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【ゾンビの章】第6幕「秘密の部屋」

【ゾンビの章】第6幕「秘密の部屋」

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【25日前
  1月21日
   町田、川崎、世田谷】



「会社のロッカーや引き出しに残された品を受け取りにきてほしい」
 秀明の会社から電話があった。
 相変わらず、ふみえの体調は思わしくなかったので私一人で取りに行くつもりだったが、「秀明の遺品になるわけだから付いてゆく」と言ってきかない。
 ふみえが外出するのは、秀明の事故があってから初めてのことだった。
 あれ以来、食事もほとんど口にしていなかったから、駐車場までのわずかな階段でさへ足をふらつかせて転びそうになる。その度に、私がふみえの身体を支えなければならなかった。
 運転する「カローラ」の助手席でも、ふみえは口を開かなかった。焦点の定まらない眼差しをぼんやりと窓の外に向けているだけだ。

 会社で応対に出てきたのは総務課長だった。
 斑尾という珍しい名前の名刺を差し出したその男は、背中を丸めながら「本当に今回のことはお気の毒で」と繰り返してから、テーブルの上に置かれた小さな段ボール箱を指さした。箱には会社のロゴマークが印刷されていた。
「営業2課の方から引き取ってきました。ご子息の机とロッカーに残されていた品物です」
 段ボール箱を間に挟んで、10分ぐらいだろうか、総務課長は会社での秀明の思い出話をしゃべり続けた。だが、彼の口から発せられた言葉は、片方の耳から反対側の耳へ空虚に抜けていくだけだった。そのうち私達の沈黙に耐えきれなくなったのだろう。「申し訳ありませんが、2時から会議が入ってしまっているものですから」と立ち上がった。
「お忙しい所をすみませんでした」
 私も立ち上がって、頭を下げた。ふみえはうつむいて座ったままだった。私はジャケットのポケットから二つの鍵を取り出した。
「それから、この鍵なんですが」
「鍵、ですか?」
「秀明のキーホルダーについていたんです。家の鍵ではないので、こちらの会社で使っている物かと思いまして」
 総務課長は2個の鍵を受け取ると、掌の上で何度かひっくり返して眺めてから言った。
「こっちは確かに社員用のロッカーの鍵ですが、これは会社の支給品ではありませんね」
 大きい方の鍵を課長は指さした。『BWS』という刻印が書かれた例の鍵だ。
「ロッカーの鍵の方は業務部に届けておきます。こちらはお返しします」
 そう言い残すと、斑尾はそそくさと応接室を出ていってしまった。
 私の手には鍵がひとつ残された。


 秀明の遺品は50センチ四方ほどの小さい段ボール箱に納められていた。
 会社に勤めて3年になるが、その想い出がたったこれっぽっちなのかと思うと、悲しみが込み上げてくる。
その時だ。
 さっきまで、ほとんど何の反応も示さなかったふみえが突然、段ボール箱に右手を伸ばした。
 ふみえは箱の中の品物を取り出し始めた。
 まず、会社のロゴ入りの手帳。秀明はシステム手帳を使っていたから、会社から手帳を支給されても使わなかったのだろう。若い人間が使いたくなるようなデザインではない。
 パスポートも入っていた。
 ふみえがぱらぱらとめくると、出入国のスタンプがべたべたと押されているのが見えた。
 ひとつひとつの品を、愛おしそうに眺めながら机の上に並べてゆく。
 次に箱から取り出したのは、高さ5センチ程の怪獣のフィギュアだった。
 羽を大きく広げたペギラ。電信柱の上で寂しげに腕を組んで座るカネゴン。「タイムスリップ・グリコ」のおまけだと、すぐにわかった。ウルトラマンやSLの書かれたグリコの箱も一個あった。
 秀明を怪獣映画や特撮テレビ好きにしたのは私だった。ペギラやカネゴンは、秀明が生まれるずっと前にテレビで放映された怪獣たちだから、秀明がリアルタイムで見て知っていたわけではない。だが私が昔からの特撮好きだったので、コレクションしたビデオを幼い頃からよく秀明に見せていたのだ。
 その影響で秀明はいっぱしの怪獣フィギュア・コレクターになってしまった。「タイムスリップ・グリコ」の怪獣フィギュア・シリーズが発売されると、おまけ目当てに二人で競い合って買い求めたものだ。そんな私と秀明に、ふみえは半ばあきれていた。しかし、それも今となっては、大切な想い出だった。
 クリーニングの袋に入ったままのワイシャツも2枚あった。繁忙期には会社に泊まり込むこともあったから、着替え用にロッカーに置いておいたのだろう。
 不意に、ふみえの手が止まった。握っていたのは、一本のネクタイだった。
 クリーム色の布地にブルーのストライプが入ったネクタイだ。よく新入社員がリクルートスーツに締めるような、ごくありふれた模様だった。ネクタイを握りしめ、ふみえがささやくような声をあげた。
「この、ネクタイ・・・・、就職活動の時に、私が秀明に買ってあげたのよ」
 ふみえの言葉に、胸を締めつけられた。
「自分でネクタイを選ぶようになってからは、このネクタイはあまりしなくなってしまったのよね。母親が買ったネクタイなんか恥ずかしくなっちゃったのかな、と思ってたんだけど、あの子、ちゃんとロッカーに吊っておいてくれたのね」
 ふみえの両目から涙が溢れてきた。私はふみえの肩を強く抱いた。もともと小柄だった身体がこの一週間足らずの間に二回りも小さくなった気がした。もう一度強く抱きしめた拍子に私の肘がテーブルに当たって、グリコの箱が床に落ちた。
 衝撃で箱のふたが開き、中身が外に飛び出し金属的な音をあげた。箱の中からこぼれ落ちたのは、おまけの怪獣フィギュアではなかった。

