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第3章

ピストル自殺(14P)

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 深夜の屋敷は静まり返っている。
 芳子は嗚咽おえつをこらえ、浪速の寝室から自分の部屋に逃げ帰った。
 もう子供じゃない……女。

 ああ……人の心とはなんとあやしく不確かなことか……
 もしかしたら……私は、無意識に、お養父様を、誘っていたのかもしれない。
 異国で心から頼れる人は、お養父様だけ。その愛を失うのが恐かった。
 気に入られようと懸命に振舞ってきた。
 いつしか…こびを売っていたのか?
 
 ああ、いやだ。
 いっそ、女を投げ捨てたい。
 
 山家のおじ様は、私を捨てた。
 本当のお父様もお母様も逝ってしまった。
 辛い。辛すぎて耐えられない。


 もう、いいや。ここまでだ。
 芳子は、兄の金壁東から預かっていたピストルを取り出した。この銃は東京の射撃場で何度か使っている。
 実弾は初めてではない。
 左胸に銃口をピタリと当てた。
  死んでおじさまを、びっくりさせよう。

 枕元の時計を止めた。
 大正十三年十月六日 九時四十五分。

 芳子は別れの時刻を確認し、引き金を引いた。


 芳子が気がついたのは、病院のベッドだった。
 
 ああ―――まだ生きていた。死にそこなった。また辛い人生が始まる―――
 
 激しい体の痛みで、心の痛みは薄らいだ。息をするだけで精一杯。何も考えられなかった。
 浪速は、お菓子や本などを手に毎日様子を見に来ていた。芳子を不憫に思っての事であるが、そればかりではない。山家が見舞いに来ないように監視する意味もあった。
 地元の新聞は、『川島芳子、山家少尉と悲恋!ピストル自殺』と、題し一面で報じていた。この事件が原因で、山家は松本部隊から大連の本隊に転勤になったのである。スキャンダルの種をまき散らした罰として、危険な満州に飛ばされたのだった。
 

 芳子は退院後、一層落ち込んだ。
 浪速と一つ屋根の下で暮らすのは気が重い。色目で見られると、ぞっとする。
 
 長雨が続いていたが、ようやく秋らしい空がひろがった日のこと。芳子は、床屋に行ってバッサリ髪を切ってもらう。五分刈りの坊主頭になって、家に帰ると使用人達はあっけに取られたように彼女を見たが、誰も何も言わない。自殺騒ぎを起こしてからは、腫れものに触るようにして、彼女を避けていた。

 芳子は部屋に閉じこもった。鏡に映る坊主の顔は青ざめて、とても自分とは思えない。
 これが、王女の慣れの果て―――鏡の自分をあざ笑う。
 ふと、亡き粛親王の声が聞こえてきた。
 
 養女に出された時の父の言葉である。
 『お前は、支那人ではない。それかと言って、日本人でもない。
 日本と支那を結ぶ楔(クサビ)となる人間だ。
 日本と支那は相助互恵の道を取らなければならない。
 お前はその、柱石となって、いや柱石になれなければ、捨て石にでもよい。
 日本と支那を結ぶ為に生きるのだ』

 心の臓に向けてピストルの引き金を引いたのに。弾丸は、数ミリれた。
 奇跡的に命を取り留めたのは、生かされたのだ。お父様が、生きて楔(クサビ)になれと命じたに違いない。

「入ってもいいか?」
 浪速は、珍しく遠慮がちに入ってきた。芳子の坊主頭から、目を逸らせると、思い詰めたように話しだす。

「申し訳けない。芳子にずいぶんと苦しい思いをさせてしまった。
 私達は、親子でいよう。と言っても、人の心は、危うい。
 悪い噂もたってしまう。勘繰るヤツもいる。一つ屋根の下で暮らさないほうがよいのだ」
「……はい」
「断ちがたい思いを断って、お前を返そうと思う」
「えっ?!」
「返すって?私は、何処へ行けばいいのです?」
「憲立君の所だ。血を分けた兄ではないか。大切にしてくれる」
「あの人は、所帯が苦しいの…歓迎してくれないわ」
「いや、上海に新居を構えて羽振りがいいらしい。喜んでくれるさ」
「上海に!?」
 上海と聞いた途端に芳子の胸は躍った。矢も盾もなく、中国に帰りたくなった。
 中国は、何と言っても生まれ故郷である。それに、大連には山家がいる。

 芳子を返すと決めた浪速は、急に寂しくなったのか、芳子の姪にあたる廉子を松本に養女として迎える事にした。さらに、鹿児島の実家に戻っていたフクを迎えに行くと言い出した。
 芳子は、日本を去る前に、育ての母に一目会って挨拶をしたかった。芳子と浪速が揃って鹿児島を訪れると、フクは、機嫌を直した。二人の関係を勘繰っていたが、その疑念が晴れたのであろうか。真相はともかく、火だねの芳子がいなくなれば、問題はない。廉子の養育係として松本に戻ると約束した。
 浪速はめっきり耳が遠くなっていた。だが、芳子の言葉だけは聞き取れていたのである。いざ、芳子を手放すと決めると、心細いのである。かっては、紫禁城に単身乗り込んだ浪速は、すでに老後を案じていた。
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