神界の器

高菜あやめ

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第一部

一、届かない気持ち

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 人々が『神界』と呼ぶ、神々と仙人が住まう場所。そんな世界に雨音が身を置くことになり、早十日が過ぎようとしていた。
「……雨音、聞いているのですか」
「あ、はいっ、松葉様」
 松葉と呼ばれた青年はため息をつくと、海老茶色の艶やかな髪と同色の細い眉をわずかに持ち上げ、向かいで正座する雨音を軽くにらんだ。
「今朝はやけに集中力に欠いてますね。なにかありましたか」
 雨音は己を恥じてうつむいた。松葉はこの屋敷の主人である『御方様』こと明翠めいすいの側仕えであり、今は雨音の勉強や作法の指南役でもある。普段は狐の姿をしているが、雨音が落ち着かない様子なのを見かねて、こうして勉強を教える間だけ人の姿に変化してくれていた。
「申し訳ございません……」
 いそがしい合間を縫って勉強をみてくれる松葉に対し、心ここあらずな態度で失礼なことをしてしまった、と雨音は深く頭を垂れた。
 だがいつまで経っても松葉から許しの言葉が無く、雨音はますます恐縮し、もう少しで額が畳につこうとしたとき。
「どうした、二人とも」
 頭上から響いた美声に、雨音の体は固まった。面を上げよ、といわれ、のろのろと頭を上げる。
「松葉、お前また雨音をいじめたのか」
「人聞きの悪い。雨音が勉学に集中できないようだから、理由を問うただけです」
 明翠の長い指が強引に、雨音の震える顎を押し上げた。観念した雨音が視線を上げると、銀色の長いまつ毛が影を落とす、なだらかな白い頬が視界に映った。
「集中できない原因は、私か?」
 薄い唇から紡ぎ出す言葉は、むしろやさしく、だがそれが返って雨音の心に影を落とす。
「いえっ……そのような、ことでは……」
「おびえるな。別に怒っているわけではない」
 銀糸のような眩い髪をゆるく束ね、紫紺の着物を纏っている明翠は、いつもの通り神々しい姿をしていた。どこか訳知り顔で雨音に詰め寄る明翠に、後ろに控える松葉が腑に落ちない様子で首を傾げる。
 雨音は今朝の出来事を思い出し、暗い気持ちで両手を膝の上で硬く握り締める。事の発端は、朝餉を準備するくりやで起こった。

 雨音はこの屋敷で暮らし始めた初日から、何か出来る仕事が無いか常に探していた。食事の支度はそのひとつで、狐達にお願いして野菜を刻んだり洗い物をしたりと、張り切って手伝っていた。
 だが今朝めずらしく厨に顔を出した明翠に、狐達の手伝いは今後一切してはならない、と禁じられてしまった。

「私はお前にそのようなことをさせるために、ここに置いているのではない」

 雨音ばかりか、手伝わせた狐達も一緒に叱られてしまった。雨音は酷く落ち込み、朝餉あさげもろくに口にできなかった。食事を取らない雨音はさらに明翠に叱られてしまい、ともすれば泣き出しそうな気持のまま松葉に勉強を教わる時刻を迎えた。
 当然、雨音は松葉の話す内容に集中できず、とうとう松葉に指摘されてしまい、もう項垂れるしかなかった。
 雨音が唇を噛んで俯いていると、額に明翠の指がそっと触れた。

「雨音、そなた学ぶことは楽しんでいるか……ふむ、嫌いではないが、実生活では役に立たないことだと感じているのか」

 触れられると心を読まれてしまうので、明翠に隠し事はできない。
 明翠の背後から、たまりかねた様子で松葉が割って入った。

「明翠様、雨音には勉強の合間に少しぐらい、狐の仕事を手伝ってもらっても構わないのでは?」
「それはならぬ」

 松葉の提案も、明翠はあっさり却下してしまう。それでも松葉は納得がいかない、と言ったように首をすくめる。

「ですが彼のこれまでを考えると、仕事をすること自体が当たり前の日常だったのです。それをいきなりすべて奪ってしまうのは、少々可哀相ではないですか」
「すべて奪わねば、それに縋ってしまう。これまでと同じ生活をしていたのでは、変わることはできない……雨音、私の言っている意味が分かるか」

 雨音の返事を待たずして、明翠の指がスッと離れていく。

「……はい」

 虚ろな返事を返す雨音に対して、明翠は無言のまま小さく吐息を漏らした。





 心に思うことがあれば明翠に筒抜けなのだから、雨音の納得いかない気持ちは伝わってしまったはずだ。
 雨音は机に置かれた手習いの書に目を落とす。筆を握る手は慣れないため、数文字書くだけで筋が攣りそうになってしまう。

(どうしてこんなこと、しなくちゃならないのかな……御方様が何をお考えなのか、ちっとも分からない)

 いつか人の世界へ戻る日がやって来る。そうしたら身寄りも後ろ盾もない雨音は、再び下働きの仕事をするしか生きる道はない。そう考えると、今のような分不相応な生活を送ることに、どうしても意味が見出せなかった。

「若様、どうされました?」
「あっ……」

 我に返って辺りを見回すと、狐達に囲まれていた。

「少し休まれてはいかがですか。ささ甘い物をご用意しましたよ」
「お団子とお饅頭どちらがお好きですか」
「ささお茶もどうぞ」

 あれこれ世話を焼こうとする狐達に、いつもながら雨音は面食らってしまう。
 不思議なことに彼らは個体差が無いようで、松葉と他に胡蝶こちょうと呼ばれる年配の狐以外は、いつまでたっても誰が誰だか見分けがつかなかった。
 最初の頃こそ、それぞれの特徴を見つけようと躍起になっていたものの、名前を聞いても何故か聞き取れず、近頃は殆ど諦めかけている。

