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【ゾンビの章】第3幕「神様の黒手」
【ゾンビの章】第3幕「神様の黒手」
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【29日前 1月17日 町田】
急死した義父・達仁が部屋の押し入れの奥深くにしまい込んでいた古い紙包み。
その中から床に転がったのは・・・・、
「手」だった。
肘(ひじ)から10センチほどの所で切り落とされた大人の手。
形からすると「右手」だ。
皮膚はミイラのように乾ききって硬くなり、全体が黒く変色している。
それに、指が3本しかなかった。小指と薬指が根本の部分から欠けているのだ。残っている親指、人差し指、中指の先には爪がついていなかった。節くれ立った人差し指はまっすぐに伸びて何かを指さしているように見えるが、腕全体はまるで痛みに悶え苦しむようにねじ曲がっていた。
「なによ、これ・・・・」
ふみえが呻くような声をあげた。
「なにって・・・、手だろう」
「人間の?」
これが作り物だとすれば、精巧に出来すぎている。
「少なくとも猿とかじゃないな。毛が生えてないから」
「本物なの・・・」
私には今にもその手が動き出しそうに見えた。
その時、後に立っていた秀明が、私たちの脇をすり抜け、黒い手に歩み寄った。
「作り物に決まってるよ、どうせ」
部屋の隅に転がっている手の所にしゃがみ込んで、しげしげと眺めていたかと思うと、いきなり、それをつかみあげた。
「や、やめなさいよ」
ふみえが顔をしかめて悲鳴をあげた。
秀明はいたずらっ子のような表情を浮かべると、「けっこう重いや、これ。やっぱり、本物かもね」と顔の前でぶらぶら動かして見せた。
「こっちに近づけないで!」
ふみえがまた悲鳴はあげる。
「冗談だよ、本物なわけないじゃん。人間の手なんて、何処からじいちゃんが持ってこれるんだよ」
「いや、お義父さんは仕事で海外に行くことも多かったからな。何処か外国で手に入れた可能性だってあるだろう」
「だとしても相当昔のもんだよ。カチン、カチンに固まってるもん」
秀明が指先で黒い手の表面を叩く。「コン、コン」という乾いた音がした。
「こういう物は、届けた方がいいのかな」
「届けるって、どこによ?」
「警察にさ」
「なんて言って届けるのよ。父親の押し入れから、人間の手が出てきましたって言うの」
「それも、そうだな。作り物だったら、人騒がせな話だしな」
「そうよ、作り物に決まってるわ。本物なわけないもの。ありえないもの」
私は秀明がぶらさげている黒い手を、まじまじと見つめた。
「それにしてもよくできてるな。お義父さん、こんなもの一体どこで手に入れたんだろう」
作り物だと思おうとしても、見れば見るほど本物にしか見えない。
唐突に
「あっ、そうか!」と秀明が声をあげた。
「思い出した」
「何をよ?」
「そうか、そうか、これかあ。じいちゃんが昔言ってた、魔法の手って」
「魔法の手?」
ほとんど同時に、ふみえと私が声をあげた。
「うん、この家に引っ越してきた頃だったから、小学校の5年かな。この暗室で、じいちゃんが現像とかしてるのをよく見てたんだ。そん時、じいちゃんに聞かれたんだよ。秀明は大きくなったら何になりたいんだ、って。その頃は何になるのが夢だったのかな、パイロットだっけ、漫画家だったかな、忘れちゃったけど・・・、あ、そうそう、確か、動物病院のお医者さんだ」
「それで、お父さんはなんだって」
「じいちゃんはさ、医者になるのは難しいぞ、一杯勉強しないと無理だって言うんだよ。俺、勉強嫌いだったからさあ、じゃあ無理かなあ、って言ったら、そんなことはないぞ、願い続ければ夢は必ずかなうから、がんばれ、って励ましてくれたんだ」
