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第一部
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(そうか、倉澤さんだけに弁当作ればよかったのか)
手作りと言われ、メンバー全員に向けての差し入れと勘違いした自分はどうかしていた、と三崎はまず自分自身の早とちりにあきれた。
「倉澤さんには、今度埋め合わせに昼メシでも誘いますよ」
「三崎さんってば、私の言ってる意味ホントにわかってます?」
「無理だよ江藤さん。コイツ、こういう事に気が回らない方だから」
分かったような口をきく鹿島をにらみつける。常日頃から一言多いが、この日も例外に漏れず余計な事を言う。
「だってお前、彼女いただろ」
「えっ、そうなんですか?」
「おい、そんなこと職場で話すことじゃないだろ」
「あ、でも少し前に別れたんだっけ」
「鹿島、お前いい加減にしろよ……」
逃げ足だけは早い男の背中を見送っていたら、隣の江藤が恐縮した様子で口を開いた。
「すいません、お仕事中に余計なことをベラベラと話しこんじゃって」
「江藤さんがあやまることじゃないですよ」
首を振る三崎に、江藤は何度も頭を下げながら自分の部署へと戻っていった。
三崎はようやく自席に着くと、PCでプロジェクトの進行表を確認しながらため息をついた。
(納品日まで二週間切ったか……)
ここからいかに、デバッグも含めたシステムの作業時間を捻出するかが勝負となる。実際の成果物をパッケージ化して納品日を迎えるまで、どの工程の時間短縮が可能か……常に進行具合に目を配ってないと、バランスを失って足元から崩れ落ちそうだ。三崎は各工程をもう一度、入念にチェックすることにした。
問題は納品日まであと2日というタイミングで発生した。
「すいません三崎さん、こっちのチェック項目もお願いできますか」
倉澤のチームのひとりが風邪でダウンした。最後の追い込みでひとりでも欠けると、状況は一気に厳しくなってしまう。昨日からメンバー総出で徹夜の作業をしていると聞きつけ、他部署の三崎もテスト作業の手伝いを申し出ると大歓迎された。
時刻はすでに夜の10時を回っていた。明日の正午までにテストも含めた全ての作業を完了させないと、期日に間に合わない。
ふと顔を上げると、モニター越しにメンバーのひとりに指示を出している倉澤の姿が目に入った。昨日から寝てないのに、その表情に疲れは見られない。おそらくこの一週間、ほぼ不眠不休で働いていたはずだ。周囲の人間が疲弊している中で、あの体力と気力を保てるとは舌を巻く。
真夜中を過ぎ、ひとつの山場を越えると、誰とも言わずパラパラと短い休憩に入り始めた。
「お前も少し休んでこい」
倉澤の声にハッと顔を上げると、いつの間にか部屋の中で二人きりになっていた。
「倉澤さんは?」
「もう少ししたら俺も休憩入るよ」
「そうですか。ではお先に……」
倉澤のキーを打つ音を背中で聞きながら部屋を出ると、自販機を目指して薄暗い廊下を歩き出す。途中で喫煙室を横切ると、ガラス戸越しに数人のシステムメンバーが、カウンターに寄りかかって一服する姿が見えた。皆の疲れた様子に、改めて厳しい日程を強要してしまったと、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
自販機で冷たい緑茶のペットボトルを購入し、ひとくち口に含むと、少しばかり疲れがやわらぐ気がした。そのまま座る場所を求め、エレベーター横の階段へと足を向ける。窓のないその空間は、ひんやりとした空気で満ちていて、踊り場の壁に寄りかかると背中が冷たくて心地良かった。
「ここにいたのか」
水のボトルを手に現れた倉澤の声が、吹き抜けの天井の下で静かに響いた。
