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第一部
11. 新規の仕事とバイトの両立
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津和は、いつの間にか朝食を平らげたらしく、話は終わりとばかり席を立つと、鞄と上着を手に玄関へ向かう。
(え、冗談? それとも本気でパン焼くの?)
仮にも雇用主に、朝食のパン焼かすばかりか、材料を買いに行かせるのってどうだろう。
「おい、ちょっと……」
俺が玄関まで追いかけると、津和はちょうど革靴を履き終えたところだった。
「いってきます」
「お、おう……いってらっしゃい……」
「もし何か食べたいものがあれば、帰りに買ってくるから、遠慮なくメールでもなんでもして」
「ああ、分かった……けど、俺は別に」
むぎゅ、と鼻をつままれて、俺は驚いて目を見開いた。
「遠慮しない。好きなものあったら教えて。しばらく一緒にいるんだから、食の好みをお互い知っておいたほうが、ストレスたまらなくていいだろ?」
たしかに津和の言うとおりだ。だが俺は、これまで食べ方が不規則でめちゃくちゃで、楽しんで食べるなんて本当に長いこと味わってなくて……好みなんて聞かれても困る。
それに今日は、夜にビル清掃のバイトがある。早く帰れても、夜の十一時を過ぎるだろう。
「俺バイトあるから、夕飯いらないよ」
「そっか。じゃあ出掛ける前に、なにか腹に入れたほうがいいよ。この家にあるものなら、何でも食べていいからね」
「ああ、悪いな」
「何が悪いの。ここで暮らすなら、もっと自由にリラックスして。自然にしてないと『お試し』で暮らしている意味がないだろ……じゃあね」
こうして津和が出かけてしまい、一人マンションに残された俺は、ソファーの上で胡座をかきながら腕組みをする。
(たしかに、せっかくお試しで暮らすなら、もっと普段通りにしてるべきだよな)
だが何年も一人暮らしで、勝手気ままな生活を送ってきた身としては、誰かに気づかわれることに慣れてない。津和の気づかいに戸惑うばかりで、自分自身扱いにくい奴だという自覚はある。
誰かが何かをしてくれるなんて、これっぽっちも期待しない癖がついてしまってて、些細なことすら、自分の望みを誰かに伝えることが難しくなっていた。
その日の午後、俺は都内の電気街へ向かった。
(ホームベーカリー、アメリカ製だもんなぁ)
まずプラグが違う。電圧は日本の方が低いから問題ないと思うが、一応変圧器があったほうが安全だろう。
どの量販店に行こうかとスマホを手に取ると、着信が入っていることに気づいた。先日納品した委託元の社長だったので、何か問題があったのかと、急いでコールバックする。
「……もしもし松永? 俺、千野だけど」
『おう、やっと繋がったか。今どこにいるんだ? 外にいるみたいだけど、話しちゃまずい場所か』
「いや、電車降りたばかりだから平気」
通話の相手は、得意先のクライアントだが大学時代の友人でもあるため、自然と口調も態度も砕けたものになる。
『そりゃよかったわ。週末アパートに寄ったけど、いなかったからさ』
「あーわりぃ……出かけてたんだ」
『いや、アポなしだったから気にすんな。納品終わった後だったし、お前週末は大抵引きこもっているだろ。だからてっきりいるかと思っただけ』
松永の言うとおり、ふだんならよほどの事がない限り、納品後はバイト以外で外出することは無い。というのも、納期前はなんだかんだと追いこみをするため、終わった後は疲労困憊で、出かける気すら起きないのだ。
それに俺は、そもそも人の多い場所や電車に乗るのが苦手だ。会社を辞めた原因の偏頭痛も、医者には長時間労働による過労と診断されたが、引き金は通勤時の満員電車だったと思う。
「それで、何か急用でもあった?」
『急用ってほどじゃないけど、来月に一つ頼みたい案件があってさ。俺んとこの会社じゃなくて、知り合いの会社のなんだけど。できれば今週中どこかのタイミングで、先方と一度顔合わせをセッティングしたいと思って』