「お父さんは無口だし、口べただったけど、あれで案外、優しいところもあったのよ」
「でさ、そのあとでじいちゃんが、こう言ったんだ。もし、お前が本気で医者になりたくて、どうしてもそれが無理だったら、じいちゃんがなんとかしてやる。じいちゃんは、なんでも願いがかなう魔法の手を持ってるからって」
ふみえが秀明の持った黒い手を見た。
「これが、その魔法の手だっていうの」
「たぶん、そうだと思うよ。魔法の手ってどんなのって聞いたら、真っ黒い手で指が三本しかないとか言ってたもん。その手に願いをかけると、三つだけ願い事がかなうんだってさ。どんな難しい願いでも必ずかなう、って言ってたな、じいちゃんは」
どんな難しい願いでも、
必ずかなう・・・・。
三人が同時に、黒い手を見た。
「ばかばかしい!そんなこと、あるわけないでしょ。からかわれたのよ、お父さんに」
「そうかもね。じいちゃんが魔法の手の話をしたのは、その時一度きりだったからなあ」
秀明は黒い手をしげしげと眺めながら言った。
「でもさ、じいちゃんの葬式が終わって、この手が見つかったっていうのも、何かのおぼし召しかもしれないよ。かあさん、試しに何かお願いしてみれば」
ふみえの鼻先に黒い手を差し出した。
「やめてよ!私はいいわ。なんだか、気持ち悪いもの」
「どうしてさ。そうだ、オードリー・ヘップバーンみたいな美人にしてください、ってのはどう」
「なに言いだすのよ」
「だって、かあさん、大ファンだろ。むかし、銀座の山野楽器で『ローマの休日』のビデオ買ったじゃないか」
「私はね、ヘップバーンのファンじゃなくて、あの映画で新聞記者の役をやっていたグレゴリー・ペックのファンなの」
「二十年以上、一緒にいて、初耳だね」
私が口を挟んだ。
「高校一年の時に足を骨折してね、北沢大の付属病院に入院したことがあるのよ。その時の担当医がグレゴリー・ペックに感じがよく似てたの。阪東先生っていってね、かっこよかったのよ」
「ばんどうねえ、歌舞伎の女形みたいにナヨナヨした奴だったんじゃないのか」
「あら妬いてくれてるの」
「板東英二みたいなアンパンマン顔とか」
秀明も茶茶を入れる。
「だから、グレゴリー・ペックだって言ってるでしょ。それに、あたしはこれでも、自分の顔は結構、気に入ってるのよ。例え何でも望みがかなうなんて夢みたいな話があっても、顔を変えたいなんてお願いしませんよ」
「じゃあ、父さんがやれば」
今度は、私に黒い手を差し出す。
「かあさんを父さんの大好きなマリリン・モンローばりのグラマーにしてください、ってのはどうさ」
ふみえが慌てて声をあげた。
「あなた、絶対にやめてくださいよ。そんな体に合う下着なんて私、持ってませんからね」
それを聞いて、私も秀明も思わずふきだしてしまう。
ふみえも笑った。
義父が死んでから暗く沈みきっていた我が家に、久しぶりに明るい笑い声が満ちた。
そうか、秀明は秀明なりに落ち込んでいる母親を冗談で励まそうとしているのだ。
私もできるだけ明るく振る舞わなければ。
「秀明、お前こそ、なにかないのか」
「そうだなあ、今度のボーナスが百倍になりますように、ってお願いしてみようかな」
「そりゃあいい。その時は父さんと母さんをハワイ旅行にでも連れてってくれよ」
だが、秀明は黒い手をもう一度、私に差し出した。
「でもやっぱり、父さんがやるべきだよ。この家の主なんだからさ」
無理矢理、私の手に黒い手を握らせる。思ったよりも、重かった。
「しかしなあ・・・」
躊躇する私に秀明が目配せしている。(いいんだよ、ポーズだけで。母さんの気が少しでもまぎれれば、それでいいんだからさ。)目がそう訴えていた。
「そうだな。一丁、やってみるか」
「そうだよ。一発決めてよ」
正直言えば、なにを願ったらいいのか、まったくわからなかった。
自分で言うのもなんだが、私はギャンブルにはまったく興味がない。競馬もパチンコもやらない。