「気持ちいいな、ここ」
「部屋の中は結構暑いですよね」
三崎に倣って壁に寄りかかった倉澤は、開けたばかりのボトルを一気に半分ほど飲み干した。
「……無理させて悪いな」
まるで自分の心の内に共鳴するかのような言葉に、三崎は驚いて隣の倉澤を見上げる。その端正な横顔は、青白い蛍光灯のもとでは、色濃いくまがはっきりと見て取れた。
「それは俺の台詞です……」
「そう言うと思った」
苦笑交じりの言葉に、三崎は自分の中にある罪悪感を見咎められた気がした。
「以前もっとキツイ日程を乗り越えたことがある。それに今回は強力な助っ人もいるからな」
倉澤は肩を壁に預けて腕を組むと、三崎の顔をのぞきこむようにして微笑んだ。彼の言う『強力な助っ人』が自分を指していることに気づき、三崎は赤面する思いでうつむく。
「ところで……倉澤さん、タバコ吸いに行かなくていいんですか」
いたたまれなさから、ひとりにして欲しいことをほのめかすと、「ああ、止めたからな」と、あっさり返された。
「えっ、どうしてまた……」
「好きな相手がタバコ吸わないから」
以前どこかの飲み会で居合わせたとき、倉澤のヘビースモーカーぶりを目の当たりした。それを本当に止めたとしたら、すごいことだと思う。しかも動機が好きな人の為とくると、相手に対する思いの強さも伝わってくるというものだ。
「たしかに、煙とか嫌がられますしね……」
特に嫌煙家の女性は髪に臭いがつくことを気にする。三崎の妹も同様で、大学生の頃は合コンやサークルの飲み会に行く度に、よく文句を言っていたのを思い出した。
「煙というより、味が嫌がられるらしい」
「味?」
隣の倉澤がクスリと笑った。
「そう、キスの味」
倉澤の低い声に、三崎はドキリとする。
「あっ、じゃあ……つまり、禁煙失敗するとすぐバレちゃいますね」
この手の話はあまり得意ではない三崎は、明るく流そうとしたのだが。
「たしかめてみる?」
次の瞬間、影が落ちたと思ったときには唇が触れていた。わずかな隙間から舌がすべりこみ、口内をスルリと撫でられる。
「……んっ……」
甘さの中に、ほんのわずかな苦味が残るキス。
そっと唇をはなされると、倉澤は「先に戻るよ」とだけ言い残してその場を去っていった。
ひとり階段の踊り場に残された三崎は、ワイシャツの袖口で口を押さえたまま、全身硬直したようにその場を動けないでいた。しかし徐々に冷静さを取り戻してくると、今度はジワジワと頬が熱くなっていく。
(うっわ……これキスだよな?)
冗談の延長で、ただの悪ふざけだったのかもしれない。なにしろ寝不足が最高潮に達していて、どんな逸脱した行動を取ってもおかしくない。でも、もしかしたら冗談に見せかけた本気かもしれない。
顔の火照りが落ち着くのを見計らってシステム部の部屋に戻ると、そこには休憩前と寸分変わらぬ光景が広がっていた。倉澤はデバッグ作業のかたわら、部下の相談にのったり指示を出したりと忙しそうに立ち回っている。
「三崎さん、こちら頼めますか」
「あ、はいっ、もちろん……」
テスト班の一人に声をかけられ、気を取り直して作業に戻ることにする。席に着く前にふと周囲に視線を走らせると、一瞬だけ倉澤と目が合った気がした。しかしその視線はすぐに、隣の部下に戻された。
(とにかく今は、作業に集中しなくては)
だが眠気と疲労に加えて、先刻のキスで動揺するあまり注意力が散漫になった三崎は、正誤を確認する単純なテスト作業にもかかわらずミスを連発してしまう。やがてその様子を見かねたサブリーダーから、とうとう帰宅するよう促されてしまった。
「もう俺たちだけで大丈夫ですから、三崎さんは帰って休んでください」
「お疲れです。遅くまですいません、助かりました」
口々に労われ、最後まで手伝えなかった自分の不甲斐なさにかえって恐縮してしまう。しかしこれ以上ここにいてもミスばかりして、逆に迷惑をかけてしまうだろう。
