52 / 79
第6章
琵琶法師を呼んで(51p)<エピソード>
しおりを挟む
昭和二十年、日本はポツダム宣言を受諾し、長く続いた戦いは終わった。中国では、日本人、及び日本人に協力した中国人が次々と、逮捕されていく。もちろん、関東軍は消滅し、北京や満州にいる日本人を庇護する力はすでにない。日本人は、大慌てで本国へ引き上げた。
芳子は、当時、北京市の胡同(高級住宅街)に住んでいた。生活費は、粛親王家の遺産の分配金が残っていたので、充分暮らしていけたのである。芳子の邸宅には、長い間康子(芳子の姪)邸で働いていた婆やと、その息子、老人の門番、小間使い、そして小方が、住んでいた。
ある日のこと、小方は、のんびりと昼寝をしていた芳子の部屋をノックした。
「芳子さま、お休みのところ、申し訳ございません。じつは、大変よいお知らせがございまして、一刻も早くお伝えしたく、参上いたしました」
「ぅー。眠いなぁ。せっかく、いい夢を見ていたのに……まぁいい。入り給え」
小方は、恐る恐るドアを開け、入り口付近で直立したまま芳子に話しかけた。
「小玉様からの伝言でございます。”いまなら、蒙古へ逃げる道があるからご紹介しましょう”との事です」
「小玉って、誰だっけ?」
「お忘れでしたか?人気の易者ですよ。去年、占ってもらった」
「ああ、大阪のおじいちゃん。粛親王家にも、出入りしていたとか」
「はい、さようでございます。小玉様は、明日、日本に引き上げるそうです。その前にぜひ芳子様をお救いしたいと、蒙古の知り合いに話をつけたそうでございます。急なお話しですが、今夜お立ち下さい。私が、小玉様の所までご案内いたします」
「……止めておこう」
「でも……このままでは、いつか憲兵がやってきます」
「僕は、逃げも隠れもしない。中国の民衆の為に命を捧げてきた。悪い事などしていない」
「いいえ。日本人と親しかった人は、皆牢屋に繋がれています。いっそ、日本にお逃げになればよいかと」
「いや。それは、無理だよ。日本軍の手先だとみなされて、戦犯になる」
「そうでしょうね。バカな事を申し上げて申し訳ございません」
「それより、いつもの琵琶法師を呼んでおくれ。皆も疲れている。一緒に聞こう。心に浸みるいい音色じゃないか」
「はい。目が見えないのに大変にお上手な演奏をなさいます。ずいぶんと練習なさった事でしょう」
「お礼は充分にしなさい。演奏のあとは、皆で美味しいお酒でも飲もう。頂きものの、いいワインがあるのだ」
「承知いたしました。では、私は、おつまみに牛肉煮を作っておきましょう」
「ありがとう。君の”牛肉煮”は、一番の御馳走だ」
小方は、芳子に褒められて、うれしそうに微笑んだ。彼は、長崎の高級旅館のあととり息子で、芳子がお気に入りの『清流荘』で、料理の修行をしていたのである。芳子より、七歳年下で背は芳子と同じぐらい。おぼっちゃま育ちで、優しく温和な性格なので、気性の激しい芳子とは、相性がよかった。
芳子は、当時、北京市の胡同(高級住宅街)に住んでいた。生活費は、粛親王家の遺産の分配金が残っていたので、充分暮らしていけたのである。芳子の邸宅には、長い間康子(芳子の姪)邸で働いていた婆やと、その息子、老人の門番、小間使い、そして小方が、住んでいた。
ある日のこと、小方は、のんびりと昼寝をしていた芳子の部屋をノックした。
「芳子さま、お休みのところ、申し訳ございません。じつは、大変よいお知らせがございまして、一刻も早くお伝えしたく、参上いたしました」
「ぅー。眠いなぁ。せっかく、いい夢を見ていたのに……まぁいい。入り給え」
小方は、恐る恐るドアを開け、入り口付近で直立したまま芳子に話しかけた。
「小玉様からの伝言でございます。”いまなら、蒙古へ逃げる道があるからご紹介しましょう”との事です」
「小玉って、誰だっけ?」
「お忘れでしたか?人気の易者ですよ。去年、占ってもらった」
「ああ、大阪のおじいちゃん。粛親王家にも、出入りしていたとか」
「はい、さようでございます。小玉様は、明日、日本に引き上げるそうです。その前にぜひ芳子様をお救いしたいと、蒙古の知り合いに話をつけたそうでございます。急なお話しですが、今夜お立ち下さい。私が、小玉様の所までご案内いたします」
「……止めておこう」
「でも……このままでは、いつか憲兵がやってきます」
「僕は、逃げも隠れもしない。中国の民衆の為に命を捧げてきた。悪い事などしていない」
「いいえ。日本人と親しかった人は、皆牢屋に繋がれています。いっそ、日本にお逃げになればよいかと」
「いや。それは、無理だよ。日本軍の手先だとみなされて、戦犯になる」
「そうでしょうね。バカな事を申し上げて申し訳ございません」
「それより、いつもの琵琶法師を呼んでおくれ。皆も疲れている。一緒に聞こう。心に浸みるいい音色じゃないか」
「はい。目が見えないのに大変にお上手な演奏をなさいます。ずいぶんと練習なさった事でしょう」
「お礼は充分にしなさい。演奏のあとは、皆で美味しいお酒でも飲もう。頂きものの、いいワインがあるのだ」
「承知いたしました。では、私は、おつまみに牛肉煮を作っておきましょう」
「ありがとう。君の”牛肉煮”は、一番の御馳走だ」
小方は、芳子に褒められて、うれしそうに微笑んだ。彼は、長崎の高級旅館のあととり息子で、芳子がお気に入りの『清流荘』で、料理の修行をしていたのである。芳子より、七歳年下で背は芳子と同じぐらい。おぼっちゃま育ちで、優しく温和な性格なので、気性の激しい芳子とは、相性がよかった。
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説
忍者同心 服部文蔵
大澤伝兵衛
歴史・時代
八代将軍徳川吉宗の時代、服部文蔵という武士がいた。
服部という名ではあるが有名な服部半蔵の血筋とは一切関係が無く、本人も忍者ではない。だが、とある事件での活躍で有名になり、江戸中から忍者と話題になり、評判を聞きつけた町奉行から同心として採用される事になる。
忍者同心の誕生である。
だが、忍者ではない文蔵が忍者と呼ばれる事を、伊賀、甲賀忍者の末裔たちが面白く思わず、事あるごとに文蔵に喧嘩を仕掛けて来る事に。
それに、江戸を騒がす数々の事件が起き、どうやら文蔵の過去と関りが……
春雷のあと
紫乃森統子
歴史・時代
番頭の赤沢太兵衛に嫁して八年。初(はつ)には子が出来ず、婚家で冷遇されていた。夫に愛妾を迎えるよう説得するも、太兵衛は一向に頷かず、自ら離縁を申し出るべきか悩んでいた。
その矢先、領内で野盗による被害が頻発し、藩では太兵衛を筆頭として派兵することを決定する。
太兵衛の不在中、実家の八巻家を訪れた初は、昔馴染みで近習頭取を勤める宗方政之丞と再会するが……
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
和ませ屋仇討ち始末
志波 連
歴史・時代
山名藩家老家次男の三沢新之助が学問所から戻ると、屋敷が異様な雰囲気に包まれていた。
門の近くにいた新之助をいち早く見つけ出した安藤久秀に手を引かれ、納戸の裏を通り台所から屋内へ入っる。
久秀に手を引かれ庭の見える納戸に入った新之助の目に飛び込んだのは、今まさに切腹しようとしている父長政の姿だった。
父が正座している筵の横には変わり果てた長兄の姿がある。
「目に焼き付けてください」
久秀の声に頷いた新之助だったが、介錯の刀が振り下ろされると同時に気を失ってしまった。
新之助が意識を取り戻したのは、城下から二番目の宿場町にある旅籠だった。
「江戸に向かいます」
同行するのは三沢家剣術指南役だった安藤久秀と、新之助付き侍女咲良のみ。
父と兄の死の真相を探り、その無念を晴らす旅が始まった。
他サイトでも掲載しています
表紙は写真ACより引用しています
R15は保険です
【完結】今夜さよならをします
たろ
恋愛
愛していた。でも愛されることはなかった。
あなたが好きなのは、守るのはリーリエ様。
だったら婚約解消いたしましょう。
シエルに頬を叩かれた時、わたしの恋心は消えた。
よくある婚約解消の話です。
そして新しい恋を見つける話。
なんだけど……あなたには最後しっかりとざまあくらわせてやります!!
★すみません。
長編へと変更させていただきます。
書いているとつい面白くて……長くなってしまいました。
いつも読んでいただきありがとうございます!
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる