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第2章
松本城(6P)
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晩秋の日曜日、寝起きの悪い芳子は、いつものようにベットでまどろんでいた。と、階下から養父の笑い声が聞こえた。こんなに、明るい声は珍しい。お客様にちがいない。誰が訪ねてきたのだろう。芳子は、手早く身じまいをして階段を降りる。
応接間から、若い男性の声が聞こえて立ち止まった。廊下にいても、はっきりと聞きとれる声だ。と、ドアが開いて、お盆を下げたお米が出て来た。
「あら、お嬢さま。ちょうどよかった。旦那様が、お呼びです」
半開きのドアを、軽くノックして部屋に入った。芳子は、思わず息を飲む。
おじさまじゃないか。おしゃれなスーツを着ているが、小川の辺で会った軍人だ。
浪速は、芳子を見ると、椅子に座るように目配せした。
「山家君、これは、わしの一人娘、芳子じゃ。男のように育てたせいか、年頃になってもお転婆は治らん」
山家と呼ばれた男は、軽く頭を下げた。芳子に会うのは、二度目であるが、素知らぬふりをしている。
「芳子、こちらは、山家亨君。外語大の後輩で北京語の勉強をしておる。
芳子の母国語だから、教えて差し上げなさい」
山家は、イスから立ち上がり
「自分は、松本歩兵第五十連隊旗手、山家亨であります」と、挙手の礼をする。
「山家さん、よろしく」
芳子も、初対面を装って軽く頭を下げた。山家が旗手と聞いてうれしかった。連隊の旗手は、成績優秀で、容姿に優れた者が選ばれる。旗手は、女子高生の憧憬の的であった。
「山家君、英語も随分話せるのだろう?」
「まあ、そこそこですよ」
「そうか?たしか、君の母上は……」
浪速が濁した言葉を、山家が続けた。
「はい。私の母はアメリカ人です。でも近頃は、日本語しか話しません。」
「なるほど。こんなご時世だからな。英語を話すと、米国スパイに、間違われる。
君のお父上は外交官時代に結婚したのかね?」
「はい。母も父もクリスチャンで、ワシントンの教会で出会ったそうです」
慎ましく、聞いていた芳子は、山家の話に黙っていられなくなった。
「おじさまは、ハーフでいらっしゃるの?」
「はい。白人と混血なのです。だから、アメリカ女性のように、はきはきしている女性が好きです。
あ、すみません。余計な事を……芳子さん?僕に北京語を教えてくれませんか?」
「ええ、いいわ。
でも、その前に乗馬を教えて下さる?
ねえ、お養父様?
山家のおじさまと、遠乗りに行ってもいいかしら?」
「ははは。芳子の馬好きにも困ったものだ。
すまんが、山家少尉、少しの間でかまわん。芳子のお守を頼む」
芳子は、さっそく乗馬服に着替え、山家と遠乗りに出かけた。
のどかな田舎道を、二人は、馬にまたがって行く。
「応接間に入って、びっくりしたわ。おじさまに又お会いするなんて」
「しかし、芳子さん。君も相当なものだね。まるで、俺達が初対面のように知らんふりしていたじゃないか」
「おじさまのお芝居もお上手だったわ。
ふふふ。お養父様ったら私達、初めて会ったと思っている。授業をサボったこと、バレなくてよかった」
「川島先生が、清の王女様を養女にしたとは、聞いていたけれど。
それが、君だったとは……驚いた」
「私もびっくり。又会えてうれしい!」
山家は、芳子のストレートな言葉が新鮮である。頬が赤くなるのを感じて、あわてて芳子の視線を逸らす。
「ほら、松本城(※)が見える!」
山家は、素っ頓狂な声を出して、白壁の天守閣を指さした。
「日本の城は、おもむきがあってボクは好きだな」
「でも、紫禁城には、かなわないなあー何しろ馬鹿デカイのだろう?」
「小さい頃、紫禁城に招かれた記憶がある。それは、それはまばゆいばかり。
でも、戦争が始まって、西太后様はお城から宣化へ落ち延びてしまった。主をうしなって、紫禁城は、陥落寸前になってしまった。そこへ、川島浪速、が、単身で乗り込んだのよ。そして、籠城していた宮禁兵に城を明け渡すよう説得した。紫禁城が焼けずに残ったのは川島浪速のおかげよ」
