有能社長秘書のマンションでテレワークすることになった平社員の俺

高菜あやめ

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第六話 突然の引継ぎ

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 入江さんちに居候して、早二週間が過ぎた。
 そして俺はここ四日ほど、ものすごく寝不足だ。
(……あと、十ページ……)
 深夜二時を過ぎても、自室として使わせてもらっている部屋にこもり、会社のノートパソコンに向き合っていた。明かりを落とした部屋には、モニターの光がまぶしくて目が疲れる。
 俺は目頭を中指と親指ではさんでもみながら、ピントがぼやけたプレゼン資料を、半ば絶望的な気持ちでながめた。
 事の発端は四日前の週明け月曜日、俺が所属する営業部の定例会議で、部長が悲痛な声で漏らしたひと言だった。
「寺井が、倒れた」
 モニター越しの同僚たちの顔が、瞬時にこわばった。
「週末に病院で検査を受けたら、インフルエンザと判明した。少なくとも一週間は入院だそうだ」
 寺井さんは営業課のシニアリーダーで、担当する顧客も大口が多い。しかも仕事量は半端ないのに、後輩の面倒見が良くって、つまりすごい人だ。営業部の人間は誰しも、一度は寺井さんに助けてもらった経験を持つ。特に俺のような若輩者は、寺井さんに学ぶところが多い。いろんな意味で、うちの部署の最大戦力なのだ。
(その寺井さんが、今抜けるのか……!?)
 当然ながらドクターストップで、仕事は厳禁されてる。部長の話によると、なんでも病室に会社のノートパソコン持ちこもうとして、担当医師にこっぴどく怒られたらしい。仕事人間の寺井さんらしい、ちっとも笑えないエピソードだ。
「今のところ、寺井の担当で動いている案件は三つ。一つは大口で難しいから俺と根村で担当する。あと残り二つは……野宮、お前引き受けてくれるか」
「はいっ!」
 部長の指名に、俺は一も二も無く引き受けた。それと言うのも、残りの二つの顧客は、先月まで俺が補佐を務めていたからだ。ただ今月から寺井さんの抱える別件が落ち着いたので、俺は一旦手伝いから外されたわけだが、この状況下では俺以上の適任者はいないだろう。
 だが俺も、今活発に動きのある担当案件が三つある。三つとも中堅どころだが、そのうちの一つとWeb会議が明後日予定されていて、しかもその内容が結構重いため、事前準備には相当な時間をさく予定だった。否、今さいている真っ最中だ。
(最悪なバッティングだな)
 だが今はリモートだから、少なくとも会社の通勤時間と、顧客先への移動時間は削れる。この環境を有効活用すれば、時間も体力もかなりセーブできるはずだ。
「悪いが頼んだぞ」
「はいっ!」
 部長の言葉に、先ほど同様に勢いよく返事した。同期の苅田と横内が、もの言いたげな様子で画面越しに俺を見つめている。俺は心配掛けないよう、主に二人に向けて笑顔を浮かべてみせた。
 その日の昼休憩中、俺は冷やし中華をすすりながら、向かいに座る入江さんに事情を説明した。
「……というわけで、しばらく忙しくなりそうなんです。だから当分、こうやって一緒に食事とかできそうにないと思います」
「それは構いませんが……」
 食事はほとんど毎日、日に三度一緒に食べることが暗黙の了解というか、習慣づいてしまっていた。入江さんは料理上手だが、あまり作り置きとかはせず、週末しかキッチンに立たない。一方、俺は自炊派だから、平日でも最低一回、主に夕食を作る。
 入江さんはゆったりと箸を置くと、俺を真正面から静かに見つめた。
「今はご自分のことだけ考えてください。料理もご自身のペースで作るように。今までご相伴にあずかってましたが、当然私の分を作るといった気づかいもいりませんよ。以前にもお話しましたが、お好きなときに冷蔵庫やパントリーの物は何でも利用してください。出来合いの料理やインスタント食品、ゼリー飲料やエナジーバーも各種ありますので」
「すいません、とても助かります」
「それから平日は、掃除や洗濯の心配をしないように。私も今週は立てこんでいるので、家事は週末にまとめてやるつもりです」
 俺はホッとして、それから軽く頭を下げた。正直これ食べたら、すぐに仕事に取りかかりたい。
「すいません、もう行かなくちゃ」
「ええ、後は私が片づけておきますから、お先にどうぞ」
「いえっ、自分の皿一枚くらい洗えますんで」
「私が食べ終わってから、二枚まとめて洗う方が効率的です」
 ほら、と視線でうながされ、俺はお言葉に甘えてそそくさと席を立った。
 それから先は、もう時間の感覚がどんどん薄れていった気がする。
 腹が減ったら冷蔵庫を漁り、睡魔に勝てなくなったらベッドに転がる。トイレもギリギリまで待つようになってしまい、風呂はひたすら目を覚ます目的でシャワーだけ浴びた。
 時折、廊下で入江さんにすれ違っても、お互い「お疲れ様です」と事務的な挨拶しかしない。まるで互いが気配を消し、同じ屋根の下でひっそりと息をひそめて暮らしている、なんとも奇妙な日々が過ぎていった。
(明日は、金曜日……明日が終われば、週末は休める……)
 モニターの時間表示は、いつの間に午後三時に近づいていた。明日さえ乗り越えれば、あとは二日間倒れても構わない。正確に言えば、明日の午前十時から予定されている、顧客とのWeb会議でのプレゼンを無事終えればいい。
(寺井さんが一か月近くかけて準備してきたものだ……必ず成功させなくては)
 時間をかけて準備してきたものを、最後の最後で別の人間に任せることになった悔しさは、俺には想像できない。
(だから『今度こそ』失敗しちゃダメなんだ)
 前の会社にいたとき、同じような状況に陥ったことがあった。あのころの俺は心のどこかで、『押し付けられた』仕事と、自分の担当案件を差別していた。本当は『押し付けられた』なんて考えてはいけないのに。
 ――お前には、ガッカリしたよ……野宮。
 さんざん世話になった上司の顔が浮かんだ。あんな表情もう二度と見たくない。あの人だけは何があったか見抜いてて、それでも責任取って左遷された先輩の、監督不行き届きと結論づけた。
(なにもかも、俺のせいだったのに)
 後悔しても遅かった。それでも先輩は笑って、この経験を次に生かせばいいよと言ってくれた。俺は今が、そのチャンスと思ってる。あの人にお詫びも、恩返しも出来なかった。あんな思いはもう二度としたくない。あんなことには、もう決してならない。