 鍵だ。

 形に見覚えがあった。『BWS』という刻印が見えたからだ。
 ついさっき、総務課長から突き返された鍵・・・、あの秀明のキーホルダーに残されていた「謎の鍵」と同じ形だった。
 床から拾い上げると、鍵には細い針金でタグが結びつけられていた。タグには細い手書きの文字で、「フローラルハイツ豪徳寺909号室」と書かれていた。

「フローラルハイツ豪徳寺・・909号室・・・・」

 頭の奥に急にひらめくものがあった。
 鍵に刻まれた『BWS』というメーカー名が一致すると言うことは、二つの鍵は同じ部屋の鍵なのではないのか。
 独身時代に賃貸アパートに住んでいた頃、契約の時に不動産屋から、これと似たタグがついた合い鍵を渡された事があったのを思い出したのだ。
 二つの鍵を重ねてみると、ぴったりと一致する。
 私はタグのついた鍵をふみえに差し出して言った。
「これはきっと、合い鍵だよ」
 意味がわからず、ふみえがつぶやいた。「どういうこと?」
「秀明のキーホルダーに残っていた鍵と、会社のロッカーに残されていたこの鍵は同じ部屋の鍵だ、ということさ」
 ふみえはまだ合点がいかない表情だ。私は続けた。
「この合い鍵の方に書いてあるフローラルハイツ豪徳寺という名前からして、おそらくマンションかアパートの名前だろう。秀明は、そこの909号室を借りていたんだよ」
 ふみえの表情が凍りついた。私の顔と手の中の鍵を交互に見つめる。
「でも、あの子、そんな話は一度も言ってなかったわ・・・・」
 秀明はどちらかというとおとなしい子で、保育園でも他の子供達が滑り台や乗り物で遊んでいても、その輪から一人離れて積み木やミニカーで遊んでいる子だった。
 集団行動についていけない性格なのだろうか、と悩んだ事もある。だが幼稚園に進むにつれて集団生活にも慣れ、小学校に入る頃にはいっぱしのわんぱく坊主になっていった。
 その秀明も、25歳だ。
 若い男が親に内緒で部屋を借りるとしたら、理由はまあ、ひとつぐらいのものだろう。
「きっと、女ね・・・」
 ふみえが、私の頭の中を見透かしたように言った。
「女と一緒に過ごすために、家とは別に部屋を借りたんだわ」

 そういえば、秀明は月に2,3度、会社に泊まると言って帰ってこないことがあった。
 本人は書類の整理や泊まりがけの接待だと言っていた。出張も多かった。営業という秀明の仕事を考えれば、さもあらんとも思うが、少し頻度が多い気もする。

 しかし・・、と「男親」の私は思う。
 目くじらをたてるほどの事じゃない。
 高校時代にはソフトテニス部の副キャプテンでインターハイにまで行ったから、もてないわけではなかったようだ。大学も自宅から通学したが、何度か後輩のガールフレンドを家に連れてきたこともある。就職しても実家から通うのは食事や洗濯などの点では便利だし、家賃を払う必要もないから金の節約にはなるだろうが、やはり親に監視されているようで気詰まりでもある。特に彼女でもできればなおさらだ。自分の給料をやりくりして、どこかに安い部屋を借りたからといって、責められる筋合いはないだろう。
 しかし、これが母親と父親の違いなのかもしれない。父親は我が子を「理性的」に愛するが、母親は「本能的」に愛する。
 ふみえの中で、その母親の「本能」が弾けた。「本能」が強ければ強いほど、そこから生まれる感情のうねりも大きくなる。自分の知らない間に、息子が他の女と逢瀬を重ねるための部屋を借りていた。ふみえの頭の中では、そんな妄想が限りなく膨らんでいるのだ。
「あなた」
 ふみえは憤然と言い放った。
「確かめに行きましょう」
「どうやって確かめるというんだ。アパートかマンションかもはっきりしないし、名前しかわからないんだぞ」
「でも、名前に豪徳寺って付いているって事は、住所が豪徳寺ってことじゃないの」