煙草も吸わない。
忘年会の二次会で女性が接待してくれる飲み屋に学校の同僚に連れられて行ったこともあるが、初対面の女の子が興味を持つような話題を探して話すのに疲れてしまう。
たまに誘われてゴルフに行くくらいで、特に人に誇れる趣味もない。
強いてあげれば、子供と妻が趣味だったといえる。
もちろん恥ずかしいので他人にそんなことは言わないが、昔から休みの日には家にいるのが一番好きだった。
大好きなビールを飲みながら、幼い秀明が電車の模型やミニカーとかで遊んでいるのを眺めていたりする。そういう時間が、一番大切だった。
念願のマイホームも買った。
欲しいものは、もうなにもかもあるような気がした。
「やっぱり、何を願ったらいいか、わからないよ」
私が頭を抱えているのを見て、秀明が声をあげた。
「そうだ、この家は三十年ローンだったよね。残りは何年あるの」
指折り数えてみる。
「あと十五年、かな」
「まだまだ先は長いよね。父さん、あと幾ら返さなきゃいけないの」
「詳しく計算してみないとわからないが、たぶん、2500万円くらいじゃないのかな。利息を含めると、もうちょっとかかると思うが」
「じゃあ、決まりだ」
秀明が身を乗り出していった。
「その2500万円を返済できるようにお願いしたらいいじゃない。本当は利息込みの全額返済を頼めばいいんだろうけど、まあ、ここは神様に謙虚な所を見せるということで」
「なにが謙虚なもんか。2500万円なんて大金を願っておいて」
その言葉を両手で遮って、秀明が続けた。
「まさかお父さん、本当にこんな物に願い事をして叶うと思ってるの。話の種だよ。あした宝くじでも買ってさ、もし一万円でも当たったら笑い話になるじゃない」
そう言われれば、秀明の言う通りだった。
私も段々、その気になってきた。もちろん、本気で願いがかなうなどとは思っていなかった。
こんな戯れ事でも、ほんの少しの間だけ、ふみえの気がまぎれれば、と思っただけなのだ。
私は「黒い手」を、頭の上に高々と差し上げた。
どうせやるなら、なるべく芝居じみて演じる方がふみえも笑ってくれるだろう。
わざと大きな咳払いをひとつしてから、宝塚の男役にでもなったつもりで、叫んだ。
「われに2500万円を与えたまえ!」
同時に窓の外で雷が光った。
全員が驚いて、飛び上がった。
暗室の天井に下がった蛍光灯が明滅した。
その時だ。私の手の中で3本指の「黒い手」が、ぐにゃりと動いた。
気のせいではない。手の平には、筋肉の微妙な動きすら感じた。自らの意志で筋肉を収縮させ、身をよじるように動いたのだ。思わず、「黒い手」を床に投げ出していた。
「どうしたの?」
怪訝な顔で、ふみえが聞いた。
「そいつ、動いたぞ」
「やめてよ。おどかそうと思って」
蛍光灯はまだ点滅を繰り返していた。
「そうだよ、父さん。そんなわけ、ないだろ」
「いや、本当だ。ホントに動いたんだ」
「どれ」秀明が床に転がった手の所にしゃがみこんだ。指先で「黒い手」をつつきながら言った。「動いてなんかないじゃないか、ほら」
秀明がつまみあげた「黒い手」は棒のように硬かった。
「雷のせいよ。蛍光灯が点滅したじゃない。それで、動いてるように見えたんじゃないの」
「そうだよ、ストロボ・アクションっていうやつさ」
2人とも信じない。
だが、錯覚じゃない。
動いたのは確かだ。
絶対に気のせいではない。信じてはもらえないだろうが。
しかし・・・、と思った。
どうせ信じてもらえないのなら、必要以上に私が騒いで、ふみえを不安にさせる事もないのではないか。せっかく、少し明るさを取り戻したのだから。
私は嘘をつくことにした。
「やっぱり、錯覚だったのかもしれないな」
「そうよ、変なこと言わないでちょうだいよ、もう」
「父さんも案外、臆病なんだな」
笑いながら秀明が黒い手を私に手渡した。握った時に、両腕に鳥肌がたった。