「おいしいですね……」

 団子を咀嚼しながら、雨音は思わず呟いていた。すると側に控えていた狐達はうれしそうに頷く。

「またお作りしますね」
「これは御方様も好物なのですよ」
「次はご一緒に召し上がられると、きっと御方様もお喜びになりましょう」
「……次は、俺も一緒に作らせてもらえませんか?」

 すると狐達はピタリと口を閉ざした。

「……あの……?」

 狐達はそそくさとお皿を片付けてしまうと、小さく会釈をしてスルリと襖の奥に引っ込んでしまった。
 おそらく今朝、雨音を厨に入れたことについて、明翠に厳しく咎められたから、狐達も凝りてしまったのだろう。

 暗い気持ちで閉ざされた襖を眺めていたら、狐達と入れ替わりに明翠が現れた。
 明翠は体を屈ませると、雨音の頬を手の甲でそっと撫でる。

「お前は本当に……何も分かってないのだな」

 それは責めている口調ではなかった為、雨音は余計に申し訳ない気持ちで一杯になってしまう。本当は明翠の真意を理解したいのに、理解できない自分が情けなくなった。
 部屋の奥で腰を下ろした明翠は、何か思案するように、涼やかな視線を床の間の生け花に向けた。流れるように美しい所作や立ち居振る舞いは、傍らで自己嫌悪に震える雨音の意識すら奪ってしまう。

「……あまり、そのように見つめるな」
「も、申し訳ございませんっ……!」

 雨音がガバッと平伏すると、頭上から嫌そうな声音で「そういう意味ではない」と、ため息交じりに呟かれた。

「面を上げよ」
「はっ……」

 そろそろと顔を上げると、あの澄んだ紫紺の瞳が静かにこちらを見つめていて、雨音の心臓が跳ね上がった。
 光沢のある黒地の天鵞絨びろうどを張った脇息にしどけなくもたれて頬杖をつく姿は、空から舞い降りてきた天女を彷彿とさせるほど、優美で美しい姿だった。そして外見だけではなく、雨音のような人間に対しても分け隔てなく接してくれる、内面の美しさにも心を打たれた。

(この方にお仕え出来たら、どんなに幸せだろう)

 だが明翠は、雨音に何の仕事も与えなかった。与えられるのは分不相応な食事と、身に余る待遇ばかりで、日に日に心苦しさが増していくばかりだった。

「……そのような顔をするな」
「え……」
「まったく、難しいものだな」
「あの……?」

 雨音は瞠目どうもくして、視線を逸らした明翠の横顔を見つめた。

「私が良かれと思ってやることなすこと、ことごとくお前の気持ちとすれ違う。このような事は初めてで、どうすれば良いのか皆目分からん」

 憂い顔でぼやく明翠の言葉に、雨音は息を飲んだ。

(もしかして御方様も、俺と同じようなことをお考えなのか……?)

 雨音は意外な思いで、明翠の顔をまじまじと見つめた。少し目元が赤いのは、気のせいだろうか。

「触れなければ、お前の気持ちが分からないなんて……実に情けない」
「そんなっ……俺こそ、御方様のお気持ちを無下にするばかりで……申し訳ございません」
「謝るな。余計惨めになる」
「も、申し訳……いえ、その」

 雨音は言葉に詰まってしまう。この屋敷で暮らすようになって以来、何もせずとも温かい寝床に食事、清潔な着物を与えられ、ただただ恐縮するばかりだった。せめて少しでも仕事をして、御返ししなければと焦り、せっかく松葉に教えてもらう勉強にも身が入らず、役立たずの不甲斐ない自分に落ち込んでいた。
 申し訳なさと後ろめたさばかりが先立って、明翠がどんな気持ちでいたか、ちっとも思いやることが出来てなかった。

(そういえば俺、まだ御方様に、ちゃんと感謝の気持ちを伝えていない……)

 だがどうやって感謝の気持ちを伝えればいいのだろうか。雨音の知っている拙い言葉だけでは、この気持ちを伝えるには足りない気がする。

「どうした、何をそう難しい顔している?」
「……御方様。俺、勉強したいです」

 雨音はグッと表情を引き締めると、明翠を真っ直ぐ見つめた。

「俺、勉強して、もっと言葉を習って……いつか御方様に、この気持ちを……感謝を自分の言葉で、伝え、たい……っ……」

 言いながら雨音は、なんだか泣けてきてしまった。お礼ひとつ満足に伝えられない、無知で愚かな自分、何の役にも立てないごく潰しの自分、そして誰かの庇護無くしては生きられない弱い自分……それらすべてを合わせた感情の塊が一気に込み上げ、涙と化してはらはらと外へ流れ出ていく。

(駄目だ、これじゃまた、御方様を困らせてしまう)

 雨音は何とか嗚咽を噛み殺し、鼻を啜って涙を手の甲で拭った。

「た、大変失礼、しました」
「いや……」

 二人の間に一瞬、ぎこちない沈黙が落ちた。
 雨音がもう一度謝ろうとした時、脇息に頬杖をついて横顔を向けた明翠が静かに口を開いた。

「では気分転換に、少し屋敷の外の空気でも吸いに行くか……私とお前の、二人で」




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