 確かに、その可能性はある。
 興奮しているように見えて、妻の方がよっぽど冷静だったようだ。私が家から狛江の高校まで通っているのは小田急線だが、沿線に「豪徳寺」という駅がある。たしか世田谷区になるはずだ。そこまで行って、交番ででも尋ねれば見つかる可能性はあるかもしれない。


 私たちは秀明の会社に近いJR南武線の武蔵中原駅前で駐車場を探して車を停め、電車で豪徳寺に向かうことにした。世田谷のあの辺りは道が狭いうえに一方通行の道が複雑に入り組んでいる。車で探すのはかえって手間がかかると思ったのだ。
 電車の中では、二人とも口をきかなかった。部屋の鍵は2つともふみえがしっかりと握りしめていた。

 「豪徳寺」の駅舎は思ったよりも小さかった。
 駅を出ると、商店街が続いている。派出所の場所は駅員に聞いていた。
 狭い派出所の中には、大柄な警官が一人いた。小さな机に向かって大きな背中を丸め、日誌のような物に何かを書き込んでいる。入り口の私たちに全く気がつかないようだった。
「あの・・・」
 私が声を掛けようとすると、待ちきれずにふみえが割り込んできた。「家を探しているんです。フローラルハイツ豪徳寺というという名前なので、おそらく、この辺りにあると思うんですが・・・」
 顔を上げた警官は切れ長の目がキツネを思わせた。
「フローラルハイツ豪徳寺?」
 警官は少し考えてから言った。
「聞いたことがないなあ」
「そうですか・・」
 ふみえの声に落胆の響きが滲む。
 警官が立ち上がった。
「調べてみましょう。しばらくここで待っててもらえますか」
奥の部屋に入っていき、しばらくすると白い表紙の分厚い冊子をめくりながら出てきた。「ハ、ヒ、フ・・、フローラル、フローラルと・・」
 ページをめくっていた指が止まる。
「あった!ありましたよ。フローラルハイツ豪徳寺ね!ああ、あの辺りか・・・、しかし、本当に記憶が無いなあ」
 わかりにくい場所にあるというので、警官が簡単な地図を書いてくれた。     
 

「フローラルハイツ豪徳寺」は商店街から一本奥に道を入った裏通りにあった。
 9階建ての、なんの変哲もないマンションだった。新築ではないが、そんなに古くも見えない。周囲の風景に溶け込んでしまって、まったく目立たない。
 派出所の警官が記憶に残らないのも無理はなかった。
 入り口はオートロックになっていた。
 ふみえが途方に暮れたように言った。
「どうしよう・・・。暗唱番号なんてわからないわ」
 ガラスドアの向こうに管理人室が見えた。
 中には初老の男が座っている。下を向いて雑誌か何かを読んでいたが、私達を訪問販売員とでも思ったのだろう。顔を上げて、不審な目つきでこちらを見た。ドアの脇にはオートロックを解除するための鍵穴があった。
「あの鍵がこのマンションの鍵なら、そこの鍵穴に突っ込んで回せば、開くはずだ」
 ふみえが慌ててハンドバッグの中から鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。会社で見つけたタグ付の鍵の方ではなく、秀明のキーホルダーについていた鍵だ。
 鍵はあっけないほど簡単に回った。
 自動ドアが鈍い音を立てて開く。
 こちらを見ていた管理人の男は安心したように再び視線を手元の雑誌に戻した。



 「909号室」は最上階の一番奥の部屋だった。
 玄関の表札には、世帯主の名前も何も書かれていない。
 鍵を差し込んでみる。
 鋼鉄製のドアは「キイ」と甲高い音を立てて開いた。
 畳半畳ほどの狭い玄関。壁には一枚の絵が掛かっていた。
 縦が約80センチ、横が60センチほどの油絵だ。
 本物かレプリカなのか、私には判別できない。
 額縁の下には、小さな金属のラベルが貼ってあり、文字が刻まれていた。