「その頃、芳子さんは、紫禁城にいたのですか?」
「いえ。私達は北京の別の城に住んでいたわ。
治安が悪くなり、家族で日本の軍艦に乗って旅順に引っ越したのよ。
実父と、川島浪速は旅順でいっそう仲良くなり……二人の絆の証として私が養女になると決まったの」
「そうか。大人は勝手だな。……今まで、随分、泣いただろう?」
「……いいえ。王である父が私の為に決めた事よ。日本軍が支配する旅順では、充分な教員も受けさせてやれない。それに、激動の時代だから、命を狙われる事もある。優秀な子は、日本に出して育てる。と、おっしゃったのよ。私だけではなく、兄や、いとこ達も、日本に留学しているわ」
芳子は、きっぱりと言い放った。涙は見せたくなかった。いつものように、物分かりのよい聡明な女性を演じた。これも、本心の一部ではある。
粛親王には、六人の妻と三十八人の子供がいた。清朝の皇族は、一夫多妻制である。芳子の母は、最も若く美しかった。彼女は、日本人の血を引き貧しい生まれであり、他の妃と違って、頼る身内は中国にはいなかった。他の妃は、王の寵愛を独り占めしている芳子の母を妬んでいる。粛親王に、もしもの事があれば、自分も十人の子供達もどうなるかわからない……長女の芳子は日本で育てほうがよい…そんな母の血の滲むような決断を、芳子は理解できる年頃になっていた。
山家は、芳子の複雑な心境をすぐに察する事が出来た。寂しさを隠すのは、気位の高い人なのだ。華奢な身体に似合わない強がりを言う少女を、思い切り抱きしめたい……
「あ、ごめん。俺、悪いこと言った」
「いいの。のどが渇いたな。なにか飲もう」
「ああ。腹、減った」
「そうだわ。文子と行った蕎麦屋が近くにある。行こう!」
二人は、馬に鞭をひとふり、蕎麦屋へと駆け出した。
※松本城は、昭和十一年に国宝に指定された、美しいお城です。
応接間から、若い男性の声が聞こえて立ち止まった。廊下にいても、はっきりと聞きとれる声だ。と、ドアが開いて、お盆を下げたお米が出て来た。
「あら、お嬢さま。ちょうどよかった。旦那様が、お呼びです」
半開きのドアを、軽くノックして部屋に入った。芳子は、思わず息を飲む。
おじさまじゃないか。おしゃれなスーツを着ているが、小川の辺で会った軍人だ。
浪速は、芳子を見ると、椅子に座るように目配せした。
「山家君、これは、わしの一人娘、芳子じゃ。男のように育てたせいか、年頃になってもお転婆は治らん」
山家と呼ばれた男は、軽く頭を下げた。芳子に会うのは、二度目であるが、素知らぬふりをしている。
「芳子、こちらは、山家亨君。外語大の後輩で北京語の勉強をしておる。
芳子の母国語だから、教えて差し上げなさい」
山家は、イスから立ち上がり
「自分は、松本歩兵第五十連隊旗手、山家亨であります」と、挙手の礼をする。
「山家さん、よろしく」
芳子も、初対面を装って軽く頭を下げた。山家が旗手と聞いてうれしかった。連隊の旗手は、成績優秀で、容姿に優れた者が選ばれる。旗手は、女子高生の憧憬の的であった。
「山家君、英語も随分話せるのだろう?」
「まあ、そこそこですよ」
「そうか?たしか、君の母上は……」
浪速が濁した言葉を、山家が続けた。
「はい。私の母はアメリカ人です。でも近頃は、日本語しか話しません。」
「なるほど。こんなご時世だからな。英語を話すと、米国スパイに、間違われる。
君のお父上は外交官時代に結婚したのかね?」
「はい。母も父もクリスチャンで、ワシントンの教会で出会ったそうです」
慎ましく、聞いていた芳子は、山家の話に黙っていられなくなった。
「おじさまは、ハーフでいらっしゃるの?」
「はい。白人と混血なのです。だから、アメリカ女性のように、はきはきしている女性が好きです。
あ、すみません。余計な事を……芳子さん?僕に北京語を教えてくれませんか?」
「ええ、いいわ。
でも、その前に乗馬を教えて下さる?
