浮気な恋

高菜あやめ

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3. 明け方の月

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 夜も明けようとする頃、珍しくイツキよりも先に目を覚ました。
 シーツに投げ出されたイツキの手を取り、銀色に輝く爪の先をちょっとだけ口に含む。

「また……そんなに気に入ってんの」

 目を覚ましたイツキがあきれたように、かすれ声でつぶやく。
 昔ケガをして、右手の薬指の爪が少しだけゆがんでしまったらしい。手を見られる商売だから、とその指だけ銀色の付け爪をしている。
 本当の爪はあたしも見たことない。
 銀色に光る綺麗なニセモノの爪は、イツキの白く長い指先にとても映えた。それはまるで、白む空に薄っすら浮かぶ銀色の月を思い起こさせる。
 あたしは気だるい身を起こし、カーテンへ手を伸ばす。肩に触れる息の冷たさに、あたしは首をすくめた。

「……まだ月が出てるな」
「うん」

 そのまましばらく動かなかった。やがてイツキが耳元で囁くように語り出す。

「月はチーズで出来ている、って聞いた事ある?」
「……チーズ?」
「そ。チーズ・ムーンって外国じゃ言うらしい」

 あたしは首を持ち上げ、空に浮かぶ銀色の影を探した。

「でも黄色くないよ」
「チーズがすべて黄色いって限らないだろ」

 イツキは機嫌良さそうに吐息を漏らすと、あたしを背後から包み込む。背に押し付けられた重みに、あたしは眉を寄せる。
 抱きしめてる、というよりは寄りかかってるみたい。

「じゃあチーズケーキかな。レア・チーズ」
「園子は甘いもの好きだからな」

 いい加減、笑うのやめて欲しい。肩にかかる息がくすぐったいから。

「美味しいって評判のチーズケーキあったな。場所分かったら教えるよ」
「うん、リンク送って」
「なに言ってるの。俺が連れて行くよ」
「でも、イツキいつも夜遅いし……」
「なんで夜じゃなきゃいけないの?」

 あたしは肩越しに振り返った。イツキの少し乱れた髪の束が、カラーコンタクトを外した茶色の瞳を少しだけ隠してる。
 優し気に細められた眼差しが、あたしをほんの少し怯えさせた。





 日曜日の、人がごった返す老舗デパートの前。あたしは約束の三十分前には、待ち合わせ場所に到着した。
 季節はすっかり寒くなって、コートを着ている人もたくさんいる。皆一様に首をすくめ、時折白い息を吐きながら街中を闊歩する。少しでも温かい方へ向かおうとしてるみたい。
 寒かったら店の中に入って待ってて、と言われたけど、あたしは入り口の前にある外の柱に寄りかかって待つ事にした。
 ここからなら通り過ぎる皆の姿がよく見える。
 急くように小走りで通り過ぎる人たち。カップルも多く、お喋りしながら楽しげにはしゃく姿もあれば、言葉は交わさないけどしっかりと手を握り合って、寄り添いながら風を切る姿もある。

 元彼は時間に厳しい人だった。
 十分ほど待ち合わせに遅れた時、外なのにこっぴどく叱られた事があった。それからは絶対に遅刻しないよう、前もって三十分前には待ち合わせ場所に着く習慣が身についた。

 約束の時間が近づくにつれ、あたしはどんどん不安になってくる。付き合ってもう半年経つのに、イツキと外で待ち合わせるのはこれが初めてだ。
 夜のイツキしか知らないあたしは、彼が日中はどんな姿をしているのかさえ知らない。人ごみで気づかなかったらどうしよう。
 向こうもあたしに気づかないかもしれない。
 できるだけ顔が見えやすいように、あたしはマフラーを外して手に持った。冷たい風が、首筋をなぞっていく。イツキの冷たい手の感触を思い出す。

 待ち合わせ時間まであと5分、という時。
 スマホの時間を確認したら、イツキからメッセージが届いていることに気づく。

『悪い、急用ができた。待ち合わせに行けそうもない。また連絡する』

 また連絡するって、普段だって連絡してきたことないのに。あたしは小さく笑って、ようやく安堵のため息が漏れた。マフラーを巻きなおすと、冷たい柱に寄りかかる。
 空を見上げると、もうほとんど日は落ちていた。チーズ・ムーンならぬ、チーズケーキ・ムーンが顔をのぞかせる。
 手袋をしてない、かじかんだ両手をポケットの中で何度も握っては開く。ドキドキして嬉しさがこみ上げてくる。
 来ないと分かったから安心だ。もう来ないんじゃないかって、こわくなる事ないもの。
 白い息を何度も吐いて、あたしは穏やかな気持ちに浸っていた。もう少しこのまま、こんな気分を味わっていたい。
 背中から伝わる柱の硬質な冷たさは、あたしの体温をすっかり奪い、やがて全身の感覚を麻痺させていく。
 なんだか空気に溶けてしまいそうだ。





 どのくらい時間が経ったのか。辺りのネオンが、きらびやかな輝きを増してきたその時。

「園子!」

 びっくりして顔を上げると、デパートの入り口から伸びる交差点から、真っ直ぐ走ってくる人影。初めて見るグレーのコート姿だけど、すぐにイツキだと分かった。
 小さかったその姿がどんどん近づいてきて、やがてあたしの目の前で止まった。セットしていない、少し乱れた髪だけが、あたしが普段知る彼を髣髴ほうふつとさせる。
 それ以外は初めて会う人かもしれない。

「メッセ読まなかった?」
「読んだけど……どうしてイツキがここにいるの」
「なんか嫌な予感がしたんだ。まさか、ずっとここで待ってたのか!?」

 真剣で、恐い表情を浮かべるイツキ。あたし、そんなに悪いことしたのかな。

「違うよ……ただ立ってただけ。勝手に」

 弁明するように言うあたしに、イツキは白いため息をついた。
 申し訳ない気持ちと、どうしようもなく嬉しい気持ちがごっちゃ混ぜになる。さっきまで麻痺したように無感覚だった透明な気持ちが、途端に色づいて涙とともに溢れ出た。

「どうして泣くんだよ……」

 イツキの声は小さく掠れてて、喉からしぼり出したように苦しそうだった。

「すっごくラッキーだなぁって」

 あたしは素直に心の中を吐露する。

「来れないって言ってイツキが、突然現れたでしょ? すっごく驚いて、あたし……」

 ぎゅっと抱きすくめられて言葉が続かなかった。イツキの体温で、コートに張り付いた冷たい空気が溶けていく。

「来ないって分かってて、どうしているんだよ……」

 イツキの言葉は、まるで自身に問うような響きだった。やがてイツキは「早く帰れ」と突き放すようにあたしを開放すると、その足で仕事へと立ち去った。





 その夜、深夜0時少し前。
 いつもより早く、イツキはあたしの部屋に現れた。

「テイクアウトしてきた」

 四角い箱を差し出され、あたしはお風呂ですっかり温まった両手を伸ばして受け取る。フタを開けると真っ白いホールのチーズケーキ。

「ありがと、おいしそう」
「おっと、そのまま食べちゃ駄目」

 早速取り出そうとしたあたしの手を、イツキは大げさな調子でさえぎる。銀色に光る指先が、真っ白いチーズの表面をすくいとった。

「ほら」

 指先のクリームを口に押し込まれ、あたしは驚いて目を見開く。舌を撫でるようにして引き抜かれた指が濡れて光り、あたしは恥ずかしくて目を伏せた。

「……普通に食べようよ」

 あたしがジロッとにらむと、イツキは皮肉っぽく眉を上げてみせた。

「園子の好きなものはチーズケーキと俺のこの爪。それから寒い中、ひとりぼっちで待つこと?」
「いじめるみたいに言わないでよ」
「いじめたくもなるね」

 ショックなぐらい強い力で手首をつかまれ、あっという間にソファに押し倒されてしまった。見下ろしてくるイツキの表情は、絶対零度の冷ややかさ。
 どうしよう、マジギレしてる。

「今夜はこの指だけで、イかせてあげようか」

 イツキは悪魔のような微笑を浮かべながら、あたしの目の前に銀の薬指を突き出した。つかまれた手は、指先の血が止まりそうなくらいきつい。
 迫力に押されたあたしは、口も聞けずに必死で首を振った。

「ずるいよ園子。君は好き勝手に愛情を振りまくくせに。俺自身からは何も求めないなんて、そんなのフェアじゃない」
「イツキ、痛い」
「俺から求めるのは、この爪だけか……はがして捨てちゃおうかな、こんなもの」
「え!?」
「……なんてね、冗談。これまで無くなったら、園子は俺なんか見向きもしなくなる?」

 そう言ったイツキは悪戯っぽい微笑をのぞかせる。それを見たあたしはホッとして、笑顔で大きく頭を振った。

 分かってないなぁ、あたしは銀の爪が好きなんじゃない。その下に隠された、ゆがんだ爪が愛しいのに。
 それはまるで月に覆い隠されても密やかに息づく、明け方にあるまじき夜の断片みたい。もう自分の出番はないって、すねてるようで。
 その夜イツキは明け方近くまで寝かせてくれず、あたしはチーズケーキ・ムーンを見損ねた。




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