「ホントか! もちろん、俺はご存じのとおり夜のバイト時間以外なら、いつでも都合つくから頼むよ」
『そういやお前、たしか平日は夜にバイト入れてたっけ。それならランチの方がいっかな』
「おう」
『よし、じゃあ日時が決まったらメッセージ入れとくわ』
通話を切って、俺はうれしさにグッとこぶしを握った。新規のクライアントはありがたい。もう少し仕事が増えれば、夜のバイトを減らすことも可能だ。
(やっぱ週五で夜のバイトは、キツイからな)
あらためて夜の清掃バイトに負担を感じている自分に気づかされる。
会社員時代もだが、不規則な生活は相変わらず変わっていない。仕事を辞めてバイトを始めた当初は、それでも日付をまたぐ前に帰宅できることだけで満足したものだったが。
(やっぱり、津和のバイトを引き受けたほうがいいのかな……)
そうすれば、今のバイトを完全に辞めることが可能だ。夜に帰宅ラッシュで混雑する電車や駅を歩かなくて済むし、夕食もしかるべき時間にとることだってできる。
バイト前に夕食を取ると、人ごみに酔った時に気持ち悪くなるため、どうしても夜遅く帰宅してから食べるしかない。しかも日付が変わる前に口にする夕食は、疲れていることもあって面倒で、どうしてもいい加減になってしまうのが現状だ。
(そういや最近は、バイト帰ってきても、あんまり飯食ってなかったな。いつからだ……やべえ、どおりで体力が落ちるわけだ。これ以上体力落ちたら、掃除もできなくなっちまう)
できれば在宅ワークだけで食べていきたい。会社を辞めたとき、それが最終目標だった覚えがある。だけど現実は厳しくて、フリーのプログラマーでは食っていけずにいる。
それでバイトをはじめて、もう二年以上経つ。三十を手前にして、このままでいいのかと自問自答を続けるうちに、慢性的な悩みとなって悪夢を見ることも多くなった。
悪夢の中の俺は、今と同じアパートにたった一人で住んでいる。そして今の倍は年を取っていて、体が思うように動かせない。部屋の中は変わってないのに、自分だけが年を取って変化している……そんな情けなくも、恐ろしい未来の光景だ。
(え、冗談? それとも本気でパン焼くの?)
仮にも雇用主に、朝食のパン焼かすばかりか、材料を買いに行かせるのってどうだろう。
「おい、ちょっと……」
俺が玄関まで追いかけると、津和はちょうど革靴を履き終えたところだった。
「いってきます」
「お、おう……いってらっしゃい……」
「もし何か食べたいものがあれば、帰りに買ってくるから、遠慮なくメールでもなんでもして」
「ああ、分かった……けど、俺は別に」
むぎゅ、と鼻をつままれて、俺は驚いて目を見開いた。
「遠慮しない。好きなものあったら教えて。しばらく一緒にいるんだから、食の好みをお互い知っておいたほうが、ストレスたまらなくていいだろ?」
たしかに津和の言うとおりだ。だが俺は、これまで食べ方が不規則でめちゃくちゃで、楽しんで食べるなんて本当に長いこと味わってなくて……好みなんて聞かれても困る。
それに今日は、夜にビル清掃のバイトがある。早く帰れても、夜の十一時を過ぎるだろう。
「俺バイトあるから、夕飯いらないよ」
「そっか。じゃあ出掛ける前に、なにか腹に入れたほうがいいよ。この家にあるものなら、何でも食べていいからね」
「ああ、悪いな」
「何が悪いの。ここで暮らすなら、もっと自由にリラックスして。自然にしてないと『お試し』で暮らしている意味がないだろ……じゃあね」
こうして津和が出かけてしまい、一人マンションに残された俺は、ソファーの上で胡座をかきながら腕組みをする。
(たしかに、せっかくお試しで暮らすなら、もっと普段通りにしてるべきだよな)
だが何年も一人暮らしで、勝手気ままな生活を送ってきた身としては、誰かに気づかわれることに慣れてない。津和の気づかいに戸惑うばかりで、自分自身扱いにくい奴だという自覚はある。
誰かが何かをしてくれるなんて、これっぽっちも期待しない癖がついてしまってて、些細なことすら、自分の望みを誰かに伝えることが難しくなっていた。