雷鳴が遠ざかってゆく。
蛍光灯も正常に戻っていた。
「黒い手」は、もう動かなかった。
急死した義父・達仁が部屋の押し入れの奥深くにしまい込んでいた古い紙包み。
その中から床に転がったのは・・・・、
「手」だった。
肘(ひじ)から10センチほどの所で切り落とされた大人の手。
形からすると「右手」だ。
皮膚はミイラのように乾ききって硬くなり、全体が黒く変色している。
それに、指が3本しかなかった。小指と薬指が根本の部分から欠けているのだ。残っている親指、人差し指、中指の先には爪がついていなかった。節くれ立った人差し指はまっすぐに伸びて何かを指さしているように見えるが、腕全体はまるで痛みに悶え苦しむようにねじ曲がっていた。
「なによ、これ・・・・」
ふみえが呻くような声をあげた。
「なにって・・・、手だろう」
「人間の?」
これが作り物だとすれば、精巧に出来すぎている。
「少なくとも猿とかじゃないな。毛が生えてないから」
「本物なの・・・」
私には今にもその手が動き出しそうに見えた。
その時、後に立っていた秀明が、私たちの脇をすり抜け、黒い手に歩み寄った。
「作り物に決まってるよ、どうせ」
部屋の隅に転がっている手の所にしゃがみ込んで、しげしげと眺めていたかと思うと、いきなり、それをつかみあげた。
「や、やめなさいよ」
ふみえが顔をしかめて悲鳴をあげた。
秀明はいたずらっ子のような表情を浮かべると、「けっこう重いや、これ。やっぱり、本物かもね」と顔の前でぶらぶら動かして見せた。
「こっちに近づけないで!」
ふみえがまた悲鳴はあげる。
「冗談だよ、本物なわけないじゃん。人間の手なんて、何処からじいちゃんが持ってこれるんだよ」
「いや、お義父さんは仕事で海外に行くことも多かったからな。何処か外国で手に入れた可能性だってあるだろう」
「だとしても相当昔のもんだよ。カチン、カチンに固まってるもん」
秀明が指先で黒い手の表面を叩く。「コン、コン」という乾いた音がした。
「こういう物は、届けた方がいいのかな」
「届けるって、どこによ?」
「警察にさ」
「なんて言って届けるのよ。父親の押し入れから、人間の手が出てきましたって言うの」
「それも、そうだな。作り物だったら、人騒がせな話だしな」
「そうよ、作り物に決まってるわ。本物なわけないもの。ありえないもの」
私は秀明がぶらさげている黒い手を、まじまじと見つめた。
「それにしてもよくできてるな。お義父さん、こんなもの一体どこで手に入れたんだろう」
作り物だと思おうとしても、見れば見るほど本物にしか見えない。
唐突に
「あっ、そうか!」と秀明が声をあげた。
「思い出した」
「何をよ?」
「そうか、そうか、これかあ。じいちゃんが昔言ってた、魔法の手って」
「魔法の手?」
ほとんど同時に、ふみえと私が声をあげた。
「うん、この家に引っ越してきた頃だったから、小学校の5年かな。この暗室で、じいちゃんが現像とかしてるのをよく見てたんだ。そん時、じいちゃんに聞かれたんだよ。秀明は大きくなったら何になりたいんだ、って。その頃は何になるのが夢だったのかな、パイロットだっけ、漫画家だったかな、忘れちゃったけど・・・、あ、そうそう、確か、動物病院のお医者さんだ」
「それで、お父さんはなんだって」
「じいちゃんはさ、医者になるのは難しいぞ、一杯勉強しないと無理だって言うんだよ。俺、勉強嫌いだったからさあ、じゃあ無理かなあ、って言ったら、そんなことはないぞ、願い続ければ夢は必ずかなうから、がんばれ、って励ましてくれたんだ」
「お父さんは無口だし、口べただったけど、あれで案外、優しいところもあったのよ」
「でさ、そのあとでじいちゃんが、こう言ったんだ。もし、お前が本気で医者になりたくて、どうしてもそれが無理だったら、じいちゃんがなんとかしてやる。じいちゃんは、なんでも願いがかなう魔法の手を持ってるからって」
