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第二部
6.思いどおりにならないこと
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俺の出勤日は月水金の三日間で、しかも時短というありがたい待遇だ。
(なのに、わざわざ出勤日に頭痛とか……しかも金曜日だって、痛かったのに)
週明けの月曜日。すでに朝から頭が重く、偏頭痛の予兆があった。
(そういえば、午後から雨とか言ってたな)
もちろん傘も薬も用意してある。特に薬については、医者の処方薬と市販薬の二種類と万全の体勢だ。金曜日の失態から学んだ俺は、痛み出したら会議中だろうと何だろうと、抜け出して薬を飲むつもりだ。つもりだったけど……いざ切りだそうとすると、なかなか勇気がいる。
「それで太田くんと千野くん、このフェーズのテスト期間だけど、少し多めに取れないかな?」
会議室での打ち合わせ中、営業の片瀬さんが遠慮がちに切りだしてきたので、俺は気を引きしめて話に集中する。隣では太田さんが、タブレットを手に眉をひそめていた。
「この日程、無理あると思うんすけど」
「え、駄目かなあ……たとえば、この日の夜とか、なんとか追加で入れられない?」
画面越しに片瀬さんが、予定表の空き時間を指し示す。すると俺が口を開く前に、太田さんが先に話しはじめた。
「その時間帯は千野さん不在なんで、効率悪いっすよ。それに俺も、別の作業があるんで」
「そこをなんとか! この次の日、先方に進捗報告しがてら、画面を見せるって約束しちゃったんだよねー」
「ちょっと……こっちに断りもなく、そんな約束しないでくださいよ」
「いやあ、向こうの担当者も、すっごく楽しみにしてるんだよね。それで是非ともって言われて」
向こうの担当者は、たしか元エンジニアだったとか聞いた。楽しみというよりも、遅れが無いかのチェックだろう。度重なる仕様変更は先方からの要望だが、納期を後ろに倒せないので、こちらもつらいが先方も不安に違いない。
太田さんもその点をよく理解していて、嫌そうに首を振った。
「元エンジニアの担当者が動作確認するとか、余計ハードルが上がってんじゃないっすか」
「太田くんとこのチームなら、きっと大丈夫だって。ただ念のため、追加のテストの時間を設けたほうがいいと思って、ね?」
「……先方との打ち合わせ、来週に伸ばせないんすか?」
片瀬さんは申し訳なさそうに、だがキッパリと首を横に振った。太田さんはがっくりと肩を落としつつ、隣で黙って聞いていた俺に視線をよこした。
「しかたない……千野さん、この日の夜リモートで参加できそうですか?」
太田さんは一見無愛想だが、いつも俺の勤務時間を尊重してくれてて、時間外に仕事で拘束しないよう気を配ってくれる。
逆に人当たりの良い片瀬さんは、悪い人ではないけど、顧客の要望に負けてけっこう無茶な予定をねじこもうとするから注意が必要だ。
「はい、あまり遅くならないなら、かまいません」
「そっかー! 助かるよ~、ね、太田くん?」
「片瀬さんは、海より深く反省してください」
「ははは、本当無理言ってごめんね。差し入れ持ってくから。あ、千野くんのぶんは、ちゃんと出社したときに渡すよ!」
「どうぞ、おかまいなく」
ちょうど話がまとまったそのとき、会議室のドアがノックされ、ややあって遠慮がちに開かれた。
「あ、次の会議の時間ですか。すいません!」
「じゃあ続きは、うちのデスクでしますか」
俺たち三人は、それぞれのタブレットやノートを持って席を立った。
(これは……薬を飲むチャンスじゃね?)
俺は思いきって、扉へ向かう太田さんに後ろから声をかけた。
「俺、トイレに寄ってからいきますので、お二人とも先にデスクへ戻ってもらっててもいいですか」
太田さんは一瞬足を止め、俺の顔をジッと見つめた。そして「あ、そうだ」と、急になにか思い出したように口を開いた。
「別件で片瀬さんに話があったんだ……千野さん、打ち合わせの続きは、その後でもいいですか?」
「え? はい、それは、もちろん……」
「じゃ、三十分後に」
太田さんがそう提案した瞬間、俺はハッと気づいた。
(わざわざ三十分、休む時間をくれたんだ)
きっと、俺の体調不良を察したのだろう。ふと金曜日の夜に、トイレで鉢合わせたときのことを思い出した。
「……ありがとうございます」
俺は、太田さんに耳打ちするようにそっとお礼を告げた。すると太田さんは、めずらしく一瞬フワリと口元をゆるませた。
ちょうどそのとき、俺たちと入れかわりに、次の会議の出席者たちが部屋に入ってきた。その中には、相川さんの姿もあった。
相川さんは、なんとも言えない表情で、俺と太田さんを見ていた。なにかに驚いたような、ショックを受けたような……俺はただ、太田さんにお礼を言っただけなのに。
そのときふと、金森さんに言われた言葉が頭をよぎった。
『相川さんの一方通行なんですよ』
相川さんの、太田さんに対する好意は、俺と津和の間にあるものと同じ種類かわからない。しかしあの相川さんですら報われない気持ちもあるのだと、あらためて気づかされた。
どんなに完璧そうに見える奴でも、必ずしも報われるとはかぎらない。そして報われなくても、あきらめられない場合もある。
俺も、津和みたいな完璧な男は、その気になれば大抵のものは望みどおり手に入れられると、勝手に思いこんでいた節がある。
(そんなわけ、あるかよ)
コンプレックスなんてなさそうな容姿に恵まれ、アメリカ帰りの華やかな経歴を持ち、仕事も出来る男で……だから俺みたいに、いちいち悩んだり葛藤したり、そういう負の要素には無縁だろうと勝手に思っていた。
(今日は、はやく帰って夕飯作ろ……)
トイレでこっそり薬を飲んだ俺は、そっと廊下に出ると非常階段へと向かった。腰を下ろした階段は、ジーンズ越しにも冷たかったが、掃除がいきとどいていて埃っぽくもなく安心して休める。
ついこの間まで非常階段の掃除していた俺は、使う立場になってあらためて気づく。綺麗なのは誰かが掃除をしているからだと。当たり前のはずなのに、こんな単純なことですら気づけないときもある。
(津和だって完璧に見えるけど、これまで生きてきて、苦労話の一つや二つあるはずだし、今だって何かに悩んだり困ったりしてるかも……ただ、それを人に見せないだけで)
たとえば俺が夕食を作って『仕事お疲れ様、たまにはゆっくり休めよ』とか言ったらどうだろう。少しはあの完璧な男の仮面を外して、リラックスしてくれるかもしれない。
俺はかっこいい津和ばかりじゃなくて、もっと素に近い表情も見てみたいと思った。
(なのに、わざわざ出勤日に頭痛とか……しかも金曜日だって、痛かったのに)
週明けの月曜日。すでに朝から頭が重く、偏頭痛の予兆があった。
(そういえば、午後から雨とか言ってたな)
もちろん傘も薬も用意してある。特に薬については、医者の処方薬と市販薬の二種類と万全の体勢だ。金曜日の失態から学んだ俺は、痛み出したら会議中だろうと何だろうと、抜け出して薬を飲むつもりだ。つもりだったけど……いざ切りだそうとすると、なかなか勇気がいる。
「それで太田くんと千野くん、このフェーズのテスト期間だけど、少し多めに取れないかな?」
会議室での打ち合わせ中、営業の片瀬さんが遠慮がちに切りだしてきたので、俺は気を引きしめて話に集中する。隣では太田さんが、タブレットを手に眉をひそめていた。
「この日程、無理あると思うんすけど」
「え、駄目かなあ……たとえば、この日の夜とか、なんとか追加で入れられない?」
画面越しに片瀬さんが、予定表の空き時間を指し示す。すると俺が口を開く前に、太田さんが先に話しはじめた。
「その時間帯は千野さん不在なんで、効率悪いっすよ。それに俺も、別の作業があるんで」
「そこをなんとか! この次の日、先方に進捗報告しがてら、画面を見せるって約束しちゃったんだよねー」
「ちょっと……こっちに断りもなく、そんな約束しないでくださいよ」
「いやあ、向こうの担当者も、すっごく楽しみにしてるんだよね。それで是非ともって言われて」
向こうの担当者は、たしか元エンジニアだったとか聞いた。楽しみというよりも、遅れが無いかのチェックだろう。度重なる仕様変更は先方からの要望だが、納期を後ろに倒せないので、こちらもつらいが先方も不安に違いない。