けっきょく三崎は、始発の電車で自宅に帰ることになった。そして自宅に到着するなり、着替えもそこそこ、ぐっすりと泥のように眠った。
眠りにつく直前、ふと『あんなことされなければ、もう少し集中力がもったのに』と階段での出来事を複雑な気持ちで振り返った。そして睡魔に引きずり込まれながら今度は『もしかしたら』と別の考えが浮かんだ。
(もしかしたら俺を帰らせるために、わざとあんなことしたのか)
それ以上はもう何も浮かばず、そのまま意識を手放した。
目が覚めたときには、すでに正午を過ぎていた。メールを確認するため枕元のスマホに手を伸ばすと、倉澤からのメッセージが表示されていた。
『お疲れ様。作業は無事完了した。いろいろ悪かった』
三崎が急いで携帯を掛けると、倉澤はワンコールで出てくれた。
『どうした、何かあったか?』
「いえ、そうではなくて……メッセージ見たんで。あの、悪かったって、どうして……今回皆さんにご迷惑を掛けたのは俺です。倉澤さんにも相当がんばっていただいて、本当に申し訳ないです」
『気にしなくていい、と言ってもお前は気にするんだろうな。それなら前に約束した通りメシに付き合ってくれるか……お前が嫌じゃなければ』
「えっ、嫌じゃないですけど、なんで……」
『不意打ちでキスしただろ』
はっきり言われると、おさまっていた熱がぶり返した。次に続く倉澤の沈黙が、彼の真剣な気持ちを如実に伝えているかのようで、ここで下手にごまかしたら失礼だろう。
「あの、正直驚きました……俺よく分からなくて。でも倉澤さんとの約束は楽しみにしてます」
『……そうか。ありがとう』
ホッとした声音に、三崎の肩の力も抜ける。
『とにかく後のことは鹿島が引き継いでいるし、お前んとこの部長が代休扱いにするって言ってたから、今日はゆっくりするといい』
「あ、でも別件で夕方には出社しなくちゃならないんで」
『そうか……でも無理するなよ』
「はい……お疲れ様です」
今度は一方的に切られなかったが、甘く響く低い声の余韻が三崎の耳に残り、しばらく取れそうになかった。
結局その後は目が冴えてしまって寝付けず、あきらめて少し早めだが家を出ることにした。
「あれ、なんで来てんの。倉澤さんから、代休取っていいって部長の伝言聞かなかった?」
出社してデスクに着くなり、隣の鹿島が不思議そうに声をかけてくる。
「いや、聞いたけど別件があってな。ほらルミナスの修正の件。来週のアポだけでも取っておこうと思って」
「あー、あれか。向こうの担当者もかわいそうだよなあ。上からの指示で動いてるだけって感じだし」
ルミナスは古くから付き合いのある会社にも関わらず、顧客の中でもやりにくさは群を抜いている。前任者が地方転勤になったため三崎が引き継いだのだが、周囲からはとんだ貧乏くじを引いたものだと同情の目を向けられていた。
「あそこの専務だっけ? すごく面倒なタイプだって聞いてるけど、今回も絡んでるの?」
「ああ、例に漏れず」
顔をしかめる鹿島を横目に、三崎は小さくため息をついて席を立つ。
「その前にシステム部に顔出してくる」
今回の作業に参加したメンバーには後日改めて礼を言うとして、倉澤の上席に先に礼を言っておくべきだろう。営業部のある階の二つ下の階にあるシステム部をのぞくと、いつもより人の少ない部屋の奥に倉澤の姿を見つけて心臓が跳ね上がった。
倉澤は椅子の背にもたれ、気だるい表情でコーヒーのタンブラーを口に運びながら、片手でカタカタとキーを操作している。だが出入り口で所在なさげに立つ三崎に気づくと、組んでいた足を解いて体を起こした。
「来ると思った」
「……とっくに帰ったと思ってました」
倉澤は再び足を組むと、肘掛けに頬杖をついて視線をそらし、どこか困ったような微笑を浮かべた。
「うん、そのつもりだった。でもお前が来るんじゃないかと思ったら、なんとなく」