その日の午後、俺は都内の電気街へ向かった。
(ホームベーカリー、アメリカ製だもんなぁ)
まずプラグが違う。電圧は日本の方が低いから問題ないと思うが、一応変圧器があったほうが安全だろう。
どの量販店に行こうかとスマホを手に取ると、着信が入っていることに気づいた。先日納品した委託元の社長だったので、何か問題があったのかと、急いでコールバックする。
「……もしもし松永? 俺、千野だけど」
『おう、やっと繋がったか。今どこにいるんだ? 外にいるみたいだけど、話しちゃまずい場所か』
「いや、電車降りたばかりだから平気」
通話の相手は、得意先のクライアントだが大学時代の友人でもあるため、自然と口調も態度も砕けたものになる。
『そりゃよかったわ。週末アパートに寄ったけど、いなかったからさ』
「あーわりぃ……出かけてたんだ」
『いや、アポなしだったから気にすんな。納品終わった後だったし、お前週末は大抵引きこもっているだろ。だからてっきりいるかと思っただけ』
松永の言うとおり、ふだんならよほどの事がない限り、納品後はバイト以外で外出することは無い。というのも、納期前はなんだかんだと追いこみをするため、終わった後は疲労困憊で、出かける気すら起きないのだ。
それに俺は、そもそも人の多い場所や電車に乗るのが苦手だ。会社を辞めた原因の偏頭痛も、医者には長時間労働による過労と診断されたが、引き金は通勤時の満員電車だったと思う。
「それで、何か急用でもあった?」
『急用ってほどじゃないけど、来月に一つ頼みたい案件があってさ。俺んとこの会社じゃなくて、知り合いの会社のなんだけど。できれば今週中どこかのタイミングで、先方と一度顔合わせをセッティングしたいと思って』
「ホントか! もちろん、俺はご存じのとおり夜のバイト時間以外なら、いつでも都合つくから頼むよ」
『そういやお前、たしか平日は夜にバイト入れてたっけ。それならランチの方がいっかな』
「おう」
『よし、じゃあ日時が決まったらメッセージ入れとくわ』
通話を切って、俺はうれしさにグッとこぶしを握った。新規のクライアントはありがたい。もう少し仕事が増えれば、夜のバイトを減らすことも可能だ。
(やっぱ週五で夜のバイトは、キツイからな)
あらためて夜の清掃バイトに負担を感じている自分に気づかされる。
会社員時代もだが、不規則な生活は相変わらず変わっていない。仕事を辞めてバイトを始めた当初は、それでも日付をまたぐ前に帰宅できることだけで満足したものだったが。
(やっぱり、津和のバイトを引き受けたほうがいいのかな……)
そうすれば、今のバイトを完全に辞めることが可能だ。夜に帰宅ラッシュで混雑する電車や駅を歩かなくて済むし、夕食もしかるべき時間にとることだってできる。
バイト前に夕食を取ると、人ごみに酔った時に気持ち悪くなるため、どうしても夜遅く帰宅してから食べるしかない。しかも日付が変わる前に口にする夕食は、疲れていることもあって面倒で、どうしてもいい加減になってしまうのが現状だ。
(そういや最近は、バイト帰ってきても、あんまり飯食ってなかったな。いつからだ……やべえ、どおりで体力が落ちるわけだ。これ以上体力落ちたら、掃除もできなくなっちまう)
できれば在宅ワークだけで食べていきたい。会社を辞めたとき、それが最終目標だった覚えがある。だけど現実は厳しくて、フリーのプログラマーでは食っていけずにいる。
それでバイトをはじめて、もう二年以上経つ。三十を手前にして、このままでいいのかと自問自答を続けるうちに、慢性的な悩みとなって悪夢を見ることも多くなった。
悪夢の中の俺は、今と同じアパートにたった一人で住んでいる。そして今の倍は年を取っていて、体が思うように動かせない。部屋の中は変わってないのに、自分だけが年を取って変化している……そんな情けなくも、恐ろしい未来の光景だ。
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