ふみえが秀明の持った黒い手を見た。
「これが、その魔法の手だっていうの」
「たぶん、そうだと思うよ。魔法の手ってどんなのって聞いたら、真っ黒い手で指が三本しかないとか言ってたもん。その手に願いをかけると、三つだけ願い事がかなうんだってさ。どんな難しい願いでも必ずかなう、って言ってたな、じいちゃんは」
どんな難しい願いでも、
必ずかなう・・・・。
三人が同時に、黒い手を見た。
「ばかばかしい!そんなこと、あるわけないでしょ。からかわれたのよ、お父さんに」
「そうかもね。じいちゃんが魔法の手の話をしたのは、その時一度きりだったからなあ」
秀明は黒い手をしげしげと眺めながら言った。
「でもさ、じいちゃんの葬式が終わって、この手が見つかったっていうのも、何かのおぼし召しかもしれないよ。かあさん、試しに何かお願いしてみれば」
ふみえの鼻先に黒い手を差し出した。
「やめてよ!私はいいわ。なんだか、気持ち悪いもの」
「どうしてさ。そうだ、オードリー・ヘップバーンみたいな美人にしてください、ってのはどう」
「なに言いだすのよ」
「だって、かあさん、大ファンだろ。むかし、銀座の山野楽器で『ローマの休日』のビデオ買ったじゃないか」
「私はね、ヘップバーンのファンじゃなくて、あの映画で新聞記者の役をやっていたグレゴリー・ペックのファンなの」
「二十年以上、一緒にいて、初耳だね」
私が口を挟んだ。
「高校一年の時に足を骨折してね、北沢大の付属病院に入院したことがあるのよ。その時の担当医がグレゴリー・ペックに感じがよく似てたの。阪東先生っていってね、かっこよかったのよ」
「ばんどうねえ、歌舞伎の女形みたいにナヨナヨした奴だったんじゃないのか」
「あら妬いてくれてるの」
「板東英二みたいなアンパンマン顔とか」
秀明も茶茶を入れる。
「だから、グレゴリー・ペックだって言ってるでしょ。それに、あたしはこれでも、自分の顔は結構、気に入ってるのよ。例え何でも望みがかなうなんて夢みたいな話があっても、顔を変えたいなんてお願いしませんよ」
「じゃあ、父さんがやれば」
今度は、私に黒い手を差し出す。
「かあさんを父さんの大好きなマリリン・モンローばりのグラマーにしてください、ってのはどうさ」
ふみえが慌てて声をあげた。
「あなた、絶対にやめてくださいよ。そんな体に合う下着なんて私、持ってませんからね」
それを聞いて、私も秀明も思わずふきだしてしまう。
ふみえも笑った。
義父が死んでから暗く沈みきっていた我が家に、久しぶりに明るい笑い声が満ちた。
そうか、秀明は秀明なりに落ち込んでいる母親を冗談で励まそうとしているのだ。
私もできるだけ明るく振る舞わなければ。
「秀明、お前こそ、なにかないのか」
「そうだなあ、今度のボーナスが百倍になりますように、ってお願いしてみようかな」
「そりゃあいい。その時は父さんと母さんをハワイ旅行にでも連れてってくれよ」
だが、秀明は黒い手をもう一度、私に差し出した。
「でもやっぱり、父さんがやるべきだよ。この家の主なんだからさ」
無理矢理、私の手に黒い手を握らせる。思ったよりも、重かった。
「しかしなあ・・・」
躊躇する私に秀明が目配せしている。(いいんだよ、ポーズだけで。母さんの気が少しでもまぎれれば、それでいいんだからさ。)目がそう訴えていた。
「そうだな。一丁、やってみるか」
「そうだよ。一発決めてよ」
正直言えば、なにを願ったらいいのか、まったくわからなかった。
自分で言うのもなんだが、私はギャンブルにはまったく興味がない。競馬もパチンコもやらない。
煙草も吸わない。
忘年会の二次会で女性が接待してくれる飲み屋に学校の同僚に連れられて行ったこともあるが、初対面の女の子が興味を持つような話題を探して話すのに疲れてしまう。