そこで倉澤は言葉を切ると、小さく首を振った。
手作りと言われ、メンバー全員に向けての差し入れと勘違いした自分はどうかしていた、と三崎はまず自分自身の早とちりにあきれた。
「倉澤さんには、今度埋め合わせに昼メシでも誘いますよ」
「三崎さんってば、私の言ってる意味ホントにわかってます?」
「無理だよ江藤さん。コイツ、こういう事に気が回らない方だから」
分かったような口をきく鹿島をにらみつける。常日頃から一言多いが、この日も例外に漏れず余計な事を言う。
「だってお前、彼女いただろ」
「えっ、そうなんですか?」
「おい、そんなこと職場で話すことじゃないだろ」
「あ、でも少し前に別れたんだっけ」
「鹿島、お前いい加減にしろよ……」
逃げ足だけは早い男の背中を見送っていたら、隣の江藤が恐縮した様子で口を開いた。
「すいません、お仕事中に余計なことをベラベラと話しこんじゃって」
「江藤さんがあやまることじゃないですよ」
首を振る三崎に、江藤は何度も頭を下げながら自分の部署へと戻っていった。
三崎はようやく自席に着くと、PCでプロジェクトの進行表を確認しながらため息をついた。
(納品日まで二週間切ったか……)
ここからいかに、デバッグも含めたシステムの作業時間を捻出するかが勝負となる。実際の成果物をパッケージ化して納品日を迎えるまで、どの工程の時間短縮が可能か……常に進行具合に目を配ってないと、バランスを失って足元から崩れ落ちそうだ。三崎は各工程をもう一度、入念にチェックすることにした。
問題は納品日まであと2日というタイミングで発生した。
「すいません三崎さん、こっちのチェック項目もお願いできますか」
倉澤のチームのひとりが風邪でダウンした。最後の追い込みでひとりでも欠けると、状況は一気に厳しくなってしまう。昨日からメンバー総出で徹夜の作業をしていると聞きつけ、他部署の三崎もテスト作業の手伝いを申し出ると大歓迎された。
時刻はすでに夜の10時を回っていた。明日の正午までにテストも含めた全ての作業を完了させないと、期日に間に合わない。
ふと顔を上げると、モニター越しにメンバーのひとりに指示を出している倉澤の姿が目に入った。昨日から寝てないのに、その表情に疲れは見られない。おそらくこの一週間、ほぼ不眠不休で働いていたはずだ。周囲の人間が疲弊している中で、あの体力と気力を保てるとは舌を巻く。
真夜中を過ぎ、ひとつの山場を越えると、誰とも言わずパラパラと短い休憩に入り始めた。
「お前も少し休んでこい」
倉澤の声にハッと顔を上げると、いつの間にか部屋の中で二人きりになっていた。
「倉澤さんは?」
「もう少ししたら俺も休憩入るよ」
「そうですか。ではお先に……」
倉澤のキーを打つ音を背中で聞きながら部屋を出ると、自販機を目指して薄暗い廊下を歩き出す。途中で喫煙室を横切ると、ガラス戸越しに数人のシステムメンバーが、カウンターに寄りかかって一服する姿が見えた。皆の疲れた様子に、改めて厳しい日程を強要してしまったと、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
自販機で冷たい緑茶のペットボトルを購入し、ひとくち口に含むと、少しばかり疲れがやわらぐ気がした。そのまま座る場所を求め、エレベーター横の階段へと足を向ける。窓のないその空間は、ひんやりとした空気で満ちていて、踊り場の壁に寄りかかると背中が冷たくて心地良かった。
「ここにいたのか」
水のボトルを手に現れた倉澤の声が、吹き抜けの天井の下で静かに響いた。
「気持ちいいな、ここ」
「部屋の中は結構暑いですよね」
三崎に倣って壁に寄りかかった倉澤は、開けたばかりのボトルを一気に半分ほど飲み干した。
「……無理させて悪いな」