ねえ、お養父様?
山家のおじさまと、遠乗りに行ってもいいかしら?」
「ははは。芳子の馬好きにも困ったものだ。
すまんが、山家少尉、少しの間でかまわん。芳子のお守を頼む」
芳子は、さっそく乗馬服に着替え、山家と遠乗りに出かけた。
のどかな田舎道を、二人は、馬にまたがって行く。
「応接間に入って、びっくりしたわ。おじさまに又お会いするなんて」
「しかし、芳子さん。君も相当なものだね。まるで、俺達が初対面のように知らんふりしていたじゃないか」
「おじさまのお芝居もお上手だったわ。
ふふふ。お養父様ったら私達、初めて会ったと思っている。授業をサボったこと、バレなくてよかった」
「川島先生が、清の王女様を養女にしたとは、聞いていたけれど。
それが、君だったとは……驚いた」
「私もびっくり。又会えてうれしい!」
山家は、芳子のストレートな言葉が新鮮である。頬が赤くなるのを感じて、あわてて芳子の視線を逸らす。
「ほら、松本城(※)が見える!」
山家は、素っ頓狂な声を出して、白壁の天守閣を指さした。
「日本の城は、おもむきがあってボクは好きだな」
「でも、紫禁城には、かなわないなあー何しろ馬鹿デカイのだろう?」
「小さい頃、紫禁城に招かれた記憶がある。それは、それはまばゆいばかり。
でも、戦争が始まって、西太后様はお城から宣化へ落ち延びてしまった。主をうしなって、紫禁城は、陥落寸前になってしまった。そこへ、川島浪速、が、単身で乗り込んだのよ。そして、籠城していた宮禁兵に城を明け渡すよう説得した。紫禁城が焼けずに残ったのは川島浪速のおかげよ」
「その頃、芳子さんは、紫禁城にいたのですか?」
「いえ。私達は北京の別の城に住んでいたわ。
治安が悪くなり、家族で日本の軍艦に乗って旅順に引っ越したのよ。
実父と、川島浪速は旅順でいっそう仲良くなり……二人の絆の証として私が養女になると決まったの」
「そうか。大人は勝手だな。……今まで、随分、泣いただろう?」
「……いいえ。王である父が私の為に決めた事よ。日本軍が支配する旅順では、充分な教員も受けさせてやれない。それに、激動の時代だから、命を狙われる事もある。優秀な子は、日本に出して育てる。と、おっしゃったのよ。私だけではなく、兄や、いとこ達も、日本に留学しているわ」
芳子は、きっぱりと言い放った。涙は見せたくなかった。いつものように、物分かりのよい聡明な女性を演じた。これも、本心の一部ではある。
粛親王には、六人の妻と三十八人の子供がいた。清朝の皇族は、一夫多妻制である。芳子の母は、最も若く美しかった。彼女は、日本人の血を引き貧しい生まれであり、他の妃と違って、頼る身内は中国にはいなかった。他の妃は、王の寵愛を独り占めしている芳子の母を妬んでいる。粛親王に、もしもの事があれば、自分も十人の子供達もどうなるかわからない……長女の芳子は日本で育てほうがよい…そんな母の血の滲むような決断を、芳子は理解できる年頃になっていた。
山家は、芳子の複雑な心境をすぐに察する事が出来た。寂しさを隠すのは、気位の高い人なのだ。華奢な身体に似合わない強がりを言う少女を、思い切り抱きしめたい……
「あ、ごめん。俺、悪いこと言った」
「いいの。のどが渇いたな。なにか飲もう」
「ああ。腹、減った」
「そうだわ。文子と行った蕎麦屋が近くにある。行こう!」
二人は、馬に鞭をひとふり、蕎麦屋へと駆け出した。
※松本城は、昭和十一年に国宝に指定された、美しいお城です。
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