太田さんもその点をよく理解していて、嫌そうに首を振った。
「元エンジニアの担当者が動作確認するとか、余計ハードルが上がってんじゃないっすか」
「太田くんとこのチームなら、きっと大丈夫だって。ただ念のため、追加のテストの時間を設けたほうがいいと思って、ね?」
「……先方との打ち合わせ、来週に伸ばせないんすか?」
片瀬さんは申し訳なさそうに、だがキッパリと首を横に振った。太田さんはがっくりと肩を落としつつ、隣で黙って聞いていた俺に視線をよこした。
「しかたない……千野さん、この日の夜リモートで参加できそうですか?」
太田さんは一見無愛想だが、いつも俺の勤務時間を尊重してくれてて、時間外に仕事で拘束しないよう気を配ってくれる。
逆に人当たりの良い片瀬さんは、悪い人ではないけど、顧客の要望に負けてけっこう無茶な予定をねじこもうとするから注意が必要だ。
「はい、あまり遅くならないなら、かまいません」
「そっかー! 助かるよ~、ね、太田くん?」
「片瀬さんは、海より深く反省してください」
「ははは、本当無理言ってごめんね。差し入れ持ってくから。あ、千野くんのぶんは、ちゃんと出社したときに渡すよ!」
「どうぞ、おかまいなく」
ちょうど話がまとまったそのとき、会議室のドアがノックされ、ややあって遠慮がちに開かれた。
「あ、次の会議の時間ですか。すいません!」
「じゃあ続きは、うちのデスクでしますか」
俺たち三人は、それぞれのタブレットやノートを持って席を立った。
(これは……薬を飲むチャンスじゃね?)
俺は思いきって、扉へ向かう太田さんに後ろから声をかけた。
「俺、トイレに寄ってからいきますので、お二人とも先にデスクへ戻ってもらっててもいいですか」
太田さんは一瞬足を止め、俺の顔をジッと見つめた。そして「あ、そうだ」と、急になにか思い出したように口を開いた。
「別件で片瀬さんに話があったんだ……千野さん、打ち合わせの続きは、その後でもいいですか?」
「え? はい、それは、もちろん……」
「じゃ、三十分後に」
太田さんがそう提案した瞬間、俺はハッと気づいた。
(わざわざ三十分、休む時間をくれたんだ)
きっと、俺の体調不良を察したのだろう。ふと金曜日の夜に、トイレで鉢合わせたときのことを思い出した。
「……ありがとうございます」
俺は、太田さんに耳打ちするようにそっとお礼を告げた。すると太田さんは、めずらしく一瞬フワリと口元をゆるませた。
ちょうどそのとき、俺たちと入れかわりに、次の会議の出席者たちが部屋に入ってきた。その中には、相川さんの姿もあった。
相川さんは、なんとも言えない表情で、俺と太田さんを見ていた。なにかに驚いたような、ショックを受けたような……俺はただ、太田さんにお礼を言っただけなのに。
そのときふと、金森さんに言われた言葉が頭をよぎった。
『相川さんの一方通行なんですよ』
相川さんの、太田さんに対する好意は、俺と津和の間にあるものと同じ種類かわからない。しかしあの相川さんですら報われない気持ちもあるのだと、あらためて気づかされた。
どんなに完璧そうに見える奴でも、必ずしも報われるとはかぎらない。そして報われなくても、あきらめられない場合もある。
俺も、津和みたいな完璧な男は、その気になれば大抵のものは望みどおり手に入れられると、勝手に思いこんでいた節がある。
(そんなわけ、あるかよ)
コンプレックスなんてなさそうな容姿に恵まれ、アメリカ帰りの華やかな経歴を持ち、仕事も出来る男で……だから俺みたいに、いちいち悩んだり葛藤したり、そういう負の要素には無縁だろうと勝手に思っていた。
(今日は、はやく帰って夕飯作ろ……)
トイレでこっそり薬を飲んだ俺は、そっと廊下に出ると非常階段へと向かった。腰を下ろした階段は、ジーンズ越しにも冷たかったが、掃除がいきとどいていて埃っぽくもなく安心して休める。
ついこの間まで非常階段の掃除していた俺は、使う立場になってあらためて気づく。綺麗なのは誰かが掃除をしているからだと。当たり前のはずなのに、こんな単純なことですら気づけないときもある。
(津和だって完璧に見えるけど、これまで生きてきて、苦労話の一つや二つあるはずだし、今だって何かに悩んだり困ったりしてるかも……ただ、それを人に見せないだけで)
たとえば俺が夕食を作って『仕事お疲れ様、たまにはゆっくり休めよ』とか言ったらどうだろう。少しはあの完璧な男の仮面を外して、リラックスしてくれるかもしれない。
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