まるで自分の心の内に共鳴するかのような言葉に、三崎は驚いて隣の倉澤を見上げる。その端正な横顔は、青白い蛍光灯のもとでは、色濃いくまがはっきりと見て取れた。
「それは俺の台詞です……」
「そう言うと思った」
苦笑交じりの言葉に、三崎は自分の中にある罪悪感を見咎められた気がした。
「以前もっとキツイ日程を乗り越えたことがある。それに今回は強力な助っ人もいるからな」
倉澤は肩を壁に預けて腕を組むと、三崎の顔をのぞきこむようにして微笑んだ。彼の言う『強力な助っ人』が自分を指していることに気づき、三崎は赤面する思いでうつむく。
「ところで……倉澤さん、タバコ吸いに行かなくていいんですか」
いたたまれなさから、ひとりにして欲しいことをほのめかすと、「ああ、止めたからな」と、あっさり返された。
「えっ、どうしてまた……」
「好きな相手がタバコ吸わないから」
以前どこかの飲み会で居合わせたとき、倉澤のヘビースモーカーぶりを目の当たりした。それを本当に止めたとしたら、すごいことだと思う。しかも動機が好きな人の為とくると、相手に対する思いの強さも伝わってくるというものだ。
「たしかに、煙とか嫌がられますしね……」
特に嫌煙家の女性は髪に臭いがつくことを気にする。三崎の妹も同様で、大学生の頃は合コンやサークルの飲み会に行く度に、よく文句を言っていたのを思い出した。
「煙というより、味が嫌がられるらしい」
「味?」
隣の倉澤がクスリと笑った。
「そう、キスの味」
倉澤の低い声に、三崎はドキリとする。
「あっ、じゃあ……つまり、禁煙失敗するとすぐバレちゃいますね」
この手の話はあまり得意ではない三崎は、明るく流そうとしたのだが。
「たしかめてみる?」
次の瞬間、影が落ちたと思ったときには唇が触れていた。わずかな隙間から舌がすべりこみ、口内をスルリと撫でられる。
「……んっ……」
甘さの中に、ほんのわずかな苦味が残るキス。
そっと唇をはなされると、倉澤は「先に戻るよ」とだけ言い残してその場を去っていった。
ひとり階段の踊り場に残された三崎は、ワイシャツの袖口で口を押さえたまま、全身硬直したようにその場を動けないでいた。しかし徐々に冷静さを取り戻してくると、今度はジワジワと頬が熱くなっていく。
(うっわ……これキスだよな?)
冗談の延長で、ただの悪ふざけだったのかもしれない。なにしろ寝不足が最高潮に達していて、どんな逸脱した行動を取ってもおかしくない。でも、もしかしたら冗談に見せかけた本気かもしれない。
顔の火照りが落ち着くのを見計らってシステム部の部屋に戻ると、そこには休憩前と寸分変わらぬ光景が広がっていた。倉澤はデバッグ作業のかたわら、部下の相談にのったり指示を出したりと忙しそうに立ち回っている。
「三崎さん、こちら頼めますか」
「あ、はいっ、もちろん……」
テスト班の一人に声をかけられ、気を取り直して作業に戻ることにする。席に着く前にふと周囲に視線を走らせると、一瞬だけ倉澤と目が合った気がした。しかしその視線はすぐに、隣の部下に戻された。
(とにかく今は、作業に集中しなくては)
だが眠気と疲労に加えて、先刻のキスで動揺するあまり注意力が散漫になった三崎は、正誤を確認する単純なテスト作業にもかかわらずミスを連発してしまう。やがてその様子を見かねたサブリーダーから、とうとう帰宅するよう促されてしまった。
「もう俺たちだけで大丈夫ですから、三崎さんは帰って休んでください」
「お疲れです。遅くまですいません、助かりました」
口々に労われ、最後まで手伝えなかった自分の不甲斐なさにかえって恐縮してしまう。しかしこれ以上ここにいてもミスばかりして、逆に迷惑をかけてしまうだろう。
けっきょく三崎は、始発の電車で自宅に帰ることになった。そして自宅に到着するなり、着替えもそこそこ、ぐっすりと泥のように眠った。
