主と話してくる」
明翠は雨音にそう言い聞かせ、出迎えた店員らしき人と共に、正面の衝立を越えた襖の向こう側に姿を消してしまった。
ひとりその場に残された雨音は、見世棚を端から見ていくことにする。棚には硯や筆といった日用品から、虹色に輝く螺鈿細工の箱、水のように透明な器等、眺めているだけで心浮き立つ物が所狭しと並んでいた。
中でも特に雨音の目を引いたのは、銀色に輝く細身の煙管だった。近づいてよく見てみると、表面に繊細な彫りが施されてあるのが分かった。男性用というよりも、高貴な身分の女性用といったところだろうか。
奉公先の旅籠の奥方は、胴体が黒檀で出来た煙管を使っていた。呼び出される時は大抵叱られることが多かった為、床の間の前で煙管を手に鎮座する姿は威圧感に満ちており、鉄製の雁首で灰吹きを叩く音に逐一おびえていた。
「それが欲しいのか」
頭上から響いた声音にハッとして棚から飛びのくと、いつの間に背後に立っていた明翠にまともにぶつかってよろめく。
「も、申し訳ありません……」
明翠の腕に抱きとめられた形となり、雨音は羞恥で顔が熱くなるのを感じた。
「煙管か……まあ欲しいのなら買ってやろう。煙草は体に毒だから吸わせないが、ただの飾りとしても悪くない品だ」
そういって煙管を棚から取り上げた明翠に、雨音は驚いて首を振った。
「ち、違うんです……そうじゃ、なくって……」
(違う、ただ俺は……御方様にお似合いだろうなあって)
美しい銀細工の煙管は、きっと明翠の白い指先に映えるだろう。ただ何となくそう思っただけで、彼が煙草を吸っている姿を見かけたことは無い事や、奥方の筋張った手が叩きつけるように灰を落とす姿が恐ろしかった事や、様々なことが雨音の頭をよぎり、何て説明したらいいのか考えが纏まりそうもなかった。
「……なるほど、そういう事か」
明翠はフワリと微笑むと、勿体つけて銀の煙管を構えてみせた。
「ならば私が使う事にしよう」
その姿は想像以上に似合っていた。感嘆の息を漏らす雨音だが、先ほど明翠が言った言葉が引っかかった。
(煙草って、体に毒なの? じゃあ御方様にも毒なのかな……)
「心配するな。煙草を吸うわけではない」
「えっ……?」
どういう意味だろう。雨音が首を傾げると、明翠は銀細工の繊細な模様をなぞるように指を滑らせながら、小さく笑った。
「神界には煙草が存在しない。代わりに煙管には、果物や花を詰めて、その香りを楽しむのだ」
「えっ!?」
神界には不思議なものがあるのだなあと感心する一方、早くこの世界の常識を学ばなくてはならない焦りも感じる。
「慌てなくても、時間は沢山あるのだから、ゆっくり学べばいい」
慈愛に満ちた明翠の表情に、雨音は従順に頷く。すると突然店の奥から笑い声が響いた。
「こりゃ傑作だ、明翠のそんな姿なんぞ初めてみたわ」
「右京……何しに出てきた。商談は先程済ませたはずだが」
右京と呼ばれた強面の男は腕を組むと、まるで新しいおもちゃを手に入れた子供のように笑った。そして興味津々といった様子で、雨音の顔をまじまじと見つめる。
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