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【ゾンビの章】第5幕「紫傘の珍客」
【ゾンビの章】第5幕「紫傘の珍客」
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【1月20日 町田】
昨日の天気は覚えていない。
今日は、朝から雨が降り続いている。
秀明の事故から2日が経っていた。遺体はまだ戻って来ていなかった。警察の話では、検死は終わったが、損傷の酷い箇所をプロに頼んで修復してから、ということだった。
達仁の死の直後はなんとか気丈にふるまっていたふみえだが、今回は病院から戻ってもずっと寝こんだままだった。居間の隣にある寝室から一歩も外に出てこない。
私はといえば、酒浸りだった。
朝から何も食わず、ひたすら飲み続けた。買い置きしていた2ケースの缶ビールもすぐに飲み干した。3本あったウィスキーも空になり、台所の料理用の日本酒まで空けた。
さすがに達仁が本棚にしまっておいたシングルモルト・ウィスキーに手をつけるのだけは止めた。亡くなってから日が経っていない。好きだったマッカランを飲んでしまっては申し訳ない、と思ったからだ。ただ、いつまで我慢できるものか、自信は無かった。
アルコールが脳みその隅々まで染みこんで、ジクジクと外までしみ出してきそうだった。
酔っても酔っても、浮かんでくるのは秀明のことばかりだった。
秀明は子供の頃に薬が飲めなかった。ジュースに混ぜても、アイスに混ぜても、鋭敏な舌で察知してしまう。熱が出て寝込んだ時には、仕方がないのでふみえと二人で押さえつけ、無理矢理に口をこじ開けて飲ませたこともある。
でも、吐き出してしまう。
だから、風邪をひく度にこじらせてしまった。4歳の時には悪化して肺炎になり入院するはめになったこともある。24時間交代で妻と付き添ったが、こちらも体力が消耗していたのだろう。私も病院で倒れ、点滴を受けた。肺炎が伝染ってしまったのだ。
結局、一週間ほど入院することになったが、それでも、秀明をうらむ気になど全くならなかった。むしろ、秀明と同じ病気で同じ病院に入院したのが嬉しかったし、倒れるまで子供の看病をした自分が誇らしかった。
いっそ、このまま、狂ってしまいたい。
文学青年を気取っていた学生時代に読みふけった中原中也の詩。その中の『春日狂想』の一節が、繰り返し頭の中で回っていた。
『愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。
愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。』
中原中也も二十九歳の時、子供を失った。その衝撃で神経を病んだ、とも言われている。
そして、「在りし日の歌」の詩稿を小林秀雄に託し、死んだ。
直接の死因は急性脳膜炎だが、息子の突然の死が、彼の心と身体を死へといざなったに違いない、と私は思う。
『愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。』
自殺衝動に必死で抗いながら、私がなんとかこの世にとどまらなければ、という思いにしがみついていたのは、ふみえのためだった。
父が死に、子供を失った。私がこのまま壊れてしまったら、ふみえはおそらく一人で生きてはいけない。
深夜にふみえの寝室を覗いてみた。
医師が処方してくれた睡眠導入剤が効いているのか、よく眠っていた。
ベットサイドの床に座り込んで、しばらく寝顔を見ていた。この何週間かで、4歳も5歳も年をとったように見えた。目を閉じたままのふみえに向かって、私はアルコールで呂律の回らなくなった舌で話しかけていた。
「咲恵さんから電話があったよ。秀明が保険に入っていてね、今回の事故で2500万円の死亡保険金が支払われるそうだ」
もちろん、ふみえは答えない。
「なんてことだ、よりによって2500万だなんて・・・」
あとは、何を言ったか、よく覚えていない。
秀明に会いたい。せめて、もうひと目だけでも、会って話がしたい。そんなことを泣きながら、繰り返していた気がする。
そのうち、酔いつぶれて暗い闇の底へと落ちていった。
遠くから「音」が響いてきていた。
「音」は段々と大きくなってくる。
しばらくして、電話の音だと気づいた。
顔を上げると、寝室だった。ふみえが寝ているベットに突っ伏したまま、眠ってしまったらしい。ふみえはまだ眠っている。
枕元のコードレスホンを取った。亡くなった義父の知り合いからだった。
ひどい二日酔いの状態だったので、この時に相手が何を話したのか、あまりよく思い出せない。近くまで来たので、ぜひお線香をあげさせてほしい、というような話をしたと思う。
私は、息子が事故で死んで取り込んでいるので勘弁してもらえないかと言った気がする。しかし、相手は引き下がらなかった。秀明の事故の事も知っていた。
そうだ。一言だけ、相手が言った事をはっきりと覚えている。
男は最後に、こう言ったのだ。
「息子さんの事故にも関係があるかもしれないんです。ほんの少しでも結構です。お目にかかれませんか」
この一言が心に引っかかって、私はしぶしぶ男の来訪を承諾した。
電話を掛けてきた男は、約束した午前10時きっかりにやって来た。
年齢は60歳前といったところか。仕立ての良さそうなジャケットを着ていた。短く刈り込んだ白髪を七三に分け、太いフレームの眼鏡をかけていた。
玄関先で紫色の傘を畳みながら、男は「平といいます」と低い声であいさつした。
仏壇に手を合わせた男は、達仁の遺影の前に置かれたカメラに目を止めた。
「ライカのM3ですね」
「義父は倒れた時も、このカメラを大事に磨いていたものですから」
「宮守先輩と言えばこのM3を思い出します。ベトナム戦争でピュリツァー賞を受賞した沢田教一もこのカメラを使っていたそうです。ちょっと触らせていただいてもいいですか」
私は黙ってうなづいた。体中からアルコールの臭いをぷんぷんさせていたはずだ。しかし、男はまるで気にしないかのようにカメラを手に取り、重みと感触を楽しむようにひっくり返して底を見た。
「今のカメラと違って、こいつはフィルムをボディの底から装填するんです。ボディの強度を重視したからです。それに他のカメラと比べてシャッター音が小さい。戦場ではわずかな音でも命取りになりますからね」
男は元の位置に丁寧にM3を戻すと、「全部、宮守先輩からの受け売りですが」と照れたように笑った。
私は用意した急須からお茶を注いだ。
「すいませんね、お茶ぐらいしかなくて。息子があんな事になって、妻が体調を崩してしまいまして。今も隣の寝室で寝ているものですから」
平はすまなそうに首を振った。
「無理もありません。宮守先輩・・・、いや、お父様の葬儀から日も経っていないのに、息子さんまであんな事になれば」
「私一人じゃ、お茶菓子のある場所もわからないんです」
男は名刺入れから名刺を取り出した。
『毎日新報 写真部長 平則夫』と書いてあった。
「毎日新報、といえば・・・」
「はい、亡くなったお父様の会社の後輩です」
「そうですか、義父が生前お世話になりまして」私は小さく頭を下げた。
「世話になったのは私の方です。初めてお会いした時、宮守先輩はもう足を悪くされていて、写真部のデスクをしていました。正直言うと、社内には先輩を嫌っている人間もだいぶいました。なにしろ、ああいう方でしたから」
私が苦笑すると、平がはっと気づいて頭をかいた。
「すみません。こんな時に言う事ではありませんでした」
「いえ、その通りですから。なんでも、ずばずば言う性格でしたからね。私は義父のそういう所が嫌いじゃなかったんですが、平さんは付き合うのが大変だったんじゃないですか」
「とんでもない。むしろ、ずいぶん可愛がってもらいました。私は記者志望で毎日新報に入ったんですが、最初に写真部に配属されて、くさっていたんです。生意気ざかりでしたから、随分先輩達に反抗もしました。でも、逆に写真に関してずぶの素人だったので、宮守先輩がおもしろがってくれて、手取り足取り、いろいろ教えてもらいましたよ」
平は実に懐かしそうに、昔の義父の話をした。だが、私の方は二日酔いと溜まった疲労で頭ががんがんしていた。思い出話は早々に切り上げたかったので本題を切り出した。
「あの、電話でおっしゃっていた件ですが」
「そうでした。まず、それをお話しなければ」
平は背筋を伸ばし、居ずまいを正した。
「宮守先輩が写真部門で2回、新聞協会賞をもらっているのはご存じですよね」
「実は恥ずかしながら、この間まで全く知らなかったんですよ。義父が亡くなって、押し入れを整理していたらパネルが出てきて、それで、初めて知ったぐらいでして。家内が言うには、義父はその事については話したがらなかったそうですから」
「無理もないです。辛いことが続きましたからね」
当時社内で起きたことについては、平の方がふみえよりもよっぽど詳しいはずだ。義父が実の娘にも言えなかったような生臭い話もあっただろう。だが、平はそれ以上詳しい話をしようとはしなかった。そこで、私の方から尋ねた。
「でも、何故なんでしょうか?」
押し入れの奥で埃をかぶった2枚のパネルを見つけた時から胸の奥にくすぶり続けていた疑問だった。
「だって、そうでしょう。新聞協会賞といえば、ジャーナリストにとって最高の勲章じゃないですか。誰もが一生に1度でも取れればいいと願っているわけでしょう。そんな賞を2度も取ったんですよ。そのために社内でひどい目にあったとは言っても、話ぐらいはしたっていいじゃないですか」
さらに言葉を続けようとするのを遮るように平が口を開いた。
「それには、心当たりがあります」
「えっ?」
今の言葉の真意を測りかねて、平の顔を見た。平はまっすぐに私の眼を見ながら言った。
「パネルの写真はご覧になりましたか?」
私はうなずいた。
「1度目の受賞は、崩れ落ちる兵士をとらえた写真です。そして、2度目は」
「飛行機が空中爆発した瞬間ですよね」
今度は、平がうなずいた。
「宮森先輩に、よく聞いていたんです。どうしたら、そんな凄いスクープ写真を2回もものにできるんですか、って。もちろん、いつも笑っているだけで、答えてはくれませんでした。でも、一度だけ、かなり酔っぱらって、先輩が言ったことがあるんです」
「義父は、なんと・・言ったんですか?」
平は、ちょっと躊躇してから言った。
「あれは、俺の実力じゃあない。『黒い手』のおかげだ、と」
私は息を飲んだ。
「黒い手」というのは、あの手のことか。
「実は今日お訪ねしたのも、その件と今回のご子息の事故とが関連があるかもしれない、と思ったからなんです」
「息子の事故と?」
「ええ」
「『黒い手』というのは?」
「先輩はP国の傷痍軍人病院の取材で知り合った兵士から、あれを手に入れたと言っていました。名前はうろ覚えですが、確かグリーンとかいったかな。彼は反政府ゲリラの銃撃で顔にひどいケガを負っていて、口をきくことができなかったそうです。話はすべて筆談だった、と言っていました。ソンミ村の虐殺事件というのをご存じですか」
「名前は聞いた事があります。ベトナム戦争の時にアメリカ軍が起こした無差別大量殺人だということくらいしか知識はありませんが」
「事件は1968年に起きました。アメリカ軍の小隊が、のどかな水田地帯にあったソンミ村を襲ったんです。虐殺された村人の数は五百人以上にのぼると言われています」
「そんなに・・」
「中には子供、老人、妊婦、それに一歳以下の乳幼児も含まれていたそうです」
「ひどい話ですね。まったく、戦争というやつは人間を狂わせる」
「しかし、宮守先輩が言うには、表沙汰にはなっていないが、P国での戦争でも、ベトナム戦争当時にアメリカ軍が起こしたような虐殺事件があったそうなんです」
初めて耳にする話だった。
「少し長くなりますが」と前置きして、平は達仁から聞いたという「黒い手」の物語を語り始めた。
グリーンは二十人程の小隊の隊長だったそうです。
彼の部隊はP国北部での作戦行動中に山奥の村を襲撃しました。反政府ゲリラをかくまっている疑いがある、というのが理由でした。
その村の奥の洞穴に祠があって、そこに「黒い手」が祀られていたそうです。
村長を務めていたのは100歳近い老人で、村でただ一人の呪術師でした。
村長は「黒い手」のことをグリーンに、こう説明しました。
「この手は黒い神の手だ。手は願い事を3つ叶えてくれる」と。
さらに、村長はこうも言いました。
「ただし、願いがかなえられるのは、この世で3人だけだ。しかも、その3人の人間は、黒い手によって選ばれるのだ」
グリーンは鼻で笑いながら、村長に聞いたそうです。
「いままでに誰か、その小汚い手に願った奴がいたのか」
すると、村長は「一人いる。わたしだ」と答えたそうです。グリーンは大笑いしました。「それで、お前の願いはかなったのか」
村長は言いました。私は、今までに2度、村のために、この手に願った。
1度目は、日照りが続いて作物が全滅しそうになったために、雨を願った。
2度目は、この地方に原因不明の熱病が流行した時だった。
そして、2度とも、願いはかなった。
「しかし」と村長は言いました。
「神は、ただでは願いをかなえてはくれない。願いをかなえる代わりに、必ず私たちから何かを奪ってゆく。必ずだ!」
1度目は、確かに雨は降ったが、増水した川に流されて子供が6人死んだ。
2度目は、熱病の蔓延は収まったが、熱のせいで手足に障害が残った村人が大勢でた。
そういえば、村では手足が不自然な方に曲がった者や、足を引きづって歩いている者がやけに目についたそうです。
しかし、グリーンはそんな迷信を信じなかった。結局、火炎放射器で村を焼き払い、村人全員を虐殺しました。
女も、幼い子供もです。
グリーンに銃で頭を撃ち抜かれる直前、村長は「黒い手」を高々とかかげて、3つ目の願いを叫んだそうです。
「息絶えろ!お前も!お前の部隊も!全員が死に絶えてしまえ!」と。
彼は撃ち殺した村長の手から、「黒い手」を戦利品として奪いました。そして、2か月後、さらに北のジャングルに移動した彼の部隊は反政府ゲリラの待ち伏せにあって全滅したのです。
生き残ったのは、グリーンたった一人だけでした。
しかし、生き残ったとはいっても、脊髄を損傷して下半身はまったく動かず、顔には大火傷を負って口もきけない重傷でした。彼は、部隊の全滅はあの村長が「黒い手」に呪いをかけたためだと信じるようになっていました。そして、ベットでただ死を待つだけの日々を送るなかで、次第にこう考えるようになったのです。
「この手に願えば、自分の身体も元通りに動けるようになるのではないか」
ただ、問題がひとつありました。
死んだ村長の話では、願いをかなえるためには、「黒い手」を高々と頭上に掲げ、願い事を声に出して叫ばなければならないのです。
しかし、彼は口がきけませんでした。瀕死のグリーンは藁をもすがる気持ちだったのでしょう。枕元にあったノートに震える手で文字を書き、宮守先輩に手渡したそうです。
ノートには「俺の代わりに、お前が願ってくれ!俺の身体が元通りに動くように」と書かれてありました。
大量虐殺の張本人とはいえ、目の前で死を迎えようとしている男の頼みです。先輩は承知しました。ベットに横たわるグリーンの目の前で「黒い手」を頭上にかかげたそうです。
グリーンは両目をかっと見開いて、願いが叶う至福の瞬間を待っていました。でも、その異常な興奮状態に彼の心臓は耐えきれなかったのです。突然、口から泡を吹いて、ベッドの上で激しく痙攣し始めました。すぐ医者と看護婦を呼びましたが、息絶えたそうです。
結局、村を滅ぼしたグリーンの部隊は全滅したわけです。殺される間際に、村長が願った通りに。
そして、宮守先輩の手には、「黒い手」が残されました。
ご存じかもしれませんが、ベトナム戦争をきっかけに、どこかで戦争が起きれば、世界中から数え切れないほどのカメラマンが戦火の中へ飛び込んでいくようになりました。
有名無名を問わず、全員が世界的なスクープ写真を狙っていた。特に無名のカメラマンにとっては「危険」イコール「チャンス」でした。他のカメラマンが決して行かないような危険な戦場を求めて、先輩は前線へ、さらに、最前線へと移動していきました。
しかし、銃弾の雨の中を這いつくばってファインダーを覗いても、泥沼をはいずりながらシャッターを押し続けても、そう簡単にスクープなんて撮れるもんじゃない。しかも、いつ自分自身が命を落とすかもわからないのです。
その日、先輩は奥地のジャングルで隠密行動中の政府軍部隊に密着していました。胸まで川につかっての移動です。酷いスコールも降っていました。体中の至る所に川ヒルが吸いつき、パンツの中まで入り込んで血を吸っていました。食料は尽き、水筒の水も飲み干してしまい、先輩は風土病に感染するのも覚悟で川の泥水をすすったそうです。
冷え切った身体からは感覚がなくなり、カメラを構える腕も痺れて動かなくなるなかで、先輩は「黒い手」のことを思い出したのです。
今から思うと、なぜ、そんなことを考えたのかわからない。毎日毎日、いつ流れ弾が当たってもおかしくない緊張を強いられていたせいで、頭が麻痺していたのかもしれない、と言っていました。
スコールにずぶ濡れになりながら、先輩は「黒い手」を頭上に掲げて、叫びました。
「スクープ写真を撮らせてくれ!
この俺に!
世界中が飛び上がるような写真を!」
それから数日後の事だったそうです。
先輩が従軍していた政府軍部隊はゲリラ掃討作戦のために、国境付近の山間地帯に移動しました。反政府ゲリラが集結しているという情報が入ったためでした。ところが、これが罠だったのです。
逆にゲリラ軍に待ち伏せされたのです。
退路を完全に断たれ、部隊は総攻撃を受けました。茂みの陰から、ゲリラたちは嵐のような機銃掃射を浴びせかけてきました。先輩の周りで、政府軍の兵士達は次々に頭を吹き飛ばされ、鮮血をまき散らしながら倒れていきました。
先輩は地面に伏せながら、必死でファインダーを覗いていたそうです。頭のすぐ上を、空気を切り裂く音をあげながら機関銃の弾丸が飛び交っていました。
泥だらけになりながら覗くファインダーの中に、一人の若い兵士が見えました。
兵士は怯えていました。後ろから「なにしてる!臆病者のチキン野郎!突撃だ!突撃しろ!でなきゃ、俺が後からてめえを撃ち殺すぞ!」と小隊長が怒鳴り散らします。恐怖に震えながらも、兵士は銃を構えて立ち上がりました。そして、走り出そうとしました。
先輩がシャッターを切った瞬間、覗いていたファインダーの中で、兵士の頭が弾け飛びました。
先輩は夢中でシャッターを切り続けました。
周りを球が飛び交っているのも忘れて。
倒れた兵士の所まで走り寄り、遺体の写真を狂ったように撮り続けました。
突然、腰に激痛が走りました。ゲリラの撃った弾が腰の辺りに命中したのです。いや、もしかすると、応戦した政府軍の弾だったかもしれません。幸い先輩は救援に駆けつけた軍のヘリコプターで野戦病院まで運ばれました。
弾が当たった場所があと数センチずれていたら、一生下半身が動かないままだった、と軍医は言ったそうです。
「戦地から戻った宮守先輩は写真部のデスクをやらされていましたが、先輩みたいな人には、辛い仕事だったと思いますよ。さっきも言いましたが、先輩の新聞協会賞受賞を喜んでいない会社の人間はたくさんいましたから。現場での取材ができなくなって、ざまあみろ、と陰口をたたく同僚さへいました。先輩の耳にも、きっと入っていたはずです」
もうすっかり冷えてしまったお茶を、平が一口すすった。
「ところが4年後、先輩はそういった連中を黙らせるような、とんでもないスクープ写真を、また撮ってしまうんです」
「それが、あの岩手県上空で起きた旅客機の空中爆発の写真ですね」
平はうなずいた。
「航空機が爆発する瞬間なんて、狙って撮れるもんじゃありません。そんな事は人間業では不可能だ。でも、先輩はそれをやった」
「お前が爆弾でも仕掛けたんじゃないか、と言う人間もいたと、妻から聞きました」
「男の嫉妬というのは、ある意味、女性よりシビアなもんですよ。特に、会社という狭い世界ではね。偉そうなことを言ってますが、マスコミだって同じです。思わぬ所で足を引っ張られたりする。先輩も、その犠牲者でした」
「週刊誌にも随分酷く叩かれたそうですね」
「おもしろおかしく書き立てましたからね。それに誘導されて世論が形成されてしまう。個人にそれを跳ね返す力なんてありません」
「会社はかばってくれなかったんですか?」
「会社なんてものは、組織を守るためには、個人なんて簡単に切り捨てますよ」
そうかもしれない。正義だ、ジャーナリズムだと大義名分を振り回す大マスコミといえども、所詮は営利企業にすぎないのだ。
ただ、もう一つ、どうしても納得できない事が、私にはあった。
「三つの願いがかなう、という話がもし本当ならですよ、なぜ、お義父さんは3つ目を願わなかったんだろう」
平が一瞬、黙った。
「だって、2度目の願いをかけてから、四十年たっているわけじゃないですか」
義父が平に語ったという話を丸まんま信じたわけではなかった。なにしろ、荒唐無稽すぎる。ただでさへ、オカルトがかった話は昔から苦手だった。
ただ百歩譲って、今の話が本当だとしよう。
ならば、なぜ義父は、もう一度「黒い手」の力を使わなかったのだろう。
「黒い手」に願いさえすれば、億万長者になる事だろうとなんでも願いがかなうのだ。閑職に追いやられながら、なぜ義父は、系列の小会社でのサラリーマン生活に定年までしがみついたのだろう。私ならば、絶対にそんなことはしない。
「これは、あくまで推測ではありますがね」
沈黙を破って、平らが口を開いた。
「先輩はきっと、3つ目の願いを取って置いたんじゃないかと思うんです」
「なぜですか?」
「もう一度、決定的なスクープ写真を撮るためですよ」
静かな口調で続けた。
「我々にとってスクープとは麻薬みたいな物なんです。カメラマンの性(さが)ですかね、いや業(ごう)と言った方がいいかもしれない。それは何度、大きな賞を受賞しようと変わりません。いや、むしろ、そうゆう優れたカメラマンほど、次にはもっとどでかいスクープ写真を取ってやろうという気概に溢れているものじゃないでしょうか」
推測だと言いながら、平は確信しているようだった。おそらく、平自身も同じ種類の人間なのだ。
「先輩は亡くなる直前までカメラの手入れをしていたそうですね」
「ええ、縁側にカメラの機材を広げて、足の踏み場もないって、家内が怒ってましたから」
「間違いないな。先輩は引退してもスクープを諦めていなかったんですよ。自分を今の立場に追いやった世間を、あっと言わせるような大スクープを狙って、最後の願いを温存しておいたんですよ。だから道具の手入れは怠らなかったんでしょう」
黙りこむ私に平は言った。
「でも正直言って、あなたが『黒い手』の話をご存じなかったので安心しました」
「どういうことですか?」
「グリーンという小隊長に全滅させられた村の村長がこう言ったという話をしたでしょう。神はただでは願いをかなえてはくれない。願いをかなえる代わりに、願い事をした人間から必ず何かを奪ってゆく、と」
はっとした。
「実は先輩が急死してすぐに、お孫さんが事故に巻き込まれて亡くなったという話を新聞で知って、いやな予感がしたんです。もしや、誰かがあの『黒い手』に何か願い事をしたのかもしれない。そのせいで事故が起きたのかもしれない、と思ってしまったんです」
ほっとしたのか、平は笑顔を浮かべた。私はとっさに嘘をついてしまっていた。
「いいえ、義父の遺品を整理した時にも、そんな代物は見つかりませんでした」
「もし、あれが出てきたなら、迷わずに処分することをお勧めしますよ」
急に背中を寒気が駆け上がるのを感じた。
頭皮にもピリピリとした痛みが走った。
もしかすると、私たちは、とんでもない物に「願」をかけてしまったのではないのか。
「どうか、しましたか?」
黙り込んだ私の顔を平が覗き込んだ。
「いや・・、別に・・・」
押し入れの中から、あの手を見つけたことを、平に告げるべきだろうか。
だが、それを話せば、あの手に家のローン返済を願ったことも話さなければならない。
そのせいで秀明が死んだのだと、責められるかもしれない。
「顔色が良くないですよ」
平が心配そうに言った。
「少し疲れが溜まっているのかもしれません。いろいろなことが続きましたから」
「無理もありません。私も長居してしまって。そろそろ、おいとまさせていただきます」
バス停に向かう平を玄関先で見送った。
石段を降りてゆく平の紫色の傘が、降りしきる雨の中をゆらゆらと遠ざかってゆく。
雨足が少し強くなってきたような気がした。
二階に上がり、秀明の部屋のMacのスイッチを入れ、インターネットの検索サイトを開いた。私はパソコンを持っていないので、秀明のものを兼用で使っていた。
「黒い神」と打ち込み、検索する。
「黒い神」というキーワードに引っかかってきたのは、ほとんどがホラー関係の映画や書籍の販売または紹介のサイトだったが、スラヴの創造神話に「黒い神」と呼ばれる神が登場するのを見つけた。
太古の昔、地上には、光と昼を司る「白い神」、そして、闇と夜を支配する「黒い神」が存在したという。
その頃、世界には水だけしかなかった。「白い神」は「黒い神」に、大地と人間を造ろう、と言った。そして、「白い神」は「黒い神」に水の底から土を持ってこさせて、陸地を造った。悪知恵を働かせた「黒い神」は「白い神」を溺れさせて陸地を自分の物にしようとするが、失敗し、結局、生き物は「白い神」が、死者は「黒い神」が支配することになった。そんな話だった。
同じような神話は形を変えて幾つかのサイトに登場した。中には、「白い神」を『善神』、「黒い神」を『悪神』と記述しているものもあった。
インドの神話にも「カーリー」という名の「黒い女神」が存在した。
「カーリー」は血と殺戮を好む破壊の女神だった。4本の腕を持ち、腰に切り取った人間の手足をぶら下げ、首には人の頭をつないで作った首飾りをしている、という。
1時間ほどかけて様々なサイトを調べた。さらに検索要件に「P国」を加えて調べてみたが、「黒い神」の記述は見つからない。
やはり、義父の冗談だったのだろうか。手練手管のベテランカメラマンが、配属されたばかりの若造だった平を、ありもしない話でからかっただけなのかもしれない。
そう思ってマウスを下にスクロールさせた所で、手が止まった。
「黒い神」という単語を見つけたからだ。
それは、『マユコのP国ひとり旅』というブログだった。
冒頭に書かれた簡単なプロフィールを読むと、彼女は東京外語大でP国語を専攻している四年生だった。気ままな一人旅の途中で、ネットにアクセスできる場所が見つかる度に、定期的に身辺雑記を更新しているようだ。
今月の4日に首都の国際空港に到着し、2日ほど市内のミニホテルに滞在しながら、同国最古の仏教寺院など、お寺を見て回っている。その後、空路で中部のF市へ。さらに峠を越えて、古都H市に入った。H市はかつての戦争で最も激しい戦闘があった場所だ。川畔に建つ王宮の建物の幾つかは激戦で破壊され、その後に再建されたものだ。
この女子大生も「この美しい建物を見ていると、何十万人もの人々が戦争で亡くなったとは信じられなくなってくる」と日記に書いている。
「黒い神」に関する記述は、一番新しい「第6回」の日記の中にあった。
『 1月14日 21:09
イケメンにナンパされちゃったのだ!
王宮のすぐそばにある博物館には、戦争当時に政府軍が乗り捨てていった戦車が何台も並んでいた。
(まさに「つわものどもの夢の跡」って感じ)
その帰り道、新市街の食堂で名物の麺を食べていたの。
(辛いスープに太めの麺がからんでチョー美味!エビのすり身団子とか具だくさんだし、P国に来たら絶対に食べたほうがいいよ)
そしたら、一人の美青年に声をかけられた。
(外国で初めてナンパされちゃったわ)
名前はグエン。ホント、イケメンなの。とっても親切で、観光ガイドもしてくれて、この国の風習とかについても色々教えてくれた。
この国では、死者の霊が大きな木に集まると信じられているんですって。
それから、彼の生まれ故郷には「黒い神」って呼ばれる変わった神様がいて、もうすぐ、「黒い神」を祀るお祭りがあるんだって。とっても、珍しいお祭りらしいの。
お祭りを見に来ないかって誘われて、ちょっと迷ったけど、彼の故郷がある国境の山村まで行ってみることに決めたわ。
そんなに珍しいお祭りなら、卒論のテーマにもピッタリだしね。
明日、半島を横切る国道で国境まで行って、後は山道を歩くことになりそう。
次に日記をアップできるのは、D市まで戻ってこないと無理かな。
じゃあね、お楽しみに!
マユコ』
最後まで読んでも、結局、「黒い神」がどういう神様なのか、具体的に書かれた記述はなく、失望した。
しかし、あきれるばかりだ。いくらハンサムとはいえ、会ったばかりの現地の青年について、国境の山奥まで着いて行くとは・・・。
昨今の女子大生のバイタリティーには舌を巻くが、警戒心のあまりの希薄さは理解しがたかった。
いずれにしても、「黒い神」の手がかりを探るには、ブログに書いてあるように、彼女がD市に戻ってくるまで待つよりほかなさそうだった。
私は「マユコのP国ひとり旅」を「ブックマーク」に追加してから、パソコンのスイッチを切った。
昨日の天気は覚えていない。
今日は、朝から雨が降り続いている。
秀明の事故から2日が経っていた。遺体はまだ戻って来ていなかった。警察の話では、検死は終わったが、損傷の酷い箇所をプロに頼んで修復してから、ということだった。
達仁の死の直後はなんとか気丈にふるまっていたふみえだが、今回は病院から戻ってもずっと寝こんだままだった。居間の隣にある寝室から一歩も外に出てこない。
私はといえば、酒浸りだった。
朝から何も食わず、ひたすら飲み続けた。買い置きしていた2ケースの缶ビールもすぐに飲み干した。3本あったウィスキーも空になり、台所の料理用の日本酒まで空けた。
さすがに達仁が本棚にしまっておいたシングルモルト・ウィスキーに手をつけるのだけは止めた。亡くなってから日が経っていない。好きだったマッカランを飲んでしまっては申し訳ない、と思ったからだ。ただ、いつまで我慢できるものか、自信は無かった。
アルコールが脳みその隅々まで染みこんで、ジクジクと外までしみ出してきそうだった。
酔っても酔っても、浮かんでくるのは秀明のことばかりだった。
秀明は子供の頃に薬が飲めなかった。ジュースに混ぜても、アイスに混ぜても、鋭敏な舌で察知してしまう。熱が出て寝込んだ時には、仕方がないのでふみえと二人で押さえつけ、無理矢理に口をこじ開けて飲ませたこともある。
でも、吐き出してしまう。
だから、風邪をひく度にこじらせてしまった。4歳の時には悪化して肺炎になり入院するはめになったこともある。24時間交代で妻と付き添ったが、こちらも体力が消耗していたのだろう。私も病院で倒れ、点滴を受けた。肺炎が伝染ってしまったのだ。
結局、一週間ほど入院することになったが、それでも、秀明をうらむ気になど全くならなかった。むしろ、秀明と同じ病気で同じ病院に入院したのが嬉しかったし、倒れるまで子供の看病をした自分が誇らしかった。
いっそ、このまま、狂ってしまいたい。
文学青年を気取っていた学生時代に読みふけった中原中也の詩。その中の『春日狂想』の一節が、繰り返し頭の中で回っていた。
『愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。
愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。』
中原中也も二十九歳の時、子供を失った。その衝撃で神経を病んだ、とも言われている。
そして、「在りし日の歌」の詩稿を小林秀雄に託し、死んだ。
直接の死因は急性脳膜炎だが、息子の突然の死が、彼の心と身体を死へといざなったに違いない、と私は思う。
『愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。』
自殺衝動に必死で抗いながら、私がなんとかこの世にとどまらなければ、という思いにしがみついていたのは、ふみえのためだった。
父が死に、子供を失った。私がこのまま壊れてしまったら、ふみえはおそらく一人で生きてはいけない。
深夜にふみえの寝室を覗いてみた。
医師が処方してくれた睡眠導入剤が効いているのか、よく眠っていた。
ベットサイドの床に座り込んで、しばらく寝顔を見ていた。この何週間かで、4歳も5歳も年をとったように見えた。目を閉じたままのふみえに向かって、私はアルコールで呂律の回らなくなった舌で話しかけていた。
「咲恵さんから電話があったよ。秀明が保険に入っていてね、今回の事故で2500万円の死亡保険金が支払われるそうだ」
もちろん、ふみえは答えない。
「なんてことだ、よりによって2500万だなんて・・・」
あとは、何を言ったか、よく覚えていない。
秀明に会いたい。せめて、もうひと目だけでも、会って話がしたい。そんなことを泣きながら、繰り返していた気がする。
そのうち、酔いつぶれて暗い闇の底へと落ちていった。
遠くから「音」が響いてきていた。
「音」は段々と大きくなってくる。
しばらくして、電話の音だと気づいた。
顔を上げると、寝室だった。ふみえが寝ているベットに突っ伏したまま、眠ってしまったらしい。ふみえはまだ眠っている。
枕元のコードレスホンを取った。亡くなった義父の知り合いからだった。
ひどい二日酔いの状態だったので、この時に相手が何を話したのか、あまりよく思い出せない。近くまで来たので、ぜひお線香をあげさせてほしい、というような話をしたと思う。
私は、息子が事故で死んで取り込んでいるので勘弁してもらえないかと言った気がする。しかし、相手は引き下がらなかった。秀明の事故の事も知っていた。
そうだ。一言だけ、相手が言った事をはっきりと覚えている。
男は最後に、こう言ったのだ。
「息子さんの事故にも関係があるかもしれないんです。ほんの少しでも結構です。お目にかかれませんか」
この一言が心に引っかかって、私はしぶしぶ男の来訪を承諾した。
電話を掛けてきた男は、約束した午前10時きっかりにやって来た。
年齢は60歳前といったところか。仕立ての良さそうなジャケットを着ていた。短く刈り込んだ白髪を七三に分け、太いフレームの眼鏡をかけていた。
玄関先で紫色の傘を畳みながら、男は「平といいます」と低い声であいさつした。
仏壇に手を合わせた男は、達仁の遺影の前に置かれたカメラに目を止めた。
「ライカのM3ですね」
「義父は倒れた時も、このカメラを大事に磨いていたものですから」
「宮守先輩と言えばこのM3を思い出します。ベトナム戦争でピュリツァー賞を受賞した沢田教一もこのカメラを使っていたそうです。ちょっと触らせていただいてもいいですか」
私は黙ってうなづいた。体中からアルコールの臭いをぷんぷんさせていたはずだ。しかし、男はまるで気にしないかのようにカメラを手に取り、重みと感触を楽しむようにひっくり返して底を見た。
「今のカメラと違って、こいつはフィルムをボディの底から装填するんです。ボディの強度を重視したからです。それに他のカメラと比べてシャッター音が小さい。戦場ではわずかな音でも命取りになりますからね」
男は元の位置に丁寧にM3を戻すと、「全部、宮守先輩からの受け売りですが」と照れたように笑った。
私は用意した急須からお茶を注いだ。
「すいませんね、お茶ぐらいしかなくて。息子があんな事になって、妻が体調を崩してしまいまして。今も隣の寝室で寝ているものですから」
平はすまなそうに首を振った。
「無理もありません。宮守先輩・・・、いや、お父様の葬儀から日も経っていないのに、息子さんまであんな事になれば」
「私一人じゃ、お茶菓子のある場所もわからないんです」
男は名刺入れから名刺を取り出した。
『毎日新報 写真部長 平則夫』と書いてあった。
「毎日新報、といえば・・・」
「はい、亡くなったお父様の会社の後輩です」
「そうですか、義父が生前お世話になりまして」私は小さく頭を下げた。
「世話になったのは私の方です。初めてお会いした時、宮守先輩はもう足を悪くされていて、写真部のデスクをしていました。正直言うと、社内には先輩を嫌っている人間もだいぶいました。なにしろ、ああいう方でしたから」
私が苦笑すると、平がはっと気づいて頭をかいた。
「すみません。こんな時に言う事ではありませんでした」
「いえ、その通りですから。なんでも、ずばずば言う性格でしたからね。私は義父のそういう所が嫌いじゃなかったんですが、平さんは付き合うのが大変だったんじゃないですか」
「とんでもない。むしろ、ずいぶん可愛がってもらいました。私は記者志望で毎日新報に入ったんですが、最初に写真部に配属されて、くさっていたんです。生意気ざかりでしたから、随分先輩達に反抗もしました。でも、逆に写真に関してずぶの素人だったので、宮守先輩がおもしろがってくれて、手取り足取り、いろいろ教えてもらいましたよ」
平は実に懐かしそうに、昔の義父の話をした。だが、私の方は二日酔いと溜まった疲労で頭ががんがんしていた。思い出話は早々に切り上げたかったので本題を切り出した。
「あの、電話でおっしゃっていた件ですが」
「そうでした。まず、それをお話しなければ」
平は背筋を伸ばし、居ずまいを正した。
「宮守先輩が写真部門で2回、新聞協会賞をもらっているのはご存じですよね」
「実は恥ずかしながら、この間まで全く知らなかったんですよ。義父が亡くなって、押し入れを整理していたらパネルが出てきて、それで、初めて知ったぐらいでして。家内が言うには、義父はその事については話したがらなかったそうですから」
「無理もないです。辛いことが続きましたからね」
当時社内で起きたことについては、平の方がふみえよりもよっぽど詳しいはずだ。義父が実の娘にも言えなかったような生臭い話もあっただろう。だが、平はそれ以上詳しい話をしようとはしなかった。そこで、私の方から尋ねた。
「でも、何故なんでしょうか?」
押し入れの奥で埃をかぶった2枚のパネルを見つけた時から胸の奥にくすぶり続けていた疑問だった。
「だって、そうでしょう。新聞協会賞といえば、ジャーナリストにとって最高の勲章じゃないですか。誰もが一生に1度でも取れればいいと願っているわけでしょう。そんな賞を2度も取ったんですよ。そのために社内でひどい目にあったとは言っても、話ぐらいはしたっていいじゃないですか」
さらに言葉を続けようとするのを遮るように平が口を開いた。
「それには、心当たりがあります」
「えっ?」
今の言葉の真意を測りかねて、平の顔を見た。平はまっすぐに私の眼を見ながら言った。
「パネルの写真はご覧になりましたか?」
私はうなずいた。
「1度目の受賞は、崩れ落ちる兵士をとらえた写真です。そして、2度目は」
「飛行機が空中爆発した瞬間ですよね」
今度は、平がうなずいた。
「宮森先輩に、よく聞いていたんです。どうしたら、そんな凄いスクープ写真を2回もものにできるんですか、って。もちろん、いつも笑っているだけで、答えてはくれませんでした。でも、一度だけ、かなり酔っぱらって、先輩が言ったことがあるんです」
「義父は、なんと・・言ったんですか?」
平は、ちょっと躊躇してから言った。
「あれは、俺の実力じゃあない。『黒い手』のおかげだ、と」
私は息を飲んだ。
「黒い手」というのは、あの手のことか。
「実は今日お訪ねしたのも、その件と今回のご子息の事故とが関連があるかもしれない、と思ったからなんです」
「息子の事故と?」
「ええ」
「『黒い手』というのは?」
「先輩はP国の傷痍軍人病院の取材で知り合った兵士から、あれを手に入れたと言っていました。名前はうろ覚えですが、確かグリーンとかいったかな。彼は反政府ゲリラの銃撃で顔にひどいケガを負っていて、口をきくことができなかったそうです。話はすべて筆談だった、と言っていました。ソンミ村の虐殺事件というのをご存じですか」
「名前は聞いた事があります。ベトナム戦争の時にアメリカ軍が起こした無差別大量殺人だということくらいしか知識はありませんが」
「事件は1968年に起きました。アメリカ軍の小隊が、のどかな水田地帯にあったソンミ村を襲ったんです。虐殺された村人の数は五百人以上にのぼると言われています」
「そんなに・・」
「中には子供、老人、妊婦、それに一歳以下の乳幼児も含まれていたそうです」
「ひどい話ですね。まったく、戦争というやつは人間を狂わせる」
「しかし、宮守先輩が言うには、表沙汰にはなっていないが、P国での戦争でも、ベトナム戦争当時にアメリカ軍が起こしたような虐殺事件があったそうなんです」
初めて耳にする話だった。
「少し長くなりますが」と前置きして、平は達仁から聞いたという「黒い手」の物語を語り始めた。
グリーンは二十人程の小隊の隊長だったそうです。
彼の部隊はP国北部での作戦行動中に山奥の村を襲撃しました。反政府ゲリラをかくまっている疑いがある、というのが理由でした。
その村の奥の洞穴に祠があって、そこに「黒い手」が祀られていたそうです。
村長を務めていたのは100歳近い老人で、村でただ一人の呪術師でした。
村長は「黒い手」のことをグリーンに、こう説明しました。
「この手は黒い神の手だ。手は願い事を3つ叶えてくれる」と。
さらに、村長はこうも言いました。
「ただし、願いがかなえられるのは、この世で3人だけだ。しかも、その3人の人間は、黒い手によって選ばれるのだ」
グリーンは鼻で笑いながら、村長に聞いたそうです。
「いままでに誰か、その小汚い手に願った奴がいたのか」
すると、村長は「一人いる。わたしだ」と答えたそうです。グリーンは大笑いしました。「それで、お前の願いはかなったのか」
村長は言いました。私は、今までに2度、村のために、この手に願った。
1度目は、日照りが続いて作物が全滅しそうになったために、雨を願った。
2度目は、この地方に原因不明の熱病が流行した時だった。
そして、2度とも、願いはかなった。
「しかし」と村長は言いました。
「神は、ただでは願いをかなえてはくれない。願いをかなえる代わりに、必ず私たちから何かを奪ってゆく。必ずだ!」
1度目は、確かに雨は降ったが、増水した川に流されて子供が6人死んだ。
2度目は、熱病の蔓延は収まったが、熱のせいで手足に障害が残った村人が大勢でた。
そういえば、村では手足が不自然な方に曲がった者や、足を引きづって歩いている者がやけに目についたそうです。
しかし、グリーンはそんな迷信を信じなかった。結局、火炎放射器で村を焼き払い、村人全員を虐殺しました。
女も、幼い子供もです。
グリーンに銃で頭を撃ち抜かれる直前、村長は「黒い手」を高々とかかげて、3つ目の願いを叫んだそうです。
「息絶えろ!お前も!お前の部隊も!全員が死に絶えてしまえ!」と。
彼は撃ち殺した村長の手から、「黒い手」を戦利品として奪いました。そして、2か月後、さらに北のジャングルに移動した彼の部隊は反政府ゲリラの待ち伏せにあって全滅したのです。
生き残ったのは、グリーンたった一人だけでした。
しかし、生き残ったとはいっても、脊髄を損傷して下半身はまったく動かず、顔には大火傷を負って口もきけない重傷でした。彼は、部隊の全滅はあの村長が「黒い手」に呪いをかけたためだと信じるようになっていました。そして、ベットでただ死を待つだけの日々を送るなかで、次第にこう考えるようになったのです。
「この手に願えば、自分の身体も元通りに動けるようになるのではないか」
ただ、問題がひとつありました。
死んだ村長の話では、願いをかなえるためには、「黒い手」を高々と頭上に掲げ、願い事を声に出して叫ばなければならないのです。
しかし、彼は口がきけませんでした。瀕死のグリーンは藁をもすがる気持ちだったのでしょう。枕元にあったノートに震える手で文字を書き、宮守先輩に手渡したそうです。
ノートには「俺の代わりに、お前が願ってくれ!俺の身体が元通りに動くように」と書かれてありました。
大量虐殺の張本人とはいえ、目の前で死を迎えようとしている男の頼みです。先輩は承知しました。ベットに横たわるグリーンの目の前で「黒い手」を頭上にかかげたそうです。
グリーンは両目をかっと見開いて、願いが叶う至福の瞬間を待っていました。でも、その異常な興奮状態に彼の心臓は耐えきれなかったのです。突然、口から泡を吹いて、ベッドの上で激しく痙攣し始めました。すぐ医者と看護婦を呼びましたが、息絶えたそうです。
結局、村を滅ぼしたグリーンの部隊は全滅したわけです。殺される間際に、村長が願った通りに。
そして、宮守先輩の手には、「黒い手」が残されました。
ご存じかもしれませんが、ベトナム戦争をきっかけに、どこかで戦争が起きれば、世界中から数え切れないほどのカメラマンが戦火の中へ飛び込んでいくようになりました。
有名無名を問わず、全員が世界的なスクープ写真を狙っていた。特に無名のカメラマンにとっては「危険」イコール「チャンス」でした。他のカメラマンが決して行かないような危険な戦場を求めて、先輩は前線へ、さらに、最前線へと移動していきました。
しかし、銃弾の雨の中を這いつくばってファインダーを覗いても、泥沼をはいずりながらシャッターを押し続けても、そう簡単にスクープなんて撮れるもんじゃない。しかも、いつ自分自身が命を落とすかもわからないのです。
その日、先輩は奥地のジャングルで隠密行動中の政府軍部隊に密着していました。胸まで川につかっての移動です。酷いスコールも降っていました。体中の至る所に川ヒルが吸いつき、パンツの中まで入り込んで血を吸っていました。食料は尽き、水筒の水も飲み干してしまい、先輩は風土病に感染するのも覚悟で川の泥水をすすったそうです。
冷え切った身体からは感覚がなくなり、カメラを構える腕も痺れて動かなくなるなかで、先輩は「黒い手」のことを思い出したのです。
今から思うと、なぜ、そんなことを考えたのかわからない。毎日毎日、いつ流れ弾が当たってもおかしくない緊張を強いられていたせいで、頭が麻痺していたのかもしれない、と言っていました。
スコールにずぶ濡れになりながら、先輩は「黒い手」を頭上に掲げて、叫びました。
「スクープ写真を撮らせてくれ!
この俺に!
世界中が飛び上がるような写真を!」
それから数日後の事だったそうです。
先輩が従軍していた政府軍部隊はゲリラ掃討作戦のために、国境付近の山間地帯に移動しました。反政府ゲリラが集結しているという情報が入ったためでした。ところが、これが罠だったのです。
逆にゲリラ軍に待ち伏せされたのです。
退路を完全に断たれ、部隊は総攻撃を受けました。茂みの陰から、ゲリラたちは嵐のような機銃掃射を浴びせかけてきました。先輩の周りで、政府軍の兵士達は次々に頭を吹き飛ばされ、鮮血をまき散らしながら倒れていきました。
先輩は地面に伏せながら、必死でファインダーを覗いていたそうです。頭のすぐ上を、空気を切り裂く音をあげながら機関銃の弾丸が飛び交っていました。
泥だらけになりながら覗くファインダーの中に、一人の若い兵士が見えました。
兵士は怯えていました。後ろから「なにしてる!臆病者のチキン野郎!突撃だ!突撃しろ!でなきゃ、俺が後からてめえを撃ち殺すぞ!」と小隊長が怒鳴り散らします。恐怖に震えながらも、兵士は銃を構えて立ち上がりました。そして、走り出そうとしました。
先輩がシャッターを切った瞬間、覗いていたファインダーの中で、兵士の頭が弾け飛びました。
先輩は夢中でシャッターを切り続けました。
周りを球が飛び交っているのも忘れて。
倒れた兵士の所まで走り寄り、遺体の写真を狂ったように撮り続けました。
突然、腰に激痛が走りました。ゲリラの撃った弾が腰の辺りに命中したのです。いや、もしかすると、応戦した政府軍の弾だったかもしれません。幸い先輩は救援に駆けつけた軍のヘリコプターで野戦病院まで運ばれました。
弾が当たった場所があと数センチずれていたら、一生下半身が動かないままだった、と軍医は言ったそうです。
「戦地から戻った宮守先輩は写真部のデスクをやらされていましたが、先輩みたいな人には、辛い仕事だったと思いますよ。さっきも言いましたが、先輩の新聞協会賞受賞を喜んでいない会社の人間はたくさんいましたから。現場での取材ができなくなって、ざまあみろ、と陰口をたたく同僚さへいました。先輩の耳にも、きっと入っていたはずです」
もうすっかり冷えてしまったお茶を、平が一口すすった。
「ところが4年後、先輩はそういった連中を黙らせるような、とんでもないスクープ写真を、また撮ってしまうんです」
「それが、あの岩手県上空で起きた旅客機の空中爆発の写真ですね」
平はうなずいた。
「航空機が爆発する瞬間なんて、狙って撮れるもんじゃありません。そんな事は人間業では不可能だ。でも、先輩はそれをやった」
「お前が爆弾でも仕掛けたんじゃないか、と言う人間もいたと、妻から聞きました」
「男の嫉妬というのは、ある意味、女性よりシビアなもんですよ。特に、会社という狭い世界ではね。偉そうなことを言ってますが、マスコミだって同じです。思わぬ所で足を引っ張られたりする。先輩も、その犠牲者でした」
「週刊誌にも随分酷く叩かれたそうですね」
「おもしろおかしく書き立てましたからね。それに誘導されて世論が形成されてしまう。個人にそれを跳ね返す力なんてありません」
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「三つの願いがかなう、という話がもし本当ならですよ、なぜ、お義父さんは3つ目を願わなかったんだろう」
平が一瞬、黙った。
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「これは、あくまで推測ではありますがね」
沈黙を破って、平らが口を開いた。
「先輩はきっと、3つ目の願いを取って置いたんじゃないかと思うんです」
「なぜですか?」
「もう一度、決定的なスクープ写真を撮るためですよ」
静かな口調で続けた。
「我々にとってスクープとは麻薬みたいな物なんです。カメラマンの性(さが)ですかね、いや業(ごう)と言った方がいいかもしれない。それは何度、大きな賞を受賞しようと変わりません。いや、むしろ、そうゆう優れたカメラマンほど、次にはもっとどでかいスクープ写真を取ってやろうという気概に溢れているものじゃないでしょうか」
推測だと言いながら、平は確信しているようだった。おそらく、平自身も同じ種類の人間なのだ。
「先輩は亡くなる直前までカメラの手入れをしていたそうですね」
「ええ、縁側にカメラの機材を広げて、足の踏み場もないって、家内が怒ってましたから」
「間違いないな。先輩は引退してもスクープを諦めていなかったんですよ。自分を今の立場に追いやった世間を、あっと言わせるような大スクープを狙って、最後の願いを温存しておいたんですよ。だから道具の手入れは怠らなかったんでしょう」
黙りこむ私に平は言った。
「でも正直言って、あなたが『黒い手』の話をご存じなかったので安心しました」
「どういうことですか?」
「グリーンという小隊長に全滅させられた村の村長がこう言ったという話をしたでしょう。神はただでは願いをかなえてはくれない。願いをかなえる代わりに、願い事をした人間から必ず何かを奪ってゆく、と」
はっとした。
「実は先輩が急死してすぐに、お孫さんが事故に巻き込まれて亡くなったという話を新聞で知って、いやな予感がしたんです。もしや、誰かがあの『黒い手』に何か願い事をしたのかもしれない。そのせいで事故が起きたのかもしれない、と思ってしまったんです」
ほっとしたのか、平は笑顔を浮かべた。私はとっさに嘘をついてしまっていた。
「いいえ、義父の遺品を整理した時にも、そんな代物は見つかりませんでした」
「もし、あれが出てきたなら、迷わずに処分することをお勧めしますよ」
急に背中を寒気が駆け上がるのを感じた。
頭皮にもピリピリとした痛みが走った。
もしかすると、私たちは、とんでもない物に「願」をかけてしまったのではないのか。
「どうか、しましたか?」
黙り込んだ私の顔を平が覗き込んだ。
「いや・・、別に・・・」
押し入れの中から、あの手を見つけたことを、平に告げるべきだろうか。
だが、それを話せば、あの手に家のローン返済を願ったことも話さなければならない。
そのせいで秀明が死んだのだと、責められるかもしれない。
「顔色が良くないですよ」
平が心配そうに言った。
「少し疲れが溜まっているのかもしれません。いろいろなことが続きましたから」
「無理もありません。私も長居してしまって。そろそろ、おいとまさせていただきます」
バス停に向かう平を玄関先で見送った。
石段を降りてゆく平の紫色の傘が、降りしきる雨の中をゆらゆらと遠ざかってゆく。
雨足が少し強くなってきたような気がした。
二階に上がり、秀明の部屋のMacのスイッチを入れ、インターネットの検索サイトを開いた。私はパソコンを持っていないので、秀明のものを兼用で使っていた。
「黒い神」と打ち込み、検索する。
「黒い神」というキーワードに引っかかってきたのは、ほとんどがホラー関係の映画や書籍の販売または紹介のサイトだったが、スラヴの創造神話に「黒い神」と呼ばれる神が登場するのを見つけた。
太古の昔、地上には、光と昼を司る「白い神」、そして、闇と夜を支配する「黒い神」が存在したという。
その頃、世界には水だけしかなかった。「白い神」は「黒い神」に、大地と人間を造ろう、と言った。そして、「白い神」は「黒い神」に水の底から土を持ってこさせて、陸地を造った。悪知恵を働かせた「黒い神」は「白い神」を溺れさせて陸地を自分の物にしようとするが、失敗し、結局、生き物は「白い神」が、死者は「黒い神」が支配することになった。そんな話だった。
同じような神話は形を変えて幾つかのサイトに登場した。中には、「白い神」を『善神』、「黒い神」を『悪神』と記述しているものもあった。
インドの神話にも「カーリー」という名の「黒い女神」が存在した。
「カーリー」は血と殺戮を好む破壊の女神だった。4本の腕を持ち、腰に切り取った人間の手足をぶら下げ、首には人の頭をつないで作った首飾りをしている、という。
1時間ほどかけて様々なサイトを調べた。さらに検索要件に「P国」を加えて調べてみたが、「黒い神」の記述は見つからない。
やはり、義父の冗談だったのだろうか。手練手管のベテランカメラマンが、配属されたばかりの若造だった平を、ありもしない話でからかっただけなのかもしれない。
そう思ってマウスを下にスクロールさせた所で、手が止まった。
「黒い神」という単語を見つけたからだ。
それは、『マユコのP国ひとり旅』というブログだった。
冒頭に書かれた簡単なプロフィールを読むと、彼女は東京外語大でP国語を専攻している四年生だった。気ままな一人旅の途中で、ネットにアクセスできる場所が見つかる度に、定期的に身辺雑記を更新しているようだ。
今月の4日に首都の国際空港に到着し、2日ほど市内のミニホテルに滞在しながら、同国最古の仏教寺院など、お寺を見て回っている。その後、空路で中部のF市へ。さらに峠を越えて、古都H市に入った。H市はかつての戦争で最も激しい戦闘があった場所だ。川畔に建つ王宮の建物の幾つかは激戦で破壊され、その後に再建されたものだ。
この女子大生も「この美しい建物を見ていると、何十万人もの人々が戦争で亡くなったとは信じられなくなってくる」と日記に書いている。
「黒い神」に関する記述は、一番新しい「第6回」の日記の中にあった。
『 1月14日 21:09
イケメンにナンパされちゃったのだ!
王宮のすぐそばにある博物館には、戦争当時に政府軍が乗り捨てていった戦車が何台も並んでいた。
(まさに「つわものどもの夢の跡」って感じ)
その帰り道、新市街の食堂で名物の麺を食べていたの。
(辛いスープに太めの麺がからんでチョー美味!エビのすり身団子とか具だくさんだし、P国に来たら絶対に食べたほうがいいよ)
そしたら、一人の美青年に声をかけられた。
(外国で初めてナンパされちゃったわ)
名前はグエン。ホント、イケメンなの。とっても親切で、観光ガイドもしてくれて、この国の風習とかについても色々教えてくれた。
この国では、死者の霊が大きな木に集まると信じられているんですって。
それから、彼の生まれ故郷には「黒い神」って呼ばれる変わった神様がいて、もうすぐ、「黒い神」を祀るお祭りがあるんだって。とっても、珍しいお祭りらしいの。
お祭りを見に来ないかって誘われて、ちょっと迷ったけど、彼の故郷がある国境の山村まで行ってみることに決めたわ。
そんなに珍しいお祭りなら、卒論のテーマにもピッタリだしね。
明日、半島を横切る国道で国境まで行って、後は山道を歩くことになりそう。
次に日記をアップできるのは、D市まで戻ってこないと無理かな。
じゃあね、お楽しみに!
マユコ』
最後まで読んでも、結局、「黒い神」がどういう神様なのか、具体的に書かれた記述はなく、失望した。
しかし、あきれるばかりだ。いくらハンサムとはいえ、会ったばかりの現地の青年について、国境の山奥まで着いて行くとは・・・。
昨今の女子大生のバイタリティーには舌を巻くが、警戒心のあまりの希薄さは理解しがたかった。
いずれにしても、「黒い神」の手がかりを探るには、ブログに書いてあるように、彼女がD市に戻ってくるまで待つよりほかなさそうだった。
私は「マユコのP国ひとり旅」を「ブックマーク」に追加してから、パソコンのスイッチを切った。
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カノウは、そこで失せ物探しを営む白髪の美青年・一ノ瀬至遠(いちのせ・しおん)と出会う。至遠は無機物の意識を励起し、インスタント付喪神とすることで無機物たちの声を聴く異能を持つという。カノウは半信半疑ながらも、その場でスマートフォンに至遠の異能をかけてもらいパスワードを解いてもらう。が、至遠たちは一年ほど前から付喪神たちが謎を仕掛けてくる現象に悩まされており、依頼が謎解き形式となっていた。カノウはサポートの百目鬼悠玄(どうめき・ゆうげん)すすめのもと、至遠の助手となる流れになり……?
どんでん返し、あります。
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サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
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