眠りにつく直前、ふと『あんなことされなければ、もう少し集中力がもったのに』と階段での出来事を複雑な気持ちで振り返った。そして睡魔に引きずり込まれながら今度は『もしかしたら』と別の考えが浮かんだ。
(もしかしたら俺を帰らせるために、わざとあんなことしたのか)
それ以上はもう何も浮かばず、そのまま意識を手放した。
目が覚めたときには、すでに正午を過ぎていた。メールを確認するため枕元のスマホに手を伸ばすと、倉澤からのメッセージが表示されていた。
『お疲れ様。作業は無事完了した。いろいろ悪かった』
三崎が急いで携帯を掛けると、倉澤はワンコールで出てくれた。
『どうした、何かあったか?』
「いえ、そうではなくて……メッセージ見たんで。あの、悪かったって、どうして……今回皆さんにご迷惑を掛けたのは俺です。倉澤さんにも相当がんばっていただいて、本当に申し訳ないです」
『気にしなくていい、と言ってもお前は気にするんだろうな。それなら前に約束した通りメシに付き合ってくれるか……お前が嫌じゃなければ』
「えっ、嫌じゃないですけど、なんで……」
『不意打ちでキスしただろ』
はっきり言われると、おさまっていた熱がぶり返した。次に続く倉澤の沈黙が、彼の真剣な気持ちを如実に伝えているかのようで、ここで下手にごまかしたら失礼だろう。
「あの、正直驚きました……俺よく分からなくて。でも倉澤さんとの約束は楽しみにしてます」
『……そうか。ありがとう』
ホッとした声音に、三崎の肩の力も抜ける。
『とにかく後のことは鹿島が引き継いでいるし、お前んとこの部長が代休扱いにするって言ってたから、今日はゆっくりするといい』
「あ、でも別件で夕方には出社しなくちゃならないんで」
『そうか……でも無理するなよ』
「はい……お疲れ様です」
今度は一方的に切られなかったが、甘く響く低い声の余韻が三崎の耳に残り、しばらく取れそうになかった。
結局その後は目が冴えてしまって寝付けず、あきらめて少し早めだが家を出ることにした。
「あれ、なんで来てんの。倉澤さんから、代休取っていいって部長の伝言聞かなかった?」
出社してデスクに着くなり、隣の鹿島が不思議そうに声をかけてくる。
「いや、聞いたけど別件があってな。ほらルミナスの修正の件。来週のアポだけでも取っておこうと思って」
「あー、あれか。向こうの担当者もかわいそうだよなあ。上からの指示で動いてるだけって感じだし」
ルミナスは古くから付き合いのある会社にも関わらず、顧客の中でもやりにくさは群を抜いている。前任者が地方転勤になったため三崎が引き継いだのだが、周囲からはとんだ貧乏くじを引いたものだと同情の目を向けられていた。
「あそこの専務だっけ? すごく面倒なタイプだって聞いてるけど、今回も絡んでるの?」
「ああ、例に漏れず」
顔をしかめる鹿島を横目に、三崎は小さくため息をついて席を立つ。
「その前にシステム部に顔出してくる」
今回の作業に参加したメンバーには後日改めて礼を言うとして、倉澤の上席に先に礼を言っておくべきだろう。営業部のある階の二つ下の階にあるシステム部をのぞくと、いつもより人の少ない部屋の奥に倉澤の姿を見つけて心臓が跳ね上がった。
倉澤は椅子の背にもたれ、気だるい表情でコーヒーのタンブラーを口に運びながら、片手でカタカタとキーを操作している。だが出入り口で所在なさげに立つ三崎に気づくと、組んでいた足を解いて体を起こした。
「来ると思った」
「……とっくに帰ったと思ってました」
倉澤は再び足を組むと、肘掛けに頬杖をついて視線をそらし、どこか困ったような微笑を浮かべた。
「うん、そのつもりだった。でもお前が来るんじゃないかと思ったら、なんとなく」
そこで倉澤は言葉を切ると、小さく首を振った。
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