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第5章

『清流荘』鴨肉の塩麴漬け(44p)

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 男の仲居は、怒鳴りつけられたにも、かかわらず、ふっふっふと女のように笑った。
「とんでも、ございません。指図など、めっそうもない。清朝のお姫様である、川島様をお待たせいたしまして、大変失礼いたしました。―――さあ、ご用意が整いました」
 仲居は、不機嫌な芳子に、ニッコリと極上の笑みを返した。
 ちらりと、膳を見た芳子に
「こちらは、かもを塩麹に付け込んで焼いたものです。
 是非、召し上がって下さい。おいしくて、ホッペが落ちますよ。
 さあ、冷めないうちにどうぞ―――
 なにしろ、今日は、軍人さんのお集りと、祭りの客が重なってしまって―――
 てんてこ舞いです。
 板前の私も、給仕に駆り出されております。
 なにぶん、不慣れなもので、失礼があったらお許し下さい
 ―――では、まず、一杯」
 盃になみなみと酒を注がれて、芳子は、気がつくと、膳の前に座っていた。
 鴨肉は初めてであるが、食べてみると、柔らかくて美味しい。
「ほー、これは、いけるね」
「ありがとうございます。近くに江戸時代からの麹屋がありましてね。そこの塩麹が絶品です」
「君は、板前かい?」
「はい。老舗の味を修行しております」
「老舗か―――明治に創業したそうだが―――その掛け軸なんぞ、つまらないな」
 芳子は、床の間の掛け軸にケチをつけた。それは、竹林に潜む虎の水墨画だった。よく見かける構図で、子供の頃、『像から逃げる為に竹林に身を潜めている臆病な虎だ』と粛秦王から聞いた事があった。
「はい、よく見かける絵でございます。この【捨身飼虎図】は、私の一番好きな絵でございます。……こう申し上げてはなんですが……芳子様にぴったりの絵ではないかと……」
「どうしてだ?」
「これは、昔の話を画にしたもの。釈迦王子が、七匹のを持つ、やつれた母虎に出会い、餌となる自分を殺す力のない母虎を、大変気の毒に思われたのです。母虎と仔虎を救う為に「乾いた竹」で首を刺して血を流し、崖から飛び降りて虎の前に身を投げ出したというお釈迦様の前世が描かれています。衆生のために、捨て難きを捨てたお釈迦様の涅槃を暗示しているのですが……シナと日本の為に犠牲になった芳子様と同じではないかと……いや、大変失礼な事を申しあげました。お許し下さい」
「なるほど。そんな解釈もあるのだな。知らなかった。……君、名前は?」
小方おがた小方八郎と申します。」
「落ち目の僕を釈迦に例えるとは、君も、相当お人よしだな」
 小方は、嬉しそうに笑った。話してみると実に温和な性格で気の短い芳子とは、相性がいい。芳子は、何度か食事に付き合わせた。やがて、小方は、芳子の秘書となり、いつも芳子に付き添うようになっていた。
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