『アルノルフィニ夫妻の肖像
     1434年
  ヤン・ファン・エイク作』


 作者がどうゆう意図で、この絵を描いたのかはわからないが、私には奇妙な恐怖を感じさせる絵だった。
 暗いトーンの色彩。薄暗い室内に2人の男女がたたずんでいる。天井にはシャンデリアが吊られ、左端にある窓からうっすらと外の光が差し込んでいる。夫妻の肖像というからには、左に立っているのが夫なのだろう。男はなぜか黒い大きな帽子を目深にかぶり、膝まであるマントのような衣装を身につけていた。顔は不気味なほど白く、うつろな目でこちらをみている。右手を拝むように胸の高さに挙げ、左手は隣に立つ妻の右手に添えられていた。
 妻の方は緑色のたっぷりとしたドレスを着ている。頭には白い布をかぶっていた。お腹の部分が膨らんでいる。妊娠しているのだろうか。女はまるで間もなく生まれてくるであろう我が子を愛おしむかのように、大きなお腹の上に左手を置いている。

 少なくとも私には、そう見えた。
 それにしても、不思議でならない。自分の子が誕生するというのに、この夫の表情はなんだろう。二つの瞳はただ顔の中央に穿った穴のように、感情が読みとれない。黒ずくめのおかしな衣装も、なんとも不釣り合いだった。この絵を眺めていればいるほど、胸の奥底から不安感がこみあげてくるのを抑えきれなくなってくる。


 ニューバランスのウォーキングシューズを脱ぎ、中へと入る。
 玄関に他に靴は一足もなかった。廊下には何の装飾品も飾られてはいない。
 廊下に面して右側と正面にふたつ、ドアが見えた。2DKのようだ。最初のドアを指さして、ふみえに聞いた。
「開けて、みるか?」
 私の背中に身を隠すようにして付いて来ていたふみえが、うなずく。
 ノブを握ると、ひんやりとした感触がした。
 回して、ドアを押した。
 部屋は四畳半ほどの広さだ。何ひとつ家具がなかった。窓にカーテンさへ無い。全く生活の痕跡がないのだ。窓から差し込む光にフローリングの床が冷たく光っているだけだ。
「お前が心配していたように、秀明が女と一緒に暮らしていたってことはなさそうだな」
 ふみえが不満そうに言った。
「もうひとつの部屋も見てみないと、わかりゃしないわ」
 空っぽの部屋を出て、奥の部屋へと向かう。今度はふみえが前を歩き、ドアを開けた。
 入り口の所でふみえが凍りついた。
 息を飲んだのが、背後からでもわかった。
「どうした?」
 声を掛けたが、返事がない。後ろを振り返りさへしなかった。
「おい、一体なにが・・・」
 私は立ちすくむふみえの肩を押しのけて室内に入った。
 室内は薄暗かった。隣の部屋とは違って、遮光カーテンが引かれていたのだ。
 室内を見回す。今度は私が息を飲む番だった。

「なんだ、この部屋は・・・・・」

 十畳くらいの部屋一杯に、ビニールの蚊帳(かや)のようなものが吊られているのだ。
 床一面にも同じくビニールのシートが敷かれている。
 部屋の中央には、白いベットが置いてあった。
 まるで、そう、アメリカのテレビドラマに出てくる「救急救命室」、あれに似ている。
「スイッチを」
「えっ?」
 壁際に佇んでいたふみえが聞き返した。
「電気のスイッチだよ。お前のすぐ脇にあるじゃないか」
「あ・・、ああ、これのことね」
 震える指先でふみえがスイッチを押す。室内がぱっと明るくなった。
 明かりの下で見回してみると、改めて、この部屋の異様さが認識できた。
 ベットに掛けられていたのは白いシーツではなかった。表面を覆っているのは白い光沢のあるビニールだった。妙なことに、ベットの腰の部分と足首の部分には皮のベルトが取り付けてある。まるで、このベットに横たわった人間を動けないように拘束するためのようだ。
 ベットの脇には金属製の医療器具が並べられていた。メスのような物もあれば、ノコギリのような器具もある。どれもきれいに磨き込まれ、蛍光灯の光にぎらぎらと輝いていた。
 さらに床には大きなポリタンクが置いてある。中は透明な液体で満たされている。水だろうか。その隣にはモップが一本、転がっていた。モップの先についた毛の部分は、なぜか赤茶色に変色していた。
 もっと、おかしなことがあった。
 部屋の壁際に、巨大な冷蔵庫が置いてあるのである。
 他に家具らしき物は何ひとつないのに。
 しかも、男の一人暮らしにしては大きすぎた。
「なんなの・・・、ここ?」
 ふみえの問い掛けに私は答えられなかった。
「こんな部屋で、秀明は、一体、何をしていたというの?」
 やはり、答えられない。
 もう一度、室内を見回して考えるしかなかった。
 
 まるで、人を縛りつけるためにあるようなベット・・・。
 入念に手入れされた鋭利な手術道具・・・。
 なにか「色の付いた液体」を拭き取ったために、赤く変色してしまったモップ・・・・。
 不意に、私の頭の中に、とてつもなく恐ろしい考えが閃いた。
 
 
 しかし、そんなことが・・・・。
 ・・・ありえない・・。
 ありえるはずが・・・ない。

 だが、そう考えると、この部屋にあるものすべてに説明がつく気がした。

 
 床一面に張られたビニールシート。
 これは「赤い液体」が床や壁に飛び散るのを防ぐためのものではないのか。
 ベットに布のシーツではなく白いビニールが張られているのも同じ目的ではないのか。
 ポリタンクの水は床に溢れたその液体を洗い流すのに使うのでは・・・・。
 私は部屋の隅に置かれた巨大な冷蔵庫を凝視した。
 すると、あの冷蔵庫の中にあるのは・・・。
 まさか、それは・・・。

 何度も頭を振って、恐ろしい推測を打ち消そうとした。
 その時、ふみえが冷蔵庫に歩み寄るのが見えた。混乱のあまり、独り言を呟いている。
「女よ。女に決まってるわ。どうせ、この中にだって、作り置きの料理か何かが入っているに決まってるわよ」
 ふみえが冷蔵庫の取っ手に右手をかけた。
「馬鹿っ!やめなさい!そこは・・・」
 私は叫んだ。止める間もなく、ふみえは一気に冷蔵庫のドアを開けた。


 ふみえの身体は一瞬硬直し、すぐに糸が切れたマリオネットのように、その場にへたりこんだ。
 そのせいで、ふみえの背後にいた私の位置からも冷蔵庫の中がはっきりと見えた。
 冷蔵室からは白い冷気があがり、開いたドアから外にまで漏れだしていた。
 白い冷気に包まれながら、そこに並んでいたのは首だった。
 人間の生首だ。
 目を背けようとしたが、背けられなかった。
 瞳を閉じようとしたが、閉じられなかった。
 凍りつき、顔の表面には真っ白な霜がこびりついてはいるが、間違いなく人間の首だった。
 それも、女性ばかり、四つだ。
 上の段にふたつ、そして下の段にふたつ。
 それぞれの首の隣には、やはり切断された腕が一本ずつ並んでいた。
 慌てて冷蔵庫の扉に手をかけ閉めようとした。だが、冷蔵庫のすぐ前に座りこんでいるふみえの身体が邪魔をして、ドアを閉めることができない。
 仕方なく、ふみえの脇の下に両手を突っ込んで、後ろに引きずってから、扉を勢いよく閉めた。「バタン!」と激しい音がして、室内には静寂が戻った。
 さっきよりも肌寒く感じるのは、冷蔵庫の冷気のせいか。いや、そうじゃない。
 ふみえは仰向けで両肘を床についたまま、冷蔵庫を見つめていた。目を離すことができないのだ。両目を見開いたまま、汚れた水槽でエラ呼吸ができなくなった金魚のように、口をパクパクさせながら喘いでいる。何かを叫びたいのだろう。なのに、言葉が出てこないのだ。
 私もうまく呼吸ができず、肩で大きく息をしていた。冷蔵庫を開けていた時間はおそらく1分もなかったはずだ。  
 だが、四つの生首の映像は鮮明に網膜に焼き付き、消そうとしても消えなかった。
「なんなのよ・・・」
 ようやく一言だけ、ふみえがいった。 



 私はふみえを引きずるようにして、部屋を飛び出した。
 一秒でも早く、この場所を立ち去りたかった。エレベーターホールでは、何度も強くエレベーターのボタンを押した。そんなことをしたって、早く昇ってくるわけはないとわかっているが、やめられなかった。
 エレベーターに飛び乗って、一階まで下っている間も、まるで止まっているように遅く感じた。途中で誰も乗り込んでこないよう祈り続けた。
 ようやく一階に辿り着いた時も、ドアが完全に開くのを待つのがもどかしく、両手を突っ込んで、こじ開けるようにして外へ飛び出た。
 動揺したままのふみえの手を引っ張りながら、管理人室の前を早足で通り過ぎる。管理人は相変わらず、雑誌を読み続けていた。管理人室の小窓の脇に小さなプレートが立ててあり、「業務時間 午前9時~午後7時」と書かれているのが、一瞬目に入った。出口の自動ドアを出た所で、私は立ち止まった。

 ふみえが不安な眼差しで、私を見た。
「どうしたの・・・?」


 このまま立ち去ってしまっていいのか・・・。


 幸い、管理人は私達を疑ったりはしていないようだ。鍵を使ってオートロックを開けたから、住人を訪ねてきた家族とでも思っているのだろう。
 このマンションで秀明がどうゆう暮らしをしていたのか。尋ねられる唯一の機会かもしれない、と思った。
「ここで、ちょっと待っていなさい」
 そう告げると、明らかにふみえは狼狽した。
「どこに、行くのよ」
「管理人と少し話すだけだ。すぐに戻るから」
 しがみつこうとする手を振り切って、私は管理人室に近づいた。
 小窓を開けて、なるべく平静を装って、話しかけた。
「すいません。あの、私たち、909号室の住人の」
 そこで、言葉が詰まった。
 住人のなんだと言えば、一番不自然に見られないだろうか。
 すると作業着姿の白髪の管理人が眼鏡を外しながら笑顔を浮かべて言った。
「ああ、宮守さんのご両親ですか」

 驚いた。
 秀明は、あんな事を繰り返しながら、偽名ではなく本名でマンションを借りていたのか。
「ええ・・・・」
 動揺を必死で隠しながら、うなずいた。
「今時、たいへん良い息子さんをお持ちですなあ。いつも、明るく挨拶してくれてねえ」
「・・・ありがとうございます」
「ご両親の育て方がよかったんでしょうな」


 育て方?
 それが、間違っていたのか?
 私の方が教えてほしかった。


「しかし、大変ですねえ。海外出張が多くて」
「海外出張?」
 声をあげてしまった。
「よく、大きなスーツケースをゴロゴロ転がして出ていきましたよ。車に積み込んで、これから成田まで行くってね」
「車に?」
「ええ、黒のワンボックスカーですよ。駐車場に停まってたでしょう」
「ああ・・・、あれですか」
 話を合わせた。
「管理人さんにはいつも大変お世話になっていると、息子が言っていました」
「いやいや、そんなことはありませんよ。こっちも仕事ですから。そう言えば、最近姿を見ませんが、またどこかの国に出張ですか」
 私は曖昧にうなずいた。
「ええ、今度はちょっと長くなりそうで」
「お忙しいですなあ」
「今度改めて、お菓子でも持ってお礼に伺いますよ」
 軽く会釈をして、ドアの所に引き返した。
 あとは、ふみえの手を引き、一目散に駅を目指して歩いた。ふみえの足がもつれようと、引きずるようにして歩き続けた。
 その間に考えていたのは、部屋の鍵をきちんと閉めただろうか、ということだ。
 閉めたはずだ。いや・・・・。動転していて、忘れたかもしれない。
 戻った方がいいか。
 だが、今、あの部屋に戻る勇気は、私にはなかった。
 来た時よりも何十倍もの距離に感じた。なんとか豪徳寺の駅にたどり着き、小田急線に飛び乗った。電車を乗り継ぎ、車を停めた武蔵中原の駅に向かう間、二人とも何もしゃべろうとはしなかった。
 あのマンションに向かう時も同じく無言だったが、今回は沈黙の質が違った。
 人間は心の芯から驚いた時には言葉など出てこないものだという事がよくわかった。
 私とふみえは、ただ無言のまま、電車のシートに座っていた。私達の周りはぶよぶよとした透明なゼリー状の膜に包まれていた。膜の中には、驚きと絶望と悲しみとが隙間なく詰まっていて窒息しそうだった。
 途中、何度か電車を降りる羽目になった。ふみえが嘔吐したのだ。
 電車を降り、ホームの端で激しくもどすふみえの背中を、私はひたすらさすり続けた。
 ふみえが吐き気をもよおしたのは、単に、切断された生首を目撃したからではなかっただろう。自分の大切な息子がおぞましい犯罪に手を染めていた。それを認めなければいけないことに、身体が拒否反応を示しているのだ。
 気持ちは、私も同じだった。


 武蔵中原の駅前にある駐車場にたどり着いた時には、もう夕方になっていた。
 駐車場には、まだ照明は灯っておらず、薄暗かった。暗い車内に、私とふみえは茫然自失として座り込んでいた。
「あなた、あれって、やっぱり・・・・」
 うつむいたまま、ふみえが口を開いた。消え入りそうな声だった。
「秀明がやったってこと?」
「そう、考えるしかないだろうな」
「あの子が・・・首狩りジャックだってことなの?」
「かもしれん」
「なぜ、あの子が・・・、あんな、恐ろしいこと・・・・・」
「わたしにも、わからんよ。まったく、わからん」
「うちの親戚筋で今まで、警察の世話になった人間がいたなんて聞いたことがないし、あなたの親戚にだって、そんな人・・・」
「わたしだって聞いたことがないよ」
「じゃあ、なんで・・・」
 ふみえが自分の両膝の間に顔を突っ込むようにして泣き始めた。
 薄暗い「カローラ」の車内にふみえの嗚咽が響き続ける。その声を聞いているうちに、私も涙がこみあげてきた。

 一体、人は、どれくらい泣き続けられるものだろう。
 涙が涸れれば、悲しみも涸れるのか。
 それなら、泣きたいだけ、泣けばいい。
 だが、実際は違う。
 涙が枯れ果てても、悲しみは薄らぐことなどない。
 しかし、泣かずにはいられなかった。

 泣いて泣いて、ぼろぼろになったふみえが呟くように言った。
「私達、育て方を間違っていたのかしら」
 私に尋ねているが、きっと自分自身にも訊いている。
「幼い時に親に虐待された子供は犯罪に走るケースがあるって、週刊誌か何かで読んだ事があるけど、わたしたち、秀明に虐待なんてした覚えもないし」
「いたずらをすれば叱ったりもしたが、それだって常識の範囲内だったと思うよ」
 二人とも必死で考えていた。
「何年か前に中学生の凶悪事件が起きた時だったかな、母親の溺愛が人格形成に重大な影響を及ぼす、ってテレビで言っていたことがあったが」
「わたし、溺愛なんてしてないわ」
 ふみえがムキになって言った。
「わかってるよ。ずっとお前のそばで見てきたんだから」
「じゃあ・・、なぜよ・・・」
「私にも皆目、わからん。誰か知っていたら、教えてほしいよ」
「どこで、間違ったのかしら」
「そんなことは・・・」
 ないさ、と言いかけて、やめた。
 自分達は我が子をきちんと育て上げてきた。ずっと、そう思ってきた。しかし、その結果を今日、目の当たりにしてしまったのだ。
 信じていた自分の子供が、信じられない犯罪に手を染めていたのだ。
「結果的には・・・、そういうことになるんだろうな」
「わたし、未だに信じられないの。この目で、あんなものを見たのに。秀明がやったなんて、どうしても思えないの」
 私だって同じだった。
 だが、事実を受け入れるしかない。
「あの部屋にある物が、もし誰かに見つかったら、秀明はどうなるのかしら。だって、あの子は、もう死んでしまったわけだし、警察だって、もう逮捕なんてできないじゃない」
「たとえ犯人が死亡していても、被疑者死亡のまま起訴されるという話を聞いたことがある。だから、警察は連続猟奇殺人事件の犯人として秀明の名前を発表するだろう。テレビや新聞でも、デカデカと報じられるさ」
 ふみえは黙りこくってしまう。
「私達だって責任をとらなきゃいけない」
 私は車のシートに深く身体を沈めた。
「秀明が殺めた女性達にも親御さんがいるわけだからね。犯人が死んだからといって怒りや悲しみが薄れるわけじゃない。相手にしてみたら、親だって同罪だろう。いや、直接手をくだした人間がもうこの世にいないだけに、なおさら憎悪は私達に向けられるかもしれない」
 ふみえは黙ったままだ。
「それに、マスコミだって黙っていないだろうさ。今まで何度も見てきたじゃあないか。マスコミの報道の嵐にさらされる犯人の家族達を。今までは視聴者の側から見てきただけだったが、今度はテレビ画面の中にいるのは私達なんだ。全国の人間が、カメラに追いかけ回される私とお前の姿を見ながら、眉をひそめ、あざけりの声をあげるんだ」
 自分達の事を言っているのに、なぜか現実感がなかった。実際に目撃したあの部屋の様子でさへ、いまだに夢のように思えるのだ。しかし、秀明の部屋の内部が誰かに知られれば、百パーセント確実にやってくる現実なのだ。
「私達はどうなってもいいのよ。我慢するしかないもの。ただ」
「ただ、なんだ?」
「秀明のことは何とかならないか、と思って」
「なんとかって言ったってな」
「秀明をさらし者にしたくないのよ」
 今度は、私が黙り込む番だった。
「だって、秀明は死んだのよ。それも、あんなひどい死に方をして」
 ふみえの両目から、再び涙があふれた。
「秀明は死んで、もう充分償いをしたと思うの。そう考えなければ、わたし、耐えられない。あんなに苦しんで命を落としたんだもの。なのに、いまさら、秀明が連続殺人の犯人だったって公表する必要があるの」
「しかし、お前も見たろう、あの部屋を。誰かが見たら言い逃れなんてできないぞ」
 その時、ふみえが衝撃的な一言を口走った。
「でも、今は、私達二人以外には、誰も知らない」

 はっとして、私はふみえの顔を見た。
 薄暗かったが、私を見るふみえの瞳の中には、決然とした意志の炎が揺らめいていた。
「あの子を連続殺人犯になんか、させない」
 ふみえが思い詰めた表情で言った。
「あなた、部屋に戻りましょうよ」
「戻るって!なんのために?」
 私の目をまっすぐに見つめて、ふみえが言った。
「冷蔵庫の中の物を、始末するのよ」



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 『リモート刑事 笹本翔』は、過去のトラウマと戦う一人の刑事が、リモート捜査で事件を解決していく、刑事ドラマです。  主人公の笹本翔は、かつて警察組織の中でトップクラスの捜査官でしたが、ある事件で仲間を失い、自身も重傷を負ったことで、外出恐怖症(アゴラフォビア)に陥り、現場に出ることができなくなってしまいます。  それでも、彼の卓越した分析力と冷静な判断力は衰えず、リモートで捜査指示を出しながら、次々と難事件を解決していきます。  物語の鍵を握るのは、翔の若き相棒・竹内優斗。熱血漢で行動力に満ちた優斗と、過去の傷を抱えながらも冷静に捜査を指揮する翔。二人の対照的なキャラクターが織りなすバディストーリーです。  翔は果たして過去のトラウマを克服し、再び現場に立つことができるのか?  翔と優斗が数々の難事件に挑戦します!

騙し屋のゲーム

鷹栖 透
ミステリー
祖父の土地を騙し取られた加藤明は、謎の相談屋・葛西史郎に救いを求める。葛西は、天才ハッカーの情報屋・後藤と組み、巧妙な罠で悪徳業者を破滅へと導く壮大な復讐劇が始まる。二転三転する騙し合い、張り巡らされた伏線、そして驚愕の結末!人間の欲望と欺瞞が渦巻く、葛西史郎シリーズ第一弾、心理サスペンスの傑作! あなたは、最後の最後まで騙される。

さよならクッキー、もういない

二ノ宮明季
ミステリー
刑事の青年、阿部が出会った事件。そこには必ず鳥の姿があった。 人間のパーツが一つずつ見つかる事件の真相は――。 1話ずつの文字数は少な目。全14話ですが、総文字数は短編程度となります。

シグナルグリーンの天使たち

ミステリー
一階は喫茶店。二階は大きな温室の園芸店。隣には一棟のアパート。 店主やアルバイトを中心に起こる、ゆるりとしたミステリィ。 ※第7回ホラー・ミステリー小説大賞にて奨励賞をいただきました  応援ありがとうございました! 全話統合PDFはこちら https://ashikamosei.booth.pm/items/5369613 長い話ですのでこちらの方が読みやすいかも

カフェ・シュガーパインの事件簿

山いい奈
ミステリー
大阪長居の住宅街に佇むカフェ・シュガーパイン。 個性豊かな兄姉弟が営むこのカフェには穏やかな時間が流れる。 だが兄姉弟それぞれの持ち前の好奇心やちょっとした特殊能力が、巻き込まれる事件を解決に導くのだった。

国民的ゲーム

乙魚
ミステリー
超短編ミステリーです。

それは奇妙な町でした

ねこしゃけ日和
ミステリー
 売れない作家である有馬四迷は新作を目新しさが足りないと言われ、ボツにされた。  バイト先のオーナーであるアメリカ人のルドリックさんにそのことを告げるとちょうどいい町があると教えられた。  猫神町は誰もがねこを敬う奇妙な町だった。

伏線回収の夏

影山姫子
ミステリー
ある年の夏。俺は15年ぶりにT県N市にある古い屋敷を訪れた。某大学の芸術学部でクラスメイトだった岡滝利奈の招きだった。かつての同級生の不審死。消えた犯人。屋敷のアトリエにナイフで刻まれた無数のXの傷。利奈はそのなぞを、ミステリー作家であるこの俺に推理してほしいというのだ。俺、利奈、桐山優也、十文字省吾、新山亜沙美、須藤真利亜の六人は、大学時代にこの屋敷で共に芸術の創作に打ち込んだ仲間だった。グループの中に犯人はいるのか? 脳裏によみがえる青春時代の熱気、裏切り、そして別れ。懐かしくも苦い思い出をたどりながら事件の真相に近づく俺に、衝撃のラストが待ち受けていた。 《あなたはすべての伏線を回収することができますか?》

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