「お疲れさま」
「……んあ……」
 がばっと起き上がると、頭がクラリと揺れた。眩暈が酷い。リビングは快適な温度と湿度になっていて、俺は真っ白いソファーでひと息入れるつもりが、いつの間にか眠ってしまったようだ。
 ソファーの足元には、入江さんが片膝をついて座っている。室内はキッチンからこぼれる明かりだけで、全体的に薄暗かった。
 入江さんは寝室へ向かう前なのか、すでに薄いグレーのパジャマを着ていた。それ、前に一緒に洗って干したなあと、ぼんやり思い出す。
「ほら、これを飲んでください」
 差しだされたのは、温かいミルクティーだった。カップを持つ両手を、入江さんの大きな手が上から包みこむ。手のひらからは、カップから伝わる液体の温かさが、手の甲からは、入江さんの手の温もりが伝わってきた。
「熱いから、こぼさないように……ゆっくり飲んで」
 熱いけど熱すぎず、ぬるくもない、ちょうどいい温度。後味のやさしさから、ほんの少しだけ甘味を感じる。
「全部飲めましたね」
「ん……」
 空になったカップが取り上げられ、口の端を親指でぬぐわれた。
「いい子ですね」
 そのままゆっくり、体を支えるように抱きしめられた。背中をやさしくなでられ、時折あやすように叩かれた。ひたすら気持ちよく、まどろむ。
「少し眠っていいですよ」
「でも、起きて続きをやらなきゃ……」
「起きなくても大丈夫です。もうお仕事は終わりました。週末ですよ」
 そういえば、そうだった。今朝無事プレゼンを終えて、そのままソファーで突っ伏すように爆睡したんだった。
「そっか、そうだった……」
 目を閉じたままへへっと笑うと、唇に柔らかい感触があった。ふわふわと気持ち良くて、離れるとさびしくて、追いかけるように唇を突き出したら、また与えられる。
「おやすみなさい、野宮さん」
 ひたすら甘やかされる、まるで猫になった気分で俺はぬくもりにすり寄った。そして本能のおもむくままに、深く心地良い眠りを貪った。
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