たまに誘われてゴルフに行くくらいで、特に人に誇れる趣味もない。
強いてあげれば、子供と妻が趣味だったといえる。
もちろん恥ずかしいので他人にそんなことは言わないが、昔から休みの日には家にいるのが一番好きだった。
大好きなビールを飲みながら、幼い秀明が電車の模型やミニカーとかで遊んでいるのを眺めていたりする。そういう時間が、一番大切だった。
念願のマイホームも買った。
欲しいものは、もうなにもかもあるような気がした。
「やっぱり、何を願ったらいいか、わからないよ」
私が頭を抱えているのを見て、秀明が声をあげた。
「そうだ、この家は三十年ローンだったよね。残りは何年あるの」
指折り数えてみる。
「あと十五年、かな」
「まだまだ先は長いよね。父さん、あと幾ら返さなきゃいけないの」
「詳しく計算してみないとわからないが、たぶん、2500万円くらいじゃないのかな。利息を含めると、もうちょっとかかると思うが」
「じゃあ、決まりだ」
秀明が身を乗り出していった。
「その2500万円を返済できるようにお願いしたらいいじゃない。本当は利息込みの全額返済を頼めばいいんだろうけど、まあ、ここは神様に謙虚な所を見せるということで」
「なにが謙虚なもんか。2500万円なんて大金を願っておいて」
その言葉を両手で遮って、秀明が続けた。
「まさかお父さん、本当にこんな物に願い事をして叶うと思ってるの。話の種だよ。あした宝くじでも買ってさ、もし一万円でも当たったら笑い話になるじゃない」
そう言われれば、秀明の言う通りだった。
私も段々、その気になってきた。もちろん、本気で願いがかなうなどとは思っていなかった。
こんな戯れ事でも、ほんの少しの間だけ、ふみえの気がまぎれれば、と思っただけなのだ。
私は「黒い手」を、頭の上に高々と差し上げた。
どうせやるなら、なるべく芝居じみて演じる方がふみえも笑ってくれるだろう。
わざと大きな咳払いをひとつしてから、宝塚の男役にでもなったつもりで、叫んだ。
「われに2500万円を与えたまえ!」
同時に窓の外で雷が光った。
全員が驚いて、飛び上がった。
暗室の天井に下がった蛍光灯が明滅した。
その時だ。私の手の中で3本指の「黒い手」が、ぐにゃりと動いた。
気のせいではない。手の平には、筋肉の微妙な動きすら感じた。自らの意志で筋肉を収縮させ、身をよじるように動いたのだ。思わず、「黒い手」を床に投げ出していた。
「どうしたの?」
怪訝な顔で、ふみえが聞いた。
「そいつ、動いたぞ」
「やめてよ。おどかそうと思って」
蛍光灯はまだ点滅を繰り返していた。
「そうだよ、父さん。そんなわけ、ないだろ」
「いや、本当だ。ホントに動いたんだ」
「どれ」秀明が床に転がった手の所にしゃがみこんだ。指先で「黒い手」をつつきながら言った。「動いてなんかないじゃないか、ほら」
秀明がつまみあげた「黒い手」は棒のように硬かった。
「雷のせいよ。蛍光灯が点滅したじゃない。それで、動いてるように見えたんじゃないの」
「そうだよ、ストロボ・アクションっていうやつさ」
2人とも信じない。
だが、錯覚じゃない。
動いたのは確かだ。
絶対に気のせいではない。信じてはもらえないだろうが。
しかし・・・、と思った。
どうせ信じてもらえないのなら、必要以上に私が騒いで、ふみえを不安にさせる事もないのではないか。せっかく、少し明るさを取り戻したのだから。
私は嘘をつくことにした。
「やっぱり、錯覚だったのかもしれないな」
「そうよ、変なこと言わないでちょうだいよ、もう」
「父さんも案外、臆病なんだな」
笑いながら秀明が黒い手を私に手渡した。握った時に、両腕に鳥肌がたった。
雷鳴が遠ざかってゆく。
蛍光灯も正常に戻っていた。
「黒い手」は、もう動かなかった。
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