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第一部

1.常備薬を忘れた夜

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 その日、俺こと千野敬二郎せんのけいじろうは朝から気分が優れなかった。
(低気圧が接近中、か……なら仕方ないな)
 スマホの天気予報アプリを閉じると、親指で右のこめかみを揉み込むように数度押した。作業服の背中を預けたコンクリートの壁はひんやりと冷たく、体内の熱をわずかに吸い取ってくれるのでありがたい。
(まだあと十一階分もあるのかー……)
 心の中に浮かんだ十一という数字が、ギリギリと頭を締めつける痛みと相まって重く響く。うっかり常備薬を忘れるなんて、こんな失敗は本当に久しぶりだと今さら後悔しても、時すでに遅し、だ。
 都内の某商社ビルの清掃員として働く俺は、この日いつものように地下一階のロッカーで作業服に着替えると、午後九時少し前には掃除用具を手に業務用エレベーターに乗りこんだ。そして最上階の二十六階で降りて、廊下の少し先にある自分の持ち場の階段へと続く扉を目指した。
 空調の効いてない階段エリアは、夏の名残の湿気を含んだ空気に満ちていて、少し息苦しいくらいだった。俺はにじんだ汗でずれ落ちそうになる眼鏡のフレームを押し上げると、一段ずつていねいにモップをかけていった。
 だが半分の十三階付近に差しかかったとき、朝からずっと重かった頭が、とうとうきしむように痛み出してしまった。
 ここまではよくある話で、俺はいたって冷静に作業服のポケットに手をつっこむと、常備している鎮痛剤をさがした。
(しまった……薬、切らしてた)
 空っぽのポケットに、ザっと血の気が引いた。
 先週三日間続いた悪天候のため、持病の偏頭痛がなかなか解消されず、気づいたときにはドラッグストアで買いだめしておいた市販薬が底をついていた。そしてつい先日も、真夜中に酷い頭痛に見舞われ、しかたなくいつも作業服のポケットに常備している鎮痛剤を使ってしまったのだ。
 後で補充しなくては、と痛みで朦朧とした頭でそう考えたことを、おぼろげに思い出して悔やむ。あの夜は不運にも薬がまったく効かず、激しい痛みに打ちのめされていたから、今の今まですっかり忘れてしまっていた。
(とにかくとっとと仕事を終わらせて、できるだけ早く家に帰るしかない)
 俺はモップの柄を固く握りしめると、不安でうつむきかけた頭を持ち上げ、一心不乱に掃除をしながら階段を下りていった。
 ようやく十階を過ぎたころ、下方から響いてきた階段を上る足音と話し声に、集中力がふと途切れた。聞こえてくる会話から察するに、遅くまで残っている社員のようだ。ここは外資系企業が入っているビルなので、おそらく時差がある国と深夜に会議をしていたのだろう。
 一、二階分くらいの短い移動だと、エレベーターより階段を利用する社員も少なくなく、ごく稀に階段ですれ違うことがある。いつもなら端に寄って、通り過ぎる社員に向かって緊張気味に小さく会釈するのだが、この日はあまりにも体調が悪かったせいか、反応が遅れた上に会釈し損ねて、さらに体のバランスを崩してしまった。
「……危ない!」
 鋭く飛んできた声にハッとしたときには、すでに体が斜めに傾いていた。次に物凄い音と同時に、全身を打ちつけられる衝撃に喘いだ。
「……っ……」
 詰めていた息が上手く吐き出せないのは、誰かの両手でしっかりと頭を包みこまれていたせいだと気づく。そろそろと顔を上げると、思いがけず整った白い顔が間近にあって息を飲んだ。
(うわ、あのイケメンじゃん……)
 この階段で何度か見かけた顔だと、痛みで生理的に浮かんだ涙の膜越しに、その人の顔を眺めていると、ワンテンポ遅れてバタバタと階段を降りてくる音がした。
津和つわ、お前ケガは!?」
「……俺は受け身を取ったから、なんともないよ」
 つわ、と呼ばれた男はそう返答するものの、色素の薄い前髪からのぞく形の良い眉をひそめ、動こうとはしない。俺はようやく我に返って「大丈夫ですか」とたずねると、彼は小さく口元を綻ばせた。
「そっちこそ、立てそう?」
「あ、はい……」
 頭を抱えられたまま一緒に半身を起こすと、足首に鋭い痛みを覚えて息を飲む。だが次の瞬間、その痛みを遥かに凌駕する酷い頭痛に、思わず目の前のワイシャツの胸にすがりついてギュッと目を閉じた。
(やべえ、目が回る……)
 短く息を吐きながら、なんとか立とうともがくも、彼の腕に押さえつけられて身動きが取れない。
「すぐに無理して立たなくてもいいから…… 西見にしみ、悪いけど俺の鞄と上着取ってきてもらえるか?」
「ああ、それは構わないが。その彼、足をケガしているようだぞ。折れてなきゃいいけど」
「……君、エレベーターまで歩ける?」
 視線を巡らせると、ちょうどにしみ、と呼ばれた同僚らしき男が背を向けて、足早に階段の扉から出ていくところだった。ぼんやりとその方向を眺めていたら、ふいに顎を取られて持ち上げられ、目の前の男へと無理やり意識を引き戻された。
「顔色が悪いな……痛いのは足だけ?」
「……」
 正直言えば、足より頭が痛い。問うような視線を向けられ、正直に告げるべきか一瞬迷った。でも余計な事を言って、これ以上わずらわせるわけにはいかない。
「大丈夫です。業務用のエレベーターが、すぐそこにあるんで……」
 社員が使うエレベーターホールまでは少し距離があるが、業務用なら階段のすぐ横にある。
「じゃあ行こうか」
 一人で下りようと思ったのに、彼は俺を支えたまま荷物運搬用エレベーターに乗りこむと、地下一階の管理室まで付きそってくれた。
 管理室には、顔見知りの警備員が待機してた。俺の姿を認めると、大あわてで事務所の中に招き入れ、椅子をすすめてくれた。そして俺は靴を脱がされ、簡単に足の状態をチェックをされた。
「少し腫れてきているようだし、こりゃあ病院で診てもらったほうがいいな」
 警備員が白髪交じりの頭をかきながら立ち上がると、その隣で様子を眺めていた彼が、神妙な顔で口を開いた。
「たしかこのビルの近くに、夜間外来も受け付けるクリニックがあったはずだ」
「あの、医者とか別にいいんで……」
「でも酷く痛むんだろう? 骨にヒビでも入っていたらどうする」
「……」
 俺は頭痛がヤバすぎて、足とか正直どうでもよかった。
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