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第5章

バイ・クァン(46p)

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 昭和十六年十二月八日―――東京の空は強い北風が吹き渡り、抜けるような青空だった。

『帝國陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戰鬪状態に入れり』芳子は、キャビンの中でこのニュースを聞いた。

 船は定刻に上海に到着した。いつものように、キャセイ・ホテルに泊まる。威風堂々とした欧風建築のホテルには、日本人の常連客も多い。夕闇が迫る頃、ロビーに入ると、高い吹き抜けのステンドガラスの下で、管弦楽団が生演奏をしており、華やかに装った人々が集まっていた。

「芳子さん!おひさしぶり」
 チャイナドレス姿の美しい人が、手を振って合図をした。『東興楼』の常連客だった女優だ。二人で、片隅のイスに腰を下ろし、お互いの近況を話した。彼女は新しい映画の主演が決まっていて、今日は、その祝賀パーテイがあると言う。

 山家も芳子を見つけてやって来た。茶のシャーク・スキンの背広を見事に着こなして、一見、男優と見間違う程華やかな雰囲気をまき散らしている。人目を避けるように、二人は、地下のジャズバーに入った。音楽の音にかき消されて周りに話が聞こえない。密談には好都合の場所である。
「ヨコちゃん?日本はどうだった?」
「僕は東条に、蒋介石と和平交渉を持ちかけたが相手にされなかった。軍から睨まれてホテルに軟禁状態さ。うんざりして、逃げ出してきたよ」
「そうか。俺も近頃は、日本のやり方に我慢できなくて困るよ。ここに住んでいると、地元の気持ちが痛いほど分かるからね。彼らを救う為に自分の任務を投げ出したくなるくらいだ」
「ふふふ。危ないなぁー。それじゃ、反逆罪で軍法会議だろ」
「俺の心配はいい。それより、ヨコちゃん、北京は危険だ。俺の知り合いが開封にいる。そっちで暮らさないか?」
「え?開封」
 芳子は、真剣に話す山家の顔をまじまじと見た。テーブルのキャンドルが彫の深い顔を照らしている。
 この人は…私を、まだ想っているのだろうか……
 
「トオル、誰と話しているの?」
 若い娘がいきなり現れた。深紅のチャイナドレスがむっちりした体に張り付いている。凄い迫力で芳子をにらみつけた。
「バイ・クァン、こちらは、高貴なお人だよ。いい子だから、あっちに行っておいで」
バイ・クァンは、しぶしぶ一人で立ち去った。
「奇麗な人。女優さん?」
「ああ。日本のプロパガンダ映画に出た子でね。人気者だよ」
「……恋人?」
「それはない。一緒に暮らしているだけだ―――」
 山家は目を逸らし視線を宙に泳がせた。

 芳子の胸がチクリと痛んだ。
 なによ!いい歳して!若い子がそんなにいいの?

 目の前のワイングラスをテーブルに投げつけたい衝動にかられた。グラスを握りしめる。いけない―――
 私は王女……いや、中年の女だ。落ち着こう。顔をそむけワインを飲みほした。
「失礼するわ」
 言い捨てて、席を立った。

 翌朝、芳子は、早々にホテルを立ち北京に向かった。北京の隠れ家で、小方と人目を避けてひっそり暮らす日